KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

日常のホラー現象-消える指先の巻-

2006-04-26 14:57:08 | わたし自身のこと
それは、いつもの通りに始まったはずの一日だったんです。

朝8時に目が覚めて…、大学に行かなきゃ…って思って、
朝ご飯にグレープフルーツを食べよう…って、台所に向かう。

白いまな板の上にグレープフルーツを置いて、
いつも使っている果物ナイフで、グレープフルーツを真っ二つに切る。
でも切り終わったとき、ちょっと変だな…って思いました。

なんか、2mm四方の赤い物体がグレープフルーツの中から出てきて、
まな板の上に転がってるんです。
初めは、「グレープフルーツの種かしら?」なーんて思って拾い上げてみると、その赤い物体は種にしてはあまりに柔らかい。
なんか、液体のようなものがたれてくるし、なんだかわかりませんでした。

「なにこれ?」

不思議に思いながらも、まな板を片づけようとすると、
まな板はすぐに真っ赤に染まっていく。白いまな板は、1分たらずで真っ赤になる。
「え?」

…と思って、自分の親指を見ました。

「…ない!」

そう。ないんです。親指の先。先端部分の1/4がきれいに欠けている。まるで彫刻刀で削り取ったみたいに直角に切り取られている。

よく見ると、「切り取られている」のではなかったらしい。
その部分は内側にぺろんと折れ曲がっていて、わたしからはそれが見えなかっただけ。皮一枚でつながっているようでした。

すると、気付いたとたんにものすごい激痛が走りました。
とにかく痛い。
今までまったく痛覚がなかったのは、いったいなんだったんだ?という感じ。

無理矢理パズルのようにもとの形に戻してみるものの、すぐにぺろんと落ちてしまう、わたしの(ものであるはずの)指先。
もうこうなってくると、わたしの身体なんてものには見えなくなってきます。
ただの肉だよ、肉!

人間の肉って食べてもおいしくなさそうだなぁ。
それとも、指先だからかなぁ。…などとおもいながら、一生懸命ばんそうこう5枚つかって、もとの形に修復しました。

…結局、整形外科に行ったら「あー。こりゃダメだね。死んでる。」って言って切り取られたけど。

わたしの身体の一部はこうして、わたしでないものになりました。
切り取られたあとは、ゴミになりました。

あれってどう分類されるのかな?「燃えるゴミ」なのかな?「燃えないゴミ」なのかな?それとも「医療ゴミ」なのかなぁ?

そんなことばかりを考えます。

今、わたしの一部は欠けたままです。
直角に切り取られたまま、わたしが自分自身の力で修復するのを、ただただ、待っています。

「君の家に着くまでずっと走ってゆく」

2006-04-25 19:32:52 | 趣味
最近、わたしの一番好きな歌。
GARNET CROWの「君の家に着くまでずっと走ってゆく」。

なんで好きなのか、わからないくらい好き。音楽が好き…ってこういうことを言うのかな、って感じがする。
タイトルからして大好き。すごく、ごきげんな感じで、なんだかすごくうれしくなる。車に乗るときも、研究するときも何度も何度も聞いて、わたしの心の中にずっと、幸せでごきげんなメロディを残してくれる。どんなにつらいときも、悲しいときも、「君の家に着くまでずっと走ってゆく」を聞けば、ちょっとだけ元気になって、笑顔が作れる。

あまりにたくさん聞いていたものだから、
印象的なフレーズがずっと頭の中に残ってる。

「過ぎていく時間(とき)に戸惑うなんて どうかしていたんだ。
また 忘れそうになったら あの歌を歌って」

なんていうか説明できないのだけど。
今、この歌詞をここに書いておきたかった。
あまりに、ぴったりで。
あまりに、うれしくて、ごきげんで。

ただ空っぽに、なーんにも考えずにお幸せなHAPPYなのではなくて、
傷つけあって、すれ違ったすえに、また出会えたときの、青空のような幸せを歌ってくれるところが、GARNET CROWの歌のたまらなく好きなところ。

「わたしは今、幸せだよ」

すべてのことを、乗り越えた末に、抜けるような青空に向かって叫びたくなるような、そんな気分なんだ。今。

「絶対、泣くよ!絶対、泣かせるから!」

2006-04-25 10:36:41 | お仕事
昨日は看護学校での第二回目の授業でした。

前の記事で報告したとおり、「朗読プレゼンテーション」を次回から学生たちにやってもらうということで、「朗読プレゼンテーション」第一回目はkimstevaがやりました。

とりあげた作品は、石田衣良『4TEEN』から「月の草」です。

「朗読プレゼンテーション」のプレゼンテーションって難しい。
何がやりたいのか?わたしが何を目的としてこの活動をするのか?
わたしが何を学生たちに期待しているのか?
わたしがこの活動によって、どんな関わりを形成しようとしているのか?

