KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「高校演劇」ってそういうジャンルなの?

2007-01-26 12:55:32 | 趣味
明確にわかっていること。
それは、わたしの鬱を発症させた引き金が、某巨大掲示板で、わが母校の演劇部が名指しで非難されていたことです。
非難ともいえないかもしれない。ただの悪口というか、ボヤキというか、そんなものなのかもしれません。

しかも、その非難が生じた原因は、どう考えても、わたしなのです。
いろいろ考えてみましたが、どのルートで考えても最終的には、わたしにたどりつきます。

その非難(?)の内容を要約すると、

「高校演劇で、赤褌やら太鼓やら出すのはおかしい。
てか、キモイ。脈絡もなく出てくるし。
とにかく、俺ふくめ、周囲の奴らにはみんな不評だ。良く言ってるやつなんて見ない。
なんで、お前らなんかが賞とるんだ。絶対おかしい。」

まあ、こんなような内容でした。
アンケートのときから、同じような内容の非難は見ていたのですが、インターネット掲示板となると、さすがにね。
しかも、その巨大掲示板特有の言い回しで非難されるわけですから、さすがにちょっと良い気持ちはしませんでした。

何が一番、つらかったかというと、非難されている対象の「おおもと」を作り出したのは、このわたし、kimistevaなのに、非難されている人々は、演劇部の高校生たちだということです。

なんでだよっ!お前らの敵はアタシだろ!?
アタシを非難しろ。アタシを!
なんで一言、「あの作者は変態だ」とか「あの作者は精神病だ」(…あたってる)とか書かないんだ!

自分で作り出したものの責任を自分自身で負うことは慣れてるけれど、
こんなことは初めてだったので、とてもショックでした。
本当に、このまま事態が大きくなったらどうしよう、と思いました。
罪悪感で、ホントに、死にそうでした。

それはともかく、
ものすごく狭い枠組みを守ることに、自分の存在をかけている人が存在する、ということをわたしは、今回、あらためて知りました。
「高校演劇」なんて、自由になることを模索しつづける「演劇」の下位ジャンルで、しかも、商業演劇みたいに経済的な絡みもないわけだから、もっとも自由で可能性のある領域だと思っていたのですが…、それはわたしのあまりにもユートピアな思いだったようで、世の中にはそう思わない人のほうが実は多いということに気づきました。

決定打は、「O高校がやってるのは高校演劇じゃない」という一言。
じゃあ、なんだ?
高校生がやってる演劇だから、高校演劇でしょ?
「お前がやってるのは素人演劇じゃない」と言われているくらい、よくわかりませんでした。

もしかしたら、高校演劇を評価するコンクール・システムがあまりにも大きく世間の目に触れるものだから、高校生たち自身も、それが本質だと思っているのかもしれません。
大人たちによる「高校生」イメージに合わせて「高校生」を演じる舞台。
そうでなければ、「高校演劇」ではない、とそういうことでしょうか。

しかし、そういうさまざまな人がいる状況の中で、
自分のすべきこと、自分のできることを探していかなければならないんだなぁというのが結論です。
キレイな世界を描きだすのはカンタンだけど、その世界を守ったまま現実を生きるのは難しい。
そうであれば、そういう役割をわたしは引き受けたいと思う。

多大なる負の遺産

2007-01-25 17:14:52 | わたし自身のこと
ようやく先週からずっと続いていた鬱病から回復した。

鬱病は「心の風邪」とよく言うけれど、
これは、すごく上手いなぁと、わたし個人は思う。

理由その1。
わたしの場合、ダラダラダラダラと休まずに毎日を続けていると、風邪の場合と同様、鬱がこじれる。

理由その2。
治療方法は、家で一人とじこもって寝ること。これしかない。

理由その3。
さらにつけ加えると、わたしは鬱病で寝込んでいるときに、(なぜか)風邪薬を飲む。

…外の他人から見たら、完全に風邪。
だからこそ、他の人に余計な心配をかけなくても済むんだけど。

ただし、風邪と異なる大きな点がひとつ。
それは、鬱病の場合、治ったあとに多大なる負の遺産が残ること。
昨日の夜から今日までは、その負の遺産を処理するために費やすことになってしまった。


