旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

アンコール・ワットとメコンデルタ紀行-1

2014年12月07日 17時01分47秒 | アンコール・ワット


*アンコール・ワットとメコン・デルタ紀行


(目次)
1.26年越しの宿題

2.相棒のこと

3.アンコール遺跡群
3-1.アンコール・トム
3-2.アンコール・ワット
-3.タ・プロム
3-4.パンテアスレイ
3-5.サンボール・プレイ・クック
3-6.ジャヤヴァルマン7世の石橋
3-7.トンレサップ湖

4.旅のエピソード
 4-1.カンボジア編
・ガソリンのビン売り
・ビールとガイドさん
・とっけーの話し
・慈母観音の微笑み
・ホテルのこと ╴ シャワールームの惨劇
・沙羅双樹の花のいろ
・学校・田植え・スカーフ・ガイド君の恋

 4-2.ベトナム編
・恐るべし、ベトナムコーヒー
・食べ物のはなし
・バスのなか、1コマ

5.メコン・デルタの舟旅

6.禁断の5時間エステ

















1.26年越しの宿題
「アンコール・ワットです。」ガイドの声を聞くより一瞬早く、目はバスの窓越にそれを捉えていた。乾季の、緑色をした水をたたえたお堀の彼方、密林の中に小さく、あの印象的な尖塔が3つ見えた。あれがアンコール・ワット、きれいだ。でも、あれが本当にアンコール・ワット?
 振り返れば26年前、デパートを通して宝石のセールスをしていた自分は、25歳の若造でした。
 来る日も来る日もデパートの社員に同行して、お金持ちの女の人に、高価な指輪を勧めて、売り上げに追われていました。そんな生活がいやになり始めたある日、新聞の片隅に載っていた小さな記事に心を惹かれました。「タイの国境地帯で、難民の世話をしていたボランティアのリーダーが、タイ人の強盗に撃たれて死亡」それは本当にちっちゃな記事でした。それを見て行動を起こしたのは、一億人で自分ひとりではないか。
 自分は学生の時、印度やタイを貧乏旅行していたので、アジアの空気は良く知っていました。「えらい奴だなー、俺も行きたい。」 宝石の会社の社長も変な人で、休職して行けばいい、と言ってくれた(26年前ですよ。NGOなんて言葉は無かったし、海外のボランティアなんて、頭おかしいんじゃないの、という時代でしたよ。)ので、数ヶ月後にタイ・カンボジア国境の町、アランヤプラテートに着いて、井戸掘りチームに参加しました。1982年、夏の終わりでした。
 カンボジアでは、親米派のロン・ノル将軍を追い払って、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)がプノンペン入城、以後3年8ヶ月(1975年4月~79年1月)に渡って、恐怖と狂気がこの国を支配します。当時の総人口700万人のうち、約170万人がこの間殺されたといいます。4人に1人です。極端な共産主義(能力に応じて働き、必要に応じて取る。)を追求したクメール・ルージュ(赤いクメール、の意味、以下K.R.)は、100万人の人口がいた首都プノンペンから住民を一人残らず立ち退かせ、農村に追いやりました。
 医師、教師、僧侶といった知識人は、反抗的で資本主義に汚染されているという理由で、特に対象とされ、少年兵による大量殺戮が繰り返された。市場・通貨の廃止、労農・政治教育以外の学校教育の廃止、宗教の廃止、サハコー(人民公社)の設置と集団生活化。ガイドのソトム君やワンディーさんの話しでは、銃弾を節約するため、先の尖ったサゴヤシの葉で殺された人も多いそうです。K.R.の支配がもう少し長く続いていたら、カンボジアの織物も、アプサラダンスも復活出来なかったことでしょう。ダンサーも先生も9割が殺されたといいます。
 長い説明になっちゃいましたが、この悲劇はカンボジアを旅するうえで、避けて通れない事柄です。K.R.の支配は、ベトナム軍との戦闘にあっけなく敗れたことにより終わりを告げ、以後10年間カンボジアの平野部は、ベトナムが占領することになった。 
ガイドのピセットさん(現在27歳位)が子供のころは、学校でベトナム語が教えられ、彼は村に駐屯するベトナム兵が好きだった、といいます。もっとも14歳以上の男子は内戦(対K.R.戦)に徴用され、大人になった今、彼はベトナムにあまり良い感情は持っていないそうですが。
 自分はタイ国境の町、アランヤプラテートに住み、毎朝夕、タイ軍の検問を数箇所通って、車で1時間ほど北上、国境の小さな川に架かる丸太の橋を渡って、カンボジア領内に非合法で入り、ソン・サン派(自由主義者、ロン・ノル時代の首相)の難民キャンプ、バン・サンゲーで井戸掘りをしていました。その頃、カンボジアの大半はベトナムに占領されていました。大量のカンボジア難民がタイ領内に流入し、当初、難民を国境の向こうに追い返していたタイ政府も、国際世論の圧力に屈して、難民の受け入れを始め、タイ国内にカオイダンをはじめ、大きな難民キャンプがいくつも出来ました。北部ではラオス難民も発生していた。しかし、タイ国内の難民キャンプに収容された人数の、数倍の人々が西部の国境地帯にへばりつくように住み、K.R.は特に南西部の山岳地帯にたてこもって中国の支援を受け、ベトナム軍に抵抗し続けていました。
 抵抗勢力は、5万5千人の兵士を持つK.R.、5千人(一説では1,500人)のソン・サン派、500人と名ばかりの軍隊だが、国民の人気が絶大で国際的に有名なシアヌーク殿下、この3者が三派連合にむりやり組み入れられ、ベトナム軍政下でのヘン・サムリン政権と、和解に至るまでの10年間戦い続けることになりました。
 このベトナム占領下の10年は、西側にとって情報の空白の時代です。プノンペンの市場のひとつは、今でもロシアンマーケットと呼ばれています。現在はロシア人なんか一人もいないのですが。
 ドイモイといわれる開放政策を採る前のベトナムでは、旧南ベトナムの人々を中心に大量の難民が、ボロ船に沈みそうになるほど乗り込んで海を渡り、日本にもたどり着いていました。サメや、タイ人のにわか海賊の餌食になった人々も数え切れません。その当時、アンコール・ワットは、戦闘で破壊されて無くなってしまった、といううわさがありました。無くなったわけではないが相当こわれた、という人もいました。
 自分が1982年、井戸を掘っていたバン・サンゲーからアンコール・ワットまでは、東に直線距離で約200km、バン・サンゲーのゲリラ兵も「行って行けないことはないよ。帰ってはこれないけどね。」と言っていました。正直ちょっと考えてみたんです。このまま水・食料・パスポートと磁石を持って東方に進む。うまく地雷原とK.R.兵を避けて前線に出て、ベトナム軍に投降する。K.R.と違ってベトナム兵は、外国人をその場で殺したりはしない。たぶん。そこで将校に会って熱弁をふるう。(熱弁だって、お前の英語が通じるの?命をかければなんだって出来るさ。)
ベトナム統治下のカンボジアで、アンコール・ワットが無事な事を西側に伝えよう。大変なイメージアップになるではないか。私をアンコール・ワットに連れて行け。写真を撮って日本の新聞に載せるから、国外追放にしたらいい。ベトナム軍が親切で紳士的で、文化を愛し大切にすることを、責任をもって宣伝する。
人一倍臆病なくせに無鉄砲。輝ける青春無頼の日々は、追憶の彼方に消えてゆき、一つの決意が宿題として残った。“いつか必ずアンコール・ワットに行く。”


