KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

英文サマリーという難関

2006-09-27 09:17:57 | 研究
日本D学会に論文を投稿するため、英文サマリーを作成しました。
日本D学会は、英文サマリーのネイティブ・チェックをすることがきまりになっているので、ネイティブ・チェッカーを探すために走り回ることになります。

前に投稿したときは、たまたま授業を聴講していた英語の先生とかに頼んでいたのですが、つながりがないとなかなか頼みにくいものです。

そんなわけで、はじめて、翻訳業者・英文校閲業者なるものを探すことになりました。
いやぁ、なんというか、翻訳業者・英文校閲業者…っていろいろあるんですね。
それこそ、個人から会社までいろいろあるし、
できあがる英文の精度や翻訳の対象となる文章の性質などなど、とにかく、HPをきっちり見て、自分に必要な英文の完成度を求められそうなところに頼む、という方法しかないようです。

それにしても、翻訳・英文校閲って高い!
スタンダードな値段でいうと、A41枚くらいで5000円か6000円はとられます。
これじゃ、なかなか文通したいだけの人なんかは手が届かないよなぁ、と思ってしまう。
まぁ、それにともなって、手紙とか簡単な文書だけを安く請け負う業者や個人もでてきているようですけれども。

そんなわけで、どうにか、自分に合いそうなところ(しかも安いところ)を発見できたりすると、ちょっとうれしくなります。
日本D学会の英文サマリーは、米国の中学卒業程度で読める文章であること、が基準になるから、それほど難しい専門的な翻訳は必要ないので、一般文書で頼めてしまうところが良いです(…わたしだけ?)。

さてさて、どんなネイティブ・チェックがされてくるんでしょう。
今から楽しみ。

教師たちの常識でない「常識」:ピアジェ・ブルーナー・ヴィゴツキー

2006-09-26 12:56:39 | 研究
シンポジウムの報告のつづきです。

シンポジウムの中で、西オーストラリアのメディア・リテラシーの実践家で今は大学で教師教育にたずさわっているJさんという方が、次のように発言しました。

「ここにいらっしゃる方は、教育に関わる方ばかりですから、ピアジェやブルーナーやヴィゴツキーなどは、もう詳しくご存じでしょうから、簡単に説明することにします。」

笑ったね!
この会場にいる教師たちは、この中の何人の名前を覚えていただろう?
「ブルーナー」=J.S.ブルーナーときちんと認識できた人が何人いただろう?
さしずめ「ブルーナーの絵本」でも思い出していたのではないかしら。
そう思ったら笑えてきた。

確かに、日本の教師たちは、大学で教職免許ととるときに「教育心理学」を履修する。教員採用試験のときにも「教育心理学」から出題されるから、名前くらいは覚えていただろう。
だけど、ブルーナーはほとんど出ないはずだ。
「教育心理学」は行動主義から認知主義にいたる、心理学の概論に終わっていて、ほとんどそれ以降の教育心理学の展開については触れないからだ。

日本の教師たちは、教材研究に追われてる。
国語の教師であれば、文学作品の研究にものすごく熱心。
だから、文学作品の解説をしたような研究も流行する。

わたしの感覚でいうと、「子どもの発達段階を知らなければどうしようもない。発達心理学や教育心理学を勉強しなければ」、と思う人は本当に少ないと思う。
むしろ、そういう理論を持ち出したとたんに、
「そうは言うけど、現実の子どもなんてそんなもんじゃないからねぇ」…と一蹴されるような雰囲気。

でも違うんだよね、これ。逃げてるんだ。
確かに、教材は固定的で動かない。だから研究したらそれだけ深く教材を知ることができる。
だけど子どもは動く。毎年大勢のいろいろな子どもたちと出会ってわかれていく。そっちの方に目を向けだしたとたん、大変なことになってしまう…ってこと、彼らはわかってるんだ。
だから「教材」「教材」「教材」。

…結局、
「空っぽの子どもの頭の中に、教師が知識を注入する」という、インプット・モデルを想定している方が、教師は、安定したおだやかなユートピアに住み続けることができるんだよね。
「ごんぎつね」も「やまなし」も何十年たったってかわらない。
だって作者はもう死んでるんだもん。
ずっと同じ世界の中に生きることができる。固定的で動かない「ごんぎつね」と「やまなし」の世界。

