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木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

ご質問について

これまでに、たくさんのご質問、コメントを頂きました。まことにありがとうございます。 最近忙しく、なかなかお返事ができませんが、頂いたコメントは全て目を通しております。みなさまからいただくお便りのおかげで、楽しくブログライフさせて頂いております。これからもよろしくお願い致します。

客観的条件と主観的条件の区別

2012-04-10 07:51:04 | Q&A 憲法判断の方法
本日は、許可制に関する審査密度についてのご質問です。

許可制に対する審査密度について (shun)
2011-12-14 16:40:41
「急所」を読んでいて分からない部分がありましたので、お忙しい中申し訳ありませんが質問させてください。

疑問に思ったのは、「急所」P.227に記載のある客観的条件と主観的条件の区別です。

主観的条件について「本人の努力で充たし得る条件」と定義すると、距離制限についても場所を移動することは可能なので客観的条件であるは考えられないのでしょうか。

結局客観的条件と主観的条件の区別は権利制約の程度の差を表すものであると考え、距離制限と人数制限の制約の程度を考えてみると、どちらも学習塾経営における収益に直結する要素であると考えられるのでその差はないように思いました。

両者の区別がうまくできません。この点、御教授いただければと思います。よろしくお願いいたします。


>shunさま (kimkimlr)
2011-12-15 21:29:15
こんにちは。どうもありがとうございます。

場所が違うと同じ営業とは言えない、
という前提があるとお考えください。

実際、駅前での営業と駅から遠く離れたところでの営業は
同じ業種でも、同じ業種か?といえるくらい
ビジネスモデルが違うはずです。

こんな感じでどうでしょう?

Unknown (shun)
2011-12-15 22:17:27
御回答ありがとうございます。

ご指摘の通り、ビジネスモデルはかなり異なることになると思います。

これを前提に、例えば原告主張の権利が「他の学習塾から10メートルの地点で、500人規模の学習塾を経営する権利」であるとして、これに対して「①他の学習塾から11メートル離れていないこと、②生徒の定員が10人を超えること」という不許可条件が設定された場合を考えます。

この場合、10メートル地点と11メートル地点の差はビジネスモデル、ひいては権利の内容に重大な影響を与えるとは思いませんから「主観的条件」となるのでしょうか?
また、500人の定員に対して10人以上という不許可条件を設定することはビジネスモデル、ひいては権利内容に重大な影響を与えることになり「客観的条件」となるのでしょうか?

このように考えると、結局は原告主張の権利との関係で個別具体的に決せられることになる主観的条件・客観的条件の区別はあまり意味が無いような気がします。

上記についてどこか誤解している点があれば御教授いただければ嬉しく思います。


>shunさま (kimkimlr)
2011-12-16 06:26:40
そうですねえ。
言い方が悪かったようです。

定員数は、自分の意思でコントロールできます。
これに対し、どこに既存薬局があるかは
自分の意思ではコントロールできません。

なので、後者が客観条件規制になります。

ということなのですが。
どうでしょう?

Unknown (shun)
2011-12-16 10:51:14
御回答ありがとうございます。

確かに既存薬局の位置については自己の意思でのコントロールは不可能と思います。

ただ、これから開業を試みる者にとって、開業場所を変更することは定員数同様自己の意思でコントロール可能ということにはならないのでしょうか?

理解力不足で度々申し訳ありません。



shun様 (kimkimlr)
2011-12-16 12:16:24
ああ、たびたび、ちょっと説明の仕方が不適切でした。

その条件が全員に等しく適用されるかどうか、
という観点で考えてみて下さい。

薬剤師資格や定員は、全事業者に等しく適用されますが、
距離規制(ここで営業してはいけない)は、
既存事業者には適用されず、
他方、他事業者には適用されるわけですね。
世襲制なんかもそうか。

というわけで、客観的条件というのは
そういうことをいっていて、
それを、本人の努力ではいかんともし難い
って表現するわけです。

どうだろう?

Unknown (shun)
2011-12-16 18:00:06
御回答ありがとうございます。

規制の適用があるか否かが分かれる既存業者性というのは本人の努力次第で達成できないと考えられるのですね。

不明確だった部分が非常に明確になりました。

ご丁寧な説明大変ありがとうございました。

立法裁量について

2012-04-03 10:43:28 | Q&A 憲法判断の方法
Q&Aにて、肉まんさまから、以下のようなご質問を頂きました。

審査基準の選択には、

①「被制約利益が大きいあまり、制約を合憲とするための要件が厳しくなる」という、いわば実体的な問題と、

②「ここは裁判所より立法府のほうが判断が得意だし裁判所が特に積極的に判断すべきタイプの問題(政治的言論等)でもないから、裁判所としては少し大雑把に見て特に問題点を感じなかったら立法府の言い分を受け入れてあげよう」という実体的判断の決定権限の分配の問題があると理解していたのですが、

ここから間違っているのでしょうか…



大変重要な疑問かと思いますので、
記事にしてご返信したいと思います。

そもそも、行政裁量・立法裁量とは何なのか?
という点が問題になります。
(そうそう、私も書いております法学教室4月号、
 曽和先生の記事も、行政裁量がテーマです。
 ぜひ、ご覧ください。)

