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城郭探訪

yamaziro

玄蕃尾城(内中尾山城) 近江国(余呉)

2014年09月07日 | 陣城

東近江・北近江 玄蕃尾城 合同見学会 
日 時 201497日(日)9:0017:00 
内 容「講義と現地解説」長谷川博美氏(NHK名古屋文化センター歴史講師)

登城前に「玄蕃尾城」講義(このは写真は米ちゃんのを拝借)

 

お城のデータ

所在地:余呉町大字柳ケ瀬小字北尾624
別 名 :内中尾城
築城期:織豊期 賤ヶ岳戦い天正11年(1583)
築城者:柴田勝家

現 状:山林
区 分:陣城
遺 構:土塁、堀、土橋、馬出虎口、八曲郭、竪堀、空堀、櫓台
城 域:
標 高:459m     比高 

目標地:玄蕃尾城下の駐車場・刀根坂峠

 国道365号(北国街道)線を柳ケ瀬から敦賀方へ走り、トンネルを抜けたところをスグに右折して林道を約2km。

駐車場:刀根地区の林道に7~8台駐車可

訪城日:2014.9.7

お城の概要

滋賀県と福井県の県境内中尾山の山頂に築かれた玄蕃尾城は、天正11年(1583)に柴田勝家と羽柴秀吉が、信長亡き後の織田軍団の指導権を争って戦った賤ヶ岳の戦いの際に柴田勝家が本陣を構えた所です。曲輪は全部で8つあり、山頂に主曲輪を構え、各曲輪をなだらかな斜面に配しています。
曲輪周囲には空堀を巡らし、曲輪と曲輪の間は土橋で連絡されて、曲輪から空堀。

 主曲輪(約40m×40m)の南北に設けられた虎口には、枡形虎口、あるいは馬出しなどを配して、織豊系城郭技術がこの時期にほぼ完成されていたことを窺い知ることが出来ます。
遺構もほぼ完全な形で残っており、滋賀県あるいは福井県に数ある城郭の中でも屈指のものだと思います。
また、主曲輪の東側には櫓台(10m×10m)が設けられており天守のようなものが築かれていたと考えられています。

 この玄蕃尾城の築城時期は天正10年~11年と特定することが出来、天正期における織豊系城郭の築城技術を考察する上でも非常に意義深い城といえます

県境にある内中尾山(標高460m)山頂にあり、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際、『柴田勝家軍の本陣』として築城される。屈指の築城技術を誇る。

 城は最高所の主郭を中心に、専守防衛に主眼を置きつつ出撃拠点としても巧みに計算された縄張りを見ることができ、諸郭間の機能分化と配置、馬出の完成度、空堀。土塁の発展、天守台が具備され、現存する県内の山城の中で最も発達した構造を示すものと言われている。

玄蕃尾城縄張り図

歴 史

 天正10年(1582)6月27日におこなわれた清洲会議では、秀吉は信長の嫡孫である三法師丸(秀信)を信長の跡目にたて、柴田勝家は信長の三男神戸信孝(織田信孝)を推すが、信長の弔い合戦で明智光秀を討った功績による発言力は強く、丹羽長秀、池田恒興等を取り込んだ秀吉の意見が通り、信長の跡目は嫡孫三法師丸と決定。二男信雄は尾張、三男信孝は美濃を領することになる。

 柴田勝家は、美濃を領した三男・神戸信孝と、信長家臣団の中にあって秀吉の台頭を心よく思わなかった伊勢の滝川一益(信長死後、武蔵神流川の戦いで敗れ、関東管領職を失い伊勢長島に帰国していた)と盟約を結び秀吉と対立する。

 天正11年1月、滝川一益の配下である伊勢亀山城の城主関盛信が、蒲生氏郷の仲介で秀吉に降伏するが、その城主不在の留守に家臣の岩間三太夫が兵を挙げ、滝川一益に救援を求める。
 秀吉はこれを好機として、軍勢を率い(この時の兵力を太閤記では7万とし、賤ヶ岳合戦記では4万余騎としている)、安楽越え(土山町山女原~亀山市安坂山町)、大君ヶ畑越え(国道306号線鞍掛峠)、関ヶ原から土岐多羅越え(養老郡上石津町)の三方から北伊勢の滝川一益を攻める。
亀山城,峯城を落とされた滝川一益は6千の寡兵ながら居城を桑名城から長島に移し、徹底抗戦の構えを見せる。

 越前北之庄城の勝家のもとに長浜城の落城、神戸信孝の降伏などの情報は入ってくるものの、豪雪のため軍を動かすことは出来ず、天正11年2月28日(太陽暦では3月21日)、雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として出陣させ、3月3日には佐久間盛政,前田利家を、3月9日には勝家自ら諸将率い、除雪をしながら、北之庄城を発進。
 信長生前の頃に、越前-安土間を短時間で行動できるようにと、勝家自らが整備しておいた北国街道も江越国境が豪雪のために通れず、迂回して敦賀から木の芽峠を越えて近江に入り、刀根街道と北国街道を押さえる位置にある玄蕃尾城(内中尾山)に入城した。

 一方、勝家が北之庄を出発したとの知らせをうけた秀吉は、北勢の滝川攻めに一部の兵を残し、主力を率い、3月16日には長浜城に入り、翌日には木之本の浄信寺に本陣を置き、田上山に羽柴秀長、賤ヶ岳に桑山重晴、大岩山に中川清秀、神明山に山路正国、堂木山に木下利久、東野山には堀秀政等を配して対陣する。

 こうして、江北・余呉湖周辺で、2月初旬から4月下旬までの2ヶ月間に及ぶ対陣の末、4月20日に佐久間盛政が秀吉軍の中川清秀の守備する大岩山砦を急襲、この知らせを聞いた秀吉が意表を突く早さで大垣から引き返し、大岩山砦の佐久間盛政に反撃を開始。
 秀吉軍の反撃の前に佐久間軍が敗れると、柴田軍主力部隊からは戦線を離脱する将兵が続出し、勝家軍は敗走。
 越前北之庄城に帰り着いた勝家は籠城を決意するが、秀吉軍の攻城の前に勝家はお市の方とともに自刃。4月24日の北之庄城落城によって賤ヶ岳の戦いは幕がおりた。
 玄蕃尾城はその後利用されることなく廃城となった。

