KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

文体論の専門家にやってはいけないこと

2007-06-27 13:26:20 | 研究
文体論の専門家にやってはいけないこと。
それは、いわゆる「ゴースト・ライティング」(そんな言葉があるのかどうかはわからないが)である。

「ま。わからないだろう」…と思うのかなんなのか。
「代筆しました」という情報を明示せずに、
明示された差出人とは、異なる人間がわたしに宛てたメールや手紙を書いてくることがある。
わたしがその文章に違和感を感じないくらい、
内容がごくシンプルな用件だったり
そのゴーストライターが卓越した文体模倣の(?)名手だったりすればいいのだが(そういう場合はほとんどない)、そうでない場合は、恐ろしく不愉快な思いをする。


こっちは作文教育に従事する、文体論の専門家なんだから、
毎日毎日、学生が書いてきた作文の細かい言葉遣いに向き合っているんだから。
だから、ほとんどのゴーストライティングは見抜けてしまうのだ。
「お互いに幸せそうだからいいですね」なーんて、6年も後輩の女の子がいうセリフじゃないだろっ。


わたしは内罰傾向の強い人間なので、
ほとんど他人に対して怒ったりしないのだが、
こればっかりは、本当にハラワタが煮えくえりかえる思いがするのだ。
どうしてだろう?
わかってしまう自分に腹が立つのか、
わかってしまうことすらわからない相手に腹を立てているのか、
よくわからない。

内容が、謝罪など、人間関係的に負荷の重い内容だったりすると余計に腹が立つ。
当然のことだが、代筆での謝罪なんて、ほとんど意味をなさないではないか。


だからお願いです。
本当にお願いですから、やめてください。

研究者として謙虚であること

2007-06-20 16:59:28 | 研究室
「社会学の人って…けっこうああいう強気な人が多いんですか?」

昨日の教育社会学ゼミの打ち上げのあとに、
一緒に帰ることになった教育社会学研究室OGの方にわたしがした質問です。
そのかたは、終始、飲み会の席上でかわされる議論から距離を置いて、
クールにその場の議論を見られていた方だったので、
嫌味でもなんでもなく素朴にそんな質問をしてしまいました。

なんというか
日曜日にT大学で行われた関東社会学会での、
上野千鶴子氏らの講演をめぐっていろいろな議論バトルが交わされたわけですが、
なんというかね。
…うーん、なんか…
…なんというか…
昔の自分を見ているようで、
なんだかとってもとっても、恥ずかしい気持ちでいっぱいでした。

嫌味でもなんでもなく、
「若いっていいなぁ」と思ったり。

「コスモポリタン」な正しさを追及することは正しいけれど、
「コスモポリタン」な正しさは、とってもステキな机上の「ユートピア」を出すことはできても、
現実を変革するような力にはなかなかならないんだよね。

でも、わたしの場合は、まったく逆のジレンマから研究をスタートさせなければならかったので、「コスモポリタン」な正しさや永遠の「ユートピア」を追及しつづけることは許されなかったわけですが。
わたしの目の前に広がるのは、現実であり、
わたしが自分の研究を届ける先も、他ならぬ現実である以上、
現実から乖離したところで幻想の世界で遊ぶわけにはいかなかった。
ただ、それだけです。

でも、現実に縛られるということは一種のウィークポイントにもなりえる。
(そういう「コスモポリタン」な人たちから見れば、当然の話でしょう)
なぜなら、現実に縛られる限り、自分の理論構築とは別のところで、現実の足枷をはめなければならないから。
それが「理論としての不十分さ」として指摘されることも、当然なことでしょう。


壮大な夢を描きながら、
泥沼のような現実を生きることはとってもつらいことだ。
誰にもわかってもらえないし、報われない。
あげくの果てに、そういう人たちから非難される。

自分が今、そういう立場にあるんだということをあらためて実感した場でした。

でも気づいてほしい。
そういう「コスモポリタン」だと自分を規定するあなたたちも日本人であり、男性であり、自分自身の生きてきたその価値観の中でしかモノを見られないということ。
自分の他者について語るということの、その権力性からは逃れられないということ。