「裁量を認める」ということは、
「行政機関・立法機関の判断を尊重した判断をする」
ということだと言われます。

これは、いわゆる判断代置=行政機関・立法機関の判断を無視して
裁判所が適法性を審査すること、とは違うのだ、
とも言われます。

このあたりのことは、肉まん様がこのように言って下さっています。

簿記や計算問題などでは、実際の「計算」の他に「検算」という作業があると思います。
裁判所が計算し直すのではなく、検算をするに留めるのが「立ち入った判断をしない」ことだと考えています。
具体的には、性犯罪抑止のためにある表現行為を規制しようとする場合、立法事実の存在を確かめるために性犯罪被害と幸福感との関係について調査する必要があるとします。
ここ裁判所は、立法者が行ったのと同じように(行ったとする)様々な統計や調査を駆使して判断することもできますが、より簡易なモデル(最も簡易なモデルは裁判官の頭の中にある常識だと思います。)をもって結論を出し、これを立法者の判断と照らし合わせてその合理性を判断するということも考えられます。
後者が、私のいう「あまり立ち入った判断をしない」ことです。


おっしゃることは、よく分かりますし、
そのような説明をされる先生もいらっしゃいます。

他のケースでも、第一審は事案をフルスペックで審査するのに対し、
控訴審の判断は、第一審の判断が合理的か、を審査する、
とも言われます。


まずは、そういった理解をする必要がありますし、
肉まんさまのおっしゃることはよく分かります。


ただ、私としては、いわゆる裁量を認めた判断を
「行政機関・立法機関・第一審の判断を尊重した判断」と定式化することは、
理論的には無理ではないか、と考えています。


裁量とは、その機関に与えられた権限行使に関する合憲合法な選択肢の幅を言います。

裁量自体は、いわゆる不確定概念や経済規制立法の分野に限らず、
あらゆる分野で存在します。

例えば、住民票を出すという単純な業務にしても、
1時2分に出すのか、1時3分に出すのか、裁量が存在するでしょう。
(いわゆる時の裁量ですね)

そういう意味で、
「これこれこういう権限には、この機関の裁量が認められる」という言葉には
ほとんど意味がなく、
「この範囲での裁量が認められる=この範囲が法が許容する選択肢である」
と言う言葉がでてこないと意味がない、わけです。

では、立法裁量・行政裁量という概念がことさらに強調されるのは、
どういう分野なのでしょうか?

それは実体法が、
A「立法機関・行政機関が、……という手続を踏んで出した結論であれば
  全て合法とする」と定めていたり、
B「立法機関・行政機関が、一つでも合理的と言える論拠を提示できれば、
  (不合理性の根拠となる事情があってもそれは無視して判断しなければならず)
  合法とする」と定めている場合です。

前者が手続統制、後者が判断過程統制と呼ばれるタイプの
「裁量」を認める実体法です。
判断過程統制は、
判断過程において、合理的な論拠を発見しようとしたか努力したかどうか、
を統制する、というものですね。

別に、立法府・行政府に裁量がある、ということ自体は珍しいものではないのですが、
手続統制・判断過程統制は、許容される行為の幅が広いので
裁量がある、ということがことさらに強調されます。


さて、以上のような説明から明らかなように、
裁量があるかどうか、立法府の判断を尊重しなければならないかどうか、
という問題は、事案の解決にとって重要ではなく、
「どのような裁量があるのか」、
「立法府の判断を尊重する、とは具体的には
 どういう実体法上の要件をクリアすれば合憲合法といえるか」と
問わなくてはならないのです。


行政裁量については、さしあたり曽和先生の連載を読んでいただくとして、
立法裁量と違憲審査の関係については、
合理性の基準や明白性の基準のような基準が適用される場合には、
立法裁量が広くなります。

なので、肉まんさまへの解答としては、
「①実体法上の問題」と
「②実体法判断の権限配分の問題」は、理論的には区別できず(全ては実体法の問題です)、
立法府の判断を尊重=合理的論拠を一つでも提示できれば合憲とする
という実体法がある場合に、
「②憲法実体法判断の権限を立法府に配分している」ように見える
判断が生じる、ということですね。

裁量とは実体法上認められた選択肢の幅であり、
裁量は実体法判断の方法ではなく、実体法判断を経た結果だ、
と、ご理解ください。

そうすると、立法裁量・行政裁量の論点はすっきりすると思います。

ゆんゆんさまの必要性の疑問に答える

2012-02-08 08:53:21 | Q&A 憲法判断の方法
ちょっと、ゆんゆんさんとのやり取りが、
本文とずれる論点であるため、読みにくいとのご指摘を受けました。

とおりすがるさんとのやり取り含めて、こちらのページにコメントを移設しますので、
ゆんゆんさまは、こちらのページにコメント頂ければと思います。


③の必要性でしょうね。
「現業」すなわち非権力的な公務員については、
そこまで規制する必要がないということです。
「非現業」の最たる自衛隊と比較すると理解しやすいのではないでしょうか。
自衛隊が「野田内閣が増税をすれば自衛隊は黙っていないぞ」などのビラを
まく行為と、郵便局の職員が同様の行為をする場合とを
考えた場合、前者は止めさせないとまずいですが、
後者については、ヤマト運輸の職員がやった場合とを
比較して大して変わらないだろう。
止めさせないとまずいということにはならない、
という論理も成り立ちますから。
現に労働三権との関係に、この違いは現れていますね。

