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城郭探訪

yamaziro

保存整備 「特別史跡彦根城跡」の石垣修復

2012年03月27日 | 文化財

保存整備 「特別史跡彦根城跡」の石垣修復文化財は、長い年月をへて傷いたんだものが少な
くありません。

こうした「傷ついた文化財」には、文化財的修復が施され、再びもとの姿にもどします。

彦根城跡は、彦根山を中心に、おおむね中堀より内側が国の特別史跡に指定されています。その面積は488,627 ㎡と広大で、各所に累々るいるいと石垣が築かれています。

文化財課では、これら膨大な石垣のすべてを対象に、個々に状態をカルテ化する「悉皆しっかい
調査「ちょうさ」を実施中です。
同時に崩れた石垣の修復を毎年計画的に実施しています。平成18 年度は内堀沿いの11 箇所について修
復を行いました。修復作業は、崩れた部分をただ元に戻すだけの作業ではありません。この機会に、通常で
はできない詳細調査を実施して記録を残します。

そうした調査の結果、新たな知ち見けんを得ることができました。
内堀の内側、つまり彦根山の裾すそ部は三つの手法で石垣が築かれています。

①大手門から山崎門と表門から黒門までは、低い石垣の上に土居どいを配しています。

②大手門から表門の間は、「鉢巻はちまき石垣」「腰巻こしまき石垣」と称される低い石垣を、土居を介して上下二段に積んでいます。

そして③黒門から山崎門の間は高石垣となっています。

今回修復作業を行なったのは、①と②の箇所の石垣ですが、①では、裏うら込ごめ石いしの量が極めて少ないのが留意されました。裏込石は、石垣の裏側に拳(こぶし)大の石を一定の幅で投入し、排水を良好にして石垣の崩壊を防ぎます。

ところが、①では裏込石が幅0.5~0.8m程度で、下から旧水位ライン(海抜かいばつ85.6m)辺りまでしか投入されておらず、旧水位より上は、石垣が土から成る土居に直接つながっていました。排水対策はどうしていたのでしょう。土居にヒントが隠されていました。土居が版築(はんちく)技法で築かれていたのです。

版築技法は、土を少し盛って突き固め、その上にまた土を盛って突き固める。これを何回も繰り返して水を透とおさない堅固な土居を築く技法です。土居を版築で築くことにより、石垣の裏に水が浸透しんとう
するのを防いでいるため、裏込石は堀の水で洗われる旧水位ラインまでしか投入しなかったと考えられます。

ところが②の腰巻石垣の修復では、腰巻石垣の上端まで裏込石がしっかりと確認できました。土居を介して、さらにその上に鉢巻石垣を築くため、念の入った仕事になっているのでしょう。
今年度も引き続いて内堀沿いの石垣を修復します。
新たな発見に期待がもたれます。
石垣の断面石垣石垣の修復作業(石垣の上が土居)

 

 

彦根城太鼓門櫓と石垣:滋賀県彦根市

http://www.youtube.com/watch?v=ZFOveS6ytzE


伝本丸の東虎口は?史跡観音寺城跡

2012年03月12日 | 文化財

2年目の発掘と石垣調査

史跡観音寺城跡伝本丸北東虎口の石段跡(県文化財保護課提供)

◇東近江・安土町
  平成二十年度から県教委が四年計画で石垣基礎調査と発掘調査を続けている。
 今年度は、本谷から伝本丸に通じる西側ルートで想定されていた枡形虎口がなかったことが明らかになった昨年度調査に続いて、昨年十一月から東側ルートの虎口があったとされる伝本丸東虎口(防御機能をもつ入り口)〇・三ヘクタールで発掘調査を行っている。
 東側ルートは、江戸時代以降に桑実寺から観音正寺への巡礼道で、伝本丸北東隅の開口部につながり、観音寺城時代にも道として利用されていたと考えられている。伝本丸の手前で巨大な削り出し土塁が張り出して、道が狭くなっているが、防御のための構築物などは発見できていない。
 石垣調査は、観音寺城跡最大の特徴である安土城以前の石垣の現状を把握するため、四年かけて伝布施淡路丸周辺と南山裾部二十四ヘクタールを調査している。


