サンゲー村の天才少年 - 続き
それでなくとも戦時下の国境には変な奴らが集まってくる。プレスの連中とはあまり知り合わなかったが、ボランティアだけでも十分変だ。僕らのNGOはタイ在住の邦人、特に駐在員の奥さんがリーダーとなって始めたのだが、その後発展して活動範囲をアフリカ、ヨーロッパにまで拡げ日本を代表する海外難民のボランティア団体となった。しかしいかんせん資金がない。日本人の若者は、日本から或いは海外貧乏旅行中に次々と集まるが、井戸掘りの機械を購入するような資金はとてもない。そこでアメリカのNGOから機械(日本製だった。)を借り、我々は労働力を提供して井戸を掘った。ちょうど国際情勢と逆だな。日本は金だけ出して血と汗は出さないと批判されているものね。
欧米系のボランティアは数百年の伝統を持ち、そのほとんどが各種キリスト教の団体である。頂点には国連、老舗の国境無き医師団、欧米だけでなく台湾から来た奉仕団もいたし、日本からは曹洞宗の団体が、国境だけでなくタイ国内の湿地帯にあるクロントイのスラム街で教育活動を行っていた。代表一人で来ていた日本人は、どういうバックアップがあるのか、米屋のトラックを雇って荷台一杯の米袋を難民村に運んだのは良いが、雨季のドロドロ道にトラックが嵌って動けなくなり、四苦八苦してゲリラ兵に助けられていた。
さて我々に機械を貸し出したアメリカの団体は一体どんな連中なんだ?バンコク市内にしゃれたオフィスを借りていた。一度朝早く訪ねて乾燥肉に牛乳をかけた物を食わせてもらったが、おそろしくうまかった。普段朝は米粉のソバばかりだったからね。そのアメリカ、ボランティアの副長格の男が怪しかった。ヤンキーなのにタイ語がペラペラで、国境に四駆のピックアップトラックで頻繁に出没し、人工衛星でも打ち上げるのかと思うほど大げさな通信機器を積み立てて、どこぞと延々話していた。うわさでは元CIAとかだが、お前さん現役のCIAだろ。だとしたら人の少ない割にやたらと資金が潤沢なのもうなずける。当時敵(ベトナム軍?)が毒入りオレンジをばら撒いている、というネガティブキャンペーンの情報を集めていたようだが、オレンジもバナナもバンサンゲーでは見たこともない。
後にこの団体から二人の米国人を送りこんできたが、一人はネイティブアメリカンのクウォーターのおじさん、四十歳位だろうが、若い僕らには相当なオジンに見えた。もう一人は身長2m15cm位の若者で、二人共いい奴だった。インディアン混じりのオッサンは工具に混ざっていた手斧(トマホーク)が気に入り、休憩時間に下から投げて木に突き刺す練習をよくしていた。いたずらでウメボシを食わせてみたら、ウマイねと言って出てきた種を二つに歯で噛み折って、中の髄のような部分まで食っている。ギャフンと言わせる積もりだったが、こっちが言わされた、ギャフン。2m15cmの男は気のいいアンちゃんだが、この身体では160cmのタイの強盗は手を出さない。ピストルの弾を2・3発食らっても反撃してきそうだもんね。本国で車を売って旅費を作って来たと言っていた。後街のコーヒーショップで何人もの欧米人に会ったが、古い事でもうよく覚えていない。ただ僕らのメンバーの一人が、タイの憲兵に脱走兵と間違えられて職務質問を受けたのには笑った。
さて話しを戻すよ、バンサンゲー。バンは集落の意味だからサンゲー村だな。国道沿いにアランヤ・プラテートから一時間ほど北上して、国境にある水路を越える。丸太がかかっているだけだから恐い。下は泥の濁流だ。両手に道具を持ってバランスを取って渡る。そこからジャングルの中を20分程歩くとバンサンゲーに着く。密林の中に寄り添うように掘っ立て小屋が建てられている。ため池の横の小さな広場が僕らの井戸掘り現場だ。村の指導者の居る建物から近い。
ここバンサンゲーはソン・サン派の集落だ。ソン・サン氏はロン・ノル時代の首相で、言ってみれば資本主義者だ。資本主義ゲリラとは珍しい。1982年当時、カンボジアに侵攻してきたベトナム軍に対抗する三勢力(クメール・ルージュ=ポル・ポト派、ソン・サン派、シアヌーク派)を国連が無理やり同盟させ、三派連合として西側が支援した。彼らは主にカンボジア北西部の山岳地帯を中心に国境沿いにベトナム軍と対峙して、薄氷の抵抗を続けていた。とはいえ実際の戦闘はほとんどポル・ポト派の残兵が一手に行っていて、一説ではソン・サン派は五千人、シアヌーク派は五百人の兵力しか持たないという。それにシアヌーク派とソン・サン派の住民の大半は、侵攻してきたベトナム兵よりもはるかにポル・ポト兵を憎んでいた。三派連合は西側が、援助がやりやすいように無理やり押し付けた、土台無理な同盟だった。
クメール・ルージュ(ポル・ポト派)が国を治めていた悪夢の三年八ヶ月、150~250万人の国民が殺されたという。実に国民の3人に1人か4人に1人が虐殺で命を落とし、首都プノンペンは無人の街となった。他国の軍隊ではあってもベトナム軍はある意味救世手だった。それに無謀にも戦争を仕掛けたのはクメール・ルージュの方だった。最初はカンボジアがベトナムに侵攻したのだ。狂っていたとしか思えない。しかしながら一言云いたい。国境に追い詰められてからのクメール・ルージュ(ポル・ポト派)の粘りは驚異に値する。ポル・ポト兵を悪魔のカラスと言うのはたやすい。カラスというのは、彼らが黒服を着てタイヤのゴムから作ったサンダルを履き、首にクロマー(寝る時は体に巻く大きなマフラー、大抵赤と白の布)を巻いているところから来ている。ポル・ポト時代も軍管区によっては温情的な指導者もいたという話がある。映画『キリング・フィールド』にも、知識人の主人公をかくまうリーダーが出てくる。もっとも彼は映画の中で、少年兵にハエでも殺すように撃ち殺されるのだが。また実際にベトナム国境に近い軍管区は、ベトナム系の住民が多く反乱の疑いを持たれて虐殺されている。単純にポル・ポト派=悪と切り捨てることに一抹の不安を覚える。そんな単純なことなのだろうか。