2.相棒のこと
 旅のきっかけは、この人のひと言でした。待機時間の喫煙室で、雑談の合間に、彼がもらした言葉、「アンコール・ワットに行きたいな。」は、何故か「ん?」と胸の奥に引っかかりました。‘アンコール・ワット’というキーワードには心の奥底をうずかせるものがある。「アンコール・ワット。何だろう?」から「そうだ。そうだった。俺はアンコール・ワットに行きたいんだ。いや行くんだ。」忘却の彼方から宿題を思い出すまでに3ヶ月かかりました。
しかし、「行こう。」と二人で決めてから実際に出発するまでにも、自分が足を骨折したりして、一年ほどかかっています。でも実際に飛行機に乗ったら、次の日の朝にはアンコール・ワットを見ていた。「なんだ。こんなに簡単だったのか。」
相棒は、いつも飄々としています。普段はどぎつい冗談を言って、ごくたまに落ち込んだり、怒っている時でも、本人はいたって真面目なんでしょうが、周囲に笑って見ていられるだけの余裕を与えています。
「まあ、すてき、少年の心を持った純粋なオジ様なのね。」「ノン、ノン、お嬢さん、ガサツであけっぴろげな親父ですよ。」 彼は、学生時代アーチェリーのナショナルチームに所属し、不良をぶんなぐって高校の先生を一年で首になり、その後ジュニアのアーチェリーのコーチをやったり、ベトナムで地雷除去のボランティアをしたりで、40数カ国を旅しています。ちなみに自分は35ヶ国。悔しいね。
「きっと吟遊詩人のような方ね。」「何言ってんだよ、三度がさ。ノン、ノン、ノン、断じてノン。スケベで、チャランポランで、おまけにあっちこっちに物を置き忘れる、物忘れ親父なんだってば。」
この人はいつも底抜けに明るくて、いっしょに旅をしていて楽しい。この旅がさわやかで、印象深いものとなったのは彼のおかげです。とはいえ、旅の間中この人の世話をしていたような気がする。「パスポート出して。」「明日の朝は何時に食堂で。」「今日の晩はフランス料理に行くよ。19時にロビーに集合。明日の朝は市場に行くから早起きね。」「ホイ、ホーイ」
相棒が、旅の最後に言いました。「俺、カンボジアがこんなにいい国だとは知らなかった。また来るよ。」









3-1.アンコール・トム
最初に訪れたのは、アンコール・トムの南大門でした。アルカイックスマイルを浮かべた四面の観世音菩薩が、圧倒的な迫力で頭上にそびえたち、門の下にはインドラ(帝釈天)の彫刻、その手前には、7つの頭を持つ蛇神ナーガの体で綱引きをする神々と阿修羅の巨人軍団、周りには各国から来た観光客の群れと象のタクシー、みやげ物屋とバイタクシーの喧騒。何かボーっとして現実感を失い、これはディズニーのMGMスタジオ、インディージョーンズの張りぼてなんじゃないか、などとおかしな事を一瞬考えました。
アンコール・トムは周囲12km、12世紀後半、アンコール・ワットから半世紀を経て、クメール朝絶頂期といえるジャヤヴァルマン7世が作った都です。その中心にあるのが、四面観音の塔を49持つバイヨン寺院です。アンコール朝では少数派の仏教遺跡です。
ここには門が5つあり、西側だけ2つ、凱旋門と死者の門があり、それぞれの門の上はバイヨン方式と言われる四面に向いた観音像があるので四面仏の塔は、全部で54あることになります。周囲の環濠の水は乾季の今、あまり残っていませんでしたが、ここは堅牢な城砦都市です。
 アンコール・ワットの回廊の浮き彫りが、スールヤヴァルマン2世の行軍を除き、ヒンドュー教の教えが多く、「天国と地獄」「乳海攪拌」「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」「ヴィシュヌと阿修羅の戦い」といった抽象的な題材が多いのに対し、バイヨンの回廊の浮き彫りは、戦いや生活を生き生きと描写していて楽しい。
 独特の長髪(またはカブト)をしたチャンパ軍との戦闘は、一時は都を占領される程の激戦で、3年も4年もかかっています。古代の戦車ともいえる象部隊のぶつかり合い(象同士も鼻を打ちつけ、激しく戦っている。)、湖上の決戦では水に落ちた兵士にワニが食いつきます。中国人傭兵隊も行軍しています。こちらは、ちょっとだらしない行軍姿です。戦闘の他にも調理、食事風景、出産や曲芸、将棋を指す人、闘鶏、投網、踊るアプサラ、ライ王伝説。ここは観光客が多いのですが、もっとじっくり見たかった。トンレサップ湖に住む様々な魚、立派なコブ牛、水牛、虎、鶏といった動物たちも生き生きと描かれています。
 アンコール・トムはアンコール・ワットよりずっと大きく、大乗仏教の遺跡の為か親しみやすさを感じさせます。四面観音は圧倒的な迫力です。













