福ちゃんの散歩道

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ユナイテッドの787-9「N27958」、2日間で成田に3回引き返しの機材❗️ローマでも引き返す‼️

2020-07-10 10:30:00 | 飛行機の話題(乗り物ニュース)
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ユナイテッドの787-9「N27958」、2日間で成田に3回引き返しの機材が
ローマでも引き返している

成田の記事

ユナイテッド航空 Boeing 787-9 (N27958)


ニュース
ユナイテッド航空が運航する成田発サンフランシスコ行きUA2770便が、2日間で成田に3回、引き返しを繰り返しました。この便は、787-9の機体記号(レジ)「N27958」で運航しています。「N27958」は2015年9月に初飛行、ユナイテッド航空に納入された機齢5年近い機体で、GEnx1Bエンジンを搭載した旅客機を使用した貨物輸送便です。

2020年7月2日(木)は午前と午後に引き返し、7月3日(金)も離陸したものの海上で成田への引き返しを決めました。いずれも左主翼の前縁フラップに不具合を示す計器表示を受け、引き返す判断に至っています。貨物便として運航しているため、乗客には影響なく、乗員にも影響はありませんでした。





ローマでも引き返す トラブル発生かなぁ



★現地7月9日現在 ニューヨーク行は飛んでいない。


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この機材は
関空へ昨年飛来していた









余談 1

フラップについて


余談 2

ユナイテッド航空、米政府の支援条件の効力消滅で従業員36,000人の解雇を検討
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東海道新幹線 いくつもあった始発駅候補❗️新幹線のルーツは❓新幹線四方山話です・・・

2020-07-10 00:10:00 | 鉄道の面白いお話🚂🚆

JRvs静岡県「リニア問題」どう決着するのだろうか?
リニアの開業は???出来るのか❓
2027年からのリニア開業延期は避けられず❓

チョット プレイバックして

今更の昔話ですが、知りませんでした❗️

東海道新幹線 いくつもあった始発駅候補


東海道新幹線開業1964/10/1 マア昔話みたいなもんですが
東京駅が新幹線の始発駅であることに疑問を持つ人は少ないと思いますが、
実は多数の候補地がありましたとの事です

最有力は市ヶ谷駅

 東海道新幹線の開業50周年は2014年10月1日(水)、
その開業50年記念に伴いJR東海では当日の朝5時40分から6時頃、
東京駅と静岡駅、名古屋駅、新大阪駅で出発式を開催したそうですが、
JR東海の本社は名古屋市にありますが、
同社の柘植社長が出席するのはやはり東海道新幹線の始発駅で、
日本を代表する駅としても過言ではない東京駅です。
しかし新幹線の始発駅は、すんなり東京駅に決まったわけではありませんでした。
もしかすると、東京駅ではなく市ヶ谷駅になっていたかもしれません。

1940(昭和15)年、東京~下関間を結ぶ高速鉄道計画「弾丸列車」の建設が決定します。
最高速度は200km/h。東京~大阪間を4時間半で連絡する予定でしたが、
戦況の変化で1943(昭和18)年に工事が中断されます。
この弾丸列車は東海道新幹線の前身とも言える計画で、
これで確保されていた用地、着工されていたトンネルを流用することなどによって、
東海道新幹線は5年という短い工期で完成しています。

この弾丸列車計画において、
東京の始発駅として最も有力視されていたのが市ヶ谷駅だったのです。
候補はほかに東京駅、新宿駅、荻窪駅も挙がりました。
しかし首都の中心部で利便性が東京駅に次ぎ優れること、
建設費が荻窪駅に次ぎ優れること、都市計画上のメリットが大きかったこと、
そして防空上の配慮から、市ヶ谷駅が有力視されていたのです。
しかし最終的にどこになるか決定されないうちに、弾丸列車の工事は中止されてしまいます。

14ヶ所もあった新幹線始発駅候補
戦後、1958(昭和33)年に東海道新幹線の建設が決定します。
しかしこの際も、始発は東京駅と決まっていたわけではありませんでした。
1959(昭和34)年頃、以下の14ヶ所が候補に挙がっています。

山手

ワシントンハイツ(代々木公園付近)、明治神宮外苑、新宿駅西口、淀橋浄水場跡(西新宿)、新宿御苑

中央

市ヶ谷、代官町(北の丸公園付近)、竹橋、飯田町駅(飯田橋駅付近にあった貨物駅)

◉東海道

品川駅、汐留駅(かつて汐留に存在した貨物駅)、東京駅八重洲側、東京駅丸の内側、皇居前広場


このとき都市計画者は、すでに交通が飽和に達している都心部を避け、副都心に新しい中心駅を造るべきと主張。
対し交通計画者は地下鉄網の急速な発達などを考え、都心部の東京駅に駅を造るべきと主張。
さまざまな検討がなされたのち、
最終的に品川駅、汐留駅、東京駅八重洲側、皇居前広場の4ヶ所に候補が絞られます。

そして皇居前広場と品川駅の山側は用地の取得が難しかったこと、
品川駅の海側は路線を北へ延伸させる際に海へ沿って線路を建設することになり、
用地取得と工事が難しいことから落選。
そして工費は最も高かったものの、用地取得のしやすさと利便性の良さから、
現在の東京駅八重洲側が選ばれたのです。

「新大阪駅」になれなかったJR京都線の小さな駅

東海道新幹線の終点、新大阪駅についても決定までは紆余曲折がありました。

弾丸列車計画で大阪の駅は、現在のJR京都線(東海道本線)東淀川駅に設けられる予定でした……
というよりこの東淀川駅自体、将来的に「弾丸列車新大阪駅」になる駅として、
1940(昭和15)年に新しく設置されたものだったりします。
弾丸列車計画では東淀川駅に駅が設けられる予定だった。