ベルリンの壁が崩れ落ち、ソ連が解体しなければカンボジアはベトナムに併合されていただろう。そうしたらアンコール・ワットはベトナム観光になっていた。現在カンボジアの都市郊外に、広大な敷地でベトナム兵の英雄墓地がいくつも目につくが、これらは今後どうなるのだろう。訪れる人も管理する人も年々減って行く。街が発展するにつれ不快なほど広いこのスペースに向かう視線が冷たくなるのは仕方がない。時代の流れとはいえ、開放の戦争から侵略へと評価が移った。本当にその時その時の国際情勢、国力等によって善は悪に、悪は善に。絶対なんて無いんだ。永遠なんてうそだ。だから常に謙虚であれ、人間。他国に英雄墓地なんて作らない方が良い。
とはいえ本当に紙一重だったんだ。占領地(大半の平野部)は平和が戻り、駐留するベトナム兵に子供達は懐き、学校ではベトナム人の先生がベトナム語で教育をしていた。街を歩く外国人といえばロシア人だった。何しろ悪夢の三年八ヶ月(太平洋戦争中の日本と同じ期間だ、結構長い。)の間にカンボジアでは学校の先生、医者、公務員、銀行員、王族ほとんど全ての知識人が抹殺されてしまったのだ。猜疑心の強いエセインテリは始末に負えない。ポル・ポト、本名サロット・サルは根っからの悪党とは言い切れない。だいたいポル・ポトってPolitical Potentialの略だって、自分はインテリじゃんか。フランス留学崩れでまさか政権を取るなんて、本人ですら考えていなかったんじゃないか。最初は紙幣を印刷するところから始めようとし、デザインを決めていたが、何からどう国を運営するのか真っ白な状態で、何も出来ず結局破壊に走った。プノンペンから一人残らず住民を追い出し農村に移した。原始共産制を一気に実現するんだとか言って、最初に訪問した中国で毛沢東に煽てられ、持ち上げられてその気になった。しかし毛沢東は腹の中で舌を出していたに違いない。農業だって道具はいるし、知恵も肥料も水利の管理も必要だ。天候の予測、灌漑設備の建築、医療、衣食住、全てに於いて知識を持っている人間、物を考える人間を殺してしまったら社会は成り立たない。恐怖で支配して何が理想社会だ。ただ一つ。ポル・ポトがアンコール遺跡群を破壊しなかったことだけは幸いだった。
1956年8人乗りのレジャーボートに82人で乗り込み、キューバの開放を目指したフィデル・カストロ、上陸して直ぐにバチスタ軍に空と地上から追われ、12人になって山岳地帯に逃げ込んだ。しかし彼はそのような状況でも革命後のビジョンを練っていた。農地改革、工業化の促進と労働者の保護、家賃の大幅値下げと国営住宅の建設、電気・ガス・電話の国有化と普及。税制の改革、軍人・公務員の待遇改善、教育の普及、司法制度の改革、差別の根絶。アルゼンチン人の軍医、チェ・ゲバラは喘息に苦しみながらもジャングルの中で代数の勉強を続ける。革命が成った後に経済が重要なことを知っているからだ。サロット・サルには何のビジョンも見えない。人を疑い裏切りを恐れるだけだ。
さて話しはバンサンゲーに戻る。ここはそもそも人が住むような所ではない。ただの不毛なジャングルで、近くに川はなく水はため池か水溜りにしかなく、水溜りの水は太陽にさらされ生ぬるく腐って、すえた臭いがする。僕らの足はこの腐水にジャブジャブ入るため、蚊に刺された痕からばい菌が入り爛れていった。毎日その水に入るので、薬をつけても効果はなく、足一面から尻の方まで潰瘍状に悪化した。痛くてかゆい。村の子供達にはモノモライが多く、またオデキの穴が爛れている。きれいな水で洗って欲しい。このジャングルの中ではキャッサバと少々の野菜しか育たない。ため池でゴムぞうりを千切って浮きにして釣りをしても、小指ほどの小魚しか釣れない。タイ側に行けば手の平サイズが入れ食いなんだが。
この村の最高指導者はソン・サン氏で、一度お会いしたら日本語で「ありがとう。」と言われた。氏は『サイゴンから来た妻と娘』の著者である毎日新聞の近藤記者と仲が良いことを、近藤氏の本を読んで後で知った。ソン・サン氏と一緒に来た迷彩服の将軍は見るからに悪そうで、彼は英語で「この井戸はいつ完成するんだ。」と工兵を叱るように言っていた。村に常住している、いわば村長さんは意外にも三十代位の小柄なすこぶる美人で、自分はひそかに彼女に惚れた。凛として本当にきれいな人だ。この指導者一家(?)は中国系で台湾の奉仕団とつながりがあった。水面下で複雑な政治があるんだろうが、自分には関係ない。仲間の一人が麗澤大学中国語専攻の二年生で、彼は普通に中国語(北京語)で彼女達と話している。スゴイな。うらやましいな。二年生でこんなに話せるんだ。雑用をやっている妙にませた十二歳位の小僧がいて、自分は彼に陶淵明の「帰りなんいざ、田園正に荒れんとす。」の分からない漢字を○で書いた紙を渡したら、えらい達筆できれいに埋めて寄越した。ウーン、おぬし出来るな。
