旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

レディー、ファースト

2015年12月22日 18時30分05秒 | エッセイ
レディー、ファースト

 ドアを開けて女性を先に通す。晩さんでは先にレディーから召し上がれ。道を歩けば男は外側(道路の中央寄り)にサッと位置を占め女性を守る。カッケー。なんで日本人の男どもは、これらの事がスマートに出来ないの?その答えは分かる。「日本にはレディーがいないから。」でも果たしてレディー・ファーストの実態やいかに。何でそうするの?そうすればHをさせてくれるから?ブブー不正解。
 15-6世紀、ルネサンスの頃のイタリアでは小国が乱立して貴族、王たちが覇権を争っていた。そしてカトリックの総本山の大ボス、法王(ローマ教皇)が生臭く政治に係わっていた。と言うより権力闘争の頂点に君臨していた。そのことは「カノッサの屈辱」に象徴されるよね。英仏百年戦争(実は英仏ではなくフランス人同士の戦争だった。『英仏百年戦争』佐藤賢一著、集英社新書を読めば分かる。)の終盤からフランス、イングランドといった国家意識が芽生え、中央集権国家が誕生すると法王は政治力を失った。
 ルネサンス期のイタリア人がいかに本能と欲望のおもむくままに振る舞ったかは、塩野七生さんの名著『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(新潮文庫)を読めば分かる。毒殺、斬殺、男色、近親相姦何でもありだ。ここまで欲望剥き出しだと、いっそ清々しくさえ思える無軌道振りだ。
 さあカンの良い人はもう気がついたね。女を先に歩かすのは、ドアの向こうで短剣を構える刺客から、女を楯にして身を守り逃げるため。女に先に食べさせるのは毒見だ。では最後の男が道の中央寄りを歩くのは何故?馬車の暴走から女を守るため?ノン、上からウンコが降ってくるのを少しでも避けるためだ。
 17世紀に至るもパリには下水道が無かったから、住民はおまるを使い、朝になると窓から中身を道路にぶちまけていた。どうだ、これがレディー・ファーストの実態なのだ。マイったか。

