旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

中世の異文化激突

2017年02月23日 17時33分46秒 | エッセイ
中世の異文化激突

 イスラム教の誕生(630年、メッカ占領)以来、その勢力拡大に伴い西と東で重要な戦いが起こった。西暦732年10月10日、フランス西部のトュールとポワティエの間で起こった、フランク王国対ウマイヤ朝の戦い。そして751年5~9月にかけて中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で、唐とアッバース朝の間で行われた戦い。前者はイスラムがフランク族に負け、後者は唐に勝った。

①トュール・ポワティエ間の戦い
 北アフリカを通り、ジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに上陸したイスラム勢力(ウマイヤ朝)は、イベリア半島の西ゴート王国(現スペインとポルトガル)を征服した。そして732年、ピレネー山脈の西端を越えて北上しフランク王国(現フランス)の征服を目指した。この戦いは、異質な文化圏のぶつかり合いだが、宗教戦争と呼ぶには早いかもしれない。イスラム教は誕生して100年、フランク王国も支配者から徐々にキリスト教(カトリック)化が進んでそう日が経っていない。しかしこの年、分割と内紛を繰り返していたフランク王国がピピン2世の元に統一していたことが、ヨーロッパにとっては幸いした。
 ウマイヤ朝のカリフによってイベリア知事に任じられたアル・ガーフィキーは、ピレネー山脈を越えボルドーを荒らした後、軍を東に向けた。トュールのサン・マルタン教会を狙ったのだ。中世キリスト教国では、富は教会と修道院に集中している。イスラム軍の兵力は6万とも40万ともいう。報せを受けたフランク王国のカール・マルテル(ピピン2世の子)は、軍を率いてパリからトュールに急行した。トュールに着くとまだイスラム軍は到着していなかったので、南のポワティエに向かった。ポワティエの手前20kmの平原で両軍は遭遇し、布陣して相手の様子を探った。フランク軍の兵力は15,000とも75,000ともいうが、敵に比べてかなり劣勢であったようだ。
 1週間目の正午に両軍は激突する。カール・マルテルは、日頃から厳格に兵の訓練を行っていた。イスラム軍の騎兵隊の突撃に対し、重装歩兵を中心とするフランク軍は密集隊形を組み、前面に楯の壁を作って防戦した。イスラム重装騎兵による突撃は、フランク軍の楯の壁を突破出来ずに死体の山を築いた。この日は勝敗が付かず、日没で戦闘が終わった。フランク軍は翌朝から再び激しい攻撃があるものと予想したが、朝が明けるとイスラム軍はおびただしい死体を残して姿を消していた。戦死者の中にアル・ガーフィキーの遺骸が見つかった。指揮官を失ったイスラム軍は、夜中に総退却していた。ピレネー山脈を越える補給の問題もあったのかもしれない。
 この勝利の後も735~739年にかけてイスラム軍はフランスに侵攻したが、ことごとくマルテルによって撃退され退却した。ピレネーを越えての侵攻は止んだのである。後になって分かった事だが、この戦いの持つ意味は大きかった。もしフランク王国が敗れていたら、一時的にせよ、ヨーロッパの大半はイスラム化していたであろう。

② タラス河畔の戦い
 751年5~9月にかけて、中央アジアのタラス地方で唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って会戦が行われた。新宗教普及の情熱に燃えるアラヴ人と、朝鮮族(高句麗出身)の将軍に率いられた中国人との戦いである。それぞれに現地民を味方に付けた。しかし兵力には相当の開きがあった。ズィヤード・イブン=サーリフの率いるイスラム・ソグド連合軍は20万人。高仙芝を指揮官とする唐と地元部族の連合軍は、わずかに3万(イスラム側の文献では10万)。しかも戦闘中、唐軍に加わっていた天山北麓に住む遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返った。
 唐軍は壊滅した。イスラム側の記録では、唐軍5万人を殺し2万人を捕えた、という。高仙芝は部下が血路を開き撤退に成功したが、逃げ延びた唐軍の兵士は数千人に過ぎない。その後高仙芝は罪に問われることはなく、安史の乱の討伐軍副元帥に任じられている。唐にとってはさして重要ではない、辺境での一つの戦いに過ぎなかったようだ。美男で有名な高仙芝は、最期は処刑されたが、それは讒言によるものでタラスの敗戦とは全く関係がない。
 この敗戦によって唐の勢力はタリム盆地に限定され、まもなく起こった安史の乱が影響して、唐の中央アジア支配は後退していった。一方イスラム勢力による中央アジア支配は確立し、ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まった。とはいえ漢民族の中国にイスラム勢力がこれ以上浸透して行くことも無かった。Wetな中国の気候、現世中心主義の漢民族に求心的な一神教は似合わない。例え一時改宗しても(税金が安ければ改宗しそうだ)、真のイスラム教徒には中々ならないだろう。豚も一杯いるしね。
 さてこの戦いは思わぬ副産物を生んだ。中国人の捕虜の中に製紙職人がいたのだ。紙の重要性に気付いたアッバース朝は、サマルカンドに製紙工場を開いた。昭和女子大教授の増田氏は、「唐軍は、軍組織の運営事務用の備品として大量の紙を必要とし、それを現地で生産供給するために製紙専門の技術部隊を擁していた。職人個人レベルではなく、彼らが組織的に備品設備ごと捕虜にされたのではないか」という説を述べている。
 ちなみに中国では紀元前2世紀から紙は使われていたが、蔡倫が高品質な紙を作って和帝に献上したのが西暦105年、日本へは500年かかって630年に入った。ヨーロッパにイスラム経由で紙が伝わったのは12世紀になってから。中国に遅れること千年以上。タラス河畔の戦いが無ければもっと遅れていただろう。


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