3-2.アンコール・ワット

 アンコール・ワットは他の大半の遺跡が東向きなのに対し、西に向いています。東側にトンレサップ川が流れているためだと考えられています。周囲をお堀に囲まれ、石畳の橋を渡って門に達します。門は5つあり、中央は王様が通る門で、その両側が人々が通る門、一番外側は象の門です。当時はよほどたくさんの象が飼われていたんでしょうね。遺跡の石には必ず丸い穴が開いています。ロープを通して象が運んだ跡です。修羅という運搬具も使われていました。
 話がそれました。自分は滞在中の三日間、夕日の中で(プノン・バケン=岡の上の寺院の廃墟)、また朝日が昇るのを待って、アンコール・ワットを何度も何度も見ましたが、いつでも、どの角度から見ても美しい。まさにカンボジアの至宝、アンリ・ムオが始めてここを訪れた時の感動を、『インドシナ王国遍歴記』(中央公論社・大岩誠訳)の中で、以下のように記しています。
 『かくも美しい建築芸術が森の奥深く、しかもこの世の片隅に、人知れず、訪れるものといっては野獣しかなく、聞こえるものといっては虎の咆哮か象の嗄れた叫び声、鹿の啼声しかないような辺りに存在しようとは誰に想像できたであろう。われわれはまる一日をここの見物に費やしたが、進むにつれていよいよ素晴しく、ますます酔わされてしまった。』
・中央部の天井の一部に赤く彩色された跡が残っていて、往時のきらびやかさをしのばせます。
・寛永9年(1632年)父の菩提を弔い、老母の後生を祈るためにアンコール・ワットを訪れた森本右近太夫一房の墨書跡は文字が薄れ、その上に書かれた最近の落書きにかき消されて、かろうじて日本國~、と読めるだけになっています。この人、鎖国令直前に帰国して、名前を変えて生きながらえたそうです。
・アンコール・ワットの中には不思議な仕掛けが数々あります。
*手をたたくと音がボワン・ボワンとエコーする空間
*壁一面に穴の開いている小部屋。このたくさんの小穴に宝石や光る石を入れ、ろうそくの灯りで輝かせたそうです。今では石はひとつも残っていず、ただ壁に穴がたくさん開いているだけです。
*中心部に向かう第二回廊には浮き彫りはなく、仏像が3千体置かれていたそうですが、今は壊れた台座が数個残っているだけです。ガイドのソッキさん(37歳)のお父さんが子供だったころには、ものすごい数の仏像が立ち並んでいて、人々に拝まれていたそうです。アンコール・ワットはヒンドュー教なので、仏像は後世のものでしょうが、森本右近太夫も、四体奉納したと書いていますから、貴重なものだったことでしょう。ことごとく近年になって盗難にあいました。
*ソッキさんのお父さんは農民ですが、ポル・ポト時代に強制労働にかり出され、尖塔群に登ってコケ落としをさせられたそうです。宗教を否定し寺を壊し、僧侶を殺したポル・ポトが、アンコール・ワットを大切にしたとは意外です。彼が若いころ歴史の先生だったことと関係があるのでしょうか。
*アンコール・ワットの尖塔を見ながら西参道を渡り、門をくぐって本殿に向かってゆっくり歩く。天空に突き出た3本の高塔(実は5本)はいったん視界から消え、忽然と窓枠の中に一本だけ現れたり、3重の回廊を出たとたん惜しげもなく全体をさらす等、建築者は明らかに意図的な導線を作っています。
*アンコール・ワットもアンコール・トム(大きな町の意味)もお寺だけではありません。城壁に守られた巨大都市で、中には町も王宮もありました。13世紀末に元朝の使節に随行して訪れた中国人、周達観の『真臘風土記』(『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』講談社現代新書、石澤良昭氏著、参照)によれば、『王宮や官舎、役所は全て東を向いている。その正殿の瓦は鉛で作られている----梁や柱はとても大きく、どれも仏の姿が彫られていて、部屋はまことに壮観。長い廊下は、上下2段になっていて、高くそびえて続いており、きちんと規範に基づいている。』これらの木造建築は、全てシャム(タイ)との戦争で消失してしまいました。