そのすべてを、口頭での説明で伝えることは不可能。
結局、やりたいことは、わたしが「実際にやって」見せるしかないのです。

自分にとって大切な小説の中の大切な一節を
これ以上ないくらい、壊さないように大切に大切に読み上げる。
そして、わたしにとってこの作品がいかに大切であるかをプレゼンテーションする。
…これを、30人の学生たちにわかるように、わたしが実践できるのか、というのはわたしにとって大きな課題でした。
口で言うのは意外と簡単なんです。
「みんなの思い入れのある作品持ってきてねー」「ちゃんと自分にとってどんなに大切なのか説明してねー」って。でも、自分自身がそれをきちんとやらなければ、絶対、学生たちは自分にとって意味のある活動としてこの活動をやってはくれないでしょう。

この活動をやることで、関係性が変化する…その瞬間を実現しなければいけないんです。
これってものすごく難しいことです。

はっきり言って、朗読を終えた瞬間は、かなり不安でした。
もともと早口ですし、照れてしまうとさらに早口になるわたしの朗読で、はたして、わたしの大切な思いは伝わったのだろうか?
何度も何度も練習したはずなのに、やっぱり、うまくその大切さを伝え切れていないようなそんな思いだけが残りました。
相手が見えないっていう不安が、さらに、早口と不安に拍車をかける。
「それでも元演劇部かっ!」…と自分でつっこむほど、緊張したし、不安でした。

でもね。
人間って、すごいなあって思う。
人間って、ホントに、優しい動物なんだなあって思う。
看護学生だから、なのかな。看護学生ってこんなに、特別な人間なんだろうか。
こんなに相手に対して、センシティブになれる人たちが、この世界にこんなにたくさん存在していたのだろうか?

終わったあとに、まず、ある女の子が来て、レジュメの書き方などを一通り聞いたあと、すごくうれしそうに言ったんです。

「先生、泣くよっ!」

…って。わたし、なんのことだかわからなくて、戸惑いながら「え?」って聞き返しました。そしたら、すごいうれしそうな顔して、またその子は言いました。

「わたしの発表聞いたら、絶対泣くよ!絶対、泣かせるから!先生、期待しててっ!」

わたしは説明で一言も、「感動させよう」とか言ってません。ただ、「自分にとって大切な本の大切な一節を紹介してね」…って言っただけ。あとは自分の「朗読プレゼンテーション」をしただけです。

だから、きっと、その子はその子なりに、わたしのプレゼンテーションを聞いて、「感動」…というのはさすがに憚られるけど、前に立つkimistevaが訥々と語る言葉に、何か心を動かされてくれたのだと思うのです。
そして、それを見て、「あー。この活動は感動を共有する活動なんだ」と解釈したんじゃないか、と思いました。

そう思ったら、ホントになんかこちらが感動してしまいました。
その子が、わたしのことを、理解してくれようとしたこと。その事実は間違いない事実だと思ったから。

そのあとも別の女の子が、
「本じゃなくてもいいですか?」…って言ってきてくれました。
その子によると、どうやら、その子は友人から回ってきたチェーンメールの内容にすごく感動して、ぜひその内容を紹介したい、とのこと。その子は一通り説明したあと、「わたしだったら、絶対これって思うから。」と言いました。

きっと、その子も同じなんだと思います。
自分の中でもっとも大切なものを、みんなの前で開示することの意味を、感じ取ってくれたんだと思います。
それって、わたしにとっては、すごくうれしいことでした。
本当にうれしい。

授業を魅力的にするものって、いったい、なんなんでしょう?
あらためて、そんなことを考えます。
土曜日にわたしが参加した研究会では、「教師の面白いと思うものが教材になりえるんだ」という教育学者の議論に触れた発表がなされていましたが…、それもあまりに単純化しすぎている気がします。

教材やカリキュラムってなに?
結局、それって、人と人とがつながり、世界と世界がつながるその瞬間を実現する、ひとつの資源、ひとつのデザインに過ぎないんじゃないだろうか?
授業の魅力って、人と人との関係性が構築され、再構築されていくそのダイナミックな変動の予感にあるのではないかしら。