そういうことまでも、あまりにも楽観的に「そんなことない!」と語ってしまうのは、あまりにも傲慢なのではないかなぁ…とわたしなんかは思ってしまう。

自分自身の視界の限界に気づかないことは罪だと思うよ。
それこそ、自分の女性への偏見に気づかないセクハラ予備軍の男性と同じくらいには。

清水義範『清水義範の作文教室』

2007-06-20 16:40:50 | 
日本のいわゆる「国語科」教育の中で、
わたしに唯一興味のある内容は、「書くこと」の教育です。
自分自身も小論文やらレポートの書き方を専門学校生に教えていることもあり、
作文教育には一定のポリシーがあります。
でもなかなか、そんなポリシーを認めてくれるような作文の本はありません。

わたしが作文教育…「書くこと」の教育でもっとも大切だと思っていること。
それは、学生たちの中にある、内なる「作文の規範」なるものを打ち破ること。
「何を書いてもいいんだ」って思ってくれることです。
できれば、それが「書くこと」の楽しさの発見につながってくれればな、と思います。

そんな中、
この前、たまたまパートナーが発見してくれた本がこれでした。
生徒たちの実際の作文が掲載してあることもあり、とてもおもしろい本です。
わたしにとって、
もっとも興味深いもの、おもしろいものは、人間が成長していく姿ですが、この本にはまさにそれがあるのです。
そういう意味で、下手な小説よりすごくドラマティックだし、毎日読んでいても飽きません。

裏表紙や前文において、
この作文教室のポリシーは「ほめほめ作文教室」と紹介をされているようですが、それはこの作文教室の一部でしかないような気がしてなりません。
ただ「ほめる」だけなら誰でもできますが、
それぞれの作文の良いところを見つける…その視点を先生が持っているってことがものすごいことなんじゃないかなぁって思います。

この本を読んでみればわかりますが、
ヘビが出るか蛇が出るかわからないような子どもの作文ひとつひとつに、「もっともだ」と思えるような、ほめるべき要素をみつけるのってひとつの才能ですよ。
教師の側がかなり、ほとばしるような頭の良さを持ってなきゃできないと思いますね。
そういう意味で脱帽!

わたしも、そんな作文教師でいたいなぁ。
少なくとも、今のところは、学生たちにそういう変な頼りがいのある存在としては見られているようですが。

高校演劇春季大会終了

2007-06-17 13:30:05 | 趣味
ついに、わが母校が属するブロックの春季大会が終了しました。

たかが春季大会。
されど春季大会。
春季大会は、県大会につながらないからといってなめちゃいけません。

我が母校の場合、ここで決定的に、メンバーに
「次もやりたい!」
「楽しい!」
と思ってもらえなければ、先はありません。

内側から発動するものをすべて、とする以上、
その内側の「何か」を失ってしまったら先には進めないのです。

そんなわけで、
春季大会は大成功だ…っていえると思います。

本気で心配したけれど、思ったより完成度は高くてこちらが驚きました。
どちらかというと…
「そんなにできるなら、初めからやってくれ!」って感じです。

まあ。彼らが楽しんでくれたならそれでいーやっ!

「クリプケンシュタイン」

2007-06-12 14:48:16 | 研究
「クリプケンシュタイン」とは、
「クリプキ(哲学者)が『ウィトゲンシュタインのパラドクス』という本の中で、ウィトゲンシュタイン(哲学者)の議論と言っているが、実はそうでないもの」の議論を意味する。


…現代思想に詳しくない人はなんのことやら、ちっともわかるまい。
要するに、こういうことだ。


クリプキという人が、ウィトゲンシュタイン哲学の解釈を行って、本を書いた。
              ↓
だけどその本に書かれている、ウィトゲンシュタイン解釈は間違っていた。つまり、誤解釈。
              ↓
(で、ふつうは、「誤解釈だ!」って批判されて終わるんだけど…)
              ↓
「誤解釈」で終わらなかった。いや、終われなかった。
あまりに、クリプキの出した議論そのものが、現代思想にとって豊潤かつ意義あるものであった
              ↓
だけど、クリプキ自身は、「これは自分の議論じゃない。あくまでウィトゲンシュタインの解釈」と言っている。
              ↓
誰のものやら、よくわからん議論になってしまった!!