3-3.タ・プロム
ジャヤヴァルマン7世が、母の菩提を弔うために築いた寺院。仏教寺院だったが、後に宗教戦争によってヒンドュー教となり、仏の浮き彫りは削られた。
 ここは今回の旅行で必ず行きたかった所のひとつです。スポアン(榕樹、沖縄にも生息するガジュマルの木)と呼ばれる樹齢400年にも及ぶ木々が遺跡を侵食している。
 植物が鉱物を食い破りつつある、奇怪な世界が目の前に広がるのですが、榕樹の根は石の隙間にヘビのように入り込み、石を持ち上げ覆いつくし、千年かけて土に返そうとしています。植物のこの勢いを止めるには、水と太陽の光を断つしかありませんが、何も無いようにみえるこの国に、この二つは有り余るほどに豊富です。かくして植物のゆったりした時間の中で、タ・プロムの遺跡は確実に朽ち果てていきます。
 榕樹の他に、ビルマ軍の侵略による破壊の跡も見られます。腰掛けたガレキの石片にシバ神の浮き彫りがかすかに残っていたりします。





3-4.パンテアスレイ
 967年に建てられた「女の砦」の意味を持つヒンドュー教の小寺院。周囲400mでバラ色の砂岩とラテライトによって作られたが、ここの砂岩の質が良く、浮き彫りの一部が、あたかも昨日彫ったかの如く鮮やかに残っている。
 ここには「東洋のモナ・リザ」と呼ばれる、微笑みを浮かべた天女の彫刻がある。これは意外と小さなもので、高さ60cmほどの容姿端麗で優美な天女である。反対側にも同じような天女像があるが、こちらの娘は唇がちょっと厚すぎる。この像は「王道」の著者で、フランスの元文化大臣でもあるアンドレ・ジイド氏が若いころ、切り取って持ち帰ろうとしたことで有名です・
パンテアスレイは小さくて華麗な遺跡でした。





3-5.サンボール・プレイ・クック
この遺跡はアンコール・ワットのあるシュムリアップよりも、プノンペンに近いコンポントム州の郊外にあります。自分たちが訪れた時、他に観光客はいなかったので、遺跡の貸切り状態でした。せみしぐれの中に、崩れかけた八角形のレンガ造りの塔が、8つ位ありました。周囲の城壁は崩れ、原型を留めていません。
7世紀初頭、アンコール遺跡群の中でも初期に建てられたここは、クメール人の最初の王都でした。この遺跡は崩壊が進んでいるが、密林の中のうち捨てられた太古の廃墟といった風情があります。この時代(前アンコール時代)のことは、碑文も少なく、よく分かっていないそうです。
地面にいくつか、直径5mほどのクレーターのような、丸い穴があいていました。中には、塔の真横にあるものもありましたが、これらの穴は、ベトナム戦争当時、米軍がホーチミンルートの閉鎖をねらって空爆した跡だそうです。
ここはうれしいことに、我が母校、早稲田大学隊が修復していました。他にアンコール・ワットの正面の石畳は上智隊、他の遺跡もフランス隊、インド隊等、分担して補修作業に当たっていますが、割り当てがなく、カンボジア政府が補修している遺跡では、予算も技術も不足しているのでしょう。丸太をつっかい棒にするような乱暴な修理が目につきました。





3-6.ジャヤヴァルマン7世の石橋
 日本では、「1192(いい国作ろう鎌倉幕府)」の時代、カンボジアでは、対チャンパ戦争に勝利した、ジャヤヴァルマン7世がアンコール・トムを作り、クメール王国最盛期を迎えていた。ヴァルマンとは、「戦争に勝利した」というような意味です。
 この王様は治水にも成功し、現在よりもはるかに肥沃で広大な水田に、灌漑網を張り巡らしました。果物はたわわに実り、花々は鮮やかに咲き誇り、トンレサップ湖は、惜しみなく水産資源を供給し、多くのこぶ牛、水牛、ブタ、ニワトリを飼育、たくさんの戦象を持つ強力な軍隊、宮廷では楽団が音楽を奏で、髪を結い、頭に飾り物をつけ、美しい腰布をまとったトップレスの官女たち、踊り子たち、お祭りには綱渡りや力自慢の芸人が集まり、市場には物があふれ、女たちは元気で、異国の旅人や商人、僧侶が町にあふれている。
 筆がすべりました。‛稲田の民‛と呼ばれた当時の人々の暮らしぶり、儀式の様子は浮き彫りに描かれています。
 さてジャヤヴァルマン7世は、その40年にわたる治世の間に、アンコール・トムや数々の寺を造ったばかりではなく、後世、王道と呼ばれる道路を造り、その沿道に121の宿舎、102の施療院、大小の石造りの橋を建てました。そのひとつを見ましたが、思わずうなるほどの立派な石橋です。現在でも普通に使われていて、バイクや車が行き来しています。内戦時代には戦車も通行しました。大きさは、全長90m、幅15m、高さが10mあります。
 さて、この大王ですが、ライ病にかかったという伝説があり、この姿を映したといわれる彫像の指は欠けています。クメールの王国も何やらかげりが見え始めました。この王の後には、数々の王位の簒奪が起こり、絶え間ないシャム軍の侵入によって、人口は激減し、用水池は涸れ、田畑は荒廃していきます。巨大な建造物が建てられることは、二度とありませんでした。