他方で、上告審のように保護範囲から外して考えると、
裁量統制の問題となって、必要性の評価についても
当局の判断が明らかに不合理でなければ違法とはいえないことになります。
そして、郵便局員のビラ貼りを放置すれば国がそのような態度を
是認したと誤解されかねないという程度の中立性維持の要請との
抵触をもって、明らかに不合理ではないということで
必要性を欠くことはないという判断が可能だと思います。

ところで、先生は本エントリでは①を「正統性」としていらっしゃいますが、
急所では、「正当性」と表記されています。
前者ですと、legitimacyの意味(形式的・手続的な正しさ)になるので、
やはり「正当性」の方が妥当かな、という気がします。
(実質的な目的の重要度を審査するからです)
細かいことで恐縮です。

1点追加です。
関連性・相当性の問題にならない理由です。
現業公務員の勤務時間外の政治活動は公務の中立性を害しないとして、
規制しても公務の中立性確保に役立たない(関連性がない)。
または、規制することにより得られる利益がない(相当性がない)、という構成を
敢えて採るならば、関連性・相当性を欠くという立論が可能ではないかと
も思えますが、少なくとも、一律に禁止すれば、禁止しないより
強烈に公務の中立性を確保できる(役に立つ)関係にはある以上、
関連性を否定することはできないと思われます。
同様の理由で、「規制することにより得られる利益がない」ともいえないと思われます。
また、相当性の判断に当たっては、「規制により失われる利益」の方に
軸足を置いて考えるべきだと思います。
なぜかというと、対置される公益は通常抽象的だからです。
そうすると、現業公務員であろうと、非現業公務員であろうと、
制約される表現の自由の価値は変わらないといえますから、
普通に考えると現業性は相当性を左右する事柄ではないということになると
考えました。





>ゆんゆんさま
「必要がない」とは、LRAがあるというkとおですが、
そのLRAとは何でしょう?
また、非現業の人の行為をそれで止められないのは、なぜでしょう?



LRAとは、「非現業の公務員に限って政治活動を規制するという方法」です。
すなわち、現業公務員の政治活動まで規制する部分が不必要であるという立場です。
現業公務員が政治活動をしたとしても、それは民間同業者の政治活動と
同じであり、後者が規制されなくても支障がない以上、前者も規制する必要がないのです。
それから、非現業公務員の行為を止められないというか、
非現業公務員に対しては規制が必要だという理由ですが、
その非現業性=権力性にあると考えます。
国家の中立性の要諦は、中立的権限行使にあり、
その権力が個人的な意思に基づいて行使されたり、
行使されそうな外観を国が放置する事は許されないと
いうことかと思います。



>ゆんゆんさま
ご指摘の議論は、
現業公務員の政治活動の規制が目的との関連性がない、
から、そういう規制はできない、という主張に見えます。

ここで求められるLRAは、「現業公務員の政治活動を防止するための」LRAだという点に注意をしてください。



ご指摘の議論は、
>>現業公務員の政治活動の規制が目的との関連性がない、
>>から、そういう規制はできない、という主張に見えます。
>>ここで求められるLRAは、「現業公務員の政治活動を防止するための」LRAだという点に注意をしてください。

先生のご指摘のご趣旨、理解しました。
私は、「公務員一律の政治活動の禁止」を念頭においておりました。
「現業公務員の政治活動」に限定する場合、関連性の問題になると思います。
これは表現の仕方の問題かもしれません。
「公務員の全てを規制するよりも、非現業の公務員の政治活動に限って
制約する方が公務員という集団に対する規制としてはより制限的でない」と
表現するか、それとも、
「公務員のなかでも現業公務員は政治活動をしても公務の
中立性を害することがないから、これを規制することに
関連性はない」と表現するかという違いと思います。
確かに、人権は個人の主観的権利であるという事からすれば、
後者のように関連性と捉えるのが適切ということになりますが、
規制する側は「公務員」という一つの集団に対する規制として意識しますので、
規制目的との関係で論ずるならば、前者のようになるという考え方もあり得ると思います。
仮に、「現業公務員の政治活動禁止に関するLRA」を想定するとすれば、
それは「現業公務員の政治活動の中立性」をもって規制目的と考えることになります。
そうなると、規制目的自体の正当性が失われることになります。
(ここでは、現業公務員は民間同業者と実質において同じであり、政治的中立性は
求められないという立場に立つことを前提にしています。)
しかし、法文上現業公務員のみを狙った規制ではありませんから、
そのような規制目的の設定は適切ではないように感じます。
どうでしょうか。

もう少し敷衍してみます。
先生が急所において必要性の例としてあげておられるビラ配りした者を
射殺する場合を発展させて、ビラ配りをしている者と普通の通行人とが
紛れている場合に、これを爆弾で一気に吹き飛ばす方法を考えます。
この場合、厳密には普通の通行人との関係では関連性を欠き、
ビラ配りをしている者との関係では必要性を欠いているとも
表現できると思います。すなわち、この方法は、関連性を欠く要素と
必要性を欠く要素の二つがある、と表現できます。
では、ビラ配りの者ではなく、テロリストであるケースはどうでしょうか。
今にも銃を乱射しようとしている者と、通行人とが紛れています。
この場合、テロリストを殺害することには必要性があります。
(説得や罰金は効果がありません)
そこで、爆弾で通行人もろともに吹き飛ばしました。
この場合も、通行人との関係では関連性がない、と表現できます。
しかし、端的に爆弾を使う必要はなく、銃でテロリストだけ射殺するという、
より穏当なやり方があった、すなわち必要性を欠いていたと
表現する方が適切ではないでしょうか。

