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城郭探訪

yamaziro

野路城   近江国(草津)

2016年06月18日 | 平城

野路城

 遺跡ウォーカーの比定地 

お城のデータ
所在地:草津市野路町   map:http://yahoo.jp/4qxiLO
現 状:神社・寺院
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:野路又三郎
遺 構:
目標地:新宮神社・浄泉寺
駐車場:新宮神社の駐車場
訪城日:2016.4.21
お城の概要
野路町の旧東海道沿いの草津宿の手前に位置し、野路駅の宿場であった。
野路城は、新宮神社も含む範囲位置していたと考えられる
お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には、「栗田郡 野路 住 野路又三郎」の名を記す。が詳細不明。

   遺跡ウォーカーの比定地           平清宗の胴塚
平 清宗(たいら の きよむね)は、平安時代末期の武将である。平家の棟梁平宗盛の長子で、平清盛の孫にあたる。母は後白河法皇の寵妃・賢春門院の同母妹である平清子。

承安2年(1172)、3歳で伯母である建春門院の御給で徐爵し、従五位下となる。同時に元服して内昇殿、紫色を許されるという破格の待遇を受けている。承安3年(1173)、女院御所で行われた鵯合で後白河法皇は幼い清宗を膝に乗せ、人目も憚らず鍾愛したという。

治承4年(1180)、11歳で従三位に昇叙。養和2年(1182)、13歳で正三位。寿永2年(1183)2月に平頼盛の娘との婚姻が成立している。

同年7月に平家一門は源義仲の上洛により安徳天皇とともに都を落ち、清宗もこれに従う。平家は各地で敗れ、元暦2年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで敗北し、滅亡に至る。清宗は父の宗盛とともに入水を試みるが、父子は海から引き上げられて捕虜となる。

宗盛と共に都を引き回されたのち、5月に源義経により鎌倉へ護送される。6月、宗盛が頼朝と対面したのち、父子は再び京に護送される途中の6月21日、宗盛は近江国篠原宿(現在の滋賀県野洲市)で橘公長によって斬首され、清宗も同日に近江国野路口(同草津市)で堀慶光に斬首された。享年17。首は京・六条河原にさらされた(『吾妻鏡』元暦二年六月廿一日・廿三日の条)。

 滋賀県草津市野路5丁目には清宗の胴塚と伝わる石塔が、遠藤家邸宅の中庭にあり、毎年6月21日に「清宗忌」が行われ、代々保存供養されている


        
新宮神社へ
御神紋:十六菊
御由緒
 聖武天皇天平二年に僧行基が野路寺創建の時、此地に神籬を立てて鎮護の神と仰ぎ、光仁天皇宝亀元年に野路宿弥藤原為亮が社殿を建立した。昌泰三年無位より従五位下の神位を授けられ、大永三年に現在の社殿が造営された。
天正の社記、膳所藩明細帳には、正一位新宮大神と記し、別名野路神社と称すとある。 明治九年村社に列格、大正五年神饌幣帛料供進指定、大正十二年本殿国宝建造物に指定され現在重文。

藤原 為通(ふじわら の ためみち、天永3年(1112) - 仁平4年(1154)6月13日は、平安時代末期の公卿。藤原北家中御門流、太政大臣・藤原井通の長男。母は右京大夫・藤原定実の女。幼名を次太君。正四位下・参議。

経歴

 崇徳天皇に寵愛される。大治5年(1130)敘爵され、右少将、左中将、備中介等を歴任。大治6年(1131)従五位上の昇叙から、保延年間に十四位上まで昇進。永治2年(1141)に正四位下に叙され、備後健介、左中将、蔵人頭等を経て、久安6年(1150)に参議・中宮権太夫。仁平2年(1152)に丹波権守となるが、2年後に卒去した。享年43。


                                             


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、 佐々木南北諸氏帳、遺跡ウォーカー、Wikipedia
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栗原城     近江国(志賀)

2016年06月07日 | 平城

栗原城

 

お城のデータ
所在地:大津市(旧:滋賀郡志賀町)栗原   map:httpLW-2-://yahoo.jp/z
現 状:棚田
区 分:平城
築城期:
築城者:
遺 構:石垣(土止め)・基壇(棚田)・土塁(畔)
目標地:栗原集落の南の川添い
駐車場:栗原集落の南の川添いの東屋近く
訪城日:2016.4.20
お城の概要
詳細不詳ながら、古道京道添いに位置する。
大津市栗原集落にあったとされる城。 詳細は一切不明。

