KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

恐るべし火星人!IQ2684!!kimisteva少年の運命や如何に!:「僕らの小松崎茂」展

2006-10-30 17:16:08 | エンターテイメント
【前回までのおはなし】
ある日、kimisteva少年は、T大学中央図書館に置いてあった科学帝国ていぱーくの展覧会のチラシを入手した!
裏に描いてあったロケットの模型に、kimisteva少年は仰天した。

「ああっつ!スピップ!スピップではないか!!
まさか、宇宙大戦争がこんなところで行われているとはっつ!これは大変だ。急いで地球を救済しなければ。」

こうして、kimisteva少年は、ていぱーくへと足を向けることになった!
さあ!kimisteva少年の運命はいかに!科学帝国ていぱーくとはどのようなところなのかっつ!


諸君!!
kimisteva少年は大東京摩天楼ポリスにある
科学帝国ていぱーくへと降り立った!

こうして、ていぱーくに降り立ったkimisteva少年は、IQ2684の火星人の画像と遭遇!仰天の数値である。

「ああっつ、なんということだ。火星人にはそれほど高いIQがあったのかっつ!


諸君は知っているか。人間の通常のIQは100を基準とする。
これで君たちもIQ2684の恐ろしさがわかつただろう。

火星人には地球人の数十倍ものIQがあるのである。
恐るべし。科学帝国ていぱーく。

それに対し、kimisteva少年のIQは70。いわゆる「境界IQ」である。
果たしてkimisteva少年の運命はいかにっつ!

************************

うーん。この文体だと進みませんね。
まあ、ともかく、小松崎茂展に行った…ということです。

何よりも、むねきゅんだったのは、
「少年少女のための科学雑誌」…という概念そのものでした。

ああ。科学の時代。
ああ。科学の時代。
僕らはパノラマ。僕らはパノラマ。僕らはパノラマ。
ああ。電化製品よ。電化の力よ。
そして わたしたちの かがやかしい 未来よ。
僕らはパノラマ。

科学の絶対性が壊れた世界に生きているからこそ、
あの頃「科学」という存在が担っていた、
とろけるような夢の世界に憧れるわたしです。

ああ。僕らはパノラマ。

資格取得のための学校

2006-10-27 13:27:25 | ニュースと政治
昨日とまったく同じテーマですが、
ちょっと視点を変えてみたいと思います。

高校時代、物理の先生がこんなことを言っていたことを思い出しました。

「高校は、自動車教習所と同じ。「高校卒業」って資格を得るために来てるんだから、それを忘れちゃいけない。」

現在、まさに「資格取得」のために必要な履修科目として、「論理的思考」や「国語表現法」を教えているわたしにとって、この言説は非常にリアリティがあります。

確かに、カリキュラムを「学習者の学習の履歴」として定義することによって見えてくるものは多いし、そういうカリキュラムの側面を完全に無視してはならないと思うけれども、
その一方で、学校というものは「資格取得のため」に存在しており、その資格取得のためのカリキュラムが用意されているわけです。

そう考えると、必履修科目を履修していないのだから、
資格が得られない=高校を卒業できない、というのは当然です。

しかし、ここで想定されている「資格」っていったいなんなのでしょう?

わたしが専門学校で教えている科目には、資格を取得するための必履修科目としての必然性がある程度保障されているように思うのです。

看護士には研究的態度が必要!→「論理的思考」
幼稚園教諭は「教諭」だから教える内容=教科に関する科目が必要→「国語表現法」
…というように。
そして、それらの科目は確かに、他のどの科目とも内容的にあまり重ならない。役割分担がきちんとなされている。

でも、高校の場合、「高校卒業」という資格の正体がはっきりしません。
「高校卒業」という資格を得るためのテスト「大学検定」は、大学入試の受験資格を得るためのテスト、という意味合いが強い。