最低だな。

だけど、教育心理学や発達心理学の理論は、目まぐるしく動く子どもたちに合わせて動く。
心理学は、結局なんだかんだいって、社会科学の一つだから、目の前の現象が動けば理論そのものも動かざるを得ないのだ。
だから、頼れない。不安定だ。

みんな「衆議院」より「参議院」にいたがる。
だって、自分の地位を安定させたいから。人間の基本的な欲求だ。
安定していたい。動くのはイヤ。歳をとればとるほどそう思う。

もはや、ピアジェやブルーナーやヴィゴツキーなんて、
教師たちの常識でない、表向きの「常識」に過ぎないんだ。きっと。


※注※
…とはいえ、一方で、そういう理論が好きで、現実の学習者を理解するために遁走する教師たちがいることも事実だ。
教師の世界ってすごく不思議。
ひどく二分されている気がする。なぜだろう?
安定性のある「公務員」でありながら、革新性を求められる「教育者」であるという矛盾を抱えた立場なのかもしれないね。教師って。

「ホラーなんて子どもには見せたくありません」

2006-09-25 13:08:03 | 研究
昨日は、わたしの(一応)、専門領域であるメディア・リテラシー教育のシンポジウムに出席するため、東京にいってきました。

そのシンポジウムでは、オーストラリア・西オーストラリア州のメディア・リテラシーの専門家3名の講演がメインで1時間か2時間ずつあって、最後に日本の実践家・研究者3名の簡単な発表のあと、シンポジウム、という流れでした。

シンポジウムの内容は割愛するとして、
わたしが一番印象に残ったのは、次のことでした。

いやー。絶対さー。
日本でメディア・リテラシー教育の研究or実践しよう!…って言ってる人のほとんどは、マンガもアニメも見たことない!…って奴ばっかりなんだろうね。
もしくは、マンガとかアニメとか(果てはドラマ・映画まで)、まったく価値がわかりません、何が面白いの?…って奴ばっかりなんだろうね。

そのことをあの場で痛烈に実感しました。

そのきっかけとなったのが、最後のシンポジウムでフロアのとある教師から出た一言。
「わたしは個人的には、絶対、ホラーなんて子どもに見せたくありません!ましてや作らせるなんてできません。」

西オーストラリアの専門家が紹介した、生徒たちによって作られた映画作品の中に、殺人シーンやホラー・シーンが、かなり、あったので、それに対するコメントなのだと思います。

わたしは、生徒たちが制作したという、ホラー映画や殺人だらけのソープ・オペラを見て、まったく別の感想を持ちました。
率直に言うと、すごい感銘を受けました。
「わたしのやっていたことは、まったく、無駄じゃなかった」って実感した。

彼ら/彼女らが提示してきた殺人やホラーやレイプや…、そういうものを含めて、その社会・文化的意味や個人史的な意味を問い直していくこと。それが大切なんだということ。
それがスタンダードとして示されていたことが、わたしは、とてもうれしかった。

わたしが教師として彼ら/彼女らの前にたった場合、
わたしは提示されたものをそのまま受け入れて、
彼ら/彼女らとともに、そこで構成されている意味を問い直さないといけない。

それこそ、間違いなく、メディア・リテラシー教育の役割なのだと思います。
そういうわたしの捉え方は、まったく間違っていませんでした。
本当にうれしい!

教師が自分の価値観を暴力的にふりまわして、「これはダメ!」「あれはダメ!」…って言ったって仕方ない。
教室という場で彼らと一緒に、作ったものの意味を考えることができるからこそ、学習者は自分のつくったものを自分の中で相対化していける。そんな貴重な学習の機会を教師自ら奪ってしまってどうするの?
だって社会には、そういうものがたくさん溢れているのだから。
学習者はそういう社会の中で生きているのだから。

…心からそう思いました。

だから、日本なんていう、とっても保守的な場で西オーストラリアの専門家がホラー作品やソープオペラ作品を提示してきたことは、すごく戦略的な行動だと思いました。反感招くに決まっているもの。