志賀町の古道 京道(きょうみち)
 北国海道は、その名の通り北国への道。古代・中世の北陸道(西近江路)を通る道を北国海道と呼ばれてきた。志賀町和邇今宿を過ぎて高城への道の常夜灯のそばにある道標などにも「北国海道」と刻まれている。
 この道は、平安時代に入ると平安京と北国をつなぐ最短距離の道、京道として脚光を浴びるようになる。志賀町の山手を通る、この「京道」は志賀町史にも全く記述は無い。志賀町内の京道(北国海道支道)の存在を確認した。 調査を行った志賀町文化財専門委員(県文化財保護指導員)によると、この道は志賀町八屋戸から山手に向かい、湖西道路をくぐって岩神神社のホコラ近くから栗原の妙道会を通り、比叡霊園地を経て伊香立の龍華道へ抜ける。裏付け史料としては、栗原に伝わる民話「龍華夫人・八畳岩」や、比叡山天台密教の寺院由来歴などをあげ「いずれも、この道を通らなければ行けない場所にある」と検証している。
室町時代に建立された水分(みくまり)神社・底なしと言われたナリカマの穴・源為朝が京より逃れて馬を止め、一夜を過ごしたと言われる岩神神社志賀町栗原水分神社の小さな祠が残存する。(2001年1月号掲載)
志賀町栗原水分(みくまり)神社
 栗原地域の信仰の中核は氏神を守る祭祀組織としての宮座であり、これを今も伝えているのが志賀町栗原地域にある水分(みくまり)神社の祭祀組織である。
 湖西道路の和邇インターチェンジを出て栗原地区に入ると、美しい棚田が目につく。この山間農業を守り続けてきた村の習慣が祭祀組織だった。栗原に生まれた男子は、その年の蔵じまいの日(12月10日ごろ)に烏帽子料を納めて氏子入り。その後、青年団入り、二人が一年務める小頭、60代で回ってくる宮世話、その後に一年納める神主役、そして神主を納めた長老から年齢順で構成する十人衆、最長老の一番尉という役が決まっていて、この人たちで宮守りを行う。
 この東栗原集落にある水分神社は比良流水の守護神・天之水分神を祭神とし、ここで「ひおおぎ祭り」に始まり御田植祭(6月10日)、八朔祭り(9月1日)などのお祭りがある。
 「ひおおぎ祭り」は、3月6日と7月6日に行われ、3月6日は田植えを前にして日を迎える祭事、7月6日は日を仰ぐ祭事といわれる。いずれも午前10時に宮守役が集まって作物などを献饌の後、裃姿の当家神主が神前に供えた桧扇を開き、東西南北に向かい「ひおおぎ」「ひおおぎ」「ひおおぎ」と三回唱えながら扇を上下し、日輪を仰ぐ。 農村が太陽を信仰する古典的な行事の一つともいわれている。(2000年2月号掲載)
お城の歴史
詳細不詳、土豪のの城か?栗原集落は山間を切り開いた農村で、在地領主の居館であったと推測される
                   ここに駐車
参考資料:滋賀県中世城郭分布1(1983.3)9(旧滋賀郡の城)、志賀町の古道 京道
本日の訪問ありがとうございす!!

北野館     近江国(浅井)

2016年06月05日 | 平城

  

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)北野町    map:http://yahoo.jp/Cw2PcE

現 状:寺院・神社

区 分:平城

築城期:

築城者:

遺 構:来生寺・官公の宮・北野砦

目標地:北野公会堂

駐車場:北野公会堂の駐車場

訪城日:2016.6.3

お城の概要・歴史

浅井町田根地区北部に位置する北野集落で、西に小谷山大嶽(おおづく)から伸びる枝状尾根がそびえている。ほの尾根には、北野砦が、切通しを挟んで南北に二ヶ所残存する。

南砦の東側に北野集落中程に北野館位置する。

 この地出身の比叡山の高僧で菅原道真と親交のあった相応和尚が、道真が没した時、同字に宮を建て、道真の形見の鏡と道真自身が刻んだ自身像を祀るとともに、神社境内に寺を建立したと伝わっている。
この「菅公の宮」と「来生寺一画」とその四囲を取り巻く巾20mの低地帯を含め方形の館跡とされている。

 また、南東角は虎口と考えられる枡形、現状からは城郭遺構とか?。

来生寺縁起によると、この地の生誕の相応和尚は、比叡山の高僧で、菅原道真とも親交が深かったと言われている相応和尚だが、その事実を証するかのように、本堂に向かって右手にある小さな祠の中に「道真自らが彫ったと伝わる道真像が、本堂から少し離れたもう一つの祠には鏡が、納められている。」DSCN7739DSCN7742普段は扉が閉じられているが、一日回峰行の日だけは、参加者が見られるように扉が開放されていた。・・・・・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より

相応和尚〈そうおうかしょう〉
 平安時代、比叡山の数ある修行の中でも命がけの「千日回峰行」を始め、最初に成し遂げた高僧として知られていて、天長10年(833)浅井長政の居城があった小谷山の東の山裾、今の長浜市(旧浅井町)北野町に生まれ、十五歳で比叡山延暦寺に入山し、開祖・最澄の教えを全うしょうと決意し「学問の裏には行が、行の裏には学問の裏打ちが必要」と修行に励みました。