>>「公務の中立性の維持」という正当な目的から正当化できるかどうかは審査の対象になります。

私は、この場合は、「公務」といっても公務一律ではなく、
権力的=非現業の公務についてのみ中立性が要求されるとの
立場を採る場合、
1:一律に「公務の中立」を目的にすることは正当でないとして目的審査をクリアさせない
2:現業公務については役に立たないとして関連性をクリアさせない
3:非現業公務についてのみ規制すれば「公務の中立」目的は達成できるから必要性がない
4:現業公務員の政治活動規制は「公務の中立」という利益を得られないから相当性がない

という考え方があり得るところ、3ではないか、と考えたのです。
それは、目的を公務の中立性一般として設定する以上は、1は採りえず、
広範かつ強力に規制すればするほど公務の中立は確保されやすいことから、
2と4も採れないと考えるからです。目的を公務一般との関係で設定するのですから、
具体的手段の必要性についても、「公務」一般との対応で
議論すべきであり、「非現業」と「現業」を区別して
関連性のあるなしを検討するよりは、
規制対象の範囲の問題として、より絞る事は可能か、
という観点で検討すればよいと思ったわけです。

正直、反論は難しいような気がしますが、③について
「機械的労務に従事する現業公務員の政治活動であっても、
これを公権力が容認してこれを放置する態度を採ることは、
国がそのような立場を援助・助長していると考えられかねない
ことから、中立的信頼が害される」
ということでどうでしょうか。
なお、特定政党支持者の郵便物廃棄は別途職務規範等に違反し、
場合によって信書毀棄罪になるので格別の規制をする根拠に
ならないと思います。
裁量の広狭が問題になるのは、適法に自己の信条を実現できてしまう点を
重視するものといえると思います。
それから、「現業」→裁量がないとしていますが、
猿払一審は「機械的労務に従事する」という限定を加えていますので、
私には疑問です。ただ、そこは前提なのかなと思い、反論にはしませんでした。

>>LRAとは、
>>規制すべき行為(その行為を規制することが、
>>正当な目的の達成のために関連する、と言える行為)がある場合に、
>>その行為を防止するための、より制限的でない手段のことです。

>>問題の行為が、そもそも規制すべき行為でないなら、
>>規制すべき行為がないのですから、定義上、LRAの有無は問題になりません。

とのことですが、「公務員一般の政治活動は規制すべきである」との目的の下に
「公務員一般の政治活動」を規制する法律がある場合、
「公務員一般の政治活動」を規制すれば、規制すべきでない現業公務員の政治活動は
もちろん、規制すべきである非現業公務員の政治活動をも規制できるわけですから、
「公務員一般の政治活動」を規制することは、政治的中立性確保という目的達成に
関連すると言える行為だと思います。
先のテロリストと通行人がいる場合に、爆弾を用いて吹き飛ばす方法を再度
例にとりますと、テロリストがまさに銃を乱射しそうであり、乱射すれば
100人単位の死者が出ると予測できる場合に、無関係の通行人1人を
巻き込まずにテロリストを殺害する方法がない、という場合において、
爆弾でテロリストと通行人1人を一緒に吹き飛ばしたとします。
この場合、「テロリストを殺害する行為」と「通行人を殺害する行為」を分けた上で、
通行人に関しては殺害しなくても、死者が出ることはないので
関連性がなく、憲法違反である、ということにはならないと思います。
放置して、100人単位の死者が出た方がよかったとはならないからです。
「テロリストと通行人をまとめて吹き飛ばす行為」は、通行人のみならずテロリストをも
吹き飛ばす行為であるから、乱射を防ぐ目的に役立つと思います。
では、テロリストのみ殺害する方法はなかったか、これが必要性の問題です。
そして、そのような方法がない状況では、必要性があるということになり、
助かる100人単位の人命と失われる2名の人命からすれば、前者が大きいといえ、
相当性もあることから、爆弾で吹き飛ばす行為は合憲となるでしょう。 

さて、公務員の話に戻しますと、この場合は「現業」と「非現業」を
区別する事が可能です。従って、そのような手段を採りうるから
より制限的でない手段があり、よって、「必要性」を欠くと構成
できるのではないかと考えたのです。

政治信条の異なる者に対する違法行為(遅配、誤配、紛失、廃棄)をするかもしれないから
関連性があるという反論のコメントがありますが、違和感があります。
政治活動をしたというだけで、違法行為をするという蓋然性があるということは
全くありえないことで、仮にそのような立論が成り立つなら、
「自民党支持者は民主党支持者を殺害するおそれがあるから規制すべき」という
立論すら成り立ちかねません。
また、ヤマト運輸の職員についても同じく遅配、誤配、紛失、廃棄をするからという
理由は成り立ちえてしまいますが、おかしなことです。
ヤマト運輸の職員に対してはそのような不信を国民が持たないという根拠はないと思います。
公務員であるということだけで、政治活動が違法行為に繋がると国民一般が考えると
までいえるという理由が必要だと思います。