一度村長さん達にお昼をご馳走になった。なけなしの野菜をいためたもの。卵、大きなタニシ、これは美味しかった。後ぐちゃぐちゃで何だか分からず気持ちが悪いもの。これは結局日本の缶詰、カツオのフレークを皿に盛ったものだった。本当を言うと禁止されていたのだが、自分はよくお金を預かって医薬品やセッケン、写真の現像等を請け負って街で用足しをした。彼女の役に立ちたかったんだ。街では品物があふれかえっているのに、バンサンゲーでは何一つないんだ。たった一度だけ私物、口紅を頼まれた時はうれしかったな。
彼女は良くクメールの少年を連れ歩いていた。小学校五年生位に見える彼は、いわゆる天才少年だった。英語は僕らよりはるかに流暢に話し、フランス語、それと多分中国語を話す。その冷静な話し方はまるで先生かお坊さんのようだ。自分は水色無地のTシャツにマジックで「カンプチア」とクメール文字で書いてもらった。裏は斜めに「南無阿弥陀仏」と書いたから丹下佐膳だな。
美人村長はこの少年をアメリカに送り出す計画を進めていた。国境のカンボジア側にいる難民が西側の国へ移住する事など、普通は考えられないが蛇の道はヘビ、協力する外部の人がいるんだろう。民族の希望は、優秀な子供に教育を与えることによって託す。彼は孤児だった。いつもおだやかで静かなハニカミヤさんだった。いつも井戸掘り現場に入り浸って僕らと遊んでいるモーパンやモーワットのような洟垂れガキとは出来が違う。
井戸掘りの現場には、枝と竹を組んで葉をかぶせた即席のテントのような物があって、日よけになるので子供だけでなく大人も集まっていた。まさか僕らの護衛ではなかろうが、ゲリラの少年兵やおっさん兵、地雷で足を片方失くした兵士らがいつも休んでいた。中国製のAK47、ロケット砲、迫撃砲、手榴弾はお手製の竹に火薬を詰めたもので、底の部分に糸が巻いてあって糸の先端に金具の輪がついている。この輪に指を入れてぶん投げると糸が伸びきって信管が外れる仕組みだが、もし外れなかったら自分の所に戻ってきちゃうな。兵士、村人の中には足の先を失くして松葉杖をついている人がよく目につく。対人地雷にやられたのだ。地雷は埋めたのが敵か味方か、またいつ埋めたのか分からず、雨季になると水に流されどこに埋まっているのか誰にもわからない。小さな女の子が松葉杖をついているのはやりきれない。タイ国内の難民キャンプ、カオイダンの日本人医療チームに地雷でやられた足の写真を何枚か見せてもらったが、足くびから下が三倍ほどに膨れ上がっていて、これは切断する以外に手の施しようが無いことが良く分かる。敵は殺すより不具者にした方が負担をかけるし、士気を削ぐので効率がよいのだ。しかし片足を失くした少年兵のくったくの無さは、士気を挫くという目的を達したとは思えない。
一週間に二度ほど、食糧等の配給が国連により行われる。しかし量が限られているので、配給は女性限定である。その為少年は髪を長くし、女装して配給に並ぶ。女子供で分類すると、子供の年の線引きが難しいのだろう。援助物資の受け渡しは一人一人に手渡しだから、炎天下に長い列が出来て時間がかかるが、皆行儀よく待っていて混乱はない。
いつもパンツ一丁で遊んでいる少年達が、巻きスカートをはいて女の子の格好をしているのを横目で見て噴き出したいが、そこは武士の情け、見てみぬ振りをする。サンゲー村は一見数個の小屋しか無いように見えるが、ジャングルの奥へ奥へと広がっている。栄養失調で髪が赤茶け、腹の出ている子もいるが、住民は笑顔を絶やさない。村では学校を作って教育をしている。クメールダンスも教えている。ダンサーも踊りの先生もその多くがポル・ポト兵に殺されてしまった。彼らは子供たちにオンカー(党)への忠誠を要求し、親子の縁を断った。ポル・ポトは言う。「我々はこれより過去を切り捨てる。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは過去の生活を懐かしんでいるからだ。」それだけにこの密林の中で必死に、文字だけでなくクメールの伝統であるダンス、料理、刺繍、昔話等を子供たちに継承する努力がなされている。断ち切られそうになった民族のアイデンティティーを子供たちに受け継がせるのだ。この村は子供たちの笑顔が素敵だ。特に小さな女の子の口元に、はにかんだ笑いがポっと浮かび、時間をかけて顔一杯に広がって行き、やがては顔が満開の蓮の花になる。見ているとうっとりとして幸せになっちまう。なんて素敵な笑顔なんだ。
タイ国内の難民キャンプは、食い物には困らないがもっと無気力だ。ここは食い物も服も無いがずっと楽しそうだ。子供は他の世界を知らないから、自分たちが不幸だとかは思っていないな。とはいえ戦場は直ぐそこ。前線からハンモックで包んだ負傷兵を運んでくる。付き添う一人が点滴を高く掲げている。ハンモックは血をぐっしょり吸っている。雨季で毎日のように道が崩れる。時には一面が湖のようになって、どこが道だか分からない。援助物資を積んだトラックや給水車が村まで来られなくなったら死活問題なので、ゲリラ兵が道路を補修する。土を盛ってきれいに踏み固めるが、コンクリートも石材木材も使っていないので、次の雨までしか道はもたない。資材が全く無いので、これでは保たないと分かっていても仕方がない。そんな作業をしているゲリラ兵の一人が急に日本語で話しかけてきた。ロン・ノル時代、日本大使館で働いていたと言う。「田中さんは元気かな。」と言われてもね。その時は短い会話しか出来ず、その後彼に会うことは無かった。時間があれば、ポル・ポト時代をどう生き残ったのか聞いてみたかった。