41プラスマイナス16 キロのルミナ

2006-04-24 10:01:27 | お仕事
「でもいいんだ。やせているときのルミナと太っているときのルミナは別人のような抱き心地で、ふたりの女の子とつきあっているみたいだし、ぼくは41プラスマイナス16キロのルミナが好きなんだから。」
(石田衣良『4TEEN』より「月の草」)

看護学校の授業のカリキュラムは基本的に前任者のものを受け継いでいるので、今日の授業からは「朗読プレゼンテーション」が入ります。

前任者は、「耳を鍛える」という意味合いでやっていたようですが、わたしはただ単に、自分の好きな本とか自分にとって大切なことばを他者と共有することができたら良いな…ってそんな意味あいでやることにしています。

上の一節は今日、わたしが発表する一節。朗読それ自体は四ページ読みますけど、伝えたいのはこの部分だけです。

率直にいうと、本当に救われました。この一節に。

「41プラスマイナス16キロのルミナが好きなんだから」
…これほど、男の子の優しい強さをあらわした文章って、そんなにないと思う。
わたしは、実際に「プラスマイナス16キロ」を経験しているけど、それだけで救われたわけじゃない。

わたしは、自分のことが嫌い。
自分の嫌いな側面はどんなにがんばっても、拭いされなくて、だからそんなところを親しい人に指摘されて、そのことでネガティブな反応をされるたびに、「わたしなんていない方がいいよね」…って思う。

で、できるだけ、受け入れ可能なところだけを出そう!認められるところだけを出そう!…って思ってがんばるのだけど、たまに、そんなにがんばってる自分が虚しくなる。

結局、がんばったところで…っていうか、がんばればがんばるほど、わたしの誰にも見せない汚い側面はそのまま残されていって、「どうせ、表面の部分だけが好きなんでしょ」…っていう不信感でいっぱいになる。

「41プラスマイナス16キロのルミナ」
やせているスマートなルミナも、「太っていて人には見せられない」とルミナ自身が否定するルミナも、

僕は大好きなんだよ。

これって、あまりに強くて、あまりに優しいことばだと思う。
わたしは、このことばが本当に好き。わたしが囚われている、わたしを否定しようとするあらゆる言葉を撹乱してくれる気がするんだ。

だから、今日はこれを発表してきます。

研究倫理の基礎の基礎:まなざしの政治学について

2006-04-20 22:44:53 | 研究
先日行われた、とある演習授業で輪読するための文献の希望をあげることになりました。
そのとき、最近、某国立大学附属高等学校で非常勤講師をはじめた同じ研究室の院生が、次のように発言したのです。

「4月から非常勤講師をはじめまして、
50人…いや80人ちょっとの調査協力者がおりますので…、調査のための視点を得られるようなものが読めたらな…と。」

その高等学校が、いろいろあって思い入れのある学校だったこともあり、
ちょっと、カチンと来たわたしはすぐに言いました。

「そんなこと言うと、殴られるよ。わたしに(怒)」

ちなみに、現在この演習授業で読んでいるのは、
‘Ethics & Representation in Qualitative Studies of Literacy’
(『リテラシーの質的研究における倫理と表象』)

倫理の問題を一年間にわたって議論してきた結果がこれか!…と思うと悲しくなりました。…まぁ、すぐに彼も「わかってるよ…」と言いましたけど、そもそもそんな発言すること自体がどうかと思います。
いくら、言葉だけ「調査協力者」とか言ってもダメなんですよ。

問題なのは、「まなざし」なのです。
どういう「まなざし」をもって、研究の場に立つか、ということなんです。
そういう問題に関する自分自身の立ち位置を抜きにして、倫理は語れないのです。
これって、研究倫理の基礎のそのまた基礎となる基本的な問題だと思います。

最近、わたしの信頼している友人が、研究倫理的にちょっと疑問に思うような行動をしたり、発言をしたりしていた矢先だったので、この機会にかいておこうと思います。

一番、問題なのは、「調査者としてのまなざし」を否応なく持ち込んで、それを正当化したり、あるいはあたかもそんなまなざしなど存在しないかのように振る舞うことです。
当事者にとって、調査されることは利益のあることかもしれないし、
当事者に成果がフィードバックされることがきちんと目指されなければならないことも確かです。
だけど、基本的に、調査は調査者の利益のために、「させてもらうもの」だとわたしは思ってます。