しかし戦後の東海道新幹線建設にあたって再検討した際、
大阪から山陽方面への延伸を考えると北方貨物線という貨物線沿いに線路を建設することが望ましいことから、
その北方貨物線と東海道本線の分岐点付近に駅を設置することになり、現在の新大阪駅が誕生します。

 「新大阪駅」になれなかった現在の東淀川駅は普通列車しか停まらず、
そんな過去があったことなど思いも寄らない雰囲気ですが、
もし弾丸列車が開業していたら、まったく違った風景だったでしょう。

またリニア中央新幹線の駅を大阪のどこに設置するか、
大阪の政財界では現在のところ新大阪駅で、という流れになっていますが、
それまでに大阪維新の会が梅田への誘致を試みるなど、
様々な動きがあったことは記憶に新しいと思います。

 実は東海道新幹線を建設する際も利便性を考えて梅田、
つまり大阪駅付近へ駅を造ろうとする意見が強く存在しました。

しかしそれでは山陽方面へ延伸した場合、
淀川に2ヶ所も橋を架けねばならず不経済なほか、遠回りになること、
民家の密集地帯に線路を通す必要があることなどから、現在の位置に決まっています。
また駅を宮原操車場付近に設置する案などもあり、
もしそうなっていたら阪急宝塚線が新幹線アクセス路線になっていたかもしれません。

以上 

2014.09.30 恵 知仁(鉄道ライター)

弾丸列車計画とは
1930年代に入ると、満州事変や日中戦争の激化などにより、
日本から中国や満州国へ向かう各種物資輸送需要の激増で、東海道・山陽本線の輸送量も増大した。
このころ鉄道省内部に「鉄道幹線調査会」が設立され、
主要幹線の輸送力強化についての検討が行われた。
ここから抜本的な輸送力増強手段として1939年に発案されたのが「弾丸列車計画」であった。

これは、東京から下関まで在来の東海道・山陽本線とは別に広軌(1,435 mm・標準軌)の新路線を建設し、
最高速度200 km/hと満鉄「あじあ」号を超える高速運転を行い、
東京 - 大阪間を4時間、東京 - 下関間を9時間で結ぶことを計画したものであった。
この計画は翌1940年(昭和15年)9月に承認され、建設工事が始められることになった。

すでにこの時点で、新しい幹線を敷設するということから「新幹線」や「広軌新線
という呼称を内部関係者は用いていた。「新幹線」の語はここが起源であるとされている。

また将来的には対馬海峡に海底トンネルを建設して、
統治下である朝鮮半島へ直通、釜山から奉天(現:瀋陽)を通り満州国の首都新京(現:長春)、
さらには北京・昭南(現:シンガポール)に至る、という構想も一部では描かれていた。

当時の鉄道では、日本においてもまだ機関車が客車を牽引する方式が一般的であったうえ、
完全電化したものの、発電所が敵国からの攻撃を受けた場合の対処について軍からクレームを受けたために、
「弾丸列車」も電気機関車と蒸気機関車を併用する方式で計画された。

1941年12月の太平洋戦争勃発後も工事は続けられ、
日本坂トンネルや新丹那トンネルが、1942年には東山トンネルの工事が着工したが、
最終的には戦況の悪化で中断した(その後再開され新幹線に利用)。
しかし、そのルートの相当部分が後の東海道新幹線建設で役立てられた。
特に、土地買収が戦時中の時点で半ば強制的な形で相当な区間において終わっていたことは、
新幹線建設をスムーズにした。

この弾丸列車計画の技師たちが居住した地として、
静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が、東海道新幹線の開業前から存在した。

弾丸列車計画ルート



以上

弾丸列車計画が新幹線に与えた影響
 東海道新幹線の計画が表出してくるのは、さらに時代が下った昭和30年代に入ってからのことになりますが、弾丸列車の計画は、少なからぬ影響を東海道新幹線に与えました。

 良い部分では、戦時中に先立って一部区間の用地買収が行われていたため、そこに予算と時間を取られなくて済んだことが挙げられます。高度経済成長期に入った新幹線開通前夜、用地買収は困難を極めましたが、もし一から用地買収を行おうとしていたら、用地確保がさらに難しくなっていたのは間違いありません。

 また、すでに完成して東海道本線で使用されていた日本坂トンネルがそのまま転用できたことや、ある程度掘り進められていた新丹那トンネルがあったことで、東海道新幹線全体の工期が大きく短縮されたのも見逃せない事実です。

 逆に、弾丸列車のルートを辿ったことで、現在の新幹線にネガティブな影響を与えている部分もあります。早期に着工された新丹那トンネルから熱海駅付近にかけては線形(ルートの形状)が悪く、最小曲線半径が1500mとなっており、現在の新幹線の速度向上に、大きな障壁となって立ちはだかっています。

 弾丸列車が計画された当時、鉄道車両が300km/h以上の高速で走ることは想定不可能であり、熱海駅付近の半径1500mの曲線はさほど問題にはなりませんでした。しかし、その後の技術革新によって300km/h超で走行出来る車両が開発されるようになると、この熱海駅付近に存在する急曲線が、速度向上に対するボトルネックとなってしまいました。

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リニア中央新幹線計画
静岡県内が工事着工出来ない状況
2027年開業は危ぶまれる
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新幹線 路線