そうすると、「高校卒業」という資格=大学入試受験資格と考えられる。
もちろん、中学卒業と高校卒業では就職での有利さが異なるし、「高校卒業」以上の学歴を求める企業も多いから、そういう意味では就職のための資格なのかもしれない。

だけど、これってどういう「資格」なのか、いまいちよくわからない。
「一般常識くらいはわかりますよ」ということを証明するための資格なのか?
それにしては、カリキュラムの選択肢があまりにも多岐にわたっているような気がする。
職業科と普通科の学校で同じ「資格」であることを考えたとき、その「資格」がいったいどういう「資格」なのか、まったくわからなくなってくる。

「高校卒業」という「資格」…っていったいなに?

カリキュラムは誰のもの?:必修科目未履修問題

2006-10-26 18:45:14 | ニュースと政治
必修科目未履修問題が花盛りである。

ここでは必修科目が不足していることそのものについてではなく、
それについて複数の人たちがそれぞれの立場から意見を交わしたことについて
書いてみたいと思う。

必修科目不足でたたかれた学校は謝罪の後、次のようにコメントした。

A1:受験のことを配慮した対応だった。
A2:言い訳するようだが、地理の内容は世界史の内容と重なる部分が多い。

安部総理は以下のようなコメントをしていた。

B:国で定めた教育課程なのだから、当事者はこのことを重く受け止めてほしい。

そして河合塾の関係者のコメント

C:この事件は受験システムと学校で要求される教育課程との軋轢の結果として生じたものだ。

そして、当の生徒と保護者たちは、「受験はどうなるのか?」「卒業できるのか?」という不安の声をもらしている…と報道されている。

なんじゃこりゃ?
いったい、カリキュラムって、教育課程って誰のものなの?

少なくとも、この報道のありかた、マスメディアの伝え方から見えてくる「カリキュラム」や「教育課程」は、ただただ、国が強制的に定めるものでしかない。

教育学の研究をしていて、
「カリキュラムとは学習者の学びの履歴である」
…なんて美辞麗句を博士論文の考察に書いてしまったことを後悔した。
このコメントを見たときほど、このことを後悔したことはない。

結局、「カリキュラム」「教育課程」なんて国家が定めるものでしかないのか。
結局、政治なんだな。教育って。

そんな中、
「地理の内容は世界史と重なる部分が多い」(A2)というコメントは、けっこう、まともなコメントなんじゃないかと思ってる。
もちろん、記者会見で話す彼らが、どれだけそのコメントの本質を捉えているかはわからない。
絶対、体裁だけ整えたコメントなんだ…ってことも簡単に予想がつく。

だけど、「カリキュラム」「教育課程」が「国家のもの」としてしか語られない、現在において、唯一、学習者に学ばれる内容に焦点をあてたコメントだと思うんだ。

わたしは社会構成主義の立場をとるから、それでも対抗言説をコメントとして発表したことは評価するよ。
どんなに美辞麗句でも、やっぱり「カリキュラムは学習者の学びの履歴」と言っていたいんだ。

とりあえず、できました。

2006-10-18 20:31:25 | 研究
博士論文の草稿。第一稿がとりあえず完成しました。
そんなわけで、たまには自分をかわいがってあげたくて、
よしながふみのBL短編集三冊くらいと、高河ゆん『アーシアン 完全版』全巻を衝動買いしました。
BLばかり衝動買いする彼氏もち26歳です。最低ですね。

これからわたしは、しばらくヤオイとBLに邁進します。
わたしの人生に必要なものは、
カフェインと、神様なんて信じない透明な少年と、翼のおれた男たちのBLです。

ああ。本当に最低ですね。

そんなこと、言ってしまえるくらい、燃えつきてます。
…燃えつきたぜ…まっ白によ。

「僕はいったい何になるんだろう?」

2006-10-15 15:50:37 | わたし自身のこと
今日は久々に、母校の高校生に会いにいってきました。

ところが、本日は英語検定がある日だということで、残念ながら、演劇部は14時で終わり。
時間をもてあますはめになってしまいました。

今日はお昼のときに、英語検定の話から、進路や将来について話すことになりました。
その場にいたメンバーは、わたし以外みんな高校1年生や2年生。
「進路」というのは、かなり重くのしかかってくる話題のようです。

