旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

テンプル騎士団 

2016年10月28日 17時15分22秒 | エッセイ
テンプル騎士団   

 『ダ・ヴィンチ・コード』に出てくるね。謎の多い団体だ。正式名称は、「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」。創設は1069年の第一回十字軍終了後の1119年。テンプル騎士団はフランスの貴族と9人の騎士が集まり、活動を始めた。すでに聖ヨハネ騎士団が活動していたので、最初の騎士団ではない。
 聖ヨハネ騎士団は凄まじい戦闘集団だった。聖地を失った後、ロードス島に籠ってイスラム教徒の巡礼を乗せた船を片はしから襲う海賊行為を行う。ロードス島はトルコ本土から目と鼻の先にある。そのロードス島の戦いでは、650人の騎士が7,000人の住民の協力を得てスレイマン大帝率いる10万のオスマン帝国軍と戦い、ついに島を退去する際には200人にまで減っていた。その後はマルタ島に移り、マルタ騎士団としてレパントの戦いにも参戦している。マルタ島攻防戦では、ついにオスマン帝国の猛攻を退けた。
 テンプル騎士団も勇名を馳せた。着衣は白い長衣の上に赤い十字架のマークで、1177年にイスラムの英雄サラディンを、モントギザールの戦いで打ち負かした。キリスト教徒がサラディンに勝ったのは、この戦いともう一つだけだ。
 十字軍は第一回とノルウェー王の小規模な遠征以外は、ことごとく失敗した。第四回などは、ヴェネチアに渡航費を払うためとして唆され、同じ<キリスト教(カトリック)のハンガリー王国のザラを攻略して、教皇から破門されている。この罰あたりな十字軍は、あろうことかその後東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、お決まりの虐殺と掠奪を行った。第六回十字軍は、イスラム(エジプト、アイユーブ朝)側の内乱につけ込み、戦闘ではなく外交によって、条件付きでエルサレムの統治権を手に入れたが、15年ともたずに再び失った。
 テンプル騎士団は、構成員が修道士であると同時に戦士で、設立の目的は聖地エルサレムの防衛と巡礼者の保護だった。以下の4つのグループによって構成されていた。日本の僧兵よりも真面目な感じがする。
・騎士 - 重装備、貴族出身
・従士 - 軽装備、平民出身
・修道士 - 資産管理
・司祭 – 霊的指導
 通常、1人の騎士には10人ほどの従士がついていた。イスラム教徒との戦闘が主目的だが、資産管理業務の専門職を持つことが、この集団の特徴だといえる。テンプル騎士団は入会者や各地の信者からの寄進を受けて資産を増やし、聖地や中東地域に多くの要塞を配置し、武装した騎士を常駐させた。
 騎士団の入会儀式では、入会への意志の固さが問われ秘密儀式が行われた。上級騎士は決して降伏しないことを誓い、戦死こそが天国の保障であると考えた。イスラム側のジハードと同じだ。士気の高さ、厳しい鍛錬と十分な装備が相まって中世最強の騎士団と呼ばれた。
 エルサレム王国のボードュアン2世は、彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘には、ソロモン王が造ったエルサレム神殿があったという。会の名称、「テンプル騎士団」はこの事に由来している。テンプル騎士団は会則を整え、1128年に教皇によって騎士修道会として認可された。死を怖れずに勇敢に戦う彼らには、ヨーロッパ貴族からの寄進が集まり入会者も増えた。1139年に教皇がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与した。
1147年の第二回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮戦したため、後にルイは騎士団にパリ郊外の広大な土地を寄贈した。騎士団はここに城砦を作り、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。教皇もフランスを訪れるとここに滞在した。
 テンプル騎士団は資産(構成員が出家前に保有していた不動産と寄進された土地等)を換金し、その管理のための財務システムを発達させた。また巡礼者に対しては、現金を持たずに目的地で受け取れる自己宛為替手形を発行し、預金通帳のような書類も考え出した。多くの寄進を集めたテンプル騎士団は12~13世紀にかけて莫大な資産を作り、欧州から中東に至る広い地域に多くの土地を保有する。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作りやがて自前の艦隊を持ち、最盛期にはキプロス全島を保有した。
 特にパリにあった支部はフランス王国の国庫といえる状態になり、フランスは騎士団からの借り入れをなくしては立ちゆかなくなった。銀行の先駆けのような、財務のエキスパートという顔と同時に、彼らには大きな秘密がある。