そもそも遅配、誤配、紛失、廃棄は違法行為であって、
政治的中立性とは何ら関係がないと思います。
例えば、内閣総理大臣が増税をしないと公約して組閣したのに、
官僚が大々的に増税は必要であるとのキャンペーンを張るなど
したならば、議員内閣制及び行政権が内閣に属するとされることの根幹が崩れます。
他方で、私企業の団体である経団連が増税は必要だとキャンペーンを張っても、
それは何ら問題ないでしょう。そこに決定的な違いがあると思います。
そのような統治構造論から中立性の要請は導かれるのであって、
末端の公務員が気に入らない相手に嫌がらせをするということが
中立性に関係があるとは、私には到底思えません。

>ゆんゆんさん(都尾利 寿雅琉さんからコメント)
初めまして。
爆弾の例では、テロリストの殺害行為と通行人の殺害行為との二つの行為があるのではなく、一つの行為から二つの結果が生じているだけです。二つの行為に分けたくても分けれません。
一方、公務員事例の場合は、現業の規制と非現業の規制と二つの「行為」にわけれます。
爆弾の例で関連性が通ることは、公務員の例で関連性が通ることを意味しないのではないでしょうか?
ところで、爆弾の例って相当性クリアするんですかねぇ。(実はコレが言いたかっただけだったりもします)



>>都尾利 寿雅琉さま (とおりすがり様、とお読みすればいいのでしょうか)

>>爆弾の例では、テロリストの殺害行為と通行人の殺害行為との二つの行為があるのではなく、一つの>>行為から二つの結果が生じているだけです。二つの行為に分けたくても分けれません。
>>一方、公務員事例の場合は、現業の規制と非現業の規制と二つの「行為」にわけれます。
>>爆弾の例で関連性が通ることは、公務員の例で関連性が通ることを意味しないのではないでしょうか?

その点は、どのレベルで考慮するかの問題だと思っています。
私は、必要性段階で考慮すべきと思います。理由を述べます。
本件では、法文上「公務員一般の政治活動」を規制することが明らかです。
仮に1項で現業、2項で非現業というように分かれていれば、
1項は関連性がないといえると思います。
しかし、一括して「公務員一般の政治活動」を規制する法文である以上、
「公務員一般の政治活動」との関係で関連性を考慮すべきと思います。
もっとも、仰るとおり可分なわけですから、現業部分については過剰規制、
すなわち必要最小限度性を欠いたものとして、部分違憲になるということです。
とはいえ、仰るとおり可分なのだから最初から分けて考えよという主張もあり得るところ
かと思いますが、それですと入り口から可分・不可分を議論しなければ
そもそも関連性の対象すら定まらないということになるので、
どうなのか、という感じがするのですね。
すくなくとも、論理的に絶対どちらかしかあり得ないということではなく、
どちらもあり得るというところかと思っています。

>>爆弾の例って相当性クリアするんですかねぇ。

私も、実はこのような場合相当性を認めていいのか、疑問はあります。
人命の数で比較することが可能か、ということですよね。
ですが、予防接種禍に関する議論等からすれば、相当性を認める余地は十分あると思っています。


>ゆんゆんさん
とおり すがる と申します。笑

>>しかし、一括して「公務員一般の政治活動」を規制する法文である以上、
「公務員一般の政治活動」との関係で関連性を考慮すべきと思います。


法文の文言が公務員一般に対する規制に見えるというのは、非現業に対する規制部分が違憲である場合に、部分違憲なのか全部違憲なのか、というところで考慮されるものだと思います。
仮に、公務員一般に対する規制というひとかたまりについて関連性の有無を審査することになるのだとしても、その審査の結論は「公務員一般に対する規制のうち、現業に対する部分は関連性がない」ということになるのだと思います。
「非現業に対する部分が目的達成に役立つから、現業に対する部分も含めて関連性がある」といえる為には、非現業と現業とが不可分であると言えなければなりません。
ゆんゆんさんの論理は、非現業と現業とを、関連性の段階では不可分のものと捉え、必要性の段階では可分のものと捉えるものであり、矛盾しているのではないでしょうか。



とおりすがるさまとお読みするのですね。

>>ゆんゆんさんの論理は、非現業と現業とを、関連性の段階では不可分のものと捉え、
>>必要性の段階では可分のものと捉えるものであり、矛盾しているのではないでしょうか。

それは、どの段階で、どの程度掘り下げるかの問題です。
例えば、目的の段階で相当性に関する事柄を緻密に考えると、
本来相当性で審査すべき理由から、目的の正当性がないと考える余地があります。
すなわち、得られる利益が失われる利益より小さいということは、
そもそも規制目的が重要(または正当)でないのだということですね。
急所の16pでも、厳格な基準では目的審査が相当性審査に吸収されるとしています。
また、関連性が必要性に吸収されるとも記述していますね。
すなわち、目的→関連性→必要性→相当性の順に、検討は緻密になっていくのです。
ですから、目的・関連性の段階では、比較的観念的・全体的な判断で足り、
それをクリアして初めて、緻密な衡量へと進んでいくのです。
ただ、その緻密さは、論理必然で決まるわけではありません。
ですから、関連性審査段階で分割し、緻密に審査しても、まあよいと思います。
しかし、関連性までは一括してクリアさせ、必要性、相当性は個別に分割して
緻密にみていくという立場の方が、より上記の枠組みの考え方に親和的では
ないだろうかと、私は考えるのです。



>ゆんゆんさん(都尾利 寿雅琉さん)

>>関連性審査段階で分割し、緻密に審査しても、まあよいと思います。

こうまでおっしゃいながら、法律家の共通了解(木村先生の示してくださる定義)に反する見解をあえて固持するのはなぜでしょうか?



