旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

戦さの真相

2015年12月05日 14時20分51秒 | エッセイ
戦さの真相

 武士の時代(源平の頃~島原の乱)の戦場で傷ついた兵士の、負傷の原因を文献で調べた先生がいた。新書で以前に読んだのだが、本の題名はすっかり忘れた。それによると戦傷で圧倒的に多いのは矢傷、投石による打撲傷、後には鉄砲傷であった。つまり近接戦闘ではなく、遠くから矢合戦をするのが主流だったわけだ。運悪くまぐれ当たりといったケースが多いようだ。
 次に多いのは、攻城戦での骨折や打撲、下から攻めていて城方が上から投げおろす石や材木に当たったり、避けようとして落ちたりした傷だ。それから槍によるもの、最後が刀傷だ。つまり映画やTVのような近接戦闘は滅多に起きなかった訳だ。但し敗走となると話しは変わる。逃げる敵を勢いにのって後ろから追いすがって斬りまくる。
 戦国最大の激戦、姉川の戦いでもがっぷり組んで死闘を繰り返している時よりも、敗走を初めてからの戦死者の方が圧倒的に多い。設楽が原の合戦で信玄の重臣達が根こそぎ戦死している。馬防柵に阻まれ、立ち往生している所を鉄砲隊に打ち抜かれた、そう思うよな。自分もそう思っていた。ところがそういった前を向いた討ち死には山県、内藤だけだった。馬場、甘利、小幡、原x2、土屋、真田兄弟は皆、敗走に移ってから乱軍の中で討ち取られている。敵に背を向けて逃げ出したら兵士じゃあ無くなる。追う奴は危険がほとんど無いし、ここで手柄をあげなきゃってなものだ。うまくいけば大将首を拾えるからな。
 刀傷は10に一つか20に一つしかなく、刀傷を受けた日には仲間から、「お前切り合ったの?すげーなー。」とヒーロー扱い。あと投石による傷、これがあなどれない。旧約聖書には、ダビデ少年が投石(ひもをぶん回して石を遠くに投げるもの)でペリシテ人の巨人兵士ゴリアテを倒している。額に命中させて脳震盪を起こし倒れたところを剣でとどめをさした。
 三方が原の合戦では武田軍の投石部隊が丘の稜線に現れ、一列になって徳川軍に向かって石を投げている。こちらは空飛ぶ円盤型の縁を鋭く尖らせた形状の石をサイドスローで投げたようだ。専門職の石投げ部隊だ。当たれば騎馬武者は落馬する。石が弓矢にまさる点は、相手が重装備(鎧・兜)でもどこかに当たれば打撲の衝撃を与えられる点だ。矢は鎧と兜で威力がそがれる。遠ければ体にまでは刺さらない。ホロ武者が背負う空気の抜けた熱気球のような背負い布は、実に効果的で矢の勢いを八割方減らすという。
 次に槍、戦国時代の花形兵器だ。密集した集団で文字通り槍衾を作って戦う。槍は時代が下るにつれ、しだいに長くなり織田軍や斉藤道三の部隊では4.5mほどの長さだ。密集して槍を構えて近づき、先端が敵に届く距離になったら、突くより槍先を持ち上げて敵を上から叩く。長い方がアウトレンジで戦えるというメリットの他に、敵に近付き過ぎると怖くなって萎縮する、という点が重要だったのだと思う。
 中国には古代に戈(か)という武器があった。草刈鎌を槍の柄につけたような武器だ。長い柄の先に取りつけた鎌を相手の首に引っかけ手前に引く。うまくいけば相手の首が手前に落ちる。これなども臆病な兵士をなだめて、「とにかく相手に近づけ。戈の先を敵の首の後ろにかければ良い。後は思いっきり引っ張りながら逃げろ!」卑怯な武器だ。これは日本には伝わらなかった。