ここから、長谷川博美氏が新たに確認された城域

玄蕃尾城域に、戻ります

土塁上の柵(参加者整列)合成写真

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、余呉と賤ヶ岳合戦、近江の城、淡海の城、他

 本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 

見学 12:301600 帰途1600
北近江 宮本氏  (米原文化協会 城歩会) 主催  米原文化協会 教養部 城歩会

国指定史跡「玄蕃尾城(内中尾山城)」

玄蕃尾城(げんばおじょう)跡は賤ヶ岳合戦の際に柴田勝家の本陣となった城です。玄蕃尾城主郭跡

 賤ヶ岳合戦といえば七本槍(しちほんやり)が著名ですが、実は合戦史上最大の築城戦であったことはあまり知られていません。

 織田信長亡き後に羽柴秀吉と柴田勝家は後継者争いをはじめます。

 天正11年(1583)2月には柴田軍の先鋒として前田利家、利長父子が江北に出陣します。柴田軍の布陣に対して羽柴軍も東野山~堂木山間を最前線として布陣します。この両軍の布陣にともない築かれたのが「陣城」と呼ばれる臨時築城の城です。以後4月28日の合戦までの約2ヶ月にわたり両軍はこの陣城に籠って睨みあいます。

 こうした陣城が余呉、木之本に約20ヶ所も構えられました。

 ところで長浜城歴史博物館や大阪城天守閣に所蔵される「賤ヶ岳合戦図屏風」には秀吉軍の本陣となった田上山砦や、東野山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦などが城郭として描かれており、江戸時代の人々は賤ヶ岳合戦で城が構えられていたことはよく知られていたようです。

 この陣城群中、最も大規模で発達した城郭構造を示すのが玄蕃尾城です。土塁(どるい)を巡らせた方形の主には天守台に相当する櫓台(ろだい)が北東隅に構えられています。そこには礎石が認められることより実際に櫓(やぐら)が建てられていたことはまちがいありません。この主郭の南、東、北の3方向には虎口(こぐち)と呼ばれる城門が構えられており、特に南と北の虎口の前面には直進を妨げる出桝形(でますがた)と呼ばれる方形の小曲輪(こくるわ)が突出して配置されています(写真下)。また主郭や出桝形の周囲には深くて幅の広い横堀が巡らされています。

 こうした構造は16世紀後半の発達した城郭構造を示す貴重な陣城遺構として平成11年に国史跡に指定されました。次回はこの陣城を築いた賤ヶ岳合戦の経過を紹介しましょう。(滋賀県立大学准教授 中井均)

※築城戦=城を築いて向かい合いながら戦うこと。(『広報ながはま』平成23年5月1日号より)


岩手城(竹中陣屋) 美濃国

2013年11月27日 | 陣城

 

別 名:岩手城、竹中陣屋、岩手陣屋

城郭構造:陣屋

築城主:竹中重門

築城年:1588年

主な城主:竹中氏

遺 構:現存櫓門・石垣・堀

訪城日:2013.11.27

菩提山の麓にある町立岩手小学校の隣に江戸時代に建てられた竹中陣屋には、堀と門、石垣が残る。その門は幼稚園の門にもなっている。  

 

竹中氏陣屋櫓門 マップ http://yahoo.jp/aBcc3S

竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、岐阜県不破郡垂井町(美濃国不破郡岩手)にあった江戸時代の陣屋。

安土桃山時代には岩手城と呼ばれていたが、江戸時代に竹中氏が旗本身分に留まったため城は陣屋と呼ばれるようになった。別名、竹中陣屋、岩手陣屋。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀)であった竹中重治の子である竹中重門が築いたものであるが、敷地を囲む大規模な堀(水堀等)と石垣などがあり、世に言う陣屋というものより小型の城と言ったほうが正しい。

元々、竹中氏の居城は堅固な山城である菩提山城(岩手山城)であったが、平時には不便なことから、麓に岩手城を築いたという。

現在その跡地は岩手小学校と民有地となっているが、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残っている。また入り口付近に竹中重治の像が建てられている。 判りにくいが、櫓門から北側へも道沿いの家の裏手に土塁が続いていて、岩手小学校裏、西側へと続いている。

1956年(昭和31年)に、岐阜県指定史跡となっている。

さざれ石(君が世は、千代に八千代~~~dさざれ石の岩をと成りて)

竹中氏とは

平良文(たいらのよしふみ)を祖とする武門の名家鎌倉氏の一族である。竹中氏は、鎌倉景政の孫長江義景から始まる長江氏の支族岩手氏より始まるとされる。ただし美濃守護土岐家と猶子などの姻戚関係となったものと思われ戦国時代以降は源氏庶流を称す。

概要

重元流竹中氏

1588年(天正16年)、竹中重門が菩提山城の山麓に岩手城を築く。尚、築いた時期は、文禄から慶長年間の頃の説もある。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにて、竹中重門は当初西軍につき、犬山城城主石川貞清に協力。稲葉貞通、稲葉典通、加藤貞泰、関一政らと犬山城に籠城する。しかし、井伊直政の仲立ちにより東軍に加わり、黒田長政軍として参戦する。関ヶ原の戦いは竹中氏の領土も戦場となったことなどから、徳川家康より1千石の米を下賜され、また、領土(不破郡岩手 6,000石)を安堵された。旗本として徳川将軍家に仕え、よって岩手城は以後、岩手陣屋と呼ばれることとなる。

竹中氏は旗本交代寄合として、1868年(明治元年)まで存続する。

重光流竹中氏

重光の長子である竹中重利は羽柴秀吉より美濃で3000石の所領を賜い宗家から独立した。のちに領地替えとなり豊後高田で13000石の大名となった。さらに関ヶ原の戦いにおいて徳川家康についた功により豊後の大分城を与えられ二万石の大名となる。

重光の次子である竹中重定も羽柴秀吉に仕える。また、豊臣二世関白となる羽柴秀次の側室に、娘が上がり「羽柴土丸」を産む。関ヶ原の戦い以後は徳川家に仕え、摂津吹田を領する上級旗本として続いた。鷹司家(松平家)とも姻戚関係だった。

参考資料: ウィキペディア他

本日も訪問、ありがとうございました。


向山城 近江国(伊吹)

2013年10月14日 | 陣城

田の畔道から、攻め込むが切岸のよう3m。

お城のデータ 

所在地:米原市甲津原(旧伊吹町甲津原)   maphttp://yahoo.jp/ThWOGg

現 状:森林

区 分:山城

築城期:南北朝期

築城者:京極氏?浅井氏? 

