城郭探訪

yamaziro

朝宮支城(朝宮城山城・赤松城)  近江国(甲賀・信楽)

2018年01月13日 | 山城

 主郭虎口

お城のデータ 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町下朝宮 map:http://yahoo.jp/vEmMyn

別 名:赤松城・朝宮城山城

区 分:山城

現 状:山腹(森林)

築城期:室町期

改築期:織豊期

築城者:山口籐左衛門光英源助

改築者:松永久秀方とする見解

標 高:369m  比高差:70m

遺 構:土塁、堀切、畝状竪堀、虎口、曲廓、」城跡碑

目 標:国道307号線沿い御茶屋工房

駐車場:国道307号線沿い城址登り口駐車スペース

訪城日:2016.2.5

主郭曲廓に建つNHKのアンテナ塔

お城の概要

 朝宮城山城は、京都府と境界を接する信楽町下朝宮集落の南東、標高369mの通称「城山」の山頂に築かれている。

街道沿いの、比高差70mで、防衛面で強化がされた城郭。切岸・畝城竪堀・曲廓間横堀を多用。

 主郭は山頂にあって、北郭と南郭からなり、南北に細長い逆「く」の字状を呈している。西面の中央付近に郭面を掘り窪めて内枡形状の虎口を設け、この虎口を北郭と南郭が共用する形になっている。北郭は20m×45m程の規模で、郭内は小さな段差で二段になっている。南郭は北郭に比べ細長くなっている。この郭も小さな段差で二段になっており、南面に土塁と堀切を設け区画されている。東側と西側の南半分には畝状空堀が入れ、防備を固めている。
 頂部から西にのびる支尾根には、西郭が設けられている。西郭は北郭とほぼ同規模で、東西側に堀切を穿ち、東面には土塁も築いている。北面のやや東寄りに郭面を方形に掘り窪めた枡形状の虎口が開口している。この虎口から主郭の虎口へは、北側に一段下がり連絡用の通路が設られており、各郭間に一体性を持たせている。

切岸に多数の畝状空堀や竪堀を入れる構造は、甲賀ではもちろん、近江でも見られない特殊な城郭である

登城口は国道307号線沿いの製茶工房【茶のみやぐち】があり、

その対面側の建物の背後から山道を登ると城跡に至る。 国道307号線添いの駐車可スペースある

歴 史

初代は朝宮城主山口籐左衛門光英源助

天正10年(『近江與地志略』は、赤松満祐が伊賀攻めの際にとどまったという説を記しており、赤松城とも呼ばれるが、遺構は戦国時代の特徴を示し、構造が大和国に見られることから、築城者を松永久秀方とする見解がある。

 これは、松永方が大和と南山城を勢力下に置きつつ、永禄年間(1558~70)には織田信長方として六角氏や湖南の一向一揆を牽制するため近江南部に侵攻しており、また、元亀年間(1570~73)には甲賀・伊賀に逃れていた六角氏や多羅尾氏とともに反織田信長連合を形成し、甲賀方面での軍事行動を活発に行っていることからである

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「甲賀郡 朝宮城主 佐々木隋兵 多羅尾和泉守 朝宮城主 箕作隋兵 多羅尾平内」の名を記す。

 天正10年(1582)光広の時、いわゆる「神君伊賀越え」に功があったとして、江戸時代に柞原下村、朝宮下村で各250石の500石余を与えられた。旗本として明治維新まで存続した。

多羅尾氏、勢力を伸張

 多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。
 南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。
 室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。
 応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。
 応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469~87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。
 応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。

表舞台への登場

 多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。
 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。
 光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。

登り口

NHKケーブル埋設直登した

主郭と西曲廓の間の堀切

西曲廓

主郭へ大手道

 

主郭と3曲廓の堀切堀切三ノ曲廓虎口南曲廓への堀切三ノ曲廓と二曲廓

谷筋に下りる

山口陣屋からの遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『甲賀の城』武家家伝多羅尾氏、信楽の狸物語 狸宗苑のHP「山口陣屋跡と狸 (下朝宮)」

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