負の遺産…。
要するに、ふだん表に出さずに自分の中にしまいこんでおくような
さまざまなネガティブ感情である。
正確にいうと、ネガティブ感情を噴出させたまま、人との対応をしてしまうせいで、その方々に、ものすごーーーく不快な思いをさせてしまう。
…そのことである。

ああ。だから、鬱のときは誰とも連絡をとらないのが一番なんだっっ!
毎回、反省するのに、また同じ過ちを繰り返してしまうという学習能力のなさ。
ああ。われながら、イライラする。

そんなわけで、今日一日は、
パートナーから、研究室から、調査関係にいたるまで
多大なる不快感を与えてしまった方々に、「ごめんなさい」「ごめんなさい」とメールを書きまくった。

今回は、調査関係でご協力いただいている方にまで、迷惑をかけるという、この、どうしようもなさ。
最低である。最悪である。
取り返しがつかないことをしたのは、わかっているけれど、
どうにかそれでも調査は続けていかなければならない。
…これはかなり、がんばらないと。

ああ。多大なる鬱病の負の遺産。
もうちょっと、精神的に健康になりたいなぁ。

少女たちの「桜井亜美」

2007-01-22 16:51:29 | お仕事
わたしはよく論文で「少女」という言葉を使って、担当教官にお叱りを受けます。
…というのも、わたしは平気で20代後半の女性に向かって「少女」という言葉を使うから。
「20代後半は、「少女」じゃないだろ!」…というのが担当教官の言い分。
でも、わたしは違うと思う。
本田和子が言っているように「少女性」なるものが存在していて、
何歳になろうが、現実の姿がどうであろうが、その「少女性」を問題にする限り、やはり「少女」と書くべきだと思う。
…と言いつつ、結局、担当教官とわたしとの折衝を重ねた挙句に、「青年期の女性」という無難な言い方に落ち着いてしまうのですが。

そんなわけで、今回も、わたしと同世代の女性について、堂々と「少女」と呼ばせていただきます。

前置きが長くなりました。
今日の専門学校での授業の話です。

私の授業では、看護学校でもこちらの保育系専門学校でも、「朗読プレゼンテーション」というのをやっています。
やることは簡単。一人8分くらいの持ち時間で、自分の好きな本やCD、映画や自分の好きな人たちや生活や…ともかくなんでも良いから、自分が「好きだ」といえるものを、クラス全員の前で話すのです。
看護学校では、対象を本に限定して、朗読をすることを義務づけていたのですが、現在通っている専門学校では、その限定もなくして、とにかく好きなことを話してもらうことにしています。

その「朗読プレゼンテーション」で、前回も今回もとりあげられた作家がいます。
それが、桜井亜美でした。
桜井亜美は広く知られていると思います。
もちろん、桜井亜美との出会い方はさまざまでしょう。さまざまな形で彼女に触れるかたがいることは想像に難くありません。

ちなみに、わたしはもっとも不幸な出会い方をしてしまった人間の一人です。
わたしは、初めに、宮台真司を知って、それから「宮台に見出された作家」として桜井亜美を知ってしまいました。
桜井亜美を知る頃には、すでに、わたしの宮台真司に対する評価は急下降中まっただ中でしたので、もう彼女のイメージといったら「宮台真司の紫の上みたいなもんだろ!」というイメージしかなかった。(これは、かなり事実誤認です。)
そうなると、もう、作品を読んでも、「はいはい。援交少女ね。」という感想しかもてない。
もうすでに解釈の枠組みがかなり狭められてしまって、作品の中に入っていけないわけです。
…これは、今、考えてもものすごく不幸だったと思ってます。


その桜井亜美について、先週、そして今週と、合計二人の学生がプレゼンテーションをしてくれました。
とりあげられた作品は、一人が『イノセント・ワールド』と『girl』。もう一人が『虹の女神』です。