3-7.トンレサップ湖
 とんでもない湖である。自分が行った乾季の終わりで、琵琶湖の5倍、水深2~3m、雨季の終わりには、琵琶湖の15倍、水深10~12mになります。道路も森も道路わきの家も、全て湖の底になるわけです。この湖で暮らす湖上生活者はクメール人(カンボジア人)、ベトナム人と少数のチャン人です。湖上生活者は100万人以上いるといいます。船の学校はありますが、通学で舟を出す余裕はなく、学校にはほとんどの子供が行けません。
 ベトナム人の船は相当数あり、クメール人の集落、というか船溜まりと分かれて生活しています。南シナ海から川を遡って勝手に来た人たちです。チャン人はチャンパ王国の末裔でイスラム教徒です。それゆえ、ポル・ポト時代に特に大量殺戮の対象となったそうです。
 以前は大変な漁獲量だったこの湖も、近年の乱獲(目の細かい網の使用とバッテリーによる感電漁法)によって、魚がめっきり減ってきています。この湖にはワニやヘビ、カエルに亀、300種類にも及ぶ淡水魚がいて、アンコール・トムの浮き彫りにも、たくさんの種類の魚たちが写実的に彫られています。数十年前は、水鳥が湖面いっぱいにいたようですが、訪れた日は全く見当たりませんでした。
 船着場までの道はひどくデコボコで、掘っ立て小屋のような家に、たくさんの家族が暮らしています。乾季の今、船着場は押し合いへし合い舟がびっしり泊まっていて、長い棒で押し、足で他の舟を蹴っ飛ばしてやっと水路に出ます。船着場付近の水は、ペンキのようにドロッとしたコバルトブルーで、生活廃水によって見るからに汚れていますが、そんな所でも子供たちがもぐってシジミを取っていました。舟の家には、こどもが大勢住んでいます。
 湖上のレストランから見た夕日はきれいでした。海に沈む太陽、というイメージです。トンレサップ湖は、カンボジアの宝物に違いありません。雨季の終わり、この湖が最大の大きさのとき、どんな光景なのか、見てみたいものです。


4.旅のエピソード
 4-1.カンボジア編
・ガソリンのビン売り
カンボジアもベトナムも、交通手段の主流は100ccのバイクです。家族4人でも5人でも器用に乗ります。(ベトナムでは、3人迄と決まっているそうです。)ホンダ、スズキが多いのですが、最近は価格の安い中国製が増えてきました。
旅行に行った3月末、日本ではレギュラーガソリン1リットル150円くらいでしたが、カンボジアでも税金が入って、1リットル130円ほどになります。この高値は、月5千円で高給取りの彼らにとって、たいへん痛い。何故か〔TOTAL〕という会社の独占でしたが、カンボジアにだってちゃんとしたガソリンスタンドはあります。でもそれ以上に道端でガラスのビンに入れて、タイから密輸したガソリンが堂々と売られています。
  1リットル110円ほどで、税金を払わない分安くなる。最初は、やたらとジュース売りが多いな、と思いましたよ。

・ビールとガイドさん
 アンコール・ワットのある町、シュムリアップでは缶のビールは3ドル、プノンペンのレストランで2ドル、明らかに観光地価格です。この国では、肉体労働者の賃金が一日働いて2.6ドル、遺跡の発掘・補修で村人をやとう場合は2.5ドル。一日終わってさあ一杯、という訳にはいきません。さてシュムリアップのレストランで、連れになった女性たちと食卓を囲んでビールを注文しました。ここで年配のお母さんが、「カンボジアのビール飲んでみようかしら。これってどんな味、甘いの?」とガイドのソッキさん(女性、37歳)に尋ねました。アジアのビールは、氷を入れて冷やしたりするせいか、味の濃いものが多いのです。するとソッキさん、すぐには答えず、そわそわしてお店の人に聞いたりし始めました。何事にもテキパキして、「乳海攪拌」から,ヴィシュヌ神の乗り物、奥方、4本の手で持っているものからその由来、質問は何でもOKよ、の人がどうしたんだろう。
「私、ビール飲んだことないです。」「えー、一度も?」「ハイ、生まれてから一度も」
ソッキさんは5人兄弟の下から2人目、5歳の時にお母さんを亡くし(写真もない)、
お寺に住んでお手伝いをしてお金をため、兄弟の中で一人だけ高校に行き、ガイドを目指した。最初は英語、その後入った日本語学校の先生が厳しくて、泣きながら勉強したそうです。暑いのにガイド服のボタンをきっちり上まで留めて、スカーフまでして歩きまわるソッキさん、成田で買った金太郎あめをあげたら、「面白―い」と歓声をあげたソッキさん。ビールの味は知らなくても、あなたは素敵です。

・ とっけーの話し
 今回の旅行でこいつに会いたかったのに、ガイドさんに聞いてもあんまり話しが通ぜず、この付近にはいないのかもしれません。
自分が26年前にボランティアで井戸堀りをしていた時、宿舎の家(タイ国内アランヤプラテート)が高床式で、1階は物置や洗濯物を干すスペースになっていましたが、そこに彼が住みついていました。夜食事をしていると、ククククー(空気を吸い込む音)トッケー、トッケーと大きな明瞭な声で、床の下から鳴く生物がいるではありませんか。10回くらい(最高12回)鳴いてクックーみたいな終り方をします。最初はナンダ、ナンダ、ここらの鳥は夜鳴くんかい、と思いましたが、彼は毎晩唐突に鳴きだしました。相当にでかくて、はっきりした声です。昼間、井戸掘り現場への行き帰り、作業中にも良く鳴いていました。鳴き方は必ず「トッケー」です。迷いはありません。ウグイスのように間違えたりはしません。それほど日をたたずに、彼と対面することになりました。夜、トイレのドアを開けると、出会い頭に、大きなゴキブリをくわえた彼と鉢合わせしてしまったのです。お互いにビックリ。天井から釣り下がった彼は体長約40cm、褐色の体に赤や青の小さな斑点の入った立派なトカゲ(もしくは大ヤモリ)でした。タイでは、トッケー(学名にもなっている正式名称)がいると、泥棒が入らないという言い伝えがあります。
今回の旅行では、エアコンのついたホテルに泊まったため、ヤモリ、イモリをほとんど見ませんでした。椎名誠の本(集英社文庫『メコン・黄金水道をゆく』)のなか、ラオス編でトッケーがやたらと出てくるのですが、トッケー君は意外とシャイで、都市化、近代化が苦手なのかもしれない。それとも内戦時代に食っちまったのかも。