そして、宗教界で最も厳しいと言われる荒行「千日回峰行」を創案し実行しました。これは、毎日40粁も比叡の山中を巡拝して歩き、しかも7年、延べ千日間続けます。  その間には9日間、飲まず食わず、寝ずで、不動明王に祈りを捧げる"堂入り"という行を、回峰行者の根本道場、無動寺明王堂で行なうもので、比叡山の法灯と共に今も引き継がれています。

 和尚の友人の中に、時の右大臣菅原道真が九州大宰府に流された時、形見として小さな自像と一面の鏡を和尚に託しました。
 その後2年余りで道真は病死、和尚は形見の二品を郷里の北野の地で祀ったのが神社・寺の始まりと伝えられています。

なお、集落西側の尾根先には、北野砦が構えられている。また、集落の北には、北野スミ櫓城(砦)を構える

来生寺

  

   

官公の宮

   

滋賀県中世城郭分布調査7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)より

北野公会堂に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)

 本日の訪問ありがとうございす!!


竜安寺城 近江国(浅井)

2016年06月04日 | 平城

竜安寺城

お城のデータ
所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)竜安寺町/東光寺山    map:http://yahoo.jp/OfCdel
現 状:山林
区 分:平城・丘陵城(山頂部)
築城期:
築城者:
遺 構:山麓郭・八幡神社遺構・山頂遺構(竪堀・堀切・土橋・土橋)
標 高:山城146m  比高差:25m
目標地:竜安寺の明正池・八幡神社
駐車場:北野神社の駐車場、明正池前に路上駐車
訪城日:2016.5.14・2016.6.3
黒部館と西の山城遺構は、竜安寺城の間にある
お城の概要
浅井町田根地区北東部に位置する竜安寺集落は、今は、一戸のみ。集落の背後馬蹄形の谷間には、三段の平削地が残存するようだが、A・B・Cの遺構が残る。今回の訪城では、山麓遺構の見学が漏れている。次回。
・八幡神社の遺構
・山上遺構

 竜安寺集落の明正池・八幡神社の西の舌状尾根の2ヶ所の閉削地と共に、土橋・横堀・竪堀・曲廓が残存する。特にⅭについては、古墳と思われる高まり(比高1.5m)に平削を加え小廓を形成するとともに、背後の堀切の中程に低い土橋を設け、次のⅮ廓へと継ぐ。Ⅾ廓の背後には、E廓が存在するが、切岸は上方へ行くと地山の溶け込む。一種の梯郭式といえよ竜安寺うか?。

Fについては、竪掘や土橋状地形、低削平地が存在するが、この遺構は、「黒部館」の遺構であろう。また、尾根西には八幡神社が祀られいるが、神社境内の城館で、このⅭ~Fの遺構が、「黒部館の遺構か?」「竜安寺城の遺構か?」今後の検討課題であろう。黒部館の西の、舌状尾根の2ヶ所の平削地と共に、土橋・横堀・竪堀・曲廓が残存する。・Ⅽ・Ⅾ・Eは西の竜安寺城の遺構を考えられる(特にⅭについては、古墳と思われる高まり(比高1.5m)に平削を加え小廓を形成するとともに、背後の堀切の中程に低い土橋を設け、次のⅮ廓へと継ぐ。Ⅾ廓の背後には、E廓が存在するが、切岸は上方へ行くと地山の溶け込む。この遺構は西側の竜安寺集落には、「竜安寺城」が知られている

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 龍安寺    」姓名は不明ながらも、土豪の居住が記されいる。

 地元の古老”谷氏”に話では、浅井氏家臣の関谷八郎左衛門が姉川の合戦後に隠れ住、難を逃れ、後に帰農したが、この関谷氏氏屋敷がAの遺構という、この関谷氏末裔が、以前は集落五戸内の四戸が「谷姓」で「関」を外して「谷」姓で居住していたようだが、今は一戸(H氏のみ)で、谷家は無い。築城期、築城者は詳細不明、土豪の城郭遺構。 

   八幡神社への参道

八幡神社    

明正池の東側から尾根城(詰め城)へ     

尾根城遺構                    

山麓遺構は、曲廓の基壇・土塁が残る、敷割りの堀・廓が残る。

竜安寺城のAB遺構

谷家の蔵の奥に遺構ある。

        本宮の五輪塔     熊の捕獲仕掛けか?2m程の高さある。    一戸の集落に半鐘だけ残る。 谷氏が無人になった竜安寺集落

竜安寺城遠景・・・西側(北野神社より) 

北野神社の駐車場に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1(1983.3)・10(1992.3) 7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)

本日の訪問ありがとうございす!!