ちなみに『イノセント・ワールド』と『girl』を紹介してくれた少女は、高校時代から不登校でリスト・カットを繰り返してました。現在はゴス・パンクにはまっています。欠席がやたらと多いので、ちょっとそれが問題な学生です。

『虹の女神』をとりあげた子は、どちらかというとまじめにやってくれる人なのですが、自分自身を規律でしばってしまうところがある学生です。彼女はどちらかといえば優等生。欠席も今のところ一回だけ、という感じです。


こんなちょっと見ると対称的な二人が同じ作家をとりあげて、
しかも、いつもワーワーと騒がしいはずのクラス全体が静まりかえるくらい、とつとつと、ときには瞳をうるませながら…(これがレトリックでもなんでもなく、本当のことであるところがスゴイ)自分の作品に対する思いを語るのを見ていて、
わたしはあらためて、桜井亜美との幸せな再会を果たせたような気がしました。

自分のことばで語ることは、本当に、難しい。
そして、それを支援する場を維持することは、もっともっと、難しい。

そのことを、わたしは、土曜日に実感したばかりでした。
かなり自分の描く世界に対して絶望して、そんな世界、もう無理だと思った。
消えてしまうしかないと思った。

なので、彼女たちが、真剣に桜井亜美について、どうにか自分のことばで語ろうとする姿を見て、わたしは心から救われました。
少なくとも、わたしが出会うことのできるほんの少しの人だけれども、
それでも、そういう人たちが、自分のことばで生きていこうとしてる。
そのことがすごくうれしかったし、
ほんのわずかとはいえ、わたしはそういう世界が作れるのだ、と思いました。

「がんばっていこう」なんてうすっぺらな元気はいらない。
だけど、自分にできることを少しずつやろう、と思いました。

『イノセント・ワールド』『girl』を紹介してくれた少女は、『イノセント・ワールド』についてこう言いました。

「…この本は、なんていうか、キレイゴトばかり書いてなかったんで、
良いなって思って読んで、そんで、この人の本、集めて読んでます。

ホント、キレイゴトばっかじゃないんで、そういう苦しかったことあった人とか、
昔、ヤンチャやってた人とかはおもしろいと思うんで、ぜひ読んでみてください。」

人間はいろいろな世界をわたりあるいて生きてる。
そのいろいろな世界を引き受ける「わたし」。
そんな「わたし」をつなぎとめるような言葉をつむぎだす瞬間を、ずっとずっと支えていきたいな。

フィールド調査者のヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)

2007-01-21 20:12:54 | フィールド日誌
「自殺したい人は「自殺したい」なんて言わないもんだ」、とよく言います。

わたしも、きっと、そんなものなので、(わたしのパートナー以外の人は)適当に、聞き流してくれれれば良いのですが、今日は朝から「ハムレット状態」でした。

「ハムレット状態」=「生きるか、死ぬか、それが問題だ」

こんなふうに軽く言ってはいますが、事実はもう少し深刻で、
半日間、泣き伏していました。
昨日は、フィールドワーク…ではないのですが、フィールドに行きました。
なので、そのときのことを整理しようと、キーボードをたたくのですが、
たたいているうちに、突然、うわっと絶望感や悲しみがこみあげてきて、
とてもじゃないけど、起きていられなくて、布団の上に泣き伏してしまうのです。

初めは、「先週、鬱状態だったし、なんかまだ鬱なのかな?」とか思っていたのですが、それだけでは解釈しようがないくらい、どうしようもなく感情が動くので、やはり、これはタダゴトではない、と思うようになりました。

だって、実際、「死にたい」って思いました。
私の言うことなんて、誰も理解してくれはしない。
研究なんてやめてしまいたい、と。

それほどの威力を持つ出来事というのは、現実世界には存在する、ということです。

「そんなの、負けなーい!」
…と簡単に言える人は、きっとフィールドワーク調査なんてしない人だと思います。

統計調査をしてる人は、自分の思いと現実の齟齬を、数値によって知るのでしょう。
数値はとてもシンプルに現実を物語ります。
あまりにシンプルで、あまりに無機的なので、人を傷つけたりしません。
調査用紙から得られたデータとのギャップに、知的な難しさを経験するだけです。
頭の中の処理で終わります。
「そんなの、負けなーい!」と言うことができます。