彼ら/彼女らが口にするのは、「僕はいったい何になるんだろう?」という、自分に対する疑問。
そういう疑問を持つ彼ら/彼女らは、本当に、美しいなぁと思います。

青年期に入るということは、
未知の世界で不安定ななか、自分の立ち位置を見出そうとすること。
青年期の終焉とは、自分の立ち位置を定め、安定した世界の中に身をゆだねることだ、とどこかの青年心理学の専門家が言っていたことがあります。

安定した世界は、とても居心地がよいけれど、
先の見えきったつまらない世界でもあります。

わたしが、そんな安定しきった世界の中にいるとは、ちっとも思わないけれど、
「僕はいったい何になるんだろう?」と口にする、
彼ら/彼女らの世界よりは、はるかに、先の見える世界にいるような気がします。

だって少なくとも、わたしは今から「医者」になったり「カウンセラー」になったり、「大工」さんになったり「看護士」になったりすることは(可能だけれども)ないわけですから。
彼ら/彼女らには、まだ、それらの選択肢がすべて残されている。
それは、不安定で先がみえなくて、ため息をつくような重い課題なのかもしれないけれど、一方で、そういう先の見えない世界の中に生きることは、すごく魅力的なことでもあります。

自分っていったいなにもの?
どこにいったらつかまえられる?
愛と欲望の違いってなに?

いろいろなことを考えられること。
それは、すごく透明でキレイな営みです。
そういうことができる時間を確保されていることは、すごく、うらやましいことだし、そういうことをずっと考えていてほしいと、わたしは思うのです。

透明でキレイな時間は、守らないとすぐに崩れてしまう。
そんな時間を大切に生きてほしいと思うし、わたしもそんな時間の中にいたいと切に願うよ。

両性と無性:男性向けマンガと女性向けマンガにおける性別越境について

2006-10-14 16:16:31 | 研究
藤本先生の講演を聴いて以来、ずっと、少年マンガと少女マンガにおける性別越境のありかたの違いについて、考えている。

藤本先生は、少年マンガには少女マンガに比べて、ほとんど性別越境がない、といった。
そして、そのことに関連して、少年マンガにおいて…というよりは、男性向けエロマンガにおいて「ふたなり」(二成、双成)のモチーフが非常に多い、と言っていた。

わたしが気になっているのは、この後者の方の話。
男性向けのマンガにおいて、なぜ、「ふたなり」というモチーフが用いられるのか?…ということだ。

ちなみに、「ふたなり」とは一人で男性と女性の性器を兼ね備えた半陰陽の人のことである。(Wikipediaより)

そういわれてみれば、昔読んだ、光輝作品にも出てきてたなぁ、「ふたなり」(男性でもあり、女性でもあることを利用した暗殺者だったと思う)。
あと内田春菊もそういうモチーフでマンガを描いていた気がする。
…とかいろいろ思い当たる男性向けマンガはある。
(ところで、イトウくん(『南国少年パプワくん』)=雌雄同体は「ふたなり」には入らないよね。あれは、雌雄同体よね!雌雄同体!そもそも人間じゃないし。)


だけど、この「ふたなり」。
少女マンガで見かけたことは、ほとんどない。

少女マンガには性別越境的なモチーフは、非常に多い。
「男装の少女」「女装する少年」、ホモセクシュアルもレズビアンも、全部、少女マンガの中で見かけたことがある。
だけど、確かに「ふたなり」を見かけたことは、ない。

これって、なぜだろう?
セクシュアリティを明示するモノ=性器そのものに関わるからだろうか?