そんなわけで、こういう議論が、現在「クリプケンシュタイン」と呼ばれています。
(余談ですがいしいひさいち氏が、『現代思想の遭難者たち』で「クリプケンシュタイン」のイラストを、フランケン・シュタイン風に描いていて、爆笑しました)


なんでこんなことを言うかというと、
誤解釈は誤解釈でもいろいろな、誤解釈があるよねぇ、と最近よく思うからです。
こういう生産的な誤解釈もあれば、
オリジナル議論の提唱者を泣かせるような議論もある。ああ、しみじみ。

わたしたちエイティーズ(1980's)

2007-06-11 18:42:48 | お仕事
わたしが非常勤講師として通う東京の専門学校の生徒の中に、
わたしと同じ1980年生まれの女性が2人いる。
(…いや、もしかしたらもっといるのかも)

先週の授業のとき、
そのうちの1人の女性・Aさんと、PC室で
「きゃー!タメ!タメ!」…と盛り上がったら、
どうやらそのAさんが、もう1人の1980年代生まれ女性Bさんにそのことを話したらしく、今日、授業前、ばったり会ったBさんに声をかけられた。

Bさんは、
「先生、同い年なんすですよね」と言ったあと、
わたしに、
「同い年なんだ。
カッコイイなあ。いいなぁ。先生もいいなぁ。人に何かを教えるってのも楽しそうですよね。」
…と言って、ニッコリ笑った。


わたしたちは、同じ年に生まれて、
まったく違う人生を歩んで、それぞれここまで歩いてきた。
一人は、OLをやめて看護士を目指し、
一人は、大学院で研究者の卵をやりながら、看護師の卵たちに授業をしている。

Bさんと話していると、
「先生、対、生徒」という非対称的な関係なんて、なんの意味もなくなるようで、とても、すがすがしかった。
わたしたちは、ただ、それぞれの生き方で、それぞれの道をがんばろって進もうとしているだけなのだ。
たまたま、一人が「先生」と呼ばれているだけだ。
わたしたちの間にあったのは、本当にただ、それだけだった。


わたしは、Bさんに率直に、
「でも、わたしたちみたいに「同い年だー!キャー!」ってなれるのって珍しいんだよね。」「「年上だと教えにくい」ってよく言ってる人を見るよ。」と言ってみた。
すると、Bさんは、ああー、と納得しつつ、
自分はそんなのまったく気にしたことない、と言った。

すがすがしい。

「先生はエラい」と思いたい人も、
それを卑屈に「イヤだ」と感じる人もここにはいない。
ただ、自分の目標に向かって、ただ何かを学んでいければいい。
わたしもBさんも、そういう場所に関わっているだけなのだ。
それだけの関係であることが、なんとも、すがすがしい。

こういう学習の場が、あらゆるところにあればいいのに、
とそんなことを思ってしまう。

てなわけでコムスン

2007-06-08 14:04:57 | ニュースと政治
最近は、介護職に関するニュースが多いですね。
今度は、コムスンですか。

わたしと同じ学部出身で、コムスンに就職が決まっていた
わたしの知り合いが、
「介護派遣会社コムスンの限界」というテーマの卒業論文を書いていて、そのときは爆笑しましたが、笑いごとではなかったんだなぁとあらためて実感します。

でも、きっとこれから先、
主に男性週刊誌の言説でたたかれる中で、
「結局、ジュリアナ東京だろっ!金儲けだろ!」みたいな言われ方するんだろうなぁと思うと、今からとても不憫です。

耳学問で申しわけないが、マクロ経済学の授業でM.フリードマンの議論にちょこっと触れていたわたしとしては、金儲けが悪いとはちっとも思わない。
たとえ、介護だろうが、福祉だろうが、
そこに価値の交換があってしかるべきだし、
「福祉は優しさ」「介護は優しさ」という「タテマエ」がどれだけ、現場の人々を苦しめているかを考えると、
本気で、「お金のこと考えて何が悪い!」と言いたくなる。

とはいえ、最近の記事を見てると、
コムスンの搾取っぷりはものすごいらしいので、むしろそれが、糾弾されるべきだろうと思っている。

金儲けはいいんだよ。
だって、人に役立つこと、人が欲することをやって結果的に金持ちになるなら、それはすばらしいことじゃないか。
わたしは、ビル・ゲイツをそれなりに尊敬する。


だけど、搾取はいかんよ!搾取は!
特に、福祉は「やさしさ」をタテマエに搾取がはたらきやすいから怖い。
実際、今でもあたりまえに「介護は嫁の無償労働」と考えている輩は多いわけだし、いたるところで搾取の嵐なのだ、この業界は。


だから、
コムスン問題を、「福祉で金儲けしようなんて!」という議論にもっていかずに、きちんと、「現場の労働者を搾取していたなんて!」という議論にもっていってほしいと、わたしは切に願っている。