当時のタイは増え続ける難民に頭を抱えていた。タイ国内の難民キャンプは飽和状態で、カンボジア難民に加えて北からは山岳民族のモン族を主体とするラオス難民、旧サイゴンを命がけで抜け出してきたベトナムのボートピープル、ビルマからの難民もいる。タイとしては国境の向こうに留まっている大人数のクメール難民の、自国へのこれ以上の流入は何としても阻止したいところだ。難民は何十万人もいるのに、西側諸国の受け入れは中々進まない。日本などは数十人引き取っただけだ。五十万人の難民に対して五十人の受け入れでは、一万年かかる。
僕らの井戸掘り作業は、金属パイプを継ぎ足し継ぎ足しすでに50mは掘っているのに、水のある層には容易に到達しない。雨季の地表は水にあふれているのに、ここの土地は地下までが貧しい、不毛の密林だ。普段は見捨てられているのも肯ける。あせりの色が出始めたある日、事故は起きた。その前日にボスのミノxさんが会議でバンコクに行った。残ったメンバーの中ではっきりとしたリーダーは決まっていなかったので、古株の二人が指導したが、何となく気のゆるんだ感じだ。最初の事故は、ポンプの上で作業をしていた若者のポケットからジッポのライターが落ち、下にいる作業員の頭をかすめて地面に落ちた。大事には至らなかったが危ない。3m落ちてきたジッポを頭に受けたらたまらない。ここでボスがいたら、いったん作業を中断してクールダウンしたこところだろうが、ストップをかける人はいずそのまま作業を続けた。
その直後、パイプが落ちた。ジョイントが不完全だったのだ。普通なら接続を何度も確認してやっと手を離すので、そうそうは起きないミスだ。やはりこの日はおかしかった。次の日は戻ってきたボスと相談して、バンサンゲー行きを中止して、穴の底に落ちたパイプの回収工具を街の自動車修理工場で作成した。パイプを何度も何度もジョイントして穴の底まで先端を下ろす。パイプの本数を数えて底からの距離を測る。先端にはいつもの土を掘るドリルの代わりに、落ちたパイプを絡め取る金属具を取り付けてある。底近くで何かに接触したガリガリいう感触がした。そこで強引にパイプを少し下げ、ほんのちょっと回転させる。バリバリいう手ごたえにパイプを絡め取ったことを信じて巻き上げる。パイプを上から一本一本外していく。このジョイントと外しの作業が炎天下で続くので、いつも作業よりもきつい。やっと先が見えてきた。やった、ぐにゃぐにゃになったパイプが見事に金具に巻きついて上がってきた。広場を取り巻く見物人から歓声と拍手が起きる。井戸の完成への期待というよりは、娯楽のない村での格好の見世物なのだ。
しかし回収したパイプは一本だけ、落としたパイプは数本ありその先端にはドリルがついている。折れ曲がったパイプは一本を残して落ち、未だ穴の底に残っている。その後残ったパイプは穴の土にめり込んだようで、ついに回収は出来なかった。回収金具を改良したり、落ちたパイプを無視してドリルを試したりしたが、うまくはいかない。その時点で水が出ないものか試したが、一度透明な水が出て廻りの皆から歓声が上がったものの十分な量はなく、井戸にはならなかった。僕らの二ヶ月を超える労働は失敗した。きれいな水で、ものもらいの目を洗ってもらいたかったのに。全く俺たちは何をやっているんだ。これなら絶対、自信があるという回収金具が完成し、これで駄目ならあの場所はあきらめようと決めた日、何故か連絡がうまくいかず、先行したアメリカ人二人が別の場所に機械を動かし始めていた。また一からの出直しだ。一ヶ月二ヶ月、30m、50m、70mと掘っても水が出るかは分からない。それ以上の深さはパイプの重みに耐えられず、機械が保たない。チームの士気は落ちた。
自分はその後このチームを離れ、タイ・ラオス国境近くの街チェンライに行き、そこからさらに山奥の難民キャンプに行って、自動車整備の教材作りを手伝った。例えば『かなづち、オイル』という概念がモン語にあっても、『エンジン』とか『ブレーキ』とかはないからここは音訳するか、とかモン族の青年たちと一緒にマニュアル本を作っていく。手間と時間のかかる仕事だが、今までのように体は使わない。ここでモン族、リス族、アカ族等、様々な山岳民族と触れ合って彼らの食べ物を味わい、闘鶏に興奮して面白い体験をしたが、これはまた別の話しだ。
バンサンゲーを離れ、美人村長や村の子供達、天才少年ともそれっきりになった。同じ団体でもチームが替わると、なかなか情報が入ってこない。バンサンゲーの井戸掘りがあれからどうなったのか、気にはかかるが分からない。その後数年してベルリンの壁が壊されソ連崩壊、ベトナム軍はついに自主的にカンボジアから撤退した。そして国連の指導で選挙が行われ、カンボジアにやっと平和が戻った。シアヌーク殿下は死ぬまで元国家元首としての影響力を保持したが、ソン・サン氏の政党は歴史に残らずやがて消えていった。現在プノンペンの王宮や虐殺記念館は、修学旅行なのか先生に連れられ制服を着た子供たちであふれている。ポル・ポト時代を知らない世代が、人口の半数を超えた。相変わらず貧しいが、農業を中心にした仏教国として人々は生き生きと暮らしている。アンコール遺跡群はきれいに整備され、観光客であふれている。日本人も三番目に多い。バンサンゲーは密林に戻ったことだろう。家屋は朽ち果てて土に返ったな。あの天才少年がその後どうなったのかは分からない。大人になって活躍をしていると良いのだが。
