「キウイサワーを頼んだつもりだったが、
何かこう、アルコールが足りない感じがするの。」
神様は、全部のみほしてからサワーがジュースだったことに気付いたらしい。
そして、神様は、さらにキウイパフェを注文した。
「さーてと、この問題で原告側から主張を立てる場合、
まず、X社の行為が『表現』(憲法21条1項)に該当するかが、
問題になるのぅ。」
表現の自由の権利内容の新たな構築が必要となる。
つまり,自由な情報の流れを保障する権利としての表現の自由である。
本問における判断枠組みに関する最大のポイントは,
判例や学説を参考にしつつ,相応の説得力を有する論拠を示して,
自由な情報の流れを保障する表現の自由論を論述することである。
「佐渡先生は、こういう風に書いてあるので、
まあ、ここが一つの争点じゃ。」
この問題では、
主体が法人という固有の自己価値を持たない存在であるため、
Z画像の公開は「自己実現の価値に資する」と単純に書くと、説得力が弱い。
また、直接民主制プロセスに役立つかどうかわからないため、
Z画像の公開は「自己統治に資する」と単純に書くのも悪い。
「Z画像の公開は、自己実現・自己統治の価値を有するので、
憲法21条1項により保護される」とこの論点を1行で済ませるのは
いわゆるステレオタイプ答案コースである。
「ここは、まず、
『民主制プロセスの実現のためにどのような情報が
役立つかは、容易には判断できず、
流通すべき情報を、国家が判断することは、危険が大きい。
Z画像も、公共団体の策定した都市計画や開発計画を評価するために
重要な資料になる可能性があり、
Z画像の差し止めは、民主制プロセスをゆがめる可能性がある。
(自己統治の価値を損なう恐れがある)』
とかとって、表現の自由を、情報を伝達する自由として提示することが
求められとるんじゃろうのう。」
「国民の知る権利はどうなんです?」
「うん。それはあり得る。ただ、それを第三者の権利の主張だといって
議論するようでは、ダメだろうな。
博多駅事件なんかでは、マスコミの報道の自由を知る権利への奉仕
を理由に基礎づけているが、アレは、
第三者の権利主張ではなく、
保障の根拠として、国民の知る権利への奉仕を挙げているにすぎない。」
「え!そうすると、ここではサービスを受ける国民は無視ですか?
X者、ロンリーですか!」
タケオカ先生の無駄に大きく通る声が響いたところで
キウイパフェが届いた。
「うーん、そうでもないだろう。
『多様な情報を受領することは、
個人の精神生活・経済生活を豊かにすることにつながり、
国民は、自由に流通する情報を受領する権利(知る権利)
を保障されるべきである。
Z画像についても、、、、(問題文指摘のZ画像の利便性を指摘)
であり、そうした情報を流通させることは、
国民の知る権利に奉仕する。
判例は、マスメディアの報道を、
国民の知る権利に奉仕する重要な行為であることを根拠に
憲法21条1項により保護する姿勢を示しており、
Z画像の公開も、これに準ずるものとして、
同項による保護を受けると解すべきである』
こんな感じで書くべきかの。」
佐渡先生の出題趣旨は、知る権利と書くとアウトかのような言いぶりだが、
よく読むと、ユーザーの知る自由の侵害をX社が主張することを
切り捨てているだけであり、
保障の根拠論として知る権利への奉仕を挙げる博多駅事件の構成を
『有害』認定しているわけではない。
「というわけで、こんな感じで、
本件法律8条3項の停止命令一般が、表現の自由の制約となる、
と認定してやれば、厳しい審査基準を設定できるだろうの。」
「あのう、法令審査終了後に、処分審査に移るとき、
本件命令が、表現の自由の制約となる、ということも論じるのですか?」
ツツミ先生は、もっともな疑問を提示した。
「確かに佐渡先生は、ブリ画像の提供の価値についても一言してほしそうじゃからの、
『本件で問題となっているブリ画像の提供も、
公共団体の策定した住宅政策の評価の一資料となる可能性があり、
また、個人の生活においても、不動産売買の資料となる可能性があり、
憲法21条1項で保護される』くらいのことは書いてもいいかもしれんの。」
今、神様が述べたようなことは、
法令審査のところで、Z画像提供一般は保護され、ブリ画像についても同様と
まとめて論じておいてもいいだろう。
「さて、、、次は①高レベルブリ画像と②低レベルブリ画像の書き分けじゃの。
法令審査・処分審査の二段階じゃから、
後者の規制は前者の規制よりもよろしくない、と主張しておく必要がある。」
そして、神様はパフェ頂上付近のキウイシャーベットを
バクバクバクバク食べると、先ほど、本日のお勧めメニューを抹消した黒板に
次のような図を書いた。
論証一号:権利侵害の度合いは同じだが、表現価値が違う
①高レベルブリ画像の提供の表現としての価値は低いが、
②低レベルブリ画像の提供の表現としての価値は高い。
よって、処分審査では、審査基準がますます厳格になる。
論証二号:①と②では、保護される利益が違う。
①高レベルを規制して実現される目的は「目的1(犯罪防止等)」であり、
②低レベルを規制して実現される目的は「目的2(気持ちの問題)」であり、
①は重要な目的だが、②は重要な目的とは言えない。
よって、基準は同じでも、処分審査の方がパスしにくい。
論証三号:①と②では、関連性の評価が違う。
①高レベルも②低レベルも、規制の目的は共通(犯罪防止、生活平穏等)だが、
①は、目的実現のために役立つ(関連性があり)と言いやすく
②は、目的実現のために役立つ(関連性がない)と言いにくい。
よって、基準は同じでも、処分審査の方がパスしにくい。
論証四号:②については同意がある。
①も②も、規制目的は共通だが、
②については、公道から見られる程度のことなので、
そもそも、それが人に見られることに同意がある。
よって、②は、権利制約を構成しない、同意により制約される。
「ほほほ。タケオカよ。この中には、1つだけ、どうしようもない
解答パターンがあるの。どれじゃ?」
「それは、一号機でしょう!どっちも、大した違いのない画像で、
これが違う価値を持つなんてことは、問題文に材料がないです。
でも大丈夫。失敗をしたっていいんだよ。
失敗は、お前の肥料だ。
キリマンジャロだって、肥料でできてるから、大きいんだよ!」
タケオカ先生は、こういうと、神様のパフェから
ウエハウスを奪い、バリバリバリバリ食べつくした。
「ええと、この2号から4号のどれで行くかで、
処分審査どこからやるか、変わってきますね。
ええと、
二号機だと、処分審査では、目的審査からやりなおし。
三号機だと、目的審査共通だから、処分審査では手段審査のみ。
四号機だと、次元が違う話になりますので、
処分審査では目的手段審査やらないですね。」
こうして、連中はすっきりした面持ちで、法の女神を出て行った。
構成としては、こんなもんだろう。
確かに、神様指摘の論証なら、審査基準でも十分解答できる。
逆に比較考量でも、論証二号機から四号機のどれかを想定して、
書いていかないと、議論がぐちゃぐちゃになろう。
(審査基準には、議論を整理し道筋を明確にする機能もあるのだ)
残るは、明確性の論証をしてやればおしまいである。
と、いうわけで、どうやら、
この長きにわたる連載も終わりの時が近付いているようである。