なんだか、「赤」っぽい議論だといわれて非難されそうですが、
そういう視点でしか見えてこないものは、確かにあると思います。
「社会学はマルクスから始まるひとつの宗教」と教育社会学のO先生はいいました。
そんなわけで、そういう視点もアリかと。
経済学でしか見えない事実があるように、社会学でしか見えない事実もあるはずです。

少なくとも、
介護の問題を、「やさしさ」の問題にしてきた結果、
介護の現場がさまざな側面で破綻してきているのは事実なのだから、
これまで当たり前に前提としてきたことを見直す時期にきていることは確かではないでしょうか。


ちなみにわたしが、大学に入ってはじめて書いたレポートのテーマは、
「売春はいかにして労働になりうるか」
というものでした。
社会学で「感情労働」と呼ばれる…そういうプライベートな感情や「やさしさ」やアレコレを売り買いするということには、いまだにすごく興味があります。

チャレンジできる場所

2007-06-07 17:17:17 | お仕事
あいかわらず、看護学校での授業は楽しくてしかたありません。

今年は、東京のほうの看護学校の生徒たちの年齢が高く、
おそらく平均年齢を出したら、わたしと同じくらいになるんじゃないか?…という感じだったので、かなり心配していましたが、
「キャー!同世代!」といったノリで、生徒たちのほうから声をかけてくれるので、わたしは本当に幸せだと思います。

ちなみに、今は、わたしにとって、一番おもしろいところをやっています。
それは何かというと、
「研究課題の設定」。

わたしの講義では、最後の2000字以上のレポートを提出することを義務づけているのですが、そのレポートのための研究・調査計画を決定するのです。

ちなみに、調査・研究計画で、
こちらが唯一生徒たちに課している条件は、アンケートかインタビューのどちらかを入れることです。
要するに、特定の病気について定義やら治療法やらを、文献で調べるだけではダメということです。
何か人に話を聞いたり、多くの人の意見を聞くようなことをやってみなさい。
というのを課題で課しています。


学生たちは、これを考えるのがものすごく大変らしいのですが、
大変ながらも、やたらと楽しそうなので、
うれしく、そんな姿を眺めています。

インタビューでどんなことを聞こう?とか
アンケートでどんなことなら調べられるだろうか?とか、
そんなことを、友達と話しながら考えているときは、本当に楽しそう。
何がそんなに楽しいのか、とこちらが聞きたくなるほどです。


ある生徒に聞いてみたら、
「みんなに、一度「拒食症になったことありますか?」って聞いてみたかったんだよねー!」
と、キャピキャピした様子で答えてくれました。
それを聞いて、あらためて、「ああ、やってよかったな」って思いました。
(もちろん、研究倫理的には問題ありありですが(汗))

学生たちは、いろいろ素朴な疑問や思いを持って生きてきています。
看護師になりたい…と思ったその根底のところにも、そんな素朴な疑問や思いがあるようです。
そんな素朴な疑問や思いに、一度、向き合ってごらんなさい、というのがわたしのレポートの趣旨です。

学生たちは、よくわからないけれども、
「kimistevaさんだったら、なんとか、助けてくれるはず」
「どうしてもダメだったらとめてくれるだろう」
という、よく言えば信頼、悪くいえば甘えた気持ちをもって、いろいろなことにチャレンジしてみようという気になるようです。

そんな学生たちは、
「先生!絶対見てね。なんかあったら書き換えてね。コメントしてね」といいながら、研究課題の構想「研究課題のまとめ」を提出します。
そういうとき、わたしって本当に幸せだなぁと思います。


今日、あらためて学生たちから提出された「研究課題のまとめ」を見ました。
あまりにも壮大なテーマを持ち出しているもの、
本当に、プリミテイブな疑問をそのままぶつけているもの。
それらを見ていると、一方で、「これ、ホントにできんのか!?」とも思いますが、一方でとてもうれしくなったりします。


いろいろなところで言われているように、
「何かにチャレンジしてみよう!」と思うことができる場は、ますます減ってきているように思います。
「無難に」「あたりさわりのないように」することがスタンダードになってきてる。
でもそれは、まったく生産的ではないと思います。
自分のできる限りのことを、精一杯やってみる。
チャレンジしてみる。
そういうことをやれる環境をわたしは整えたいと思います。

もちろん、わたしのやっていることはとても小さなことですが、
そういう経験をせめて少しだけでも用意することが、わたしの仕事なのかなぁ…と、看護学校に行くたびに思います。