幻の「三尾城」はどこ? 滋賀・高島歴史民俗資料館がアンケート
来場者がシールを貼った三尾城の推定地。学芸員が指さしている付近が打下周辺、一番左上が安曇川町長尾(高島歴史民俗資料館)
壬申の乱で落城した古代高島の城で、場所が分かっていない幻の城「三尾城(みおのき)」について、滋賀県高島市鴨の高島歴史民俗資料館がこのほど来館者に位置を推定してもらうアンケートを行った。これまで研究者らが推定した以外の地点もあり、白村江の戦い(663年)後に中国・朝鮮半島との関係が緊迫する中で、当時都があった大津の“北の守り”のさまざまな可能性が示された。
白村江の戦いでは倭(日本)が唐・新羅連合軍と戦い惨敗した。時の天智天皇は、日本が攻撃されることを恐れ667年、都を飛鳥から近江大津宮に移し、九州の太宰府に土塁「水城(みずき)」、瀬戸内海沿いの各地に朝鮮式山城を築き、防御を固めた。三尾城も同じ目的で築かれたとみられるが、実際には外国から攻められることはなく、天智の死後、子大友皇子と弟大海人(おおあま)皇子が戦った壬申の乱(672年)の最終盤、湖北から南下した大海人軍によって陥落した。
同資料館は、27日まで開いた企画展「君は、高島の城を、観(み)たか!」で、推定地にシールを貼ってもらい、24カ所が記録された。
これまで有力視されていたのは、陸路が狭まり琵琶湖を見晴らせる市南部の岳山から打下までの山地と、古代地名「三尾」の遺称地とされる安曇川町三尾里周辺だったが今回、安曇川の水運を南から見通せる泰山寺野と呼ばれる高台と、若狭・小浜方面から現在の饗庭野を抜け上古賀へ至る「追分道」を監視できる同町長尾の山が加わった。白井忠雄学芸員(62)は「三尾城の遺構が見つかれば国史跡級。今回の調査で、必ずしも1カ所ではなく、出先のようなとりでがあった可能性が示された。今後は現地を調べ、遺構があるかどうか確認したい」と話している。
京都新聞 2016年01月02日 14時45分