それでなくとも戦時下の国境には変な奴らが集まってくる。プレスの連中とはあまり知り合わなかったが、ボランティアだけでも十分変だ。僕らのNGOはタイ在住の邦人、特に駐在員の奥さんがリーダーとなって始めたのだが、その後発展して活動範囲をアフリカ、ヨーロッパにまで拡げ日本を代表する海外難民のボランティア団体となった。しかしいかんせん資金がない。日本人の若者は、日本から或いは海外貧乏旅行中に次々と集まるが、井戸掘りの機械を購入するような資金はとてもない。そこでアメリカのNGOから機械(日本製だった。)を借り、我々は労働力を提供して井戸を掘った。ちょうど国際情勢と逆だな。日本は金だけ出して血と汗は出さないと批判されているものね。
欧米系のボランティアは数百年の伝統を持ち、そのほとんどが各種キリスト教の団体である。頂点には国連、老舗の国境無き医師団、欧米だけでなく台湾から来た奉仕団もいたし、日本からは曹洞宗の団体が、国境だけでなくタイ国内の湿地帯にあるクロントイのスラム街で教育活動を行っていた。代表一人で来ていた日本人は、どういうバックアップがあるのか、米屋のトラックを雇って荷台一杯の米袋を難民村に運んだのは良いが、雨季のドロドロ道にトラックが嵌って動けなくなり、四苦八苦してゲリラ兵に助けられていた。
さて我々に機械を貸し出したアメリカの団体は一体どんな連中なんだ?バンコク市内にしゃれたオフィスを借りていた。一度朝早く訪ねて乾燥肉に牛乳をかけた物を食わせてもらったが、おそろしくうまかった。普段朝は米粉のソバばかりだったからね。そのアメリカ、ボランティアの副長格の男が怪しかった。ヤンキーなのにタイ語がペラペラで、国境に四駆のピックアップトラックで頻繁に出没し、人工衛星でも打ち上げるのかと思うほど大げさな通信機器を積み立てて、どこぞと延々話していた。うわさでは元CIAとかだが、お前さん現役のCIAだろ。だとしたら人の少ない割にやたらと資金が潤沢なのもうなずける。当時敵(ベトナム軍?)が毒入りオレンジをばら撒いている、というネガティブキャンペーンの情報を集めていたようだが、オレンジもバナナもバンサンゲーでは見たこともない。
後にこの団体から二人の米国人を送りこんできたが、一人はネイティブアメリカンのクウォーターのおじさん、四十歳位だろうが、若い僕らには相当なオジンに見えた。もう一人は身長2m15cm位の若者で、二人共いい奴だった。インディアン混じりのオッサンは工具に混ざっていた手斧(トマホーク)が気に入り、休憩時間に下から投げて木に突き刺す練習をよくしていた。いたずらでウメボシを食わせてみたら、ウマイねと言って出てきた種を二つに歯で噛み折って、中の髄のような部分まで食っている。ギャフンと言わせる積もりだったが、こっちが言わされた、ギャフン。2m15cmの男は気のいいアンちゃんだが、この身体では160cmのタイの強盗は手を出さない。ピストルの弾を2・3発食らっても反撃してきそうだもんね。本国で車を売って旅費を作って来たと言っていた。後街のコーヒーショップで何人もの欧米人に会ったが、古い事でもうよく覚えていない。ただ僕らのメンバーの一人が、タイの憲兵に脱走兵と間違えられて職務質問を受けたのには笑った。
さて話しを戻すよ、バンサンゲー。バンは集落の意味だからサンゲー村だな。国道沿いにアランヤ・プラテートから一時間ほど北上して、国境にある水路を越える。丸太がかかっているだけだから恐い。下は泥の濁流だ。両手に道具を持ってバランスを取って渡る。そこからジャングルの中を20分程歩くとバンサンゲーに着く。密林の中に寄り添うように掘っ立て小屋が建てられている。ため池の横の小さな広場が僕らの井戸掘り現場だ。村の指導者の居る建物から近い。
ここバンサンゲーはソン・サン派の集落だ。ソン・サン氏はロン・ノル時代の首相で、言ってみれば資本主義者だ。資本主義ゲリラとは珍しい。1982年当時、カンボジアに侵攻してきたベトナム軍に対抗する三勢力(クメール・ルージュ=ポル・ポト派、ソン・サン派、シアヌーク派)を国連が無理やり同盟させ、三派連合として西側が支援した。彼らは主にカンボジア北西部の山岳地帯を中心に国境沿いにベトナム軍と対峙して、薄氷の抵抗を続けていた。とはいえ実際の戦闘はほとんどポル・ポト派の残兵が一手に行っていて、一説ではソン・サン派は五千人、シアヌーク派は五百人の兵力しか持たないという。それにシアヌーク派とソン・サン派の住民の大半は、侵攻してきたベトナム兵よりもはるかにポル・ポト兵を憎んでいた。三派連合は西側が、援助がやりやすいように無理やり押し付けた、土台無理な同盟だった。
クメール・ルージュ(ポル・ポト派)が国を治めていた悪夢の三年八ヶ月、150~250万人の国民が殺されたという。実に国民の3人に1人か4人に1人が虐殺で命を落とし、首都プノンペンは無人の街となった。他国の軍隊ではあってもベトナム軍はある意味救世手だった。それに無謀にも戦争を仕掛けたのはクメール・ルージュの方だった。最初はカンボジアがベトナムに侵攻したのだ。狂っていたとしか思えない。しかしながら一言云いたい。国境に追い詰められてからのクメール・ルージュ(ポル・ポト派)の粘りは驚異に値する。ポル・ポト兵を悪魔のカラスと言うのはたやすい。カラスというのは、彼らが黒服を着てタイヤのゴムから作ったサンダルを履き、首にクロマー(寝る時は体に巻く大きなマフラー、大抵赤と白の布)を巻いているところから来ている。ポル・ポト時代も軍管区によっては温情的な指導者もいたという話がある。映画『キリング・フィールド』にも、知識人の主人公をかくまうリーダーが出てくる。もっとも彼は映画の中で、少年兵にハエでも殺すように撃ち殺されるのだが。また実際にベトナム国境に近い軍管区は、ベトナム系の住民が多く反乱の疑いを持たれて虐殺されている。単純にポル・ポト派=悪と切り捨てることに一抹の不安を覚える。そんな単純なことなのだろうか。