そして、日本と西オーストラリアの温度差を痛烈に感じました。
西オーストラリアのメディア・リテラシー教育に関わる人たちは、間違いなく、(いろんな意味で)メディアの「ファン」なんですよね。自分たちでもそう言ってるし。
きっと、あの専門家たちは、ソープ・オペラもドラマも大好きに違いない!
(そうでなければ、「教師作品」とか言って、刑事ドラマ作って、自分を主演にしたりなんてするものかっ!)
彼ら/彼女らは、心から、メディア作品が大好きなのだ。だから、生徒の作品にもあんなに率直に反応できるんだと思う。

それに対して、日本の専門家はいったいなんなんだろう?
本当にあなたたち、メディア作品が好きなの?
どうして、生徒に「公共広告機構」のCMみたいな「環境問題」映像や「学校紹介」ビデオばかり作らせるの?

なんで、この「マンガ大国」日本のメディア・リテラシーでマンガもアニメも取り扱われないの?
異常だよ。異常。

そんなの、つまんないじゃん。昼ドラ作ろうよ!刑事ドラマ作ろうよ!
ホラーもサスペンスも、みんなやってみたい!そっちの方がはるかにおもしろそうだ。
マンガかこうよ!アニメつくろうよ!
みんなでマンガ描いて、コミケで売ろうよ!

西オーストラリアの専門家は最後に一言、
「enjoy the media!!」(メディアを楽しんで!)と言った。

これは本当にすばらしい一言だと思う。
日本のメディア・リテラシー教育に一番足りないものだ。それを彼ら/彼女らは正確に言い当ててる。

発狂する日本語ブーム:『使えないと恥ずかしい敬語200』

2006-09-23 13:38:57 | 
昔から、「日本人って不思議だなぁ…」と思うことのひとつに、「日本語」に対する異様な執着心がある。

執着心というより、むしろ「囚われ」といってもいいくらい。いや、もはや「依存」の段階なのか…?
そのあたりは、よくわからないが、
ともかく、毎年ものすごい冊数の「日本語の常識」やら「敬語の常識」やら日本語のマナーに関する本が出版され、それがものすごいイキオイで消費されている。

日本文学の人気は衰退の一途をたどっているように見えるのに、日本語学はいつまでも元気そうだ。
日本語学者は今日も元気に「日本語の常識」の本を書く。「敬語」の本を書く。
複雑な「敬語」のしくみをカンタンに説明できるようになれば、それだけで何冊もベストセラーが書ける。

それってすごいことだ。

もし、これを読んでいる高校生で将来、文系の研究者になりたいと思う文系の人がいるなら、わたしは日本語学か国語教育をおすすめする。
(もちろん、これはただのアイロニーですよ。本気にしないように!…といいつつ、わたしは国語教育専攻なんだけど)

ともかく日本ってこんなに異常な国なのである。

「敬語」の呪縛から離れた人たちも、やっぱり自分の言語に執着する。
近代主義的な言語、すなわち、論理的(科学的)言語だ。
「その言葉の定義はなに?」「その話の展開は論理的じゃない」
…というセリフを日常会話の中でふつーに発する、多くの青年たち。

わたしの師匠T先生とそのまた師匠M先生は、国語教育の目的を「言語批評意識の形成」、すなわち、自らが用いる言語に対する批評的な意識の形成に求めているけれど、だとしたら、見事、わたしの師匠とそのまた師匠の国語教育の目的の半分は達せられたわけだ。
もはや狂気に近いほど日本人は自分の言語に執着してるよ。
何冊も本を買って、自分の話す言語を勉強しようとしてるよ。
めでたいね。

ただ、執着しすぎてるんだよね。依存しすぎてる。
もうほとんど、宗教的カリスマにべったり依存した信者のような状態だ。
「日本語の常識」=教義。「敬語」=聖典の御言葉。
それを拒否する者たちは、近代論理学を自分の教義におきかえる。
結局、自分が頼ることのできる、倒れない大きな柱を求めて右往左往しているだけだ。

そんな依存状態から離れること。それがもう半分の目標なんだと思う。
そう。どんな教義から距離をとって、自分自身の足で立って、ほんとうの自分自身の言葉で「批評」することだ。

だけど、そのもう半分の目標に誰も気付いてない。