・慈母観音の微笑み
 郊外の遺跡サンボール・プレイ・クックのそばで、なかなかきれいな公衆トイレに入りました。そのトイレの入口で小学生1、2年といった女の子が、台座にちょこんと座って笑いながら日本語でいいました。『お兄さんはこっち、お姉さんはこっち、あはは』帰りにその子からお土産を買いました。金属製の小さな四面仏とガネーシャの像、2ドルです。彼女しっかり働いていたんですね。2ドルといってもバカにはなりません。肉体労働を1日やっても2.6ドルなのですから。
 この女の子を見て、26年前のバン・サンゲー(ソン・サン派の難民村)を思い出しました。栄養失調で髪の毛は赤茶け、ものもらいや手足の潰瘍にかかっている子が多かったのですが、子供はくったくが無い。子供たちは他の生活を知らないから、自分達のことを気の毒だなどとは、ちっとも思っていません。
 その少女は、外国人(僕ら)からあいさつをされてとまどい、恥じらい、しばらくして口の両端にポッと小さな笑いが浮かびました。この小さな微笑みがゆっくりゆっくり顔中に広がっていくのは、花がつぼみから開いて咲いていくようで、うっとりと見つめてしまいました。慈母観音のような微笑みでした。アジアの大地の持つ限りないやさしさと豊かさ、あたたかさを感じました。


・ホテルのこと ╴ シャワールームの惨劇
 シュムリアップのホテルは中流でしたが、従業員は親切で朝のバイキングはここが一番良かった。部屋(シングル)は広く、窓の下には仮説テントみたいな所に暮らす一家の生活が丸見えでした。
 ベットサイドの電灯はつかないし、洗面所の蛇口は持ち上げると、勢いよく水を出したまま自分の方へ向かってくる。エアコンのリモコンはToo Warm(暑すぎる)、Too Cool(寒過ぎる)の2つしかボタンが無いため、2晩寒い思いをしたあげく、最後の晩にやっと手なずけ、Too Warmを最後まで押し、Too Coolへ2つ戻した所がちょうど良いという結論に達しました。
 便利な世の中で、ホテルの衛星放送の中にNHKが入っていたので、旅行中は普段よりも日本の出来事に詳しくなっていました。最も何故かメインのニュースの時間は、英語放送になってしまうのが不便でした。
トイレの横に金属製のホースがついていて、その先に噴水口がついています。取っ手を押すと勢い良く水が出る、ハンドウォッシュレットです。角度をうまく調整しないと、自分の手がびしょぬれになって、気持ちが悪い。相棒は、なんだこれ、っといきなりこの取っ手を押して、水が顔を直撃、数秒の間にシャワールームを、天井から床までびしょ濡れにして、朝から大騒ぎで拭き掃除をやっていました。













・ 沙羅双樹の花のいろ
 プノンペンでは、王宮に行きました。ノロドム国王とシアヌーク殿下が住んでいるところです。ラーマーヤナを描いた原色の壁画や、数々の王室の財宝、ナポレオン3世の奥方から贈られたテラス、4歳で亡くなった愛娘のためにシアヌーク殿下が建てた華麗なお墓、絢爛豪華な宮廷生活の一端がうかがえます。修学旅行なのか、地方の学生もたくさん来ていました。資料館のような建物に100年位前の写真がありましたが、現在のカンボジア人が小柄できゃしゃな体格なのに対し、古代クメール人の直系とされる人は、胸板が厚く筋骨隆々としています。北の密林に住む、今は未開の部族こそがその末裔なようです。現在のカンボジア人は、色々と混血してアンコールの時代とは変わってきたわけです。
 さてこの王宮で素晴らしい木を見ました。有名な平家物語の出だし、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必滅の理を現わす。おごれる者も久しからず~」 あの沙羅双樹の木です。摩訶不思議、大木の一面をツタが這うように、まるで木が花衣をまとったように、鮮やかなピンクの花が咲きほこり、実がなっています。
 沙羅双樹の花を見ただけでも、旅に出た甲斐がありました。この旅行では、植物で2度衝撃を受けました。タ・プロムのスポアン(榕樹)と、王宮に咲く沙羅双樹です。


・学校・田植え・スカーフ・ガイド君の恋
 * カンボジアの小学校は2部制、午前の部と午後の部に分かれています。子供達はたくさんいるんですが、校舎も先生も不足しているのです。子供が貴重な労働力なので、田植えの季節には一週間休みます。小中学校の授業料はただですが、高校以上に進む生徒は少ないそうです。
 * 大灌漑池を作ったアンコール時代は二期作でしたが、現在は一期作で乾季には、スイカやとうもろこしを作っています。トンレサップ湖周辺では、二期作が出来るそうですが、内一回は3ヶ月、50cm位で収穫する安い米だそうです。
 * 26年前はカンボジア難民もソン・サン派の兵士も、男はみんな白と赤のだんだら模様の、大きな木綿のスカーフをしていました。首に巻いたり、頭からターバン風に被ったり、昼寝のときは体にかけて、それぞれ巻き方に工夫を凝らしていました。そのイメージがあったので、今回初日にスカーフを買って日除けにしようと思っていたのですが、全く見当たりません。ついにカンボジアにいた4日間一度も見ませんでした。ポル・ポトの兵士が、黒服にゴムサンダル、手には中国製のAK47、首には赤白スカーフというイメージが強烈だったせいでしょうか? 何故無くなったのか、とても不思議だったのですが、聞きづらいな、と思っている内に聞き漏らしてしまいました。
 * ガイドのソトム君は23歳。なかなかのハンサムボーイで、レストランのウェイトレスを笑わせたりして如才がない。ガイドさんは、車との連絡があるからみんな携帯を持っています。ある遺跡で、ソトム君に掛かってきた電話がなかなか終わらない。ソトム君ちょっと距離を置いたりして、ハハーン、女の子からだな。
「彼女から?」と聞いたら、ギョッとして、「え、分かります?」「見え見えじゃん」彼まじめな顔をして、実はと話し始めました。1つ年上の、元自分の日本語学校の先生と付き合っているんだけど、「先生に恋をするのは、カンボジアではいけないことです。どう思いますか?」
 おじさん達は、この手の話しには極めて寛大なので、「いいんじゃない。2人とも大人なんだから。」ちなみにガイドさんの月収は80ドル位で、この国では高給です。頑張れ、ソトム。