遺 構: 土塁・竪堀

目標地:甲津原交流センター

駐車場:甲津原交流センター駐車場

訪城日:2013.10.13

植栽林で、コアジサイが蕾を付けてました。

お城の概要

向山谷の城郭遺構は残る、土塁は低く直線的に横矢歪みも洗練された治山城対面の200mくらい離れた位置にあり、【治山城を攻撃するための陣城「向城」であった可能性もあり、土塁竪堀も配置は治山城と対峙する臨戦態勢を伺わせる構造、頂部は未完成で。治山城とは全く異なる異質の城郭遺構】と解説された。居住性のない、陣城。

杉木立に囲まれたところが向山城(農道から遠景)

画像 

 縄張り図・鳥瞰図:長谷川博美氏作図(内諾)

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


信長の隠れ岩 近江国(朽木)

2013年09月18日 | 陣城

 高島市朽木に「信長の隠れ岩」と呼ばれる大岩がある。戦国大名・織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。この岩に通じる道を整備された。

 信長は1570年、羽柴秀吉や徳川家康らを率いて朝倉氏攻めに赴いた。しかし、妹のお市の婿で同盟関係にあった浅井長政が朝倉氏方に寝返り一転窮地に。現在の高島市今津町保坂から朽木街道を抜けて、京都に逃げ戻った。「信長の朽木越え」として知られる。

 この撤退途中、地元領主の朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつが「隠れ岩にある。

 数個の巨岩が重なり全周は約300メートルにも及ぶ。組み合わさったところに」。朽木市場の通称三ツ石地先、国道367号の東側斜面の上大きなすき間があり、洞くつ状に。最大幅3メートル、最大高2・1メートル、奥行き6・6メートルの岩穴の奥に、最大幅4メートル、最大高3・5メートル、奥行き14メートルの空間が広がる二重構造の洞くつとなっている。

 しかし、岩へ至る道も案内板もなく、地元でも知る人は少ないという。朽木でも歴史上大きな出来事があったことを、より多くの人が知って訪れてほしいと、地元のまちおこしグループ「朽木・群(むら)・ひとネットワーク」が整備に乗り出した。

 斜面下から隠れ岩に至る全長190メートルの遊歩道を新たに整備し、階段と手すりも設置。由来や位置を示す案内板も3カ所に立てた。

 岩の東方には、朽木氏が築城した西山城ののろし台の遺構などもあり、隠れ岩から道をさらに伸ばして「歴史街道として将来ルート化できれば」と。

足利義昭を第13代将軍に擁立していた

 
織田信長は、元亀元年(1570年)4月20日、越前(福井) 朝倉義景を抑えるため京都を出立。

織田軍は、羽柴秀吉(豊臣)や徳川家康3万軍を率いて、敦賀 手筒山城、金ヶ崎城、疋壇城(ひきだ)を攻め落とし一乗谷 朝倉氏へ進攻をしかける途中・・・

足利義昭の寝返り、朝倉氏と組み、また朝倉と同盟関係にあった織田信長の妹 お市の嫁いだ 浅井長政らも裏切ったと連絡が!

北は朝倉氏、湖北からは浅井氏に挟まれる形となった。織田軍勢は、27日急遽、撤退を決定し、丹後街道から南下近江に入り保坂(今津町)から朽木街道に入りました。

信長が通過すると知った、朽木領主朽木元綱は、甲冑姿で出迎えたがために真意を確認する必要があると、松永久秀、森三左衛門(可成)が行く間、信長は、朽木 三ツ石隠れ岩で待機することに・・・

ここ 三ツ岩の穴にて待機する。

その後 元綱は、信長を迎え入れ朽木 下市場の圓満堂で もてなした後、朽木城に宿泊し、翌日、京都に撤収した。

朽木資料館で

信長の朽木越えの様子については、朽木氏の家臣であった長谷川家に伝わる「長谷川家先祖書」によると、「28日、信長公は保坂より朽木越えの街道に入り、慕谷を通行されました。
 
その時、朽木河内守元綱公が警護の兵を召しつれて道案内をされたので、信長公は無事に下市の圓満堂に着いて休息され、元綱公より接待を受けられました。
 
その際、隣家の長谷川惣兵衛茂元(茂政)がお茶とお菓子を献上したところ、信長公ははいていた鹿皮製のたちつけ(はかまの一種)と銀製の箸一対をくださいました。
その、革袴の複製(レプリカ)が、本物は安土考古博物館に!   当家では今日まで家宝として持っています」(意訳)と記されている。
 

信長の皮袴

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


姉川古戦場 浅井長政と陣田 血川と野村

2013年07月01日 | 陣城

  浅井長政と陣田

当地は姉川合戦の際、浅井軍8000人(陸軍参謀本部編纂『日本戦史』による兵数)を率いる長政本陣があった場所と伝えられます。合戦当日の元亀元年(1570)6月28日の前日まで、浅井長政は北方に見える大依山に布陣して、姉川対岸の織田・徳川29,000人(同前書による)に及ぶ軍勢の動向をうかがっていました。

しかし、28日未明に至り、重臣の遠藤直経の進言に従い、当地に軍を進めたとされます。昭和60年に完成した野村町の圃場(ほじょう)整備まで、当地には「陣田」と呼ばれる小高い丘が存在し、浅井長政の本陣跡と伝えて来ました。野村に展開した浅井全軍を見渡せる格好の位置は、伝承の正しさを物語っていると言えるでしょう。

なお、野村集落内には、現在も複数の土塁が認められ、野村氏や多賀氏などの浅井氏家臣屋敷の痕跡と考えられていますが、姉川合戦では浅井軍の陣所として使用された可能性もあります。