ベルリンの壁が崩れ落ち、ソ連が解体しなければカンボジアはベトナムに併合されていただろう。そうしたらアンコール・ワットはベトナム観光になっていた。現在カンボジアの都市郊外に、広大な敷地でベトナム兵の英雄墓地がいくつも目につくが、これらは今後どうなるのだろう。訪れる人も管理する人も年々減って行く。街が発展するにつれ不快なほど広いこのスペースに向かう視線が冷たくなるのは仕方がない。時代の流れとはいえ、開放の戦争から侵略へと評価が移った。本当にその時その時の国際情勢、国力等によって善は悪に、悪は善に。絶対なんて無いんだ。永遠なんてうそだ。だから常に謙虚であれ、人間。他国に英雄墓地なんて作らない方が良い。
とはいえ本当に紙一重だったんだ。占領地(大半の平野部)は平和が戻り、駐留するベトナム兵に子供達は懐き、学校ではベトナム人の先生がベトナム語で教育をしていた。街を歩く外国人といえばロシア人だった。何しろ悪夢の三年八ヶ月(太平洋戦争中の日本と同じ期間だ、結構長い。)の間にカンボジアでは学校の先生、医者、公務員、銀行員、王族ほとんど全ての知識人が抹殺されてしまったのだ。猜疑心の強いエセインテリは始末に負えない。ポル・ポト、本名サロット・サルは根っからの悪党とは言い切れない。だいたいポル・ポトってPolitical Potentialの略だって、自分はインテリじゃんか。フランス留学崩れでまさか政権を取るなんて、本人ですら考えていなかったんじゃないか。最初は紙幣を印刷するところから始めようとし、デザインを決めていたが、何からどう国を運営するのか真っ白な状態で、何も出来ず結局破壊に走った。プノンペンから一人残らず住民を追い出し農村に移した。原始共産制を一気に実現するんだとか言って、最初に訪問した中国で毛沢東に煽てられ、持ち上げられてその気になった。しかし毛沢東は腹の中で舌を出していたに違いない。農業だって道具はいるし、知恵も肥料も水利の管理も必要だ。天候の予測、灌漑設備の建築、医療、衣食住、全てに於いて知識を持っている人間、物を考える人間を殺してしまったら社会は成り立たない。恐怖で支配して何が理想社会だ。ただ一つ。ポル・ポトがアンコール遺跡群を破壊しなかったことだけは幸いだった。
1956年8人乗りのレジャーボートに82人で乗り込み、キューバの開放を目指したフィデル・カストロ、上陸して直ぐにバチスタ軍に空と地上から追われ、12人になって山岳地帯に逃げ込んだ。しかし彼はそのような状況でも革命後のビジョンを練っていた。農地改革、工業化の促進と労働者の保護、家賃の大幅値下げと国営住宅の建設、電気・ガス・電話の国有化と普及。税制の改革、軍人・公務員の待遇改善、教育の普及、司法制度の改革、差別の根絶。アルゼンチン人の軍医、チェ・ゲバラは喘息に苦しみながらもジャングルの中で代数の勉強を続ける。革命が成った後に経済が重要なことを知っているからだ。サロット・サルには何のビジョンも見えない。人を疑い裏切りを恐れるだけだ。
さて話しはバンサンゲーに戻る。ここはそもそも人が住むような所ではない。ただの不毛なジャングルで、近くに川はなく水はため池か水溜りにしかなく、水溜りの水は太陽にさらされ生ぬるく腐って、すえた臭いがする。僕らの足はこの腐水にジャブジャブ入るため、蚊に刺された痕からばい菌が入り爛れていった。毎日その水に入るので、薬をつけても効果はなく、足一面から尻の方まで潰瘍状に悪化した。痛くてかゆい。村の子供達にはモノモライが多く、またオデキの穴が爛れている。きれいな水で洗って欲しい。このジャングルの中ではキャッサバと少々の野菜しか育たない。ため池でゴムぞうりを千切って浮きにして釣りをしても、小指ほどの小魚しか釣れない。タイ側に行けば手の平サイズが入れ食いなんだが。
この村の最高指導者はソン・サン氏で、一度お会いしたら日本語で「ありがとう。」と言われた。氏は『サイゴンから来た妻と娘』の著者である毎日新聞の近藤記者と仲が良いことを、近藤氏の本を読んで後で知った。ソン・サン氏と一緒に来た迷彩服の将軍は見るからに悪そうで、彼は英語で「この井戸はいつ完成するんだ。」と工兵を叱るように言っていた。村に常住している、いわば村長さんは意外にも三十代位の小柄なすこぶる美人で、自分はひそかに彼女に惚れた。凛として本当にきれいな人だ。この指導者一家(?)は中国系で台湾の奉仕団とつながりがあった。水面下で複雑な政治があるんだろうが、自分には関係ない。仲間の一人が麗澤大学中国語専攻の二年生で、彼は普通に中国語(北京語)で彼女達と話している。スゴイな。うらやましいな。二年生でこんなに話せるんだ。雑用をやっている妙にませた十二歳位の小僧がいて、自分は彼に陶淵明の「帰りなんいざ、田園正に荒れんとす。」の分からない漢字を○で書いた紙を渡したら、えらい達筆できれいに埋めて寄越した。ウーン、おぬし出来るな。