邯鄲の夢 - 第十夜

2014年12月06日 17時55分32秒 | 夢十夜
10. 名画座の想い出

 昭和30~40年代の初めまで、かなり小さな街でも映画館が一つはあり、小学校に上がる前から自分は父親やおじいちゃんに連れられて見に行ったものです。東宝のゴジラシリーズが全盛期で、併せて加山雄三の若大将をやっていました。田中邦衛が金持ちのドラ息子、青大将の役で出ていて、その当時でも老けて見えたのですが、いったい彼は今いくつなんだろう。
 大人になって東京から北海道へ行くフェリーの中で、偶々その若大将をやっていたのですが、そこに出てくる車や女の子があまりにオールドファッションなので驚きました。今時つけまつげなんて、ギャル曽根と美輪明宏くらいしかしてねーよ。洋物の特撮で、体を小さくして人体にもぐり、カプセルみたいな乗り物に入って血液の中を流れ、白血球に飲まれそうになり、悪玉菌と戦って治療する「ミクロの決死圏」なんて映画は今でもよく覚えています。映画館の前を通って次回上映作のポスターや書割を眺めるのは楽しみでした。
 大学に入ったのが昭和50年、高田馬場には名画座が2つありました。早稲田松竹とパール座で、両方共300円2本立て、パール座は洋画専門でした。よく見に行ったものです。大学へ行っても授業に出ないで、おにぎりを持って2つの映画館をハシゴした事もあります。ロードショーではないので、映画館主の趣味なのでしょうか、実に様々な映画が上映されましたよ。自分の中の名映画ベスト10の大半はこの時代に見たものです。
 早稲田松竹で高橋英樹の「けんかエレジー」と、それとセットになっていた何か、渡り鳥シリーズを見たときは、映画館の入りは1/3~1/4位でしたが、観客がセリフにしびれましてね。すがりつく美女を振り切り、「流れもんにゃあ女はいらねえ。」わー、「女といっしょじゃ行けねえんだよ。」わー、わー、拍手、拍手ってなものでしたよ。

邯鄲の夢 - 第九夜

2014年12月06日 17時45分59秒 | 夢十夜
9.大阪の、かやくご飯にご用心

 若いころ、大阪に出張し訪問先の近くまで来て昼になりました。昼食を済ませて午後一番に訪問すればちょうど良い時間です。食堂を物色したのですが、下町の飯屋はどこも一杯でした。一軒を選んで狭い4人掛けのテーブルに相席で座ると、斜め向かいにニッカボッカを穿いたおっちゃんが斜に構えてビンビールを飲んでいます。アタッシュケースをテーブルの脇に置き、壁を見ると定食の手書きの品書きがペタペタ貼ってあるので、目の焦点を合わせて「何にしよー」と思案しました。いつもは割りとパパッと決めるのですが、大阪の飯屋は勝手が違い、東京の定番メニューには無いものが出ています。
 その中のひとつに『かやく定食』があったのですが、ん?カヤク、火薬?火薬の乗ったご飯?どんな物か全く想像がつきません。以前同じようなシチュエーションで、名古屋で、『みそ煮定食』を頼んで失敗しています。自分は酒の肴としての『モツの煮込み』は大好きですが、ご飯のおかずにしたいとは思わない。ご飯と一緒じゃ生臭い。
 店内はますます混んできて、やたら勢いのいい小娘が、注文取りと配膳に一人で飛び回っていて、『かやく定食』がどんなものなのか説明を頼んだらブッとばされそうな雰囲気です。おねえちゃんは水が2/3ほど入ったコップをドンとテーブルに置きグッと胸をそらせます。「お客さん、忙しいんだから、注文早くしてよね。」とその全身が言っています。その迫力に押されて『かやく定食』とつい言ってしまいました。「カヤク一丁」おねえちゃんはすかさず叫んで飛び去りました。
 待つうちに狭いテーブルではニッカボッカの隣にサラリーマンが座りました。騒がしい店内で結構待たされた後、おねえちゃんがこれまた乱暴にトレーを私の前にドンと置きました。見るとドンブリと味噌汁、おしんこ数片630円といった代物で、なんか普通じゃんという定食ですが、ふたをとるとドンブリの中は親子丼にしか見えません。え、え、どこがカヤクなの?などと思いつつも、うまそうだったので早速食い始めた。その途端、おねえちゃんが次のトレーをますます乱暴に向かいの席に置きました。ニッカボッカとサラリーマンの中間、ややサラリーマン寄りの所です。それを見ると、なにしろ目の前ですから、「ゲッ、マズイ」何やら混ぜご飯っぽいのを中心におかずが配分されている。「これがかやく定食なんじゃないの?じゃあ俺が食ってるこれは何?」
 サラリーマンが何を頼んだのかは知りませんが、自分の注文はちゃんと把握しているらしく、ニッカボッカの方をチラチラ見て、指でちょっとトレーを押しやりました。ニッカボッカは自分には全く関係ない、という態度で視線を宙に飛ばして残り少ないビールをぐびっと飲みました。二人の間で『かやく定食?』が湯気をたてている。やばいぞ、これは。もう味なんか分からない。サラリーマンの注文が来たら修羅場になりそうだから、早く速く、一気に食い終わってガバッと立ち上がり、伝票なんか無いから「お勘定」と出口で言うと、例のおねえちゃんが「何召し上がりました?」とやたらでかい声で聞いてくるから、「親子丼。かな?」と声のトーンを落として答え、千円札をサッと出し、お釣りをもぎ取るようにして店を出た。間一髪セーフか。大阪のかやくご飯にご用心。