  

 

血川と野村の史跡(野村町)

この場所は、元亀元年(1570)6月28日に起きた姉川合戦に際して、浅井長政の軍隊が陣を置いた野村集落の南に当たります。対岸の織田信長軍と戦った浅井軍は、最初優勢でしたが、西美濃三人衆や徳川軍の加勢を受けた信長軍の攻勢により、敗退したと伝えられています。

この案内板の下には、かつて姉川合戦に際して血に染まったと伝えられる血川が流れていました(その川幅は、この看板の幅と同じです)。おそらく、信長軍によって追い立てられた浅井軍の将兵の血が流れたと考えられますが、昭和60年に完成した野村町の圃場(ほじょう)整備により流路がなくなりました。なお、ここから約300メートル南東にある「塚町」は、合戦の戦死者を葬った場所とも言われ、血川との関連が想定されます。

真柄の大太刀が!刃長(約175センチ)の大太刀(説明板の上に)   刃長5尺3寸(約175センチ)の大太刀を振るって奮闘した、真柄(まがら)十郎左衛門直隆 

江戸時代の儒学者山鹿素行が著した「武家事紀」に、徳川家家臣向坂六郎五郎吉政の戦功についての記述がある。そこには、元亀元年(1570)の姉川合戦において、吉政が越前国人衆真柄十郎左衛門直隆を討取った時の様子が以下のように書かれている。

 十郎左衛門は五尺三寸の大太刀を振り回し、六郎五郎の親族六郎左衛門式部(吉政の子?)と槍を交えた。式部が兜の吹返しを砕かれ槍を落としたので、弟の五郎二郎が入替わり渡り合った。そこに、六郎五郎吉政が郎党の山田宗六と助太刀に入った。十郎左衛門は五郎二郎と山田宗六を切伏せたが、その隙に吉政の十文字槍で討たれ首を取られてしまった。吉政は最初に槍をつけた式部に首を取るよう云ったが、辞退したので吉政が十郎左衛門直隆の首を取ったという。

合戦直前の6月24日、浅井長政は援軍に来た朝倉景健と姉川の北方3キロに当たる大依山に布陣しました。合戦当日の28日未明、長政・景健の両将は姉川北岸に前進、織田・徳川軍と決戦を決断しました。朝倉景健の本陣は、この北西にあたる三田集落内の三田村氏館におかれ、徳川家康の本陣がおかれました。その中間にある当地は、両軍の決戦の地となった場所で、多くの戦死者の血で染まったので「ちはら」と呼ばれています。

両軍の戦いで、最も有名なのが朝倉軍の武将で、刃長5尺3寸(約175センチ)の大太刀を振るって奮闘した、真柄(まがら)十郎左衛門直隆の討死です。最初徳川家康の家臣、向坂(さきさか)式部と渡り合っていましたが、途中からその弟の向坂吉政が十文字槍をもって助太刀に入り、真柄の首を討ち取ったと言われています。(『信長公記』には真柄の首を取ったのは青木一重と記されており、諸本によって多少異なるようです)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝


狐塚陣 近江国(余呉)

2013年05月12日 | 陣城

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町新堂 map:http://yahoo.jp/OaFoCw

区 分:陣所

現 状:墓地

築城期:織豊期

築城者:毛受氏

遺 構:馬印形木版の説明板

陣 主:毛受兄弟(兄毛受茂左衛門、弟・毛受勝照(通称 勝助)、弟・庄兵衛の事)

訪城日:2013.3.19

お城の概要

 現状は墓地になっているが、馬印形の木版に説明板がある。

お城の歴史

柴田勝家の敗退 賤ヶ岳の合戦時、柴田軍の最終本陣

佐久間玄蕃の奇襲攻撃に合わせて、勝家は玄蕃尾城から狐塚まで本陣を進めていた。その数六千。

戦いが劣勢となるや勝家本陣の兵は離反者が相次ぎ、いつの間にか三千人に減っていた。
佐久間玄蕃勢が壊滅した今、秀吉勢4~5万人が勝家本陣に攻め寄せて来る。

毛受勝照は兵二百人で勝家を逃す時間稼ぎのため、勝家の馬印を譲り受け、敵に勝家の本陣と思わせ敵を一手に食い止める。
もはや勝照には如何にして死に花を咲かせるか。その事しか念頭になかった。

敵を何度か追い返すが、最後には敵の真っ只中へ自ら討ち入ったのであった。
勝照ら二百人は一兵余さず討死にしたと云う。毛受勝照 享年25。

賤ヶ岳の合戦時、柴田軍の最終本陣

 柴田軍攻撃

 佐久間軍、虚を衝かれる・・・(秀吉の大垣から5時間の大返し)

 春霞にその稜線を希薄にしている伊吹山が遠望できる。その夜、信じられない時間に、山麓と思われるところから麓の木之元まで羽柴秀吉軍の松明、篝火群が現れたのである。(3月20日夜である。早くとも21日が当時の常識だった。)

 守備についていた羽柴長秀の羽柴軍も加わって、そのまま秀吉軍は佐久間軍に襲いかかった。佐久間軍は戦線を固めるべく退きながら、よく戦い戦線を立て直そうとした。

 後狐塚に押し出している勝家本隊、別所山から茂山に進出していた前田利家等と戦線を結ぼうとした。しかし、柴田勝政軍が羽柴軍に攻められ、苦戦に陥った。それに支援するため、佐久間軍は返した。 

 前田利家撤退 しかし、賎ケ岳の戦いはここまでであった。前田利家軍の戦線離脱である。集福寺口に移動した。それによって戦いの帰趨が決定付けられた。佐久間軍は乱れた。本陣の柴田勝家からも佐久間、柴田勝政軍の総崩れに見えた。前田利家は羽柴秀吉の朋輩でもあったが、突然の離脱については諸説がある。ともあれ、前田利家は集福寺口から塩津街道(現国道8号線)を経て敦賀へ、木の芽峠を越えて越前府中(現越前市)に帰還した。