普門寺城    近江国(安曇川)

2016年05月31日 | 平城

普門寺城

 

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町南船木(南舟木)  map:http://yahoo.jp/wJHpAc
現 状:寺地 西方寺(普門寺観音堂)
区 分:居館
築城期:鎌倉期
築城者:佐々木長綱
遺 構:不明。北に堀痕か(用水路)
目標地:西方寺
駐車場:船木事務所前に駐車・西方寺の駐車可
訪城日:2016.5.28 
お城の概要
 普門寺の名は、安曇川河口の南部、南船木にある西光寺内にある。普門寺観音堂と呼ばれているのが唯一である。
『高島郡志』には、普門寺城について「正安元年(1298)船木城主佐々木長綱城内に一宇を建てゝ持念仏千手観音を安置す。此本寺の創始なり、地に船木城の出丸なり。伯綱の時姪能登守を船木城主とす。伯綱の子長伯西条城「三河に在り長綱以来両城主なり」に居りしが、没落して松下村に隠れ、後船木に移り普門寺城に居る。長享三年三月十七日兵乱の為め船木普門寺城両城とも炎上す。永正中能登守の助力を得て普門寺を再興す。」これは沢田氏郷の偽作とされている。

 ただ、普門寺城は安曇川(南川)にかかる本庄橋の南にあり、城址には松下氏が住んでいたと言い伝えがあるが、普門寺観音堂がある西光寺に伝わる「松下氏氏寺普門寺萬要録」をみるとその中の宝永二年に書き写された絵図には、現在の本庄橋の南にあたる地域に、松下氏の一町四方ある普門寺が描かれており、城跡と思われる。
また、これとは別に、旧本庄小学校に隣接する東の地域に松下氏の館がありそこが普門寺城址」と言う話のある。
いずれにしても、普門寺城の土塁や堀などの遺構は残存していない、詳細不明。
松下氏は佐々木氏の分流で、元亀年間城とともに滅んだと伝えられている。
一方、西条城の名は『高島郡志』以外には登場せず、その資料内容等考慮すると普門寺城と同一あったと考えられる。
   
  
        
船木事務所前に駐車
参考資料:滋賀県中世城郭分布1・10・2(1984.3)(甲賀の城)8(1991.3)(高島の城) 、遺跡ウォーカー
  本日の訪問ありがとうございす!!

笠川屋敷(片岡城) 近江国(栗東)

2016年05月22日 | 平城

笠川屋敷 

  

お城のデータ
所在地:栗東市(旧:栗太郡栗東町)北中小路 map:http://yahoo.jp/GlBMVy
別 称:片岡城
現 状:神社・公園
区 分:居館
築城期:
築城者:
遺 構:八幡神社の背後土塁・堀痕
目標地:北中小路
駐車場:北中小路集会場の駐車場利用 
訪城日: 2016.5.19

お城の概要
お城は北中小路の八幡神社と向かいの児童公園が比定地であるが、周辺の空き地や寺院も城域と考えられる。
また、八幡神社の背後の竹藪に土塁や堀が残る。児童公園は整備がされて遺構は、消失か?
『滋賀県中世城郭分布調査3(旧:野洲・栗太郡の城)』には、「「近江栗太郡志」には「笹川屋敷と称し四方を堀で囲らし土手に竹藪を生ずる一区の地あり、ある、八幡神社の背後の竹藪付近と思われる」と解説。

お城の歴史
詳細不明
北中小路の法林寺は、
 本願寺八世蓮如(1415~1499)は、積極的な教化活動を繰り広げ、本願寺を大きく発展させたことはよく知られている。初期には「帰命盡十方旡碍光如来」と書かれた十字名号を製作していたいが、延暦寺の衆徒によって「旡碍光衆」と指摘され、寛正六年(1465)には大谷本願寺への攻撃を受けたのであった。このことから、蓮如は十字名号の下附をやめ、草書体による墨書の六時名号へと変わっていった。寛正の法難から近江に逃れた蓮如は、道西坊善従のいる金森(守山市)に入り、野洲、栗太両郡の坊主、門徒のもとを訪れている。栗太郡高野の善宗、正善の道場(福正寺)から安養寺村の幸子坊の道場(安養寺)、手原村の信覚坊の道場、さらに野洲郡荒見の性妙の道場(聞光寺)、開発中村の妙実の道場(連光寺)、矢島南の道場(西照寺)、赤野井慶乗の道場(西蓮寺)、三宅了西の道場(蓮生寺)へと移り巡ったという。
 また、栗太郡高野郷と呼ばれた地域には、蒲生郡日野に所在する興敬寺の門徒、末寺として重要な集団を形成していた。元亀元年(1570)から天正八年(1580)にかけて行われた石山本願寺合戦では、湖南の金森、三宅を拠点とした一向一揆だけでなく、高野郷を中心とした興敬寺配下の門徒集団も織田信長に立ち向かっていったのであった。
 蓮如と深い関わりをもっていた近江湖南の地には、蓮如やその後を継いだ実如から下附された方便法身尊号(十字名号)や方便法身尊像(阿弥陀如来絵像)が多数伝来する。さらに顕如、教如時代における信長との石山合戦時の資料などから、栗太衆の活躍したこの地域の真宗文化を特集するものである。