伝本丸大石段は直線だった

2012年03月12日 | 文化財

=伝三ノ丸へ折れ曲がらない 寺との関係も あす現地説明会=

伝本丸大石段から直角に曲がる石段ではないかと思われていた石垣の崩壊部分

◇東近江・安土町
 四年計画で史跡観音寺城跡の石垣基礎調査などを行っている県教委文化財保護課は、調査・発掘の成果を発表した。
 これまで、伝本丸から通じる大石段が、本丸の十メートル東側の下部(高低差約二十メートル)にある伝三ノ丸付近で一旦直角に曲がり、再び直角に曲がる、防御性のある桝形的空間をもっていたのではないかと思われてきたが、今回の調査で、伝三ノ丸への石段だと思われていた部分は実は大石段側面の石垣が崩れたもので、大石段は曲がらずに直線的に続いていて、伝三ノ丸とはここではつながらず、桝形的空間も存在しなかった可能性が強くなった。
 また、伝三ノ丸北端にある谷に突き出した土塁から両側っへ下る新たな石段が見つかり、それぞれ別の谷につながっており、伝三ノ丸へ二つのルートがあったことが分かった。
 さらに、伝三ノ丸を中心に向かって二十五メートルほど進んだところに石垣が築かれ、ここから奥が一段(七十センチ程度)高くなっているが、大規模な火災により赤色変化した石が多数あり、修復、崩壊がくり返されたため、石段の形跡は認められなかった。
 これらのことから、伝三ノ丸が築城前からあった観音正寺の施設の遺構を生かした可能性も考えられ、観音寺城と観音正寺との関係、佐々木六角氏と宗教の関係など、曖昧になっている部分を解明する第一歩となる可能性も出てきた。


日本5大山城

2012年02月29日 | 文化財

北国脇往還(現在の国道365号線)を眼下に治め、大嶽城を北方の押さえとして、小谷山全山にわたり造られた曲輪は一千カ所にのぽり、近江の数ある城郭の中でも観音寺城と共に屈指のものである。

 また、 小谷山全山にわたり造られた小谷城上杉謙信の居城・春日山城、能登畠山氏の居城・七尾城、尼子氏の居城・月山富田城、および観音寺城とともに日本5大山城とも云われている。

小谷城の白米伝説】
 大手道の番所を過ぎてしばらく山道を登ると、馬洗池と云われる石組みで作られた池がある。
小谷城の水は、はるか東方の天吉寺山の海抜650mの元池から延々10数キロ以上のサイフオン仕掛けの竹の"とい"で引いてきたらしく、水は城中からこの池に流れ込んでいたという。

 天正元年(1573)8月、織田信長は小谷城最後の総攻撃の前に、天吉寺山からの竹の樋を破壊したため、小谷城内には水が一滴もなくなった。

小谷城の浅井側では水が絶えたと知れば、敵は勢いづいて攻め込んで来る。そこで水を落としていた樋から白米を馬洗い池に流して、城にはまだ水があるように見せかけたという。


城の石垣、木の根で崩落 各地で膨らみ押し出す被害

2012年02月20日 | 文化財

写真:国史跡・小峰城跡の竹之丸の石垣。東日本大震災で崩落した=福島県白河市教委提供拡大国史跡・小峰城跡の竹之丸の石垣。東日本大震災で崩落した=福島県白河市教委提供

写真:国史跡・小峰城跡の竹之丸の石垣。崩落前の姿=福島県白河市教委提供拡大国史跡・小峰城跡の竹之丸の石垣。崩落前の姿=福島県白河市教委提供

写真:国史跡・小峰城跡の本丸の石垣。東日本大震災で崩落した=福島県白河市教委提供拡大国史跡・小峰城跡の本丸の石垣。東日本大震災で崩落した=福島県白河市教委提供

写真:国史跡・小峰城跡の本丸の石垣。崩落前の姿=福島県白河市教委提供拡大国史跡・小峰城跡の本丸の石垣。崩落前の姿=福島県白河市教委提供

写真:「孕み」を起こした高松城の石垣。このあと03年の台風で崩れた=高松市教委提供拡大「孕み」を起こした高松城の石垣。このあと03年の台風で崩れた=高松市教委提供

 

 お城の石垣が、全国各地で崩落の危機に直面している。原因は、樹木の根が石垣の内側に張り出し、妊婦のおなかのように膨らむ「孕(はら)み」と呼ばれる現象。桜の名所や緑豊かな公園として、市民に親しまれている史跡が多く、伐採は容易ではない。

http://www.asahi.com/eco/news/OSK201202070068.html