旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

ローマ法王の拉致

2017年02月19日 11時36分52秒 | エッセイ
ローマ法王の拉致

 塩野七生さんの本、『ローマ亡き後の地中海世界』を読んで驚いた。1516年、イスラムの海賊(バーバリアン)クルトゴルが当時のローマ法王レオーネ十世の拉致を試みたのだ。中世の十字軍の時代を経て、イスラム勢力はオスマン・トルコに集約された。コンスタンチノープルは1453年、メフメト2世によって占領されヨーロッパに衝撃が走った。東ローマ帝国は地上からその姿を消し、オスマン・トルコはエジプト・シリア・ギリシャを占領して、アドリア海・エーゲ海を傘下に収め、地中海の東半分の制海権をヴェネチアと二分して確保した。ヴェネチアとトルコは通商条約を結んでいる。
 オスマン・トルコはバルカン半島を北上し、神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲する。ところが陸戦では圧倒的に強いトルコ軍にも弱点があった。海だ。トルコ帝国の祖先が中国の史書に出てくる突厥だとすると、遥か東からボスポラス海峡に達するまでの間に、草原と砂漠は続くが海はない。同じように遊牧民族だったモンゴルは、日本やベトナムを攻めるのに降伏した南宋の海軍を再編して使った。役に立てば良し、負けて全滅しても反乱の危機が無くなるのでそれもまた良し。
 オスマン・トルコは海賊を採用した。これは帝国と海賊相方にとってメリットがある。オスマン・トルコは自国の弱い海軍を、経験豊かな海賊の雇用によって一気に挽回し、西側のキリスト教国の海軍力に対抗出来る。海軍力は、トルコ軍が渡海して大軍を派遣する時に必要になる。海賊は自前の艦隊ごと参戦するので、過分な恩賞を与えても常設海軍を保持するよりは遥かに安上がりだ。海賊に取っては、帝国の権威を借り報酬を貰い、また帝国の強大な陸軍力を拝借出来る。それに海賊と呼ばれるよりは、提督と呼ばれたい。他の海賊や手下にも示しがつくというもんだ。
 中世から近世にかけて地中海の西側でイスラムの海賊(バーバリアン)は暴れまくった。北アフリカの地中海沿岸は、ベルベル人が住んでいるので、ヨーロッパではバルバリア(バーバリ)海岸と呼ばれた。そこを根拠地とした海賊がバルバリア海賊だ。彼らはジブラルタル海峡を越えてイングランド、アイルランド、アイスランドも襲った。西アフリカの大西洋岸や南アメリカにまで遠征したこともあるが、主な活動領域は西地中海だ。
 彼らはアフリカ北海岸のチュニス、アルジェ、トリポリ等から出撃してキリスト教徒の船を片端から襲った。積み荷・船・乗組員・乗客全てが得物となった。その攻撃の主目的は、北アフリカや中東でのイスラム奴隷市場に送るキリスト教徒を捕まえることだ。海賊は無数の船を襲撃して捕獲したが、それ以上に沿岸部や島を襲った。スペインやイタリアでは、海岸線はほとんど全ての住民が放棄し19世紀まで定住が進まなかった。
 16~19世紀、バルバリア海賊が捕えたキリスト教徒は、推定で80万人ないし125万人に達する。奴隷はガレー船の漕ぎ手、家庭用、帝国の労働力としていくらでも必要とされた。裕福な奴隷は、身代金と引き換えに引き渡す。キリスト教徒の奴隷解放運動も盛んで、イスラム教徒から奴隷を少しづつ買い戻した。1544年ナポリ湾のイスキア島占領4千人、リーバリ島の全島民9千人、1551年マルタのゴゾ島5千or 6千人(全島民)、イタリア南部のヴィエステ7千人、1555年コルシカ島6千、1558年メノルカ島3千、1563年グラナダ付近4千人。年寄りを除いて根こそぎ連れ出した。年寄りはだいたい教会に押しこんで焼き殺す。この結果、地中海のいくつかの島では人が住まなくなった。
 海賊の襲撃は16世紀以降激しくなり、1830年のフランスによるアルジェリア占領によってやっと大規模な海賊行為が終了した。ここまでくると単なる海賊行為を逸脱している。これは戦争だ。海賊は北アフリア一帯をオスマン・トルコ帝国に献上した。帝国からは役人が派遣され、掠奪物の10%が上納された。また海賊がアルジェ大守に任命された時期もあった。トルコ帝国は陸軍を防衛のために派遣した。これはオスマン・トルコ対キリスト教国の海の戦争に他ならず、概ねトルコ/海賊優位に展開した。海賊は襲撃地点を自由に選択した。防衛が薄く救援に時間がかかり、収穫が多い所だ。変幻自在に出没して掠奪し、風のように去る海賊にヨーロッパのキリスト教徒は震え上がった。
 当時地中海で最も強い海軍を持っていたのはヴェネチア共和国だったが、ヴィネチアはトルコと通商協定を結んでいた。ヴェネチアの植民地がトルコ支配下のバルバリア海賊の襲撃を受けることがない代わりに、ヴェネチア海軍も海賊とは戦わない。だいたい海賊は海戦を避ける。海軍と戦っては損害が大きく、もし勝っても得る物は少ない。また海賊には不利な点があった。当時の大型ガレー船には、200人の漕ぎ手と50人の乗組員(戦闘員)が乗る。バルバリア海賊の漕ぎ手は、鎖に繋がれたキリスト教徒だ。船に乗り移って戦う間に、この漕ぎ手が解放されれば復讐に燃える恐ろしい敵に代わる。一方のキリスト教徒のガレー船は漕ぎ手も自由人なので、乱戦の中で彼らも戦闘員になる。戦闘が長引き、激戦になると不利になる訳だ。
 ヴェネチアに次ぐ海軍力を持つのはジェノヴァだが、ジェノヴァは胡椒等の貿易を独占しているヴェネチアほど財政的に豊かではない。そこでスポンサーに付いてもらい、艦隊ごと傭兵になった。主なスポンサーは、神聖ローマ帝国だ。ジェノヴァの傭兵隊長ドーリアは、何度もバルバリア海賊赤ひげと戦い打ち破っている。
 キリスト強国の中心はローマ法王だが、信者からの寄進はあるが土地は狭い。法王庁海軍は、勇敢な指揮官の下海賊退治に活躍したが、いかんせん規模は小さい。あとはマルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)。もともとはトルコ沿岸のロードス島で海賊行為を行っていた。巡礼に向かうイスラム教徒のダウ船を片端から襲い、キリストの蛇と恐れられた。どっちもどっちだ。ロードス島がスレイマン大帝によって陥落させられた後、マルタ島に移って戦い続けた。キリスト教徒が合同海軍を結成すると、数隻だが必ず参戦し勇敢に戦った。
 近世のヨーロッパの大国はスペインとドイツを併せ持つ神聖ローマ帝国、そしてフランス王国であった。しかし両国の仲の悪さは致命的で、フランスはフランソワ1世の時、神聖ローマ帝国皇帝のカール5世(スペイン王カルロス1世)に対抗する余り、オスマン・トルコと同盟を結んだ。これには流石に他のキリスト教国から非難が集中した。しかしローマ法王も、プロテスタントの台頭などで中世ほどの権威がない。「破門じゃ」というレッドカードの威力が薄れていた。
スペイン(神聖ローマ帝国)は、新大陸から長い航海の末運んできた黄金を、目的地を目前にして次々に奪われるのだから堪らない。ジェノヴァの傭兵艦隊を主力にして神聖ローマ帝国、法王庁、マルタ騎士団の連合軍が海賊の根拠地チュニスを占領した。しかし長くは続かずに奪い返された。
 バルバニア海賊にトルコ人は少ない。ギリシャ人、サラセン人、ユダヤ人等のイスラム改宗者がメインだ。最も怖れられたのは赤ひげで、ギリシャ人ともアルバニア人ともいう。4人兄弟の三男で、他の3人はスペインとの戦闘で戦死した。赤ひげが頭角を現しスレイマン大帝に招聘された時、彼は皇帝への引き出物として、イタリア一の美女と謳われた貴族ジュリア・ゴンザーを狙った。
 彼女はその時、海辺の村に保養に来ていた。その辺の情報収集力が凄い。海賊はスパイを駆使していたのだ。この暁の襲撃は、間一髪のところで失敗した。海賊は隠密裏に上陸したが、ジュリアが物音を聞きつけ自分が目当てと知り、裏口から屋敷を出て一目散に内陸へ駆け去ったのだ。ルネサンス期の女性は勇敢で活動的だ。ジュリアは乗馬の名手だった。赤ひげは腹立ちまぎれに村に放火して引き揚げた。
 赤ひげは単に粗野な海賊ではなかった。副官のシナン・レイースの息子が捕われていたのを取り戻し、1545年にスペイン本土の港に砲撃を加え、マジョルカ島に上陸して、それを最後の遠征とした。引退後アルジェ知事は息子が継ぎ、艦隊はレイースが継いだ。イスタンブール近郊の海辺に宮殿を建て回顧録を書き取らせた。赤ひげの死から数世紀に渡ってトルコ海軍の艦長は、海上作戦や海戦に向かう前に礼砲をして赤ひげの霊廟に敬礼を捧げた。

