野路城
遺跡ウォーカーの比定地
- お城のデータ
- 所在地:草津市野路町 map:http://yahoo.jp/4qxiLO
- 現 状:神社・寺院
- 区 分:平城
- 築城期:室町期
- 築城者:野路又三郎
- 遺 構:
- 目標地:新宮神社・浄泉寺
- 駐車場:新宮神社の駐車場
- 訪城日:2016.4.21
- お城の概要
- 野路町の旧東海道沿いの草津宿の手前に位置し、野路駅の宿場であった。
- 野路城は、新宮神社も含む範囲位置していたと考えられる
- お城の歴史
- 『佐々木南北諸氏帳』には、「栗田郡 野路 住 野路又三郎」の名を記す。が詳細不明。
遺跡ウォーカーの比定地
平清宗の胴塚
- 平 清宗(たいら の きよむね)は、平安時代末期の武将である。平家の棟梁平宗盛の長子で、平清盛の孫にあたる。母は後白河法皇の寵妃・賢春門院の同母妹である平清子。
承安2年(1172)、3歳で伯母である建春門院の御給で徐爵し、従五位下となる。同時に元服して内昇殿、紫色を許されるという破格の待遇を受けている。承安3年(1173)、女院御所で行われた鵯合で後白河法皇は幼い清宗を膝に乗せ、人目も憚らず鍾愛したという。
治承4年(1180)、11歳で従三位に昇叙。養和2年(1182)、13歳で正三位。寿永2年(1183)2月に平頼盛の娘との婚姻が成立している。
同年7月に平家一門は源義仲の上洛により安徳天皇とともに都を落ち、清宗もこれに従う。平家は各地で敗れ、元暦2年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで敗北し、滅亡に至る。清宗は父の宗盛とともに入水を試みるが、父子は海から引き上げられて捕虜となる。
宗盛と共に都を引き回されたのち、5月に源義経により鎌倉へ護送される。6月、宗盛が頼朝と対面したのち、父子は再び京に護送される途中の6月21日、宗盛は近江国篠原宿(現在の滋賀県野洲市)で橘公長によって斬首され、清宗も同日に近江国野路口(同草津市)で堀慶光に斬首された。享年17。首は京・六条河原にさらされた(『吾妻鏡』元暦二年六月廿一日・廿三日の条)。
滋賀県草津市野路5丁目には清宗の胴塚と伝わる石塔が、遠藤家邸宅の中庭にあり、毎年6月21日に「清宗忌」が行われ、代々保存供養されている
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経歴
崇徳天皇に寵愛される。大治5年(1130)敘爵され、右少将、左中将、備中介等を歴任。大治6年(1131)従五位上の昇叙から、保延年間に十四位上まで昇進。永治2年(1141)に正四位下に叙され、備後健介、左中将、蔵人頭等を経て、久安6年(1150)に参議・中宮権太夫。仁平2年(1152)に丹波権守となるが、2年後に卒去した。享年43。
- 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、 佐々木南北諸氏帳、遺跡ウォーカー、Wikipedia
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