最近、「必要最小限度」という言葉がはやっているわけですが、
この言葉は、それ自体はからっぽなのに、どうも変だなあという気がします。
最近話題になっている政治課題についても、
「これに賛成ですか?」と聞くと
かなり多めに反対がでるが、
「必要最小限度のそれに賛成ですか?」と聞くと
賛成者が多く出る、ということのようで、
これは結構不思議な事態です。
例えば
「侵略戦争についてどう思いますか?」という質問に、
反対です、と答える人が
「必要最小限度の侵略戦争についてどう思いますか?」
と問われた瞬間
賛成です、と答えるというのは、かなり奇妙ですよね。
そういう人は、
「必要最小限度の殺人」も「必要最小限度の強盗」も、
何も疑問に思わず賛成してしまいそうで、なんだかなあという感じがします。
世論調査をするときは、
「何のための」必要最小限度か、が大事なわけで、
「正当防衛のための」必要最小限度の殺人と
「自分の気持ちを満足させるための」必要限度の殺人では
かなり意味が違うわけであります。
そんなわけで、私は最近、
当初の設計案に「必要最小限度の」修正を施して新国立競技場を建設しよう
という議論に、いささか胡散臭さを感じ始めている次第なわけであります。
「何のための」必要最小限度や、ということが大事ですね。
この言葉は、それ自体はからっぽなのに、どうも変だなあという気がします。
最近話題になっている政治課題についても、
「これに賛成ですか?」と聞くと
かなり多めに反対がでるが、
「必要最小限度のそれに賛成ですか?」と聞くと
賛成者が多く出る、ということのようで、
これは結構不思議な事態です。
例えば
「侵略戦争についてどう思いますか?」という質問に、
反対です、と答える人が
「必要最小限度の侵略戦争についてどう思いますか?」
と問われた瞬間
賛成です、と答えるというのは、かなり奇妙ですよね。
そういう人は、
「必要最小限度の殺人」も「必要最小限度の強盗」も、
何も疑問に思わず賛成してしまいそうで、なんだかなあという感じがします。
世論調査をするときは、
「何のための」必要最小限度か、が大事なわけで、
「正当防衛のための」必要最小限度の殺人と
「自分の気持ちを満足させるための」必要限度の殺人では
かなり意味が違うわけであります。
そんなわけで、私は最近、
当初の設計案に「必要最小限度の」修正を施して新国立競技場を建設しよう
という議論に、いささか胡散臭さを感じ始めている次第なわけであります。
「何のための」必要最小限度や、ということが大事ですね。
数ヶ月おきに改訂されていたのであります。