八幡神社            北中小路 
北中小路集会所
    北中小路 
 
真行寺              
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査3(旧野洲・栗太郡の城)、遺跡ウォーカー、『近江栗太郡志』全5巻
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久保城     近江国(栗東)

2016年05月19日 | 平城

久保城

辻公民舘前に 天神社由緒

お城のデータ

所在地:栗東市(旧;栗太郡栗東町)辻   map:http://yahoo.jp/xmxpM3
現 状:集落・宅地・畑地
区 分:平城
築城期:織豊期
築城者:久保石見守義俊
遺 構:辻公民舘の周りにП字形の堀痕
目標地:辻公民舘・天神社
駐車場:辻公民舘
訪城日:2016.5.19
お城の概要
 久保城は、野洲川の左岸の栗東市辻集落の東端の畑地を遺跡ウォーカーは比定地としているが・辻公民館の周りにП字形の堀痕が残る。
辻集落は、出庭城主の末裔が、野洲川から灌漑用水を引き、更に野洲川より水脈を通じ、十村に流した。
お城の歴史
 寛治六年に出庭介橘宣幸が此の土地に来て、久保郷高野荘を拝領し、田地を開拓して野洲川より用水を引き、永正三年に宣幸十五世の孫久保石見守義俊が更に野洲川より水脈を通じ、十村に流した。(天神社の由緒より)

  

   

      

井口天神社   栗東市辻205

御祭神:罔象比賣神
〔配祀神〕菅原道真公
御神紋:梅鉢
御由緒
堀川天皇寛治六年に出庭介橘宣幸が此の土地に来て、久保郷高野荘を拝領し、田地を開拓して野洲川より養水を引き、その守護神として罔象比売神を勧請したのにはじまる。のち後柏原天皇の御宇、永正三年に宣幸十五世の孫久保石見守義俊が更に野洲川より水脈を通じ、十村に流した。この折信仰する菅公の霊を勧請し当社に合祀したと伝えられる
尚当社の鳥居は、他に類を見ない鋳物製である。明治九年村社に加列、大正十五年神饌幣帛料供進指定。
本殿・境内建物
〔本殿〕一間社流造 間口一間 奥行一間三尺
〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間
〔その他〕境内社(摂社・末社)中将神社 宰相神社
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、天神社由緒 
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深溝城    近江国(新旭)

2016年05月18日 | 平城

深溝城

 

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)新旭町深溝   map:http://yahoo.jp/XBZyRW
現 状:集落・宅地
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:新庄玉林坊
遺 構:
目標地:新旭深溝郵便局・日吉神社・鬼子母善神
駐車場:鬼子母善神の駐車場
訪城日:2016.5.15
お城の概要
西近江路から 霜降集落・深溝集落へ延びる旧道と並行する針江大川上流水路に沿った東西一直線の配置となっている。表通りに面した日吉神社や鬼子母善神祀る。

お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「高島郡 深溝城主 佐々木隋兵 新庄玉林坊」と記す。

『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5~6年であった
      
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・8(高島の城) 、浅井三代記
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平井城    近江国(新旭)

2016年05月17日 | 平城

平井城

遺跡ウォーカーの比定地

お城のデータ
所在地:高島市(旧高島郡)新旭町熊野本    map:http://yahoo.jp/9NlBD5
現 状:宅地・畑地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:平井伊予守貞秀
遺 構:ー
目標地:平井バス停・セブンイレブン滋賀新旭店 滋賀県高島市新旭町熊野本字上土立143番1
駐車場:セブンイレブン
訪城日:2016.5.15
お城の概要
 平井城は高島市新旭熊野本の平井交差点のセブンイレブンの周辺が比定地で、
城郭遺構は不明だが、セブンイレブンの西側の畑地より約1mの高い段差や水路は堀痕の名残か?
お城の歴史 
滋賀県中世城郭分布調査8(高島郡の城) の平井城の解説には、『近江與地志略』には、「旧平井村、高島七頭の一人である平井伊予守貞秀の館とするが、『高島郡誌』には、「其地の城址は即ち日枝谷山城として平井城とすべきものなし」と記され、遺構は残っていない。と記す。

 平井バス停 
   
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査8(高島郡の城) 『日本城郭大系』11。近江国輿地志略、高島郡誌
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佐野館    近江国(能登川)

2016年05月12日 | 平城

  水堀

佐野館

お城のデータ
所在地:東近江市(旧:神崎郡能登川町)佐野町   map:http://yahoo.jp/FUL-2v
現 状:竹藪・宅地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:須田越後守貞俊
遺 構:水堀・土塁・廓
目標地:法堂寺遺跡公園
駐車場:法堂寺遺跡公園の駐車場
訪城日:2016.5.1
お城の概要