統治構造論から関連性論に落とし込む反論をうまく思いついたので
前回のものと差し替えたいと思います。

「憲法は行政権を内閣に属するとし(65条)、内閣は国民代表たる議員によって
組織された国会に責任を負う(66条3項)。公務員はかかる民主的プロセスに服する
存在であり、自ら民主的プロセスに影響を与えるべき存在ではない。公務員が
個人的な政治活動を行うことは上記中立性の要請に真っ向から反する。
このことは現業・非現業の別にかかわらないから、現業公務員の政治活動を
規制することに関連性がある」

このことを考えるヒントになったのが、例の橋下知事が当選した際に
「僕の民意と違う」とインタビューで発言した役人の件でした。
これは、大阪府民から激しく非難されたわけです。
それは、この役人が自分の政治信条に基づいて何か不正をするだろう
という疑いから来るものではありません。
(ですから、本件で郵便局員の不正の可能性を指摘するのはおかしいと思います)
民主的プロセスを無視するかのような発言に対する怒りなのですね。
そして、この怒りは、発言者がヤマト運輸の職員などであれば、
生じない怒りでした。
すなわち、公務員は民主的プロセスに黙って従えということですね。
自分の政治的意見を言うこと自体が、民主的プロセスに対する挑戦になる
から許されないということです。
このことは、現業・非現業にかかわらないことです。
これを憲法論としてまとめたのが、上記反論です。

私は、先生の定義において普通に成り立ちうる見解であると述べています。
若干敷衍します。
例えば、急所の12、13pでは、美観維持の目的は正当であることを
前提にした記述となっています。これは、目的審査を緻密に行っていないからです。
目的審査をクリアした後に審査するはずの必要性・相当性審査の段階で
射殺する例が挙がっていますが、この場合、制約される法益は生命です。
人の生命を制約する場合、目的審査としてどのレベルが要求されるでしょうか。
最も厳しいとされる「やむにやまれぬ公共の利益」でも、足りないという疑いがあります。
当然、美観風致はそのような公共の利益には当たらないでしょう。
そうすると、目的審査をクリアできないはずです。
しかし、通常、こういう場合でも目的審査をクリアさせるのですね。
目的審査とは、このように緻密にやらずにクリアさせるものなのです。
それから、必要性審査において、止めるよう呼び掛けるとか罰金という
より緩やかな手段があるから必要性を欠く、としています(13p)。
これは、呼び掛ける方法と罰金の方法につき、関連性がある
すなわち、美観風致に役立つという前提に基づいています。
しかし、それならば関連性審査の段階で、これらの手段も事前に
検討していなければならないはずです。それをやらないのは、
やはり関連性審査段階ではラフな判断をしているからです。
仮にそのような手段まで審査していたら、関連性段階であり得る手段すべてを
審査しなければならなくなります。本件では、先生から現業性のみ
考えろという指示があるから、関連性で現業を考慮すればよいと思いつきますが、
実際には、機械的労務か、勤務時間外か、公的施設を利用するか等様々な
要素があります。これを先に関連性で審査することは思考経済上どうでしょうか。
私は、関連性はクリアさせた上で、様々な要素から考えて不必要な部分を排除する
争いは必要性の段階でやればいいという発想です。
このことは、全く法律家の共通了解に反するところはありません。

>ゆんゆんさま
ちょっと、混乱があるように思います。
次の質問にお答えください。

質問1
まず、私が下線部で示した必要性概念の定義を採用していますか?
それ以外のものを採用しているなら、その定義を書いてください。

質問2
現業公務員の政治活動をさせないこと、が
「行政の中立性に対する信頼の確保」という目的の達成に役立つと思っていますか?
 イエス(役立つ)
 ノー(役立たない)の二択です。

イエスなら質問3へ、
ノーなら質問4へ、いってください。

質問3
イエスだとしたら、なぜ、
現業を規制しないこと(非現業のみの規制にとどめること)が、
より制限的でない「同じ程度に目的を達成しうる」手段だと言えるのでしょう?

質問4
ノーだとしたら、
法令のうち現業政治活動を規制する部分は、関連性を欠いているはずですが(当然必要性も欠けますが)、
なぜ、それを「関連性はある」(が、必要性がない)と評価するのでしょう?


目的審査における目的の確定方法

2012-01-19 07:27:22 | Q&A 憲法判断の方法
Jiroさまより、コメントいただきました。
非常に重要なことなので、記事にして共有させて頂きます。

あまりに難しかったため、幾つか専門論文を参照して考えるうちに、
自分の論文にヒントがあることが分かりました。
ということで、お答えいたします。
結構苦労して書きあげた文章であることを感じ取っていただけると幸いです。

Unknown (Jiro)
2012-01-18 09:41:23
槇さんの答案は、手段審査のみをやっていたのですか…。

私は、贈収賄の防止・住居の平穏の保護に関しては、
どうしても目的の正当性を前提とした重要性の判断をしているように思えます。

開放的な集合住宅の場合は、一般住宅と異なり、
住民や来客の視線があるので贈収賄の危険はきわめて小さいので、
贈収賄の防止という目的は正当といえても、重要とまではいえない。
住居の平穏についても、開放的な集合住宅の場合は、人々の交流が日常的におこなわれているので、
一般住宅と比較し、住居の平穏を保護すべき必要性は低く、
目的の正当性は認められるとしても、重要とまではいえない。
(経済力の不公平の防止については、明らかに手段審査をしていると思います)

このような論証のように感じてしまいます。
つけくわえれば、法文違憲審査についても、
贈収賄・住居の平穏に関しては、目的審査をしているように思います。

やはり間違いなのでしょうか?