 聖地エルサレムに滞在している間に、宿舎となった神殿跡の地下を掘り進んで、極めて重要な何かを発見した、というのだ。それは聖杯であるとか、イエスが架けられた十字架の破片であるとか様々の噂がある。『ダ・ヴィンチ・コード』では、テンプル騎士団が発見したのは、イエスとマグダラのマリアの子の子孫、つまり現代にまで続くキリストの血筋そのもの、という大胆な仮説をたてた。本当は何を見つけたのだろう。見つけた物 or 秘密はどうなったのだろう。全ては謎のままだ。
 軍事組織としてのテンプル騎士団はしだいに堕落していった。騎士団全体を統括するのが総長(グランド・マスター)で、任期は終身である。総長は東方における軍事、西方における資産管理、その両方に責任を負っていた。第10代総長ジェラール・ド・リデフォールは、宿敵サラディンとの戦いに何度も負け捕虜になる。総長自ら先頭に立って戦う姿勢は勇ましいが、決して降伏はしないという誓いはどうなったのか。彼は一度は解放されたが、再び捕虜になり斬首された。騎士団の威信は地に落ちた。
 1291年には最後の十字軍国家アッコンが陥落し、聖地近くからキリスト勢力は一掃された。テンプル騎士団はイベリア半島での対イスラム国家との戦いを除いて戦場が無くなり、ほとんどの軍事活動を停止した。そうなると金融屋と特権地主の顔が前面に出てくる。最強のキリスト戦士の面影はいずこに。        テンプル騎士団の破滅は突然であった。フランス王フィリップ4世は中央集権を勧め、教皇庁への献金を禁止し、国内のユダヤ人を逮捕、資産を没収して追放した。(ちなみにこの時追放されたユダヤ人をオスマン帝国が引き取り、帝国の貴重な市民とした。)
 次のターゲットはテンプル騎士団だ。フィリップ4世は、聖ヨハネ騎士団との合併を提案するが、テンプル騎士団総長はこれを拒絶する。すると王は1307年10月13日(金)、フランス全土においてテンプル騎士団員を一斉に逮捕した。罪状は異端的行為などだ。団員は自白する迄拷問にかけられた。当時の教皇はフランス人のクレメンス5世で、異端審判に立ち会う審問官は全てフランス王の息のかかった高位聖職者であった。彼らは特権と富を持つテンプル騎士団に敵意を持っていたので、捕えられた団員に助かる道は無かった。騎士団は入会儀式における男色行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝という奇怪な容疑で告発された。入団時にキリスト像につばを吐きかけてののしり、悪魔を賛美する。団員は男色にふけり、とにわかには信じられない内容だ。
 テンプル騎士団の摘発は中世ヨーロッパにおいて、とてつもない衝撃であったので、騎士団のマイナスイメージを植え付けるために考え出された濡れ衣なんだろう。フィリップ4世は、テンプル騎士団の取り潰しで借金の帳消しと不動産の取得のみならず、騎士団の莫大な財宝を狙った。イギリスとの戦争で戦費が嵩んでいたのだ。しかし居城に踏み込んでも何故か財宝は見つからなかった。
 団長以下4名は生きたまま火刑にされ、教皇は1312年テンプル騎士団を廃絶し、フランス以外の国に於いても活動の禁止を通知した。団長は死に際して呪いの言葉を残したが、その言葉通り教皇とフランス王は2年とたたずに死んだ。騎士団は教皇と対立していたスコットランドでは弾圧を免れ、多くの団員がスコットランドに亡命したようだ。カスティーリャとアラゴンでも弾圧は一切なく、ドイツとキプロス島では裁判の結果無罪となった。イベリア半島の国々は、共にイスラム勢力と戦った騎士団を戦友だと思っていたのだろう。現代のカトリック教会の公式見解では、異端の疑いは完全な冤罪だったとしている。
さて表向きは消滅したテンプル騎士団だが、スコットランドでは活動が継続してそれが秘密結社フリーメーソンに繋がっている、とも言われる。フリーメーソンのマークはテンプル騎士団の物と酷似している。或いはフリーメ―ソンが自らの権威付けと神秘性を増す目的で利用したのかもしれない。また騎士団の残党がフリーメーソンの創設に関わった可能性もある。
ポルトガルとテンプル騎士団の結びつきはより深く、騎士団の財宝はポルトガルに移された、という噂もある。インドのゴアの教会にテンプル騎士団のマークが多数残っている。またマダガスカルの海岸から、騎士団が多く用いたキリスト像が発見された。ポルトガルの海洋進出に伴って、騎士団が船団の護衛を受け持ったのか。テンプル騎士団に関しては謎だらけだ。今後彼らの痕跡がブラジルで発見されたとしても、自分は驚かないね。
コロンプスの新大陸発見の100年前に、テンプル騎士団の残党がアメリカに渡った、という話しもある。もうそうなら、コロンブスの100年前に、西海岸にはテンプル騎士団が、東海岸には明の鄭和の分遣隊が到達していたのかもしれない。

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