 狐塚から勝家本隊も後退した。柴田側の総崩れとなる。

 柴田軍北国街道を敗退 柴田軍は雪崩を打って崩れ、柴田勝家は北国街道椿坂峠を敗走する。この北国街道は、勝家が近江への軍用道路として整備した道でもある。そして越前北の庄(現福井市)まで羽柴秀吉の追撃を受け、城とともに滅んだのである。

  • 玄蕃尾城から狐塚に進出した柴田勝家本隊に、佐久間軍敗退の報が届き、秀吉軍の包囲網が迫ると、勝家方の兵は動揺し、逃亡するものも多く、兵力は減少し、もはや秀吉軍に決戦を挑むことすらできない状況に陥っていた。
  • 討死の覚悟を決めた勝家だが、家臣の毛受勝照が懸命に諫めた結果、側近とともに栃木峠を越えて越前に逃れた。
  • その間、「金の御幣の馬標」を受け取った毛受勝照は、身代わりとなって僅かの兵で秀吉の大軍を惹きつけ奮戦し、全滅した。
  •  毛受氏は、林谷山砦は土塁を400m連ねた、生々しい陣城に陣取った。

毛受兄弟の墓 map:http://yahoo.jp/FvqCf0

 

 勝家は、府中(武生)では、前田利家の元に立ち寄り、利家の裏切りを責めることもなく、永年にわたる利家の友誼を謝し、お市の待つ北ノ庄城に戻り籠城の準備をした。

狐塚本陣跡

位置:北陸道の上に掛る陸橋の西側

毛受兄弟の戦跡。

林谷山砦は土塁を400m連ねた、生々しい陣城で、中谷山は竪土塁が異様な迫力です。

賎ヶ岳合戦古戦場の林谷山砦、中谷山砦、茶臼山城、狐塚本陣


おまけ【丹生ダム建設の推移】の碑

参考資料:賤ヶ岳合戦記、滋賀県中世城郭分布調査

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


井元城  近江国(愛東)

2013年03月19日 | 陣城

井元城跡縄張図 (滋賀県文化財学習シートより)重ね馬出

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町  map:http://yahoo.jp/RB4-GT

現 状:鎮守の森(春日神社)

遺 構:曲輪、重ね馬、土塁、空堀、 

区 分:段丘城(陣城)

築城者: 柴田勝家

築城期:織豊期 永禄11年頃

目標地:春日神社

駐車場:春日神社の駐車場

探訪日: 2013.3.19

 お城の概要

 井元城は、愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭。

文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出。

 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分。

虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているの。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したもの。

そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えらる。城域全体図(長谷川博美氏踏査図2009年)

お城の歴史

 井元城付近が大きな権力の動きに巻き込まれた事件としては、元亀4年(1573)の織田信長による鯰江城攻め。観音寺城を逐われた六角義治は鯰江城に拠って蜂起します。これに対し信長は四方に付城を構築して攻撃します。位置関係からみて、井元城はこの付城の一つである可能性が高い。

発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

 城の構造は、一辺30mの方形単郭で断崖側を除く三方を土塁で囲み、その外側に横堀を廻らせている。東側の虎口前には「コ」の字形に土塁と堀をめぐらせた角馬出が設けられ、さらに北側こもう1つ角馬出しが付けられ「重ね馬出し」と呼ばれる縄張りになっている。この虎口構造は、全国的にも極めて数少ない事例とされる。
虎口の東外方に150m×30mの土塁と空堀に囲繞された区画が設けられ、兵士の駐屯地と考えられ、また、土塁と堀の土層断面から構築方法は単純で、急造されており臨時的な陣城の可能性が強いと考えられている。
複雑な虎口構造を備える割には、施設規模は品弱で、強固さの感じられない遺構で、鯰江城攻略の為の中核砦では?。

お城の歴史

井元城と仮称されるこの城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから
「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられる。

井元城は、永禄11年~天正元年の間に、鯰江城攻略のための付け城として築かれた。                                                     城を築いたのは、柴田勝家とも云われているが定かではない。
 永禄11年、鯰江貞景は観音寺城を織田信長によって落とされた六角承禎を鯰江城に迎え、佐々木旧臣と共々籠城した。
 織田信長は佐久間・蒲生・丹羽・柴田の四氏に命じ、周囲に井元城・中戸城等の城砦を築いて攻撃し、天正元年9月ついに鯰江城は落城した。規模は小さな陣城だが重ね馬出の遺構が残るお城。なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

本春日神社殿東の石積から、無理やり登城!

春日神社本殿東側土塁

春日神社本殿北側土塁

綺麗に手入れされ、ショウジョウバカマ群生の薄紫色で迎えてくれた!

城は、方形の主郭とその周囲に廻らされれた土塁と空堀があり、主郭東側には重ね馬出の遺構が良く残っている。 重ね馬出の遺構自体あまり見られないことから、貴重な遺構。

春日神社に向かって左手の空き地内から斜面を登っていく坂道があり、坂道を登り切ったあたりで、郭を囲う空堀の底につながっています。

春日神社入口西側から左手に神社裏手に登る道がある。 この道を登り切るとそこには井元城の空堀と土塁が現れる。北西一帯の河岸段丘の檜林の中に井元城はあった。 

春日神社の参拝者用無料駐車場

国道307号線 春日橋から、妹南信号を左折
 
春日神社の参拝者用無料駐車場を利用。(県道217号線を永源寺方面)                 春日橋から、妹南信号を左折、春日神社の鳥居を過ぎすぐ。

春日神社の参拝者用無料駐車場を利用。

中戸城  滋賀県愛知郡愛東町中戸
       現状は田地で、中戸地区の公民館西側向。 案内板等は何もない。

 

春日神社 http://www.biwa.ne.jp/~futamura/sub83.htm

素晴らしい彫刻の本殿は郷社のためか。佐々木の四つ目結(守護佐々木氏)・右2つ巴の紋

 

 井元城(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


青山城  近江国(坂本) 

2012年11月27日 | 陣城

いよいよ、浅井・朝倉軍陣地へ

攻め登ります。

最初は青山城(忠兵衛山)・・・

お城のデータ

所在地:所座地:大津市坂本本町 map:http://yahoo.jp/psMj2P 

現 状:山林

区 分:陣城

築城年:元亀元年(1570)