結論から言うと、Jiro様のような目的審査は、しないほうがいいです。

なぜか?  

端的に言うと、ココセ*だからです。

  *Jiro様にはココセの概念を説明する必要はないと思われますが、
   このブログの読者の方の一部(約99%)は、
   将棋ファンではないと思われますので、
   解説いたします。

   ココセとは、将棋の定跡書のうち、
   「わざと相手に悪い手を指させて」
   「ほら、こうなるから先手優勢!」と書いてしまうミスを言います。

  *もっとも、将棋の場合、ある手が悪い手だったかどうかの判断は、
   プロが何年も研究して分かる、という場合も多く、
   ココセなしの定跡書を書くことは、ほとんど不可能でしょう。

目的審査をするとき、
目的を<解釈により画定>する必要があります。


目的審査における目的とは、『急所』でも書きましたが
国会議員の意図ではなく(そんなもん集計できませんし、人によってバラバラです)、
解釈により構成されるものです。

 *これは、実は、私の助手論文のテーマです。
  『平等なき平等条項論』索引「立法目的」で引いて見て下さい。


さて、目的は、客観的な事実認定により画定できるものではなく、
<立法目的を、目的審査を通りにくいように解釈・画定すること>は簡単です。

例えば、小売市場判決で問題となった距離規制について、
「この規制の目的は、特定の人種が出店できないようにする差別目的だ」
と画定することも、できないわけではありません。

しかし、裁判所が、立法目的をわざと不当に解釈して
正当でない、とか、重要でない、といって違憲にしたら、
おそらく立法府も国民も納得しないでしょう。
相手(立法府)にわざと悪い手を指させて、ほら俺の勝ちと
言っているようなものです。


なので、裁判所が目的画定をする場合には、
合理的に目的を構成する必要があります。

その制度を合理的に説明するとしたら、
どのような目的を画定するのが一番説得的か?

(もう少し言うと、その規制について
 目的審査を最も通りやすい目的、
 それで審査して違憲と言われれば、
 立法府もしょうがないと納得してくれる
 目的の画定の仕方は何か?)
を意識して、目的を構成するわけですね。

 *ただ、民法900条4号但書前段のように
  どこをどうやっても正当な目的を構成しようのない法令は
  目的不当で違憲にします。


さて、そうしますと、Jiroさんが処分審査Bで画定した目的は
「開放的なラウンジで生じる贈収賄の危険の防止」というもので、
これはおそらく、おっしゃる通り、さして重要なものではありません。

しかし、一般の戸別訪問同様、規制目的は
「平穏侵害防止」「贈収賄の危険防止」と捉えた方が、
目的審査は通り易く、また、
同じ制度の適用例なので、
制度全体からの目的解釈として適切と言えそうです。


このように、目的審査の目的の画定は、
「立法府側の手番」であるかのような気持ちで行うべき作業
です。




・・・。さて、こうなると、なぜ、違憲審査の場で
立法府をそんなに持ち上げるの?という気分になりますね。

実は、
<できるだけ目的審査を通りやすい合理的な目的を構成する作業>は、
立法府のメンツのためにやる作業ではありません!


目的を合理的に構成すればするほど、
手段審査を通ることが難しくなります。


正当で重要な目的は、かなり限定された形で確定されるため、
それとの関連性・必要性を認定することが難しくなるからです。

例えば、既存薬局の保護のために距離規制をして、
ただ、それだと反発があるので、薬品の安全とかという
合理的な目的を掲げたとしますね。
裁判所は、目的審査自体はそれでやってくれます。
しかし、手段審査を通りにくくなるわけです。

このあたりは、宍戸先生の本や樋口陽一先生のLRAの基準についての指摘があります。

また、正当な目的を構成する作業をして、違憲判断をすると、
その制度をよりよく運用するために、
どういう点を改善すればよいか、が明確になります。

(これに対し、目的自体が不当違憲だと、
 制度を消滅させるだけに止まり、
 よりよい制度のための指針は示されません。

だから、手段審査で違憲という判断の方が生産的という考慮もあります。



このように考えてくると、
Jiroさんのように目的審査をするのは、やはりよくなくて、
手段審査で仕留めるのが大事だと思います。

典型的適用例の概念

2012-01-17 06:43:59 | Q&A 憲法判断の方法
典型的適用事例という概念を分析している途中です。

採点実感をはなれ、かなり抽象的で難しい話になってきました。
ただ、こういう根本的なところから解きほぐさないと、
採点実感を含め憲法解釈論に関する言説は理解しきれないと思います。

こうなったら、しっかり理解してやるぞ!と思ってくださる方は、
ついてきていただければうれしいです。

さて、ここで、大事な質問がありましたので、記事にさせて頂きます。

木村先生。。

Bの法令審査①について質問があります。

先生がおっしゃられた、最も合憲ぽい適用例を審査するということは
多分理解できたとは思うのですけど

私の大分明後日の方へ行ってしまった審査方法は
法令審査①とはいえないのでしょうか???