荒ぶる日本人

2015年12月22日 18時28分55秒 | エッセイ
荒ぶる日本人

 中国のお人は声がでかい。電話で話しているのを隣で聞くと、何事かいな、喧嘩かと思う。この大声に関しては、大陸の人も台湾の人も共通だ。特に年配のおっちゃんは声がでかい。先日スーパー銭湯に行ったら中国のおじさんが二人で来ていた。へー中国の人も温泉来るんだ。水着じゃないけど大丈夫?で二人で話しをしているのだが、直ぐ隣りにいるのに10m先にいる人と話しているほどのボリュームで話す。普通にしゃべった方が良いのじゃないかね。リラックスしに来たのだろ。
 でもあれだな、日本人も動作が荒々しくていやだな。椅子から立つ時座る時、突然ガバっと振り向いたり、ラッシュ時の駅なんかドドドドって感じだよな。カンボジア、ラオス、ミャンマーの上座部仏教徒は、体もたいがい小さいが動きもゆっくりひっそりしている。パゴタであんなにたくさん人がいてもちっともじゃまにならない。うっとうしくならない。タタタタと動く人などどこにもいない。声も控えめでゆっくり話す。そしていつも微笑んでいる。
 もっともラオスの山岳民族、モン族の人達、特に女性は活発で表情豊かで目が輝き、話す時も抑揚に富み早口だ。それはそれで実に魅力的だ。極端に恥ずかしがり屋で、ニコっとして直ぐに隠れようとするラオ族の娘さんもかわいい。日本では絶滅危惧種だ。ミャンマーも大変な多民族国家(8つの部族、135の民族)で、首都ヤンゴンを歩いただけでもインド系の人は多く、アラブ系の人もいてイスラムモスク、ヒンズー寺院、キリスト教会が立っている。しかしビルマ族に次いで数の多いシャン、カレン、カチン、モン(ラオスのモン族とは全く別のモン族)といった人を旅人が見分けられるはずもない。何度も行けば分かるようになるだろうけど。
 ただ街を歩いても、ジロジロ見られることはなく人混みが苦にならない。どころか楽しい。日本にいたらデパートが苦手で、ショッピングモールとかは苦痛に近い。日本では老人までがイライラして、アーだのカーだの一人で不快な音を発している人がいる。そんな人はミャンマーでは一人も見かけなかった。いや、珍しく尊大な態度を取っていた男は日本人だった。あーいやだ、恥ずかし。これだから俺は日本がきらいだ。大嫌いとは言わないが、好き嫌いで言えばためらいなく嫌いだ。
 昔の日本はこうじゃあなかった。明治11年(1878年)に最初に日本に来たイギリスの女流旅行作家、イザベラ・バードや他の人々(幕末~明治初めに来日した人々)の記録を読めば分かる。当時の日本は、全く異質ながら知的な人々の暮らすワンダーランドだった。服装も髪型も住む家も、欧州の人にとっては誠に珍妙だった。しかし刀を二本腰に差し、藁靴で歩く人があの正確無比な日本地図(伊能忠敬)を作り上げたのだ。畑にウンコを撒き散らし、女は歯を黒く塗って眉を落として不気味なんだけど、誰でも文字が読み書き出来るんだ。
 浮世絵の斬新な構図、大胆な色使い、対象とする素材(風景、美人、役者、妖怪)の面白さはパリやロンドンの人々を熱狂させ、絵画の世界を中心としてジャポニスムが興った。それ以前でもマリー・アントアネットは日本の蒔絵の小箱を収集していた。
 当時の日本人は子供をこよなく愛し大切にする人々だが、時間にルーズで約束にいい加減なので困る、と欧米人が嘆いている。時間がちゃらんぽらんだなんて、現代の日本人とはえらい違いだ。例えばくい打ち1つにしても、「えーいとな~xxx」(例えばの話だ。何と唄っていたのか知らない。)とひとしきり唄ってから一打ち、また唄い始め唄い終わり、一打ち、こういう労働はいいな。効率など全く考えていない。内ポケットに金時計を入れている連中からしたら、実にイライラする場面でサッサと終わらせたら50%増しで賃金を出すぞ、と言いたくなるところだ。
 田植えにしても、何で作業に直接加わらないお囃子楽団が必要なのか、意味が分かんね。一緒にやれば早く終わるじゃん。あーあー踊りながら歌っているよ。体力使うなら田植えをしろよ。歌ならアカペラでいいじゃん。ところが違うんだな、そこが。いいかい、ここが重要な所だよ。ノルマを課されて仕事を強制されたり、報奨金を出して労働を煽ったり、また自発的に人より金儲けがしたくてしゃかりきに働くのとは、労働の質が違うんだ。
 お天とうさんのリズムに合わせて急がず休まず、ゆったりとした労働は苦にならない。ストレスが溜まらない。当たり前の人間の働きだから、日が暮れて一日が終われば、気持ちよく疲れて腹が減る。風呂に入ってぐっすり眠れる。こんなだから日曜日とか、特に無くても別に平気だ。雨が降ったら休みにするか、家で手仕事をすれば良い。もうすぐ鎮守の森のお祭りだ。
 日本は江戸時代になって、孝だの忠だの窮屈な国になり、女性の相続権も無くなった。本来はセックスには大らかで、女性の地位は高かった。卑弥呼にまで遡らなくても、女帝はいたし女城主もいた。堕胎と間引きは多かったが、生まれたばかりは神の領域で人間にはなっていない、と思われていたふしがある。今の道徳観念で絶対悪だと目くじら(目くじらも変な言葉だな。)を立てない方がよい。全ての事は相対。絶対、絶対と言う奴は頭のシワが少なくて、想像力が絶望的に欠如しているんだ。
 さてイザベラ・バード(1831~1904年)は明治11年に来日して、伊藤鶴吉青年を通訳兼ガイドとして雇い3ヶ月旅をする。この伊藤青年が実に魅力的なんだな。こすっからしくてお金をごまかし、女の子にちょっかいを出し、バードは彼の事を実に醜い顔、と言っているが旅を続ける内に信頼が生まれる。とても有能な青年なんだ。バードは正直な人物で、日本の田舎の汚らしい所と日本馬のバカっぷりを散々ののしるが、日本の旧家の清潔さ、人々の礼儀正しさ、風景の美しさも余すところなく表現する。とても不思議で魅力あふれる紀行文になっている。彼女の他の国の紀行文もずいぶん読んだが、日本紀行は公平に見ても秀逸だ。
 それにしても変な国だ。バードが夜床につくと、隣の障子越しに30人位の人(男女・子供・ジジババ)が異人さんを見に集まり、おとなしくジッと見ている。街を歩けば「異人だ!」となって、銭湯から素っ裸の男女がワラワラと飛び出し見物に集まる。北海道を旅した時は、バードはアイヌの人達の風貌と態度の立派なことに共感し、日本人の彼らを見下した横柄な態度に怒りをぶつけている。欧米人とアイヌ人は相性が良さそうだ。伊藤青年もアイヌの人達に対して尊大な態度を取り、バードに叱られる。伊藤君、駄目じゃん。伊藤鶴吉(1858-1913)は、その後も様々な欧米の有名人の通訳として活躍し、日本初のガイド組織の設立に係わっている。写真を見ると普通の顔だよ。醜いは失礼だ。
 さて他の欧米人が日本に滞在した時の話も面白い。商人とおぼしき二人が道で出会い、チョンマゲをチョコンと載せた頭を交互に何度も何度も下げ、ニコニコして手を前でもみ合わせながら長々と挨拶している。これを見ていた英国人の男性は、「ああ、あの二人はいったい何を話しているんだろう。話している内容が分かったらなー。あー知りたい。」と漏らしている。 庭で行水をしている女性が、塀越しに丸見えなのに驚いて立ちつくすと、女性がくるっと背を向ける。
 お茶畑のある庄屋で休憩したフランス人の若い士官達がいた。主が呼んだ娘さんがお茶摘みの作業を中断して、姉さんかぶり前掛け姿でお茶を出した。その娘はほおを紅潮させ、その目は知的で輝いている。うわっかわいい。士官達は争って交際を申し込んだ。いいなあ、面白いな。こんな国なら俺も大好き、行ってみたいな。
 ただね、変わっちまったのは日本だけでは無いとは思うよ。フランスの実業家アルベール・カーンが集めた百年前の世界の映像(フィルムと大量のカラー写真)を見ると、第一次世界大戦の前の欧州が、いかに民族色の豊かなカラフルな世界だったかが良く分かる。人々はそれぞれの民族衣装を普段から着ていて、特色ある帽子をかぶって暮らしていた。ちょうどタイ・ラオス・ミャンマーの国境地帯の山岳民族(黒モン族、シャン族、リス族、アカ族 etc)の人達がそれぞれの衣装を身につけているようなものだ。
 失われた文化、失われた生活、失われた心を取り戻すのは難しい。