築城者:浅井・朝倉氏

標高:390m   比高差:250m

遺 構:石垣、土塁、竪堀、

目標地:京阪穴太駅・穴太古墳

駐車場:穴太古墳

訪城日 :2012.11.27

お城の概要

 壺笠山の西140mにある白鳥山に城跡がある。
山頂部に南北約30m、東西約20mの広さで、竪堀や片堀切により防備を固めた主郭を置き、東に伸びる高低差の大きい細尾根には100mの間に小規模な段郭を5、6段築いている。さらに下方の緩斜面には長土橋状の細長い郭を100mに亘り築き、要所には小さな削平地を設けている。この削平地は、裾を通る城道や白鳥越に対し横矢を利かせる構造となっている。

道案内(京阪電車穴太駅を270m程越えた地点)T字路http://yahoo.jp/iff4pKで左折して急な登りの細道に入る。西に細道を進むと平子谷墓地が広がっている。一番奥まで行き右側の駐車場に駐車する。四ツ谷川沿いの林道を、林道入口から1Kmほど歩きますと小さな橋を渡ります。そこから200m程で左に分岐して登る林道があります。この分岐した林道を進み、150mほど登ると鞍部に出て、道がY字に分かれます。(左手は青山(青山城)への道)最初は急な斜面ですが、細い山道を進みます。比高60mほどで尾根道に出ます。 

お城の歴史

元亀元年(1570)の志賀の陣で織田信長軍と対峙するために浅井・朝倉軍が叡山一帯に築いた砦跡の一つである。

元亀元年(1570年)朝倉・浅井連合軍が織田信長と対峙したときに布陣した「あほ山」、城郭遺構は明瞭である。

 「滋賀県中世城郭分布報告書」で「あほ山」の候補地として図面が描かれているのがこの青山城で、壺笠山城の北の峰にある。

山頂部こそ人の手が加えられたような感じであるが、切岸などもなくほとんど自然地形であり城郭遺構のようには見えなかった。



-------------信長公記 志賀御陣の事-------------
九月廿四日 信長公、城都本能寺を御立ちなされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体(ていたらく)にて、叡山へ逃げ上り、はちヶ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り候。
-------------

 神輿山・白鳥山遺構は、元亀元年(1570)に織田信長と浅井・朝倉連合軍が「志賀の陣」で戦ったときに、連合軍側が立て籠もった比叡山中の山城(陣城)の一つである。

 元亀元年(1570)4月信長は、上洛の命に従わない越前の朝倉義景を攻めたが、江北の小谷城主浅井長政に背後を衝かれ、慌てて京都へ逃げ帰った。信長はいったん岐阜城へ帰陣、体勢を立て直すこととし、そこで同年5月宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川清秀らを配置して江南の守りを固めた。

 元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦で浅井・朝倉連合軍は決定的な打撃は受けておらず、大坂本願寺と手を結び、湖西路を南下し、同年9月16日坂本に布陣した。9月20日宇佐山城主森可成と近江にいた野府城主織田信治、青地城主青地茂綱らと坂本口で激突、三人を討ち取り、宇佐山城に攻め上がり、さらに21日逢坂峠を越えて醍醐、山科を放火するなど、入洛の機会をうかがった。

 摂津で三好三人衆と戦っていた信長はこの報せを聞き、21日急きょ明智光秀を帰洛させ二条城を守らせ、自身も23日に摂津の陣を引き払い京に戻り、翌24日洛東の白川から滋賀穴太口に布陣、自身は宇佐山城に入り対峙した。一方、浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺の後方支援を受け比叡山に登り、「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取り、洛外の各所を放火し入洛する姿勢を示した。その後、2ヶ月間に亘り両軍の睨み合いが続き、戦線は膠着状態に陥った。

 しかし、三好三人衆はしだいに京都に進攻し、また近江では一向一揆の動きが活発化し、六角氏もゲリラ戦を展開しており、信長は志賀での長滞陣は不利と考え、和睦工作を行った。11月21日に六角承禎、三好三人衆の篠原長房との和議がととのった。浅井・朝倉との和議も朝廷、幕府の仲介ですすめられ、勅使や将軍義昭が志賀に下って調停を行い、12月14日に雪を心配した義景が和睦に応じ、12月23日には長政との和議もなった。
 この和議により12月14日信長は「陣払い小屋悉く放火」して永原城に退き、15日には朝倉義景も「青山以下小屋悉く陣払い放火」して越前に帰ったとされる。その後、信長は明智光秀を宇佐山城に入れ、湖西の土豪たちを懐柔させ延暦寺との間を分断、元亀2年(1571)9月12日延暦寺を焼き打にした。元亀3年(1572)光秀は坂本の地に坂本城を築き、志賀郡5万石を支配した。 

山頂の本丸櫓跡

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、見学会資料、講師の説明 

本日も訪問、ありがとうございました。


白鳥山城(神輿山・白鳥山遺構)    近江国(坂本)

2012年11月27日 | 陣城

(笠壺城の嶺続き~北峰)

お城のデータ

所在地 : 大津市坂本本町 マップ:http://yahoo.jp/U7VyGZ

別 名 :神輿山・白鳥山遺構

現 状:山林

区 分:陣城

築城年:元亀元年(1570)

築城者:浅井・朝倉氏

標 高:444.9m 比高差:300m

遺 構:石垣、土塁、竪堀、

目標地:京阪穴太駅・穴太古墳

駐車場:穴太古墳

訪城日 :2012.11.27

お城の概要

 壺笠山の西140mにある白鳥山に城跡がある。
山頂部に南北約30m、東西約20mの広さで、竪堀や片堀切により防備を固めた主郭を置き、東に伸びる高低差の大きい細尾根には100mの間に小規模な段郭を5、6段築いている。さらに下方の緩斜面には長土橋状の細長い郭を100mに亘り築き、要所には小さな削平地を設けている。この削平地は、裾を通る城道や白鳥越に対し横矢を利かせる構造となっている。