邯鄲の夢 - 第七夜

2014年12月05日 18時31分48秒 | 夢十夜
7. 息子の友達

 とかく大学生は遊んでばかりいるように言われるが、理工学部は毎週のように実験があり、そのレポート作りに追われるらしい。
 東京の郊外に住むN君は一人っ子で、両親といっしょに一軒家に暮らし都心の大学にかよっていた。N君の大学は国立の一流校で、友達には地方から来ている人が多かった。しんどいレポート作成を気の合う仲間と、よくN君の家で行っている内に、夜になり、N君の部屋に泊まっていく連中が出てきた。
 もちろんいつも勉強ばかりしている訳ではなく、酒を飲み、ビデオを見たりゲームをしたり、毎日が合宿のような感じになってきた。兄弟のいないN君には友達といっしょにいる時間が楽しくて仕方がない。元々細かいことを気にしないのんびりした性格なので、多い日にはN君を含めて3~4人泊まっていく日があり、その事でお母さんは毎日文句を言っていた。「食費がかかる。」「くつが散らかっていた。」「トイレットペーパーの減りが早い。」
 全員に毎回食事を出していた訳ではないが、N君一人を呼んで食べさせる訳にもいかない。お父さんは仕事で帰りが遅く、何も言わなかった。母親の小言がうるさくなったN君は、ハウスルールをパソコンで打ち出したが、そんなものが機能する前にN君の友達はお母さんをうまく手なづけた。帰省すれば多めにお土産を買ってくるし、田舎の野菜を持ってくる。気の利いた奴は、お母さんに誕生日のお祝いを渡す。そんなものはもちろんN君からもらった事はない(あげた奴だって、自分の母親には渡さない。)お母さんは、うれしくて舞い上がってしまった。
 そして一年が終わり、二年、三年とたった。常連の友達の中でトモ君と呼ばれる小柄な青年はおとなしい性格で、特にお母さんと仲が良かった。トモ君はよくお母さんといっしょに台所に立ち、夕食の手伝いをしていた。「トモ君、うちの子になっちゃいなよ。」がお母さんの口癖でした。
 いつもオーバーオールを着ていたトモ君とお母さんの友情は淡く長く続いたが、4年の月日は早たち、就職活動のシーズンがやってくると、N君の合宿所に集まる友達はめっきり減ってきて、寮母のお母さんは何か張り合いのない思いをしていた。卒業も近づいたそんな或る日、N君の家に春めいた明るい色のスカートをはいたショートカットの女の子がやって来た。これは大変珍しい、というか初めてではないか。
 お母さん、ハーとため息をつき、「やっぱり、いいはねー女の子は。うちの中が明るくなるわ。」その女の子はしばらくN君の部屋にいた後、台所にいたお母さんの所に来て言いました。「お母さん、4年間大変お世話になりました。教えていただいた料理は忘れません。」
お母さん「ヒエー」腰が抜けそうになりました。「トモ君、トモ君、あなた女の子だったの。」女の子はクスッと笑い、「はい、友恵です。」
 さーこの物語、この先どうなるんだろう。N君と友恵ちゃんの将来は?それは分からない。何故なら物語はここで唐突に終わってしまうから。さいなら。グッド・バイ

邯鄲の夢 - 第六夜

2014年12月05日 17時21分08秒 | 夢十夜
6. 南波照間島

 日本の西の果て、先島と呼ばれる八重山諸島は東から石垣島、西表島、与那国島と並び、西表島の南に小さな波照間島があります。西に向かえば台湾ですが、南は広大な太平洋が広がり島などありません。しかしながら波照間島には、その大海のかなたに南波照間島という南海の楽園があるという言い伝えがあります。南波照間島は無人で、太古の森には鳥と獣たちが群生し、清冽な真水の出る泉があり、島はうっそうとした木々でおおわれ果実がたわわに実り、海岸では貝や魚がいくらでもとれるといわれています。
 江戸時代の琉球(沖縄)は薩摩藩の圧政に苦しみ、その厳しい人頭税の取立ては、島民から生きる活力を奪っていました。妊婦が断崖絶壁の裂け目を飛び越え、それでも流産せずに生まれてきた子だけを育てたり、武器を奪われたため、素手や木製の農耕具で戦う空手を森の中で練習したりした時代でした。
 或る時、波照間島の村人は相談して島を捨て、大海のかなたにあるという南波照間島を目指すことに決めました。役人が島を離れた隙に舟を仕立てて家財道具を積み込み、南波照間島を目指しました。その船出の際、若い母親が浜に鍋を置き忘れたことに気がつき慌てて取りに戻りました。家族は引き止めますが鍋一つといえども当時は大変貴重なものです。母親は鍋を拾って急いで舟に戻ろうとしますが、引き潮に流され舟はあれよあれよと言う間に沖に流されてしまいました。
 夫、子供たち、両親や知人、友人の全てを乗せて舟は沖へ沖へと流されついに大海原の彼方へと消えていきました。その後その舟の消息は途絶え、母親がどのような気持ちでその生涯を終えたのかは、言い伝えには残っていません。地図にはない南波照間島で幸せに暮らしているであろう家族を想う、一人残された女性の嘆きを考えるといたたまれない気持ちになりませんか。南の国の明るい島に残る悲しい物語です。