東近江市(旧能登川町)佐野集落のの法堂寺遺跡公園の東側にある竹藪が城域とされる。

 竹藪に廓・土塁で囲み、水掘が残存するが、周辺か住宅開発が激しく、残された遺構の消滅も危惧される。

遺構は石材会社で、一部で資材置き場や駐車場として利用してる。

お城のデータ

『淡海国木間攫』には、「神崎郡 佐野村 「此領主須田氏ハ伊庭ノ正須田ヨリ来リ住スルナリ、代々屋形ノ旗頭ノ家ナリ、須田越後守貞俊、岡山公方義澄将軍御在城ノ比、御伽ナカラ師範トナリシ人ナリ、和歌ヲ嗜ミ文武兼備ノ侍ナリ、天文ノ初病死ス、上意ニテ松随寺殿ト号シ、即庄内ニ寺ヲ建、忠全居士ト法号ス、息下総守直澄入道シテ宗慶ト云、息七郎左衛門賢隆三代見エタリ、其外式部少輔・大炊介ナト勇士ナリト云と記す。
佐々木六角の旗頭。

        竹藪東側の公園

公園から竹藪の水掘   

法堂寺遺跡公園から、石材店・竹藪(城址)

 法堂寺遺跡公園

佐生日吉城・伊庭山城・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、淡海国木間攫

本日の訪問ありがとうございす!!


八仏手城    近江国(能登川)

2016年05月11日 | 平城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧・神崎郡野登川町)種町  map:http://yahoo.jp/dGG-f5

現 状:児童公園・新興住宅

区 分:平城 

築城期:

築城者:種村氏

遺 構:宅地開発で消失か

目標地:緑ヶ丘草の根ハウス

駐車場:児童公園の横に路上駐車

訪城日: 2016.5.1

お城の概要

 旧種集落の南西の大規模新興住宅開発が進んで、遺構も消失したようだが、児童公園に地蔵(石仏)が、祀られている。比定地と少しはずれているかも知れないが、城域内であろう。神郷団地と能登川第一幼稚園の直線での中間に児童公園は位置する。

八仏手城は、種村城の支城とされる。

 種村城は、種村氏の居城であり、後裔大橋宅付近が遺構である。西側を大同川が流れ、古図(大橋家文書)によれば、約一町四方の範囲で川と堀で囲まれている。集落を貫き白鳥神社に至る「大道」に面して門があったとされる、又大橋氏宅裏から、礎石かと思われる集石遺構が出土している。『蒲生文武記』には、種村三河守居城と八仏手城が見えており、小字「屋堂(やんど)」にあった言われている。(参照・・近江の城)

お城の歴史

『淡海国木間攫』には、「神崎郡 種村 往古此所ニ種村三河守ト云人住居セシ由記ニ出ル、後孫僧トナリ犬上郡堀村妙徳寺ノ住持トナレリ、其後孫当所ニ残レリ、一人は彦根藩ニ仕官、種村千右衛門ト云、今ハ絶ヘタリ。」と記す。

又、『守山城物語』(守山市公文書館発行)には、9頁「・・・永禄五年(1511)種村八仏平城で、蒲生定秀(信長軍)に攻められ降伏する・・・・。」種村大蔵大輔道成か箕作城主佐々木義治の厳命で建部采女正と共に永禄六年(1563)観音寺城で後藤但馬守と嫡子壱岐守を謀殺する大事件(観音寺騒動)がおき、その罪をとがめられ道成は処刑されたと遂電して行方をくらませ、のち蒲生家に属したと。・・・種村一族は、大蔵大輔の罪が及んで勢威を失い、種村城は没落しました。この以後もなお種村に居住した家系は、世をはばかって大橋と改姓しました。現在、能登川町種に居住される大橋氏は種村城主の末裔と伝えられる旧家・・・(「近江源氏佐々木氏の支流・分流」より)

 六角政頼の次男伊豆守高成が、種に所領を得て種村氏を称したとされる。政頼については、六角高頼の子で定頼の父とする説があるが、六角氏の系譜上の位置ははっきりしていない。高成は、後に和田山城を築いて移り、和田氏を称したものとみられている。高成の子は、種村氏と和田氏に分かれたものとみられ、種村氏には高盛や高安といった名が見受けられる。

永禄十一年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛の軍を興し、観音寺城の六角父子と対立した。織田勢が観音寺城の支城箕作城(清水山城)を一晩で落とすと、和田山城や観音寺城の将兵は逃散した。このとき、種村城も織田勢に占拠され、そのまま廃城となったものと考えられる。

種村氏最後の当主大蔵大夫道成は、観音寺城落城後も守山城に拠って抵抗し、討ち死にしたとされる。

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧・蒲生郡・神崎郡の城)、守山城物語

本日の訪問ありがとうございす!!