この仮説も考えるに値する仮設だと思うが、ここでわたしが立ててみたいのは別の仮説だ。
すなわち、男性向けのマンガと少女マンガでは、性別越境に対する志向性が異なっていて、
それは「両性」への志向と、「無性」(あるいは「中性」)への志向、としてカテゴライズできるのではないか、ということだ。

(藤本先生は、少女マンガの性別越境が、「アニマ」「アニムス」といった精神分析学的な「内」への性別越境であり、少年マンガが「外」に顕在化した性別(ジェンダーというべきか)そのものを超えようとする性別越境として説明していたが、どうも精神分析学的な説明がすきではないので、わたしなりに解釈しなおしてみたい。)

つまり、
男性向けマンガでは、男性でも女性でも「ある」、というモチーフが、
少女マンガでは、男性でも女性でも「ない」、というモチーフが、
それぞれ採用されている、ということはできないだろうか。

ではなぜ、男性向けマンガでは、男性・女性どちらでも「ある」というモチーフが採用され、少女マンガでは、男性・女性どちらでも「ない」というモチーフが採用されているのだろうか。

わたしはここに、本田和子氏が指摘しているような「少女共同体」の特異性を読み解いてしまう。
自分たちが生きている社会の現実的な汚さや重さや…そんな一切のものから離れて、「ふわふわ」「ひらひら」と現実から離れたところを漂っているような「少女」たち。そんな「少女」によって構成される「少女共同体」。

それは、本当に、現実世界のさまざまな物事とは離れる、とても透明で美しい世界。そんな世界の中に少女たちは生きていて、そんな世界を「少女マンガ」の中に求める。

…これは、果たして過剰な解釈だといえるだろうか。
わたし自身はそんなことはないと思う。

だって、街を歩くGothic&Lolitaの少女たちを見てごらんよ。
彼女たちは、本当に透明であまりにも繊細でキレイな世界を生きてるよ。
こんな汚い現実世界に適応できないんじゃないかとこっちが心配になるくらい。

すごく透明で繊細。ふわふわ、ひらひらと、現実から離れた世界を、彼女たちは生きてる。
そしてその世界の物語を作り出し、その物語を共有してる。

その物語の中では、俗世に確固としてある「男」や「女」なんていう性別なんて、まったく意味を持たない。
彼女たちは、男でも女でも「ない」、天使のような存在として、わたしたちが生きる現実を外側から、きれいな微笑みを浮かべて見ているんじゃないだろうか。

でも、男の子たちは、そうはいかない。
ずっと現実のただ中で、現実の世界でいきる。
「夢」も「希望」も「冒険」も、それはただ、現実に生きる自分たちとまったくかけ離れた遠い世界の話でしかない。
少年マンガの読者たちは、常に現実世界にいきてる。
この汚い現実世界に。

「両性」と「無性」…というこの違いは、そんな読者のいる位置の違いを反映しているのではないだろうか。
これは、まったくわたしの仮説に過ぎないけれど、
ヤオイという装置が、永久保氏のいうように「ジェンダーの戯れ」を可能にする装置なのだとしたら、そんな「ジェンダーの戯れ」をおこなう少女たちは、どこか現実から離れた世界にいるんじゃないかと、わたしは思うよ。

「私にも覚えのある感情だ」:高河ゆん『アーシアン』

2006-10-12 19:21:32 | 
昨日、ふとアパートの本棚を見たら、
高河ゆん『アーシアン』1~5巻があることに気付きました。

そういえば、気まぐれに立ち寄った古本屋で見つけて、5巻セット500円だったので衝動買いしてしまったのでした。

『アーシアン』。
この作品がなければ、わたしはヤオイの世界を本格的に知ることはなかったと思います。
ヤオイを愛するすべての少女たちが、初めてヤオイに触れたときに衝撃を受けるように、わたしにとっても『アーシアン』は衝撃の作品でした。