道案内(京阪電車穴太駅を270m程越えた地点)T字路http://yahoo.jp/iff4pKで左折して急な登りの細道に入る。西に細道を進むと平子谷墓地が広がっている。一番奥まで行き右側の駐車場に駐車する。
林道が奥まで続いているが少し行くとチェーンが張ってあり、車両は通行止になっているので、駐車場から徒歩で四ツ谷川沿いの林道を1.3km程行き四ツ谷川を渡る。川を渡ってさらに250m程行くと左手に戻るように上りの林道が分岐している。この分岐した林道を110m程登ると峠で20m程先の右手山裾にある登り口の目印テープ等を探す。目印のある所から山道に入り、南西に170m程登ると尾根に出る。右手西方向に尾根筋を200m程登れば白鳥山(城跡)である。

(なお、左手東方向に尾根筋を100m程辿れば壺笠山城跡に至る 

歴 史

信長公記には「志賀御陣の事」として以下のように記されている。

-------------信長公記 志賀御陣の事-------------
九月廿四日 信長公、城都本能寺を御立ちなされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体(ていたらく)にて、叡山へ逃げ上り、はちヶ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り候。
-------------

 神輿山・白鳥山遺構は、元亀元年(1570)に織田信長と浅井・朝倉連合軍が「志賀の陣」で戦ったときに、連合軍側が立て籠もった比叡山中の山城(陣城)の一つである。

 元亀元年(1570)4月信長は、上洛の命に従わない越前の朝倉義景を攻めたが、江北の小谷城主浅井長政に背後を衝かれ、慌てて京都へ逃げ帰った。信長はいったん岐阜城へ帰陣、体勢を立て直すこととし、そこで同年5月宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川清秀らを配置して江南の守りを固めた。

 元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦で浅井・朝倉連合軍は決定的な打撃は受けておらず、大坂本願寺と手を結び、湖西路を南下し、同年9月16日坂本に布陣した。9月20日宇佐山城主森可成と近江にいた野府城主織田信治、青地城主青地茂綱らと坂本口で激突、三人を討ち取り、宇佐山城に攻め上がり、さらに21日逢坂峠を越えて醍醐、山科を放火するなど、入洛の機会をうかがった。

 摂津で三好三人衆と戦っていた信長はこの報せを聞き、21日急きょ明智光秀を帰洛させ二条城を守らせ、自身も23日に摂津の陣を引き払い京に戻り、翌24日洛東の白川から滋賀穴太口に布陣、自身は宇佐山城に入り対峙した。一方、浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺の後方支援を受け比叡山に登り、「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取り、洛外の各所を放火し入洛する姿勢を示した。その後、2ヶ月間に亘り両軍の睨み合いが続き、戦線は膠着状態に陥った。

 しかし、三好三人衆はしだいに京都に進攻し、また近江では一向一揆の動きが活発化し、六角氏もゲリラ戦を展開しており、信長は志賀での長滞陣は不利と考え、和睦工作を行った。11月21日に六角承禎、三好三人衆の篠原長房との和議がととのった。浅井・朝倉との和議も朝廷、幕府の仲介ですすめられ、勅使や将軍義昭が志賀に下って調停を行い、12月14日に雪を心配した義景が和睦に応じ、12月23日には長政との和議もなった。
 この和議により12月14日信長は「陣払い小屋悉く放火」して永原城に退き、15日には朝倉義景も「青山以下小屋悉く陣払い放火」して越前に帰ったとされる。その後、信長は明智光秀を宇佐山城に入れ、湖西の土豪たちを懐柔させ延暦寺との間を分断、元亀2年(1571)9月12日延暦寺を焼き打にした。元亀3年(1572)光秀は坂本の地に坂本城を築き、志賀郡5万石を支配した。 

 壺笠山の西140mにある白鳥山に城跡がある。
山頂部に南北約30m、東西約20mの広さで、竪堀や片堀切により防備を固めた主郭を置き、東に伸びる高低差の大きい細尾根には100mの間に小規模な段郭を5、6段築いている。さらに下方の緩斜面には長土橋状の細長い郭を100mに亘り築き、要所には小さな削平地を設けている。この削平地は、裾を通る城道や白鳥越に対し横矢を利かせる構造となっている。 神興山(420m)主郭跡で

講師の開設「白鳥越えで山城で、最も石垣や立堀が残る、主郭狭く危険。全長200mもあり、壱壺山城の一部とも考えられる。

元亀元年(1570)の志賀の陣で織田信長軍と対峙するために浅井・朝倉軍が叡山一帯に築いた砦跡の一つである。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会資料、講師解説

本日も訪問、ありがとうございました。


向山砦(浅井の本陣)  近江国(米原)

2012年05月25日 | 陣城

箕浦城の戦い・・・・浅井の本陣(向山砦)

所在地:米原市顔戸町     (旧坂田群近江町顔戸) map:http://yahoo.jp/5wJZCG

区 分:陣城・砦(浅井軍)

現 状:丘(小山)、雑木林

遺 構:土塁

築城期:織豊期(元亀2年1571年)

築城者:浅井七朗井規

目標地:双葉中学校

標 高:125m 比高差:20m

訪城日:2012.5.25

砦跡(南側の土塁)・・・・箕浦河原合戦の浅井京亮政の本陣跡

北側には顔戸山砦も遠望

信長公記 巻四 元亀二年

2、藤吉郎奮戦  箕浦合戦の事

 5月6日、浅井勢が動いた。この日浅井長政は軍勢を率いて姉川まで進出し、木下藤吉郎固める横山城へ向かって陣を立て備えた。そして先手足軽大将の浅井七郎に命じ、兵五千をもって箕浦①の堀秀村居城近くまで寄せさせ、在所在所に放火してまわらせた。
 この様を見た木下藤吉郎は、横山城に十分な兵を残した上でみずから百騎余りを引き連れて密かに城を出た。そして敵方に見つからぬよう山裏を密行して箕浦へ入り、堀秀村・樋口直房と合流した。しかしそれでも総勢はわずかに五、六百に過ぎず、その人数で敵勢五千②と対峙しなければならなかった。