一度村長さん達にお昼をご馳走になった。なけなしの野菜をいためたもの。卵、大きなタニシ、これは美味しかった。後ぐちゃぐちゃで何だか分からず気持ちが悪いもの。これは結局日本の缶詰、カツオのフレークを皿に盛ったものだった。本当を言うと禁止されていたのだが、自分はよくお金を預かって医薬品やセッケン、写真の現像等を請け負って街で用足しをした。彼女の役に立ちたかったんだ。街では品物があふれかえっているのに、バンサンゲーでは何一つないんだ。たった一度だけ私物、口紅を頼まれた時はうれしかったな。
彼女は良くクメールの少年を連れ歩いていた。小学校五年生位に見える彼は、いわゆる天才少年だった。英語は僕らよりはるかに流暢に話し、フランス語、それと多分中国語を話す。その冷静な話し方はまるで先生かお坊さんのようだ。自分は水色無地のTシャツにマジックで「カンプチア」とクメール文字で書いてもらった。裏は斜めに「南無阿弥陀仏」と書いたから丹下佐膳だな。
美人村長はこの少年をアメリカに送り出す計画を進めていた。国境のカンボジア側にいる難民が西側の国へ移住する事など、普通は考えられないが蛇の道はヘビ、協力する外部の人がいるんだろう。民族の希望は、優秀な子供に教育を与えることによって託す。彼は孤児だった。いつもおだやかで静かなハニカミヤさんだった。いつも井戸掘り現場に入り浸って僕らと遊んでいるモーパンやモーワットのような洟垂れガキとは出来が違う。
井戸掘りの現場には、枝と竹を組んで葉をかぶせた即席のテントのような物があって、日よけになるので子供だけでなく大人も集まっていた。まさか僕らの護衛ではなかろうが、ゲリラの少年兵やおっさん兵、地雷で足を片方失くした兵士らがいつも休んでいた。中国製のAK47、ロケット砲、迫撃砲、手榴弾はお手製の竹に火薬を詰めたもので、底の部分に糸が巻いてあって糸の先端に金具の輪がついている。この輪に指を入れてぶん投げると糸が伸びきって信管が外れる仕組みだが、もし外れなかったら自分の所に戻ってきちゃうな。兵士、村人の中には足の先を失くして松葉杖をついている人がよく目につく。対人地雷にやられたのだ。地雷は埋めたのが敵か味方か、またいつ埋めたのか分からず、雨季になると水に流されどこに埋まっているのか誰にもわからない。小さな女の子が松葉杖をついているのはやりきれない。タイ国内の難民キャンプ、カオイダンの日本人医療チームに地雷でやられた足の写真を何枚か見せてもらったが、足くびから下が三倍ほどに膨れ上がっていて、これは切断する以外に手の施しようが無いことが良く分かる。敵は殺すより不具者にした方が負担をかけるし、士気を削ぐので効率がよいのだ。しかし片足を失くした少年兵のくったくの無さは、士気を挫くという目的を達したとは思えない。
一週間に二度ほど、食糧等の配給が国連により行われる。しかし量が限られているので、配給は女性限定である。その為少年は髪を長くし、女装して配給に並ぶ。女子供で分類すると、子供の年の線引きが難しいのだろう。援助物資の受け渡しは一人一人に手渡しだから、炎天下に長い列が出来て時間がかかるが、皆行儀よく待っていて混乱はない。
いつもパンツ一丁で遊んでいる少年達が、巻きスカートをはいて女の子の格好をしているのを横目で見て噴き出したいが、そこは武士の情け、見てみぬ振りをする。サンゲー村は一見数個の小屋しか無いように見えるが、ジャングルの奥へ奥へと広がっている。栄養失調で髪が赤茶け、腹の出ている子もいるが、住民は笑顔を絶やさない。村では学校を作って教育をしている。クメールダンスも教えている。ダンサーも踊りの先生もその多くがポル・ポト兵に殺されてしまった。彼らは子供たちにオンカー(党)への忠誠を要求し、親子の縁を断った。ポル・ポトは言う。「我々はこれより過去を切り捨てる。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは過去の生活を懐かしんでいるからだ。」それだけにこの密林の中で必死に、文字だけでなくクメールの伝統であるダンス、料理、刺繍、昔話等を子供たちに継承する努力がなされている。断ち切られそうになった民族のアイデンティティーを子供たちに受け継がせるのだ。この村は子供たちの笑顔が素敵だ。特に小さな女の子の口元に、はにかんだ笑いがポっと浮かび、時間をかけて顔一杯に広がって行き、やがては顔が満開の蓮の花になる。見ているとうっとりとして幸せになっちまう。なんて素敵な笑顔なんだ。
タイ国内の難民キャンプは、食い物には困らないがもっと無気力だ。ここは食い物も服も無いがずっと楽しそうだ。子供は他の世界を知らないから、自分たちが不幸だとかは思っていないな。とはいえ戦場は直ぐそこ。前線からハンモックで包んだ負傷兵を運んでくる。付き添う一人が点滴を高く掲げている。ハンモックは血をぐっしょり吸っている。雨季で毎日のように道が崩れる。時には一面が湖のようになって、どこが道だか分からない。援助物資を積んだトラックや給水車が村まで来られなくなったら死活問題なので、ゲリラ兵が道路を補修する。土を盛ってきれいに踏み固めるが、コンクリートも石材木材も使っていないので、次の雨までしか道はもたない。資材が全く無いので、これでは保たないと分かっていても仕方がない。そんな作業をしているゲリラ兵の一人が急に日本語で話しかけてきた。ロン・ノル時代、日本大使館で働いていたと言う。「田中さんは元気かな。」と言われてもね。その時は短い会話しか出来ず、その後彼に会うことは無かった。時間があれば、ポル・ポト時代をどう生き残ったのか聞いてみたかった。