だって、論文を書いたり、研究発表をしたりして、調査者が利益を得るのは間違いのない事実なのですから、それに対して調査協力者が利益をきちんと得られるかどうかは、かなりあやしい。
だからこそ、調査協力者にはきちんと、正確な情報を伝え、調査というまなざしを持ち込まざるを得ないことをきちんと了承を得なければならないと思います。
その上で、調査協力者が調査というまなざしを引き受けることを許容して、はじめて、調査は行われなければならないのです。

初めから、自分が他の役割を引き受けているフィールドに、
「調査のまなざし」を持ち込むことを当然であることのように語るるのって、どうかと思う。
「調査のまなざし」を持ち込むことって、基本的には暴力なんだから、そのことを自覚しなければならないと思う。なんか、初めから「殴りに行くから」って言ってるみたいで、そういうのってすごく抵抗がある。

少なくとも、できるだけ「調査のまなざし」を持ち込まないように避けること。持ち込まざるを得ない部分は、きちんと説明して、理解してもらうこと。
これが大切なのではないかしら。

なんか、最近、あまりに調査に対して無頓着な人が多い気がします。
質的研究がはやればはやるほど、こういうことって議論されなければいけないのにね。

暴力の痕跡(きずあと):『人間交差点』

2006-04-20 11:57:00 | わたし自身のこと
自分自身の力では、どうしても、暗い気分が断ち切れないときは美容室に行くことにしています。
そろそろ前髪を分けなければならなくなってきたので、そろそろ行かなければ、と思っていたこともあって、さきほど、美容室に行って来ました。
…まぁ、結果的に言うと、あまりの込みっぷりにカットはしてもらえなかったので、しばらくこのままです。

それはともかく、せっかく行ったので、美容室にあるマンガを読んできました。
『人間交差点』。
古今東西あらゆるヒューマンドラマを集めた…とかいう、なんだかすごい本ですが、けっこう人気があるらしいですね。
一話完結なので、待合いがてら読むには大変、便利な本です。

結論から先に言うと、わたし、この本、キライです。
こういう言い方すると、「またまたぁ~、kimistevaさんはフェミニストなんだから」と嘲笑されそうな気がしますが、あえて言わせていただきます。

『人間交差点』って、はっきり言って、女性を蔑視してると思う。
…いや、それは正確な言い方じゃないな。
女性が蔑視されることを「感動もの」って便利な装置でくくって正当化してる。
それがイヤ。
たまらなくイヤ。…てか、本当に吐き気がして、美容室から出るやいなや、泣きながら運転した末に、近隣の市役所でずっと泣いてました。…で、今、大学にいます。なんだかすごい半日です。

わたしがこの日、読んだ話はわたしが『人間交差点』で読んだ中でもっともひどい話でした。
あらすじは以下の通り。
弁護士やら政治家やら、社会的にかなり高い地位についている三人の男性。
そのうち、会社員でもっとも普通な生活を営む一人に、「瑛子」という女性から手紙が届くことから物語は始まります。

瑛子、というのは、彼ら三人が社会的地位を得ない若い頃に狭い6畳のアパートで一緒に住んでいた彼らよりもさらに若かった少女のこと。
三人の若者はあまりにも貧乏で、瑛子がバイトをしてお金を稼いで、瑛子にほとんど養ってもらう形で日々を過ごしていた。

あるひ、三人の男性は最後の柵をも破ってしまう。
三人で、瑛子を犯す。
「瑛子。心配するな。誰だってしてることなんだからな。」「瑛子。これをしなきゃ、大人にはなれないんだからな。」
自分たちの行為を正当化する。合理化する。
俺たちは悪いことをしてるわけじゃない。俺たちは貧乏で、「しかたなかったんだ。」
誰だってやってることだ。別に悪いことをしてるわけじゃない。

一旦、柵を外してしまえば、獣たちは勝手に暴走をはじめる。
瑛子はキャバクラで働くようになり、三人は瑛子の稼ぎで暮らし始める。
彼女に振られれば、瑛子で自分を慰める。