 木下勢は寡兵の足軽をもって敵勢に立ち向かい、下長沢③で一戦に及んだ。この戦で樋口直房配下の侍多羅尾相模守が討死したが、そのことを知った多羅尾家来の土川平左衛門という者は主人の後を追おうと敵中に突入し、見事討死を遂げた。比類なき働きであった。
 このように苦戦した木下勢であったが、敵が一揆の集まりだったこともあり、なんとか突き崩して数十人を討ち取ることに成功した。さらに木下勢は下坂④のさいかち浜でも戦い、ここでも勝って敵を八幡下坂⑤まで追い崩した。味方の敗軍のさまを見た浅井長政は、得るところなく小谷へ軍勢を返した。

 ①現滋賀県近江町箕浦 ②原文には五千ばかりの一揆と記されている。おそらくは誇張 ③同近江町内 ④現長浜市下坂浜町 ⑤現長浜市神前町八幡神社

箕浦城の戦い(Wikipedia)

1571(元亀2)年じっくり作戦を練った信長は雪解けを待ち動き出す。信長は調略による浅井軍の切り崩し。

1571(元亀2)年2月24日、前年6月下旬に包囲していた佐和山城の城主磯野員昌が降伏、包囲軍の大将であった丹羽長秀が佐和山城の城守に。
  磯野員昌はそのまま織田家の家臣となり、織田方に寝返った。 これにより小谷城の南方の主要な城が織田方の手に渡る。

この状況を打破するべく浅井氏が動き出す。
狙うは小谷城から一番近くにある秀吉(当時、木下藤吉郎)が守る横山城です。
浅井長政は、横山城近くに陣を張り、城守の秀吉を出すためか、横山城を孤立させるためか、城の南方にある鎌刃城を家臣の浅井七郎井規に攻めさる。

鎌刃城を守るのは堀秀村と樋口直房以下500足らずの兵

一方の浅井井規が率いる軍勢には一向一揆も加わり5000に膨れ上がっていた。
横山城の秀吉はこの報を受け出陣を決意するも目の前には浅井長政の本隊が陣を張っていて動けない状況。
秀吉は、城兵のほとんどを城に残し、精鋭100騎のみを率いて出陣
 (この時、城代を任されたのは竹中半兵衛重治)

秀吉は浅井勢に気づかれないよう山の裏道を進み、堀・樋口軍と合流。
それでも依然10倍近い兵力差がありましたが、浅井井規が率いる兵の多くが一揆勢で、組織もまとまっていなかった、秀吉は積極的に攻める。

箕浦の下長沢で激しい戦闘になり、戦いで樋口の家臣多羅尾相模守や土川平左衛門が討ち死に。

浅井・一揆勢は秀吉軍の猛攻の前に北方の本隊へ向け敗走。しかし、下坂のさいかち浜で体勢を立て直し反撃に出るが結局、抗しきれず八幡神社下まで押し込まれ、兵を撤収した。

横山城も浅井本隊の攻撃を受けていましたが、秀吉の留守を任されていたのは「知将・竹中半兵衛」はみごとに守りきった。

箕浦の一戦。秀吉はなぜ危険を犯してまで出陣したのか、鎌刃を居城とする堀氏はこの地域(坂田郡)の有力国衆で堀氏を見殺しにすれば織田家に従っている江南の他の諸勢力が浅井氏に寝返る可能性もあった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、Wikipedia 

本日の訪問ありがとうございす!!

 


古戦場と賤ヶ岳砦・七本槍 近江国(木之本)

2011年08月28日 | 陣城

 天正11年(1583)、越前北庄城の柴田勝家は、3月3日に佐久間盛政を雪の融けやらぬ北国街道を近江に向けて出発させた。翌3月4日には勝家自らが主力を率いて北ノ庄を出陣し、江越国境付近の玄蕃尾城に布陣した。

 「勝家出陣す」との知らせを受けた秀吉も長浜城から、湖北木之元に軍を進め、柴田軍と羽柴軍は余呉湖周辺に陣地を構築して対峙した。


賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27

賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27

賤ヶ岳の山頂からみた両軍の布陣位置

賤ヶ岳(422m 滋賀県木之本町) 
 「見下ろせば余呉の天女の花吹雪」
 賤が岳の名は馴染みの山である。木之本町に戻り、大音のリフト乗り場に着く。
 楽をして登ろうという魂胆であったが、リフトの始発は9時で早すぎた。待っている間に山頂まで登れると、歩いて登ることにする。
 スギ林の中を大きく蛇行しながら、2度リフトと交差して山頂駅に着く。

ここから開けた道を緩く登り山頂に着く。


 平坦な広場の真ん中に三角点がある。余呉湖や琵琶湖への展望がある。三角点と向かい合うように「賤ヶ岳七本槍の像」がある。一人だけ疲れて槍に凭れて岩に腰掛けている姿の像である。この像をみればこの山が凄惨を極めた賤が岳合戦の舞台であったことを思い出させる。


 本能寺で倒れた信長の跡目争いで、仲間であった秀吉と柴田勝家が雌雄を決した戦いであった。秀吉方の七本槍の奮戦で秀吉が勝った。

負けた勝家は越前北の庄に逃れ、館に火をかけお市の方と共に自害した。
 お市の方(小谷方ともいう)は、明日登る予定の小谷山の城主浅井長政の奥方であったし、さらに辿れば信長の妹であった。

小谷城と虎御前砦

長政とお市の方、その3人の娘はどうなったのかなど、歴史物語として感涙を呼ぶ舞台がこの地に多い。
 この山は勝った秀吉方の事跡が多い。勝家は越前北の庄(福井市)城主だし、湖北は長浜城の秀吉の領地だから当然だ。

 当時は刀による斬り合いであった。鉄砲は敵の顔を見ることもなく殺すことができるが、刀による白兵戦は相手の顔を見声を聞きながら殺し合った。しかもかって味方同士であったから余計凄惨だ。

 戦争はもういいと余呉湖を眺めると、余呉湖は天女伝説がある。

余呉湖に舞い降りた天女と桐畑太夫との間に生まれたという話があった。
 余呉湖には天女が白鳥の姿となってしばしば舞い降り、また去っていくという伝説があった。「余呉の天女」は自分が天女となって湖を舞い去る絵である。
 そこで花の吹雪を舞い上げる桜を見て下手な一首。
      「見下ろせば余呉の天女の花吹雪」

びわこ塩津、左の木の向こうに竹生島!

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!!