だけど、フィールドにある現実のしくみをそのまま描こうとする調査者は、自分の思いと現実のギャップを、まさに自分自身の傷として引き受けることになります。
その場にいることのつらさ。
自分自身にその場にいる資格がない、という感覚。
そして、それが現実だという重み。
そんなものを、すべて自分自身の身体で引き受けなければなりません。

いっそ、消えてしまいたい。
死んでしまいたい。

そう思うのは、わたしがフィールドワーカーとして危険なくらい、弱いからです。
ヴァルネラビリティは、場に臨もうとするフィールドの調査者になくてはならないものだ、とわたし自身は思っています。
だから、わたしはフィールドワーカーになろうと思った。

だけど、わたしは過剰にヴァルネラブルだと思います。
だって、こんなに死にたくなる。
消えてしまいたいと思う。
わたしの調査は毎回、命の綱渡りです。
…わたしが、この手法を調査方法として選んだのは、本当に、捨て身な選択だったと思います。


原因を探ってみると、あまりにも些細なことなので、
他人に説明することすらできないのです。
ブログにちょこっと書くことができるくらいです。


でも、もう結論は出ているので、大丈夫です。
研究者をやめることができないのなら、研究者としてすべき選択をするだけです。

「ガイゾン」

2007-01-19 11:51:54 | お仕事
わたしは、大学の国語科の教職関連の授業でTAをやっています。

先週の出来事です。
その子はどうやら発表にあたっているらしく、TAであるわたしに発表について質問に来ました。
彼女は、プリントに書かれている発表についての指示について読み上げながら、言いました。

「ガイゾンの文献の中からって書いてあるんですけど、現代文法だと文献がなくて、困ってるんです」

それを聞いた、わたしの応答。

「え!?ちょっと待って。君、2ちゃんねらー!?」

あまりに驚愕すると、人間というものは、どうにか、その異常事態を自分の理解可能な世界のなかに位置づけようとするようです。
その、わたしなりの方法が「2ちゃんねらー」という位置づけだったことに、ちょっと凹みます。

…わからないかたのために解説。
その学生は「既存」を「ガイゾン」と読んだのですが、
「既出」を「ガイシュツ」と表現するのはインターネット巨大掲示板「2ちゃんねる」でのマナー(?)のひとつなのです。
…てなわけで、「君、2ちゃんねらー!?」というわたしの発言が出てきます。

よく考えたら、いろいろ、ひどい話です。

まさか国語科の教員目指す大学4年生で「既存」が読めない人がいるとは知らなかった…。うかつでした。

わたしのことなんて、もういいから。

2007-01-17 16:30:02 | わたし自身のこと
気にしすぎか、ただの被害妄想か…と思っていたことが
「実は、現実でしたー!」ということは、人生の中で数少ないとはいえ、
確かに、ある。

わたしは、「嫌われないように生きる毒舌家」…という
果てしなく、アイロニーに満ちた存在なので、
そんなことも当然のように起こる。

わたしは常に最善を尽くしてしたわけだし、
少し信用を落としたくらいで、そこまで落ち込むことはないのかなぁ…、
とは思うだが、それで自分を納得させられないのはなぜだろう。

他の人が自分を信用してくれている、ということに過剰に期待しているのかな。
でも、そういう幻想を抱いても文句を言われない程度には、やるべき仕事の量も多いし、実際、仕事をしていると思うんだけどなぁ。

なんか、信用すらしてくれないなら、
与える仕事も責任も何もかも放棄してほしい…って思う。

自分の利益追求に生きる個人主義者とばかりつきあうのは疲れたよ。
個人主義的にしか生きられないくらし、殺伐としてる社会のシステムがもっと悪いんだけどさ。
わかってるよ、余裕がないだけだ…ってこと。
だけど、わたしだってそんな中で生きてる人間の一人なんだよ。


