城郭探訪

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葛川息障明王院 近江国 大津(葛川坊村町)

2015年04月01日 | 探訪「大地の遺産」

住所/〒520-0475 大津市葛川坊村町155       TEL/077-599-2372

 アクセス

★電車/JR湖西線「堅田」駅より、江若バス「坊村」バス停下車 徒歩約4分

 ★車/湖西道路「真野」ICより約30分

駐車場/約40台(無料) 拝観料/無料 拝観時間/9:00~16:30

寺号碑 三宝橋 霊場木札

天台宗。山号は安曇山(あどさん)。本尊は千手観世音菩薩。

近畿三十六不動尊霊場第27番札所、びわ湖百八霊場第18番札所。

859年、円仁和尚の師弟である相応(そうおう)和尚が、厳しい修行の末に生身の不動明王を感得し、その木像を安置したのが始まり。

 

 三宝橋

弁天堂鳥居・本堂・護摩堂

本堂 本堂内部

回峰行(かいほうぎょう)とは独特の行で、100日間、1日30km、夜中に山中などを走るというもので、この厳しい行の道場にふさわしく、寺院は老杉が生い茂る深山におおわれている。

開基(創立者)は相応和尚(そうおうかしょう)である。地名を冠して葛川明王院(かつらがわみょうおういん)と称されることが多く、息障明王院(そくしょうみょうおういん)、葛川息障明王院、葛川寺などとも称される(宗教法人としての名称は「明王院」)。

大津市北郊の深い山中に位置する天台修験の道場である。開基の相応は回峰行(比叡山の山上山下の霊地を巡礼し、数十キロの道のりをひたすら歩く修行)の創始者とされている。

政所表門

相応による草創

『葛川縁起』(鎌倉時代前期成立)や相応の伝記『天台南山無動寺建立和尚伝』(10世紀頃成立)等によれば、明王院は、貞観元年(859年)に相応和尚(831 - 918、建立大師)が開いた修行道場という。相応は天台座主を務めた円仁(慈覚大師)の弟子で、はじめ比叡山東塔の南に位置する無動寺谷に住したが、修行に適した静寂の地を求めて当地に移ったという。

『葛川縁起』の伝える開基伝承は伝説色が濃いものの、大略次の話を伝える。

 相応は葛川の地主神である思古淵神(志古淵神)から修行の場として当地を与えられ、地主神の眷属である浄喜・浄満(常喜・常満とも)という2人の童子の導きで比良山中の三の滝に至り、7日間飲食を断つ厳しい修行を行った。満願の日、相応は三の滝で不動明王を感得(仏などの超人間的なものの存在を感じ取ること)する。放心した相応が三の滝の滝壺に飛び込むと、不動明王と見えたのは桂の古木だった。この霊木から千手観音像を刻み、安置したのが明王院の始まりとする。

なお、上記の浄喜・浄満の末裔とされる葛野(くずの)常喜家・葛野常満家は現在も信徒総代として門前の集落に存在している。

現在、本尊の千手観音像と脇侍の毘沙門天像、不動明王像は相応の時代まではさかのぼらず、平安時代・院政期(12世紀)の作とされる。現存する本堂は江戸時代の建築だが、保存修理工事の結果、平安末期に建立された前身堂の部材が一部転用されていることが判明した。

境内発掘調査の結果等から、平安末期には現状に近い寺観が整っていたと推定される。

『梁塵秘抄』には葛川への参詣道について歌った今様が収められており、平安末期には山林修行地としての葛川が著名だったことがわかる。

年代の確かなものとしては、九条兼実の日記『玉葉』治承5年(1181年)6月18日条に、「今日より法眼が葛川に参籠した」とする記述が初出とされている。

坊村村社

 参考資料:ウィキペディア 明王院 (大津市)


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