そして、瑛子が妊娠すれば、おろすだけの金銭などあるはずもないから、瑛子を長時間、冷たい海で泳がせて、子どもを流産させる。

そして、ある程度、自分の足で歩けるようになると、それぞれの若者は瑛子を捨ててアパートを出ていく。
最後まで残っていたのは、弁護士を目指していた若者。
彼は結局、弁護士になるまで5年以上もかかり、瑛子をその5年間ソープで働かせる。そして、瑛子の稼いだ稼ぎで自分を養わせ、
弁護士になったとたんに…瑛子を捨てて、そのアパートを出ていく。

物語は、瑛子から手紙をもらった男性が、手紙に書かれた病院の住所をたずね、瑛子がすでになくなっていたことを知り、瑛子が唯一出産した自分と瑛子との子ども(現在は孤児院に預けられている)を養子として引き取るところで終わります。

…それで、ハッピーエンド。
あたかも、その男性は自分自身の責任を果たしたように、語られる。

最低です。
男ってこんな最悪なイキモノだったんだよな、って思いましたね。
はっきり言って、これをハッピーエンドとしてまとめようとする作者の暴力性も疑わざるを得ません。
だって、『人間交差点』って「ヒューマンドラマ」なんでしょう?

それとも、意図的に暴力の痕跡を読者へと残すようなデザインがなされているのでしょうか?
そうであれば、この作品は大成功だと思います。
その暴力の痕跡は確かにわたしの中に、はっきりと刻まれました。
瑛子は実在しない人物だと思いますが、わたしには瑛子の傷みがくっきりと残された気がします。
今、わたしは、すごく、つらい。
だからこそ。それがハッピーエンドとして括られることに、ものすごい気持ち悪さと吐き気を覚える。

何がハッピーエンドだよ。ふざけるな。
オマエラがやってることは、最低最悪の犯罪なんだよ。
瑛子は結局、誰にも救われなかった。
瑛子への暴力は誰にも補償されることはなかったし、瑛子は単に裏切られる側でしかなかった。
こんな状況でハッピーエンドなんて、ありえない。
この物語をハッピーエンドとして読むためには、主人公の男性に無理矢理感情移入するしかない。
過去の過ちになんとなく、「引け目」(←引け目で済むと思ってるやつが本当に実在してるんだとしたら、本当にこの世界は最悪だと思いますが)を感じている男性が、その過去の瑛子への思いや禍根をすべてはたした…というそういう物語として読むしかない。

ありえない。
そんなふうにこの物語を読める人間って、本当に実在するのですか?
ともかく、少なくとも、そんなオーディエンスが想定されていると考えるだけで、男性不信に拍車がかかる今日この頃。

あーあ。なんでこんなに精神的にバッドな時期に、こんなマンガ読んでるんだろ。

なにがあっても、自分の足で立つこと。

2006-04-18 17:15:59 | わたし自身のこと
ある日、我が家に遊びにきた友人が、悩んでいるわたしに一言。

「kimistevaはいつもそれだからなー。
大切なのはわかるけど、飼い殺しちゃダメだよ。」

………「飼い殺し」。
なんて、痛烈な批判だろうと思う。
その友人自身、わたしに「飼い殺されてる」って思ってるんだろうなぁ、なんて簡単に想像できた。

そうなのだ。
わかってる。そんなこと、わかってる。
誰のことも、結局は信用できないから、
だから、ほとんど一人芝居のように
自分の周囲の関係性を作っていく。
自分自身で、周囲の人を演出してくんだよね。

下手に戦略的で頭が良いから、
あたかも、その人にとって都合が良いように見せかけて、
結局は、自分にとって居心地の良い世界を作り上げてるだけなんだ。

わたしを傷つけない世界を、自分で作り出していく。
でも、それって、わたしの周囲の人たちに対する暴力なんだよね。

「飼い殺し」。
まさにその通りだよ。ホント、その通りだと思った。
わたしが誰かを傷つけているとしたら、その原因はこれ以外にないって思った。

思い上がるなよ、わたし。
わたしは「わたし」という個人として立つことしかできないんだから。
わたし以外に存在する誰かの世界にまで踏み込んではいけない。
その人にはその人の立ち位置があるのだから。
その人にはその人のやるべき課題があるのだから。

「分をわきまえろ」とは、まさに、このことだと思う。
わたしが他者の領域にまで浸食してはいけないのだ。
ホントに今、そう思ってる。

今、わたしは、「わたし」になろうとしているんだと思う。
最終的にはまったく他人と理解できない、わたしの視野しか持ち得ない「わたし」。
だからこそ、他人とともに歩んでいけるんだよね。
限界のあるわたし自身として。