それでも、最後まで人間らしくありたい。
献身的でありたいとは思わないけど、
なんとなく、いろいろな人たちのために生きる自分でありたいな。


わたしのことなんて、もういいから。

自分のことを大切にしようと思った瞬間は数えるほどしかない。

2007-01-17 10:04:24 | わたし自身のこと
自分のことを大切にしようと思った瞬間は数えるほどしかない。

エステに美容室、自己啓発と…世間の人が、ますます自分への関心を増大させるのと反比例するように、わたしとは異なる誰かのことをずっと考えてきた。

わたしが生きているのは、他の人が存在するからだ。
わたしを必要とするかしないかはともかく、他人をいたわりたい、優しくありたいという思いの中に、わたしの生きる根拠は存在する。

こんなわたしに、周囲の人は
「もっと自分を大切にしなさい」と、
防犯ベルをくれたり、食べ物をくれたり、市販の栄養剤をくれたりするのだけど、そういうものを目にするたびに、
「ああ。こんなに自分のことを考えなければならないのか。」とめまいがする。


昔の人は、今の人ほど、自分を大切にすることに関心がなかったのではないか、と思うときがある。
そうでなければ、「国家のための」戦争なんて起きない。


…ああ。なんだか、もう、無理なのかな。
「ダメだ」「ダメだ」と否定されつづけたって、わたしにはどうしようもない。

走る芝居その後

2007-01-16 12:02:38 | 趣味

「走る芝居」が終わってはや一週間以上たつのですね。時がたつのは早いものです。

このブログを見ていただいた方の中には、「走る芝居」に参加していただいた方、ご観覧いただいた方もいらっしゃいますし、また、地域の文化振興や、高校生と地域との関わり、そしてそのための教育のありかたなどに興味があるかたがたくさんいらっしゃるので、「走る芝居」の事後報告をさせていただきたいと思います。

 おかげさまで、「走る芝居」は地元のテレビ局(千葉テレビ)や新聞(千葉日報・東京新聞・毎日新聞など)にとりあげていただきました。

高校が存在する町のHP http://www.town.otaki.chiba.jp/ の「町からのお知らせ」の欄にも、「いすみ鉄道車内公演大成功」と題して記事が掲載されています。

また、東京新聞に掲載された記事もHPにて見ることができます。 「ガタゴト走る“芝居小屋” いすみ鉄道車内で熱演」 「走る芝居」が終わってはや一週間以上たつのですね。
時がたつのは早いものです。

このブログを見ていただいた方の中には、
「走る芝居」に参加していただいた方、ご観覧いただいた方もいらっしゃいますし、
また、地域の文化振興や、
高校生と地域との関わり、そしてそのための教育のありかたなどに興味があるかたがたくさんいらっしゃるので、「走る芝居」の事後報告をさせていただきたいと思います。

おかげさまで、「走る芝居」は地元のテレビ局(千葉テレビ)や新聞(千葉日報・東京新聞・毎日新聞など)にとりあげていただきました。
高校が存在する町のHP http://www.town.otaki.chiba.jp/ の「町からのお知らせ」の欄にも、「いすみ鉄道車内公演大成功」と題して記事が掲載されています。
また、東京新聞に掲載された記事もHPにて見ることができます。

「ガタゴト走る“芝居小屋” いすみ鉄道車内で熱演」
http://www.chunichi.co.jp/00/cba/20070108/lcl_____cba_____001.shtml

また、彼らの所属する高校の校長先生も全校集会にてお話くださったようで・・・部員一同、感激しておりました。(一名、次期部長のみ、寝ていて聞いていなかったようですが(汗))

テレビに放映されることも、新聞記事にとりあげられることも、それほど「感激!」として感じられなくなってしまったわたしですが、・・・それでも、マスメディアにとりあげていただいたりすることの、高校生に対する効果を考えると、とてもうれしくなってきます。

マスメディアにとりあげられることそのものは、「多くの人に知ってもらう」ということ以上でも以下でもなく、それによって、わが演劇部に箔がつくようなこともないでしょう。だけど、何よりも・・・、わが部の高校生たちがとてもとても、うれしそうなのです。