 さてローマ法王を襲った海賊は、珍しくトルコ人のクルトゴルでスルタンの信任が篤かった。この誘拐は間一髪であった。レオーネ十世は肥満体だが、狩りを好む活動的な人物で乗馬は得意だったのだ。クルトガルは法王レオーネが海岸近くの貴族の城砦に滞在している事を知り、自ら十二隻の快速ガレー船を率いて夜半に上陸した。襲撃を夜明けまで待ってしまったのは失敗だった。広い平原の中に建つ城砦の包囲も完全ではなかった。法王は襲撃を知り、馬に飛び乗ってローマまで駆け抜けた。友人や従者は置き去りにした。際どい逃走だった。その事件の後、海賊対策を強化して一定距離を取って海岸線に見張り台を置き、一定数の兵を常駐させたが大きな効果は得られなかった。長く広い海岸線の全てを守ることは出来ない。
 もしこの時ローマ法王がバルバロス海賊に捕えられていたら、歴史は変わっていたかもしれない。法王はイスタンブール市内を、鎖につながれ素足で晒し者として引きずり廻されただろう。ヨーロッパを襲った衝撃は、コンスタンチノープル陥落を上回るものだったに違いない。今日あるようなカトリック教会の権威は保たれなかっただろう。こんな際どい事件が16世紀に起こっていたとは驚いた。乗馬の得意な法王で良かったね。

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