木村城  近江国(蒲生)

2016年05月08日 | 平城

  

木村城

お城のデータ
所在地:東近江市(旧蒲生郡蒲生町)木村町  map: http://yahoo.jp/Kcpiuh
現 状:神社・宅地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:木村次郎左衛門重光
遺 構:柳宮神社の鎮守の森に遺構か?
目標地:木村公民館
駐車場:木村公民館前に駐車
訪城日:2016.5.7
 お城の概要
 蒲生木村城は、布施山城の西、雪野山城の東、後藤氏館の南約2kmに位置する平城で、現状は名神高速道路で寸断され、圃場整備された田園集落、近くには、木村古墳の復元され往古からの集落地でもある。
 本佐々木(佐々貴)氏の一族の木村氏の本幹地と考えられるが、未詳(滋賀県中世城郭分布調査4)
お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 木村城主 佐々木末 木村次郎左衛門重光・同 木村筑前守重高・同 木村肥後守貞兼・木村佐渡守・木村小隼人」の名を記す
木村公民舘前に駐車
遺跡ウォーカーの比定地は

近江の木村氏  (Wikipedia)

近江国蒲生郡木村(のちの滋賀県蒲生郡蒲生町木村、現在の同県東近江市木村町)が発祥。

12世紀末、『源平盛衰記』巻37で平通盛を討ち取る①木村茂綱は紀成高の四代の孫とされ、『姓氏家系大辞典』でも紀姓説を採っている。一方、『佐々木系図』(『続群書類従』所収)で成綱を佐々木経方の後裔②とし、かつ、経方の次男行定の母を紀盛衆の娘としていることから、

『近江輿地志略』では、行定の子定道が祖母の姓である紀姓を仮冒して称したのであり、本来は佐々木氏の一族とする。

後世、その子孫は宇多源氏佐々木氏流を称し、江戸時代の幕臣として9家が『寛政重修諸家譜』に掲載されている。家紋は四目結、あるいは釘貫。安土桃山時代に豊臣氏の家臣となった、木村定重・重慈・重成らもこの流の後裔と考えられている③。

近江国滋賀郡堅田(現在の滋賀県大津市堅田地区)の人に、弓術出雲派の吉田重綱の弟子で、寿徳派の創始者木村寿徳がいる。元は猪飼氏を称していたとされる。

『佐々木系図』では平通盛を討ち取ったのは、成綱の弟(木村源三)俊綱とする。また『吾妻鏡』では俊綱を成綱の子とする。

『尊卑文脈』も同様

太田亮著『新編 姓氏家系辞書』角川書店,1974年,484頁

鎮守の森
30m東に祠が
 
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城」、遺跡ウォーカー 、佐々木南北諸氏帳、Wikipedia
  本日の訪問ありがとうございす!!

鯰江中戸城   近江国(愛東)

2016年05月02日 | 平城

中戸城に土塁が残っていた!

集落の東に竹藪がある、竹藪と倉庫間を30m進むと『土塁・虎口状』城郭遺構が残る。2016.5.2確認

              

寛永寺

   

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知群愛東町)中戸 map:http://yahoo.jp/L5i6_G

現 状:竹藪・集落

区 分:平城

築城期:南北朝期

築城者:鯰江相模守

遺 構:廓・土塁・

目標地:中戸公民館

駐 車:中戸町公民館に駐車

訪城日:2013.6.13・2016.5.2

お城の概要

 『淡海国木間攫』に「愛知郡 鯰江妹村(鯰江氏)・鯰江中戸村(鯰江氏)・鯰江森村(森氏)」とあり、

地続きの3村であったは、中戸村と森村(鯰江村)は、名神高速道路で寸断された。

愛知川右岸の段丘城郭で、一時八風街道は愛知川宿より愛知川右岸を通り柿御園・高野・小椋谷を伊勢へと・・重要な間道であった。

お城の歴史

「淡海国木間攫』には、「愛知郡 鯰江中戸村 「往古鯰江相模守・鯰江駿河守在城セリ由、古城二ケ所アリ」と記す。

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 中戸村住 佐々木末 隋兵 鯰江満介・鯰江又八郎・鯰江美濃守」と記す

 鯰江氏は、鯰江村に居城を構える以前に、中戸集落に中戸城を構えていた。現在も中戸には小字「城之内」の地名が残っている。鯰江には、土豪「森氏」が森城を構えていた。

また、『淡海国木間攫』には、愛知郡 鯰江森村 「往古此里ニ森備前守・森又太郎在城之由、古城跡等残リアリ、領主タリシト云」と記す。

中戸公民館周辺が中戸城と  

寛永寺

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『佐々木南北諸氏帳』、『淡海国木間攫』、愛東の歴史、Wikipedia

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


下日吉城   近江国(五箇荘)