こんな世界があったのか!
…と、言葉にしてしまえば簡単ですが、
まだ10代前半、周囲の女の子たちは、バレンタインに誰にチョコレートをあげるとかあげないとか、体育祭で誰と誰が付き合いだしただとか、そんな話をしているまっただ中です。
そんなときに、『アーシアン』を読んだ、という経験は、わたしにとって非常に大きな意味を持っていました。

あの時、わたしが感じていたある種の優越感。
それは、きっとこの作品によって形成されていたのだと思います。

ボーイ・ミーツ・ガールのありきたりでパターン化された陳腐な恋愛を乗り越えた、その先にある世界を、わたしは『アーシアン』に見いだしていました。
そして、その先にある世界を知っているわたしは、わたしの周囲にいる誰よりも美しく、透明な世界に生きているという自信がありました。

そして、その美しく、透明な世界を共有する友人たちと一緒にいる時間が、わたしにとっては陳腐な日常から抜け出ることのできる、ステキな時間でした。
中学校は嫌いだったけれど、友人たちとともに、高河ゆん『アーシアン』や尾崎南『絶愛-1989-』を共有する時間は、すごく透明で、高貴だった。

『アーシアン』の中のあるシーンを見たとたん、
そんな、わたしたちの透明で壊れやすくて、だから美しかった共同体のことを思い出してしまいました。


「私にも覚えのある感情だ」
それが、そのシーンのセリフです。

ある男性の天使がある男性の天使を愛してしまう。
だけど、その天使の世界では同性愛は死罪。
男性の天使を愛してしまったその天使は、その天使と離れたくない、と大天使にいう。
そのときのその大天使のセリフです。
(…どうでもいいけど、こうかくと、あの世界の美しさの片鱗も伝わらない。)

「私にも覚えのある感情だ。」
このシーン…、わたしたちの間でかなり流行しました。
今でもセリフを覚えているくらいですから。

減少する出生率。
死をまねく大病の流行。そして…背徳的な欲望。

すべてが破滅へと向かっていく…その中でのこのシーン。

わたしたちは、言語化できないままに、そのシーンの美しさに酔いしれていました。あの美しさは、当時のわたしたちでは触れることすらできない、遠い遠い世界の美しさだったのかもしれません。

誰が何を言おうとかまわない。
わたしは、やっぱり、わたしなりの美しさを愛してる。

わたしの生成/世界の生成

2006-10-11 14:12:40 | わたし自身のこと
わたしが世界を生成する、唯一の方法を奪わないでほしい。

書くことは、すなわち、わたし自身。
わたしを生成し、わたしの世界を生成する方法。
書くこととわたしとは分離できないし、書くこととわたしの世界も分離することはできない。

わたしは「国語表現法」やら「論理的思考」やらという授業で、
レポートや小論文の書き方を教えているけれど、
誰かが書いたものを批判したことは一度もない。

カウンセラーが、クライアントが何かを言葉にしようとするその姿勢に共感し、その姿を高く評価するように、
わたしは、誰かが何かを書こうとするその姿に共鳴し、その姿を限りなく美しいと思う。

「レポートとしての」評価、「論文としての」評価
…というカッコつきでの評価は可能であるけれど、
人が言葉を紡ぎ出そうとする…そのこと自体は、
評価の対象にはなりえないと思う。

わたしは書くことによって、わたしを生成する。
そして、世界が生み出される。

鋭利なナイフに近づくためには自分を傷つけるしかない

2006-10-11 09:47:47 | Weblog
「近づいたら…手に入れようとしたら、
自分が傷ついてしまうかもしれない。
でも、あまりにそれは、魅惑的で美しくて…、
自分が傷ついてしまうと知りつつ、
それに近づきたいと思う。
そして自分を傷つけてしまう。

それがGothの美しさです。」

…というようなことを、昔、Gacktがいっていたような気がする。

今になってあらためてそのことを思い出す。

わたしは、傷つくしかないのだ。