閉じられた世界/つながる世界

2006-04-18 09:59:04 | フィールド日誌
ついに4月16日をもって、調査が終了しました。

「高校生ウィーク」関連のイベントはもうひとつ、4月23日の「芸夜」(ゲイナイト←pigeonさんが好きそうな名前だ)があるのですが、それは大学に申請した調査日程からはずれますので、パーッと遊びます。

それはともかくとして、4月16日のカフェ終了後に行われた、お疲れパーティのことを書こうと思います。
4月16日で「ちへい/cafe」終了!ということで、そのあと、その場にいたボランティアスタッフや、学芸員の方々、そしてその場に居残っていた方々とともにパーティが開かれたのです。
そのときに、高校生ウィーク担当の学芸員の方々や芸術監督の逢坂さん、そして、水戸農業高校の先生らのお話があったのですが、その中でも特に、わたしの印象に残ったのは、カフェの壁の絵を描いた岩本さんの話でした。

岩本さんは、「僕は、ずっと自分の作品を守ってきたから…」と言って、自分がいかに自分なりのアートのスタイルを守るために他者を遮断してきたかを語ったあとに…、
「自分の絵がみなさんと混じり合うのを見て、とてもうれしかったです。」
「こうやって他のものと交流することって良いことなんだなって感じることのできる場でした。」

…と、おっしゃっていました。
それが、なんていうか、
わたしにとっては、すごく、美しかった。

岩本さんの中で、長い間重ねられ、誰にも開かれることなく、作り上げられてきた一つの閉じられた世界。
それはそれで、完璧な美しさをもつもの。一つの価値をつくりあげるアートとして存在している。
だけど…、わたしはそのアートがカフェという場で他者と混じり合い、一方でその完璧な美しさを歪められながらも、他者とともにある場でちがうアートとしての意味を付与されてきた…という事実、その美しさの方を、本当に「美しい」と思う。

一人の中で完璧につくりあげられるアートも確かにある。
わたしは、長い孤独の中で醸成されてきた個人の価値観を見る瞬間が好きだ。

だけど、それ以上に、その醸成されてきた世界観が他者へと開かれるその瞬間が、たまらなく好きだ。
もちろんその瞬間に、もともとあった完璧なる世界は崩壊し、変形するのだけど、わたしはそれでいいと思う。それが美しいのだと思う。

その瞬間が好きだから、世界観がつながるその瞬間を見たいから、わたしは研究者として生きることを選んだ。個人の醸成してきた世界がつながることによって、新たなる「知」が生まれる。その瞬間が好きだから。

なぜ私は人を傷つけるのか?

2006-04-10 14:45:48 | わたし自身のこと
なぜ、わたしは人を傷つけるのだろう?
なぜ、わたしはこんなにも一生懸命、他者に配慮してるつもりなのに、それなのに、人はわたしによって、傷つくのだろう?

人間関係に関しては、「がんばれば、どうにかなる」というセオリーが通じないことくらい、とっくにわかってる。
だけど、わたしががんばることと、人が傷つくこと度合に正の相関がある(あるいは、まったく相関がないのかもしれない)ってどういうことだろう…。

がんばらなければいいのか。
一生懸命にならなければいいのか。
他者のことなんて、いっそのこと、考えなければいいのだろうか。
でも他者を考慮しないわたしなんて、本当にわたしなのだろうか。

なんだか、本当に、わたしは全面鏡ばりの世界に閉じこめられてしまったような気がする。
実はわたしが見ている「他者」というものは、鏡に映った私の像に過ぎないのではないか、とすら思えてくる。
そうなるともはや、他者が消えることはわたしが消えることに等しい。
わたしは、わたしの姿をした他者に囲まれて、わたしそのものが他者なのではないかと常に思わざるを得ない。

わたしが他者のためにがんばる、ということは結局、鏡に映ったわたしのためにがんばることに過ぎず、それは結局、鏡の部屋の外にいる「ホンモノの他者」には届かない。だから、こんなに苦しい。かといってどの鏡を開けば、「ホンモノの他者」に会えるのかすら、わたしにはわからない。

なんだか、どんどん、わたしの存在って透明になっていく気がする。
わたし自身が鏡の残像の一部なんじゃないかという気がする。
消えていく。消えていく。

わたしの存在を支えてくれるのは、「あなたはそこに存在しているよ」と言ってくれるあなたの存在だけだ。