旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

鐙の発明 

2016年05月12日 21時20分45秒 | エッセイ
鐙の発明   

 鐙(あぶみ)の発明は、歴史上重大な出来事であった。鐙は鞍から左右一対を吊り下げ、騎乗時に足を乗せる。爪先を乗せ上体を安定させる。素材は金属製、革製もしくは木製である。現在はプラスチック製が主流だ。鐙の字は「金」と「登」から出来ているのを見ても分かるように、元々は馬に乗る際の補助具であった。
 馬に乗った事のある人は分かるでしょう。馬に跨って背を伸ばしたら、視線は地上2.5mほどになり怖いほどだ。馬はラクダと違い、乗る際にひざを折ってはくれない。鞍の前方にぶら下げた、片側だけの輪っか状のロープは紀元前5世紀頃のインドや、古代の中国で使われていた。しかしこれは乗り降りの時にしか使わない。
 走っている時に両足を引っかけて姿勢を安定させる鐙の登場は、戦場を一変させた。鐙が無い状態を想像してみよう。足はブラブラしているから、ももを内側にギュっと締めて馬を押さえるが、それだけでは安定しないので上半身の力がなかなか入らない。股ずれが凄いことになりそうだ。馬上で刀を揮ったり弓を引くのは困難だ。出来たとしても力が弱い。いきおい槍やほこなどのちょ突形の武器が中心になる。
 また馬を乗りこなすのは大変な技術を要することから、子供の時から訓練した者だけが騎馬兵となれる。鐙が出来て足が踏ん張れるようになれば、馬上で刀を振り回せるし、楯で防ぐことも弓を射ることも出来る。鐙の登場で騎馬兵の戦闘力は飛躍的に上がった。しかし逆に言えば漢人のような農耕民族でも比較的容易に騎馬兵になれるわけだ。専門職では無くなるのね。
 騎馬兵が活躍する以前の戦場、例えばエジプト王ラムセス2世がヒッタイトと戦った際などは、敵味方共2輪一頭だての戦車を駆使し、戦車隊の機動力が勝敗のカギを握った。御者一人、将一人(エジプト軍は貴族が多かった。ヒッタイト軍は3人乗り)が立って乗り、歩兵が密集している所に近づき弓矢を射こむ。このような軽便な荷車型の戦車は、装備に金と手間がかかり兵は2-3人が必要だ。訓練も相当な期間必要になる。それが騎馬兵一人で馬上から矢を連射出来るなら、それは相当な戦力upになる。機動力も増し戦術も多様化する。
考古学として鐙の使用が始めて認められるのは、西暦302年と322年に鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬桶で、実物の最古の物は北燕貴族の副葬品であった。5世紀に入ると朝鮮半島や日本でも使用されていた。欧州に伝わるのは遅く、7世紀になってやっと確認される。鐙はペルシアからイスラーム諸国、ビザンツ帝国を経てフランク族に広まったようだ。
余談だがウェスタン(西部劇)を見ていると、よく撃ち落とされたインディアンや騎兵隊員が、馬から落ちる際に片足首を鐙に引っかけて引きずられるシーンが出てくる。現在の鐙は衝撃が掛ると外れる安全装置が付いているようだ。
それにしてもアレキサンダー大王や、ハンニバルの時代のヌミディアの騎兵が鐙を使っていなかったとは知らなかった。そして漢代の匈奴や、それに対する武帝の将軍達の騎馬隊も鐙無しだったのね。三国志の時代はどうだったのだろう。諸葛孔明(181-234年)が活躍した頃、鐙は未だ無かった可能性が高い。赤兎馬に乗る呂布や、馬上で青龍刀を揮う関羽はブラブラ足で戦っていたんだろうか。もっと古くから使われていた証拠が出てくるかもしれない。
また高句麗(高麗)軍の強さや、アッチラ大王率いるフン族の圧倒的な強さの秘訣は、ここにあるのかな。


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