2016年05月01日 | 平城

下日吉城 

お城のデータ
所在地:東近江市(旧神崎)五個荘日吉町(旧:下日吉町) map:http://yahoo.jp/LvG-UJ
現 状:農地(田地・畑地)
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:葛若後藤
遺 構:ー
目標地:KIMURA SUℚAℝE GAℝDEN(バティングセンター)
駐車場:KIMURA SUℚAℝE GAℝDEN近くに路上駐車
訪城日:2016.5.1
お城の概要
 「滋賀県中世城郭分布調査4」では、下日吉の集落西南に「城」・「城跡」という小字が存在し、周囲を川が流れていることから城館跡と考えられる。
 遺跡ウォーカーの比定地で、畑作業の古老の話では、集落までの「水田・畑地が城址」との事、
お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には、「神崎郡 下日吉 佐々木隋兵元周防 葛若後藤」の名を記す。
詳細不明

五箇荘は、

 七里や五位田など条里制に由来する地名があることから、古代から開発が進んでいたと考えられる。律令制下では建部郷(現在の五個荘南部から八日市北部)と小幡郷(現在の五個荘北部から能登川東部)に属していた。建部郷は建部氏の本拠地であったとされる。

 中世には大きく分けて、建部荘(日吉社領→建部社領)・山前荘(日吉社領→延暦寺領→皇室領)・小幡荘(藤原氏領)の三つの荘園があり、六角氏が守護大名として支配した。六角氏の本拠地に隣接するため町域各地に城砦が築かれ、のちに織田信長との観音寺城の戦いでは町域全域が戦場となった。

 室町時代には東山道に近い小幡三郷(現在の小幡・中・簗瀬)から商人が起こり、伊勢方面で活動する四本商人(保内・石堂・沓掛と小幡)と若狭方面で活動する五箇商人(八坂・薩摩・田中江・高島南市と小幡)の二つの商業集団に属した。商業利権を巡って保内商人との争いが絶えず、小幡商人は徐々に衰退するが、一部は安土城下、さらに八幡山城下へと移り、八幡商人の一部となった。近江八幡市の旧市街には現在も小幡町という町名が残っている。

 江戸時代には、初期は幕府と彦根藩、貞享2年(1685)以降は彦根藩と郡山藩が領有した。彦根藩の商業自由化政策もあって、享保以降、金堂・川並・山本・宮荘など町域各地から多くの商人が発生した。

   畑作業をしていた古老ここが城址だと。     

日吉集落内

  

堀か?   

目標地のKIMURA SUℚAℝE GAℝDEN=バティングセンター

 駐車位置から遠景・・・背後の山は伊庭山 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4「旧蒲生・神崎郡の城」、 Wikipedia
 本日の訪問ありがとうございす!!

荒川城   近江国(大津・志賀)

2016年04月28日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)荒川町 map:http://yahoo.jp/lOPlN1

現 状:資材置場・空地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:木戸十乗坊

城 主:木戸十乗坊

遺 構:鹿垣・敷石?/城に使われていた石?

標 高:117m   比高差:ー

目標地:荒川のグランド・萬福寺

駐車場:荒川のグランド下の空地

訪城日:2016.4.23

お城の概要

荒川城は荒川の城之本にあったとされ、小字「城之本」「北堀」「城之東」の地名が残る

この城に関しての文献資料はほとんど見当たらないが、地区有の資料に明治18年に荒川村総代堀平氏によって描かれた絵図が残っており、それには城之本の地域の中に古城跡が描かれている。出典の根拠は不明だが、「北辺65間(117m)・東辺38間(68m)・南辺72間(130m)・西辺44間(80m)」の規模が描かれている。また同時に、「木戸十乗坊越前守古城跡、本村中央ヨリ北東地ニアル」と墨書があり、ここの城主は木戸十乗坊となる。同氏は木戸城の城主でもある。

現在は、城郭遺構は不明だが、東側に猪垣と伝えられる石積みがある。古老に聞いても「城之本」の名以外は伝わっていない、比定地の畑を宅地化の際、石がまとまって出てきたとのこと。

お城の歴史

『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡=(木戸山城)」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を「城の尾=(木戸山城)」といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す

『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。

『当代記』には、木戸城(志賀町) 

 元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

 元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

 信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。集落とグランドの下の「猪垣」

グランドに駐車   

猪垣にゲートあり、集落へ入ってすぐ右側が、遺跡ウォーカーの比定地(ヘンス囲われた)http://yahoo.jp/lOPlN1

遺構か?   出土石の一部か? 

集落内

  

真っ直ぐ進むと「萬福寺」      

本堂の北側に土塁痕?     

萬福寺本堂の背後の様子・・・ここも城域内か?         


詰め城を求めて

仮称)【荒川山城】としておこう。

                     

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9「旧滋賀郡の城」、遺跡ウォーカー 

  本日の訪問ありがとうございす!!