当時のタイは増え続ける難民に頭を抱えていた。タイ国内の難民キャンプは飽和状態で、カンボジア難民に加えて北からは山岳民族のモン族を主体とするラオス難民、旧サイゴンを命がけで抜け出してきたベトナムのボートピープル、ビルマからの難民もいる。タイとしては国境の向こうに留まっている大人数のクメール難民の、自国へのこれ以上の流入は何としても阻止したいところだ。難民は何十万人もいるのに、西側諸国の受け入れは中々進まない。日本などは数十人引き取っただけだ。五十万人の難民に対して五十人の受け入れでは、一万年かかる。
僕らの井戸掘り作業は、金属パイプを継ぎ足し継ぎ足しすでに50mは掘っているのに、水のある層には容易に到達しない。雨季の地表は水にあふれているのに、ここの土地は地下までが貧しい、不毛の密林だ。普段は見捨てられているのも肯ける。あせりの色が出始めたある日、事故は起きた。その前日にボスのミノxさんが会議でバンコクに行った。残ったメンバーの中ではっきりとしたリーダーは決まっていなかったので、古株の二人が指導したが、何となく気のゆるんだ感じだ。最初の事故は、ポンプの上で作業をしていた若者のポケットからジッポのライターが落ち、下にいる作業員の頭をかすめて地面に落ちた。大事には至らなかったが危ない。3m落ちてきたジッポを頭に受けたらたまらない。ここでボスがいたら、いったん作業を中断してクールダウンしたこところだろうが、ストップをかける人はいずそのまま作業を続けた。
その直後、パイプが落ちた。ジョイントが不完全だったのだ。普通なら接続を何度も確認してやっと手を離すので、そうそうは起きないミスだ。やはりこの日はおかしかった。次の日は戻ってきたボスと相談して、バンサンゲー行きを中止して、穴の底に落ちたパイプの回収工具を街の自動車修理工場で作成した。パイプを何度も何度もジョイントして穴の底まで先端を下ろす。パイプの本数を数えて底からの距離を測る。先端にはいつもの土を掘るドリルの代わりに、落ちたパイプを絡め取る金属具を取り付けてある。底近くで何かに接触したガリガリいう感触がした。そこで強引にパイプを少し下げ、ほんのちょっと回転させる。バリバリいう手ごたえにパイプを絡め取ったことを信じて巻き上げる。パイプを上から一本一本外していく。このジョイントと外しの作業が炎天下で続くので、いつも作業よりもきつい。やっと先が見えてきた。やった、ぐにゃぐにゃになったパイプが見事に金具に巻きついて上がってきた。広場を取り巻く見物人から歓声と拍手が起きる。井戸の完成への期待というよりは、娯楽のない村での格好の見世物なのだ。
しかし回収したパイプは一本だけ、落としたパイプは数本ありその先端にはドリルがついている。折れ曲がったパイプは一本を残して落ち、未だ穴の底に残っている。その後残ったパイプは穴の土にめり込んだようで、ついに回収は出来なかった。回収金具を改良したり、落ちたパイプを無視してドリルを試したりしたが、うまくはいかない。その時点で水が出ないものか試したが、一度透明な水が出て廻りの皆から歓声が上がったものの十分な量はなく、井戸にはならなかった。僕らの二ヶ月を超える労働は失敗した。きれいな水で、ものもらいの目を洗ってもらいたかったのに。全く俺たちは何をやっているんだ。これなら絶対、自信があるという回収金具が完成し、これで駄目ならあの場所はあきらめようと決めた日、何故か連絡がうまくいかず、先行したアメリカ人二人が別の場所に機械を動かし始めていた。また一からの出直しだ。一ヶ月二ヶ月、30m、50m、70mと掘っても水が出るかは分からない。それ以上の深さはパイプの重みに耐えられず、機械が保たない。チームの士気は落ちた。
自分はその後このチームを離れ、タイ・ラオス国境近くの街チェンライに行き、そこからさらに山奥の難民キャンプに行って、自動車整備の教材作りを手伝った。例えば『かなづち、オイル』という概念がモン語にあっても、『エンジン』とか『ブレーキ』とかはないからここは音訳するか、とかモン族の青年たちと一緒にマニュアル本を作っていく。手間と時間のかかる仕事だが、今までのように体は使わない。ここでモン族、リス族、アカ族等、様々な山岳民族と触れ合って彼らの食べ物を味わい、闘鶏に興奮して面白い体験をしたが、これはまた別の話しだ。
バンサンゲーを離れ、美人村長や村の子供達、天才少年ともそれっきりになった。同じ団体でもチームが替わると、なかなか情報が入ってこない。バンサンゲーの井戸掘りがあれからどうなったのか、気にはかかるが分からない。その後数年してベルリンの壁が壊されソ連崩壊、ベトナム軍はついに自主的にカンボジアから撤退した。そして国連の指導で選挙が行われ、カンボジアにやっと平和が戻った。シアヌーク殿下は死ぬまで元国家元首としての影響力を保持したが、ソン・サン氏の政党は歴史に残らずやがて消えていった。現在プノンペンの王宮や虐殺記念館は、修学旅行なのか先生に連れられ制服を着た子供たちであふれている。ポル・ポト時代を知らない世代が、人口の半数を超えた。相変わらず貧しいが、農業を中心にした仏教国として人々は生き生きと暮らしている。アンコール遺跡群はきれいに整備され、観光客であふれている。日本人も三番目に多い。バンサンゲーは密林に戻ったことだろう。家屋は朽ち果てて土に返ったな。あの天才少年がその後どうなったのかは分からない。大人になって活躍をしていると良いのだが。
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