私はその法文からでてくる全的用例に共通する点をくくりだした
適用例について審査することも、法令審査といえるのではないかなぁ、と考えたのですけど…

例えば戸別訪問禁止の例だと、その法律からは、
戸別訪問した時、場所方法、同意の有無…などなど、いろんな訪問形態が想定できますよね?

それらに共通していてくくりだせるのは、戸別訪問する行為ということになります。
なので法令審査では、戸別訪問すること、を禁止すること自体が許されるのかが、
審査されることになります。

他にも、暴走族条例なら、公衆に不安恐怖を覚えさせるような行為が、
想定できる全適用例の共通点といえるので、
そのような行為を禁止することが許されるのか、を審査するということになります。

ただ、先生の言っている合憲ぽい適用例だと、
もっと具体的に暴力的な集会という適用例を審査できることになるので、
そちらの方が合理的な方法とは思うのですけど…
(私の言ったやり方だと、公衆を不安にさせるような行為は
 暴力的な集会に限られないので、
 どうしても抽象的な行為を審査することになってしまいます)

長文でごめんなさい。大事なところだと思うのでなんとか理解しておきたいんです。。


>k.sさま (kimkimlr)
2012-01-16 06:25:43
こんにちは。k.sさんのご指摘の審査方法は
おそらく法令審査Bだと思います。

あらゆる事例に共通する要素を持つ事例
というのは、結局典型的適用事例です。

そして、注意をしてほしいのですが、
典型的適用事例・もっとも違憲の疑いの弱い事例の定義は
「その法令の保護法益を害していることが明らか」
です。


なので、その法令の「保護法益」をどう考えるかで、
想定される典型的適用例は大きく異なります。


(注意:当たり前ですけど「保護法益」は、
    その法律が「保護」しようとしている法益です。
    制約法益(その法令が制約してしまう法益)と混同しないようにしてください。
    そんなの間違えないよ、と思われるかもしれませんが、
    早指し秒読みの中だと、結構ごちゃごちゃになってしまいます。)



暴走族条例の保護法益は、恐らく
「暴力にさらされない利益」ではなく
(それを保護法益としているのは刑法の暴行罪規定)
「不安にさらされない利益」と解釈されるはずです。

なので、暴力を伴うものであれ、伴わないものであれ、
保護法益の侵害の程度は同じになります。
(どちらも典型的適用事例)

ということで暴力を伴う集会を典型的適用事例だと主張したいのであれば、
保護法益は「暴力にさらされない利益だ」と認定する必要があるでしょう。

そう認定する場合、暴力を伴わないが
公衆に不安をあたえる暴走族の集会は、
「典型的適用例」に見えて、実は、
「被告人に有利な特殊事情(暴力ない)がある
 特殊事例」になり、処分審査Bの対象になります。

このあたりを注意してみてください。


Unknown (k.s)
2012-01-16 08:38:20

木村先生。

おはようございます。

詳しく教えていただきありがとうございます!大分理解できました。

一つお聞きしたいのですが、「暴力的な集会」を、
典型的な合憲的適用例としたのは、
急所の172ページの二段階審査の箇所にそのような記述があったからなのですが…

このページに記述されてる「(例.暴力的な集会など)」というのは、
先生がここまで解説されてきた、法文審査の対象となる、
典型的な合憲的適用例とは異なる意味で用いられているのでしょうか?

異なるとしたら、

おそらく、典型的適用例を超えた(その意味では固有の事情です)、
誰がどう見ても、こんなことをやったらダメだろうという
極端な適用例(むしろどう考えても合憲にしないとおかしい例)を想定して、

この法律はこういう極端な適用例にも適用するものだから、
少なくともその一部については合憲部分を含んでいる
=少なくとも法文ぜんぶが違憲になるわけではない、
というような抗弁!?的な用いられかたをしているということなのでしょうか??

でもそれだったら、はじめからこの極端な適用例を審査するだけでいいですよね(どうせ合憲!てわかってますけど)。あ、だから意味ないから法文審査しなくていいってことなのかな。。

伝わりにくかったらごめんなさい。表現する力ってなかなか身につかなくて…




はい。大切なご指摘ありがとうございます。

ご指摘の例で、暴力的集会としたのは、
仮に、問題の法令の保護法益を「暴力にさらされない利益」「暴力的集会の防止」と
かなり狭く解釈した場合の典型的適用例になるかと思います。


保護法益を普通に解釈した場合(例:公衆が不安にならないこと)の
典型的適用例が違憲の疑いがあり、
かつ、
保護法益を、より限定して解釈すること(例:暴力の防止)が可能なケースでは、
そちらの保護法益との関係での典型的適用例を、
二段階審査の一段階目の審査対象にすべきだということになるでしょう。


ただ、保護法益をより限定して解釈することが許されるかどうかの判断は
なかなか難しいものです。

例えば、戸別訪問禁止の目的(保護法益)を
「選挙運動を装う強盗の抑止」と設定すると、
典型的適用例は、選挙運動を装った強盗ということになります。
そして、
強盗の規制は、どのような憲法論を採っても違憲になりようがないでしょう。

しかし、そういう議論を普通しないのは、
そうした保護法益の解釈が、ぶっとびすぎてて無理があると
(意識的にか、無意識的にか)考えられているからでしょう。


さて、そういう意味で、目的手段審査の枠組みをとるかどうかはともかく、
その法令の目的・保護法益を画定する作業は、
憲法判断の前提になる極めて重要な作業です。

ここに意識を配ってください。

k.sさま、重要な質問をありがとうございました。