 始皇帝の秦の決戦兵器、弩(または連弩)も日本に入ってこなかった。弩は素晴らしい兵器だ。キリストが生まれる200年以上前に、中国にはこれほどの技術があったのだ。始皇帝が短期間に中国を統一出来たのは、弩に依るところが大きい。弩は滑車を用いた弓矢の連射装置だ。ハンドルを手でカチャカチャ動かすことによって、箱に収めた短めの矢を連射する。弩は木製の3つのパーツに分かれるが、極めてシンプルな構造なので直ぐに大量生産出来る。矢は10本を一度に格納し、全部発射し終わったら補充する。その連射スピードだが、TVの歴史番組でボルトアクションのウィンチェスター銃の名人と競い、わずかに弩が勝っていた。
 ひざをついて弩を構え、矢の先端を斜め上にして敵に向け、ハンドルを動かす。カチャカチャカチャ十回動かせば10本の矢が飛び出す。弩の大部隊を編成して一斉に矢を放てば、500m先を進撃してくる敵部隊は頭上から、空が暗くなるほどの矢の雨を食らい全滅する。弩の短所は、射程距離の短さと正確性だが、弩連射部隊を大編成にすれば正確性は問題にならない。点を狙えなくても面でカバーする。射程距離の短さは、近づくまで待てばよい。何しろ撃ち始めたら矢のシャワーだ。長弓の射手は10年といった長い期間の訓練が必要で、次の矢を射るまでに時間がかかる。騎馬隊の突撃にあったら、二射が限界だろう。弩なら一秒で1射、10秒で10射するから馬も騎兵も針ねずみのようになる。弩の操作に訓練はいらない。弩を敵に向けハンドルをカチャカチャと動かすだけだ。映画『レッドクリフ』の後篇で、呉の軍が魏の曹操軍の砦を攻めるシーンで一瞬弩が出てくる。ここでは砦から射手が顔を出すのを阻止する目的で使われていた。気づいた人はいるかな。
 あと倭寇、主に明代の中国と朝鮮を震え上がらせた日本の海賊。日本刀の伝説的な切れ味の良さと共に、死を恐れない大胆不敵、神出鬼没な活躍が怖れられた。時として船を下りて内陸深く浸透し、城塞都市を襲い掠奪した。倭寇は北九州の水軍が中心になっているが、実際には多国籍軍で多くの中国人が参加していた。一説によると真倭、つまり日本人は10の内2-3人しかいなかったという。中国人海賊が倭寇に化け、チョンマゲ、フンドシをしていたのだ。全くの偽倭寇もいただろう。「倭寇だ!」という先入観から来る恐怖心を利用したのだ。倭寇が舟戦で使った武器だが、ヤガラモガラのような単純なものが好まれた。ヤガラモガラは太めのバットに沢山の釘を打ち込んだ(釘の頭ではなく、先端の方が先を向いている。)もので、こんなので殴られたらいやだ。鎧だろうが兜だろうが上から打撃で押しつぶす。
 だいたい金属製の防具を着ている相手に刀で切りかかるなんて阿呆だ。切れる訳がないじゃん。刀が曲がるし衝撃で手がしびれる。刀は刃こぼれしてボロボロになるか、折れてしまう。倭寇は水に落ちた奴を見つけると、長い棒の先にブラシをたくさんつけたような道具を髪の毛に巻きつけ水から引き揚げた。火器もよく使った。
 さて色々と書いてきたが、昔の武士は意外と臆病で、割りと卑怯だったのね。職業軍人は死なない事が仕事のようなものだし、年中戦さをしているのだから、要領よく立ち回らなくちゃ命がいくつあっても足らない。近代戦で機関銃に徒歩で立ち向かった、第一次大戦の西部戦線の兵士や、日露戦争で旅順要塞に向かった日本兵の方がはるかに勇敢だとは思うよ。ただ彼らには選択の余地が無い。戦いを楽しむ余裕など微塵も無かった。武士の時代の戦は物語の主人公のように華々しくて、楽しむ余裕すらあったように思える。
 アアこんな話しをしていたら、半日しゃべっても終わりやしない。ここらでいったん切るね。またそのうち、この続きを、Adios!