「わーい!もっと大きくなるぜー!」

という、あまりにもシンプルな喜びの言葉を聴いて、驚くとともに、マスメディアにとりあげられるということの別の側面を見た気がしました。

少なくとも、わたしは、そんな企画の脚本を担当したことを、とてもうれしく思います。わたしがしたことは、とても小さいけれど、そのことによって彼らが自分たちのしたことを「大成功」だと思ってくれたなら、わたしは、とてもうれしい。

こういう小さなことで、社会とのつながりを感じていくことって、とても大切なことだと思うんです。


根源的な「明るさ」

2007-01-13 13:26:57 | 研究室
日曜午前の報道番組か何かを見ていたときに、
アメリカのとある有名大学の入学試験では、その人間の「明るさ」が評価される…という話を聞いた。

高校生くらいのときに、「明るさ」と聞いたときには、どうもその対義語として「ネクラ」が想定されている気がしていた。
だから、「明るさ」=「ネアカ」というものが、どうも評価しづらかった。

その場に合わせて、「ネアカ」でいることが、そんなに大切なのだろうか。
もっと、自分は自分らしくいたい。「ネクラ」でいいから、わたしでいたい。
…そんなことを思っていた。

しかし、最近、自分が読むものとは違う傾向の小説を読むようになったこともあって、「明るさ」という言葉がまったく別の文脈で使われていることに気づいた。
冒頭に書いた事例もその一例である。
ここで言われている「明るさ」は、表面だけの空っぽな陽気さ=「ネアカ」を示してはいない。むしろ、ここで問題にされているのは、その人間の根源にある「明るさ」だ。

未来に対してポジティブでいられること。
自分に周囲におきるできごとに対し、常に前を向いていられること。
嫉妬や因縁やうらみ…といった、自分の足をひっぱりような暗い感情から距離を置いて、前を向いていられること。
そんな「明るさ」。

「ネアカ」な若者たちが、明るく陽気な自分を振舞いながら、影でいじめ事件や自殺願望にさいなまされていることを考えれば、「ネアカ」と「明るさ」との大きな違いがわかる。

なぜ、こんなことを考えるかというと、最近、わたしの中がとても「明るい」からだ。
こんな気持ちになると、研究はどんどん前へと進んでいく。
こんなこともやりたい。あんなこともやりたい…とたくさんのやりたいことがでてきて、プライヴェートな悩みは奥へ奥へと沈んでいく。

わたしはこの感覚が、とても好きだ。

私の愛する人たちのための最後の脚本

2007-01-11 17:02:26 | 趣味
演劇部は毎年3月、学年末の全校イベントで、
全校生徒の前で40分程度の芝居を披露することになっている。
今年もまた然り。
練習のために要する時間の都合上、新しい芝居をやることは不可能なので、kimistevaが作・構成を担当した芝居を、またやることになった。

そのことが決まって、脚本の構成を考えていると、
演劇部の総もとじめGK氏からメールがきた。

今年度で現在の顧問がやめることになる。来年度からはますますやりにくくなるだろう。結果を出していかなければならない。

言いたいことは大体わかる。
私の愛する高校生たちは、もうそこまでの高いレベルに達しているから、この先は作品として完成度の高い作品にとりくんでいかなければならない…ってことだ。

ここまでくると、わたしのすべきことはもうないに等しい。
わたしにできることは、プレイグラウンドを用意して、そこで徹底的に遊んでもらうことだけだ。
徹底的に遊ばなければ、自由になれない。自分を日常から解放させられない。
だから、プレイグラウンドは必要不可欠だ。
だけど、作品としての完成度を求めはじめるなら、そのプレイグラウンドから離れていく必要があることもまた事実。
それが「作者」として立ち上がっていく…ってことだ。
物語の語り手として、authorとして。

それは、わたしにとってはちょっと淋しいことではあるけど、
でも、それでよかったな、って思う。

わたしに今できることは、
わたしの愛する人たちのための最後のプレイグラウンドを作ることだけだ。

「楽しい」って思ってほしい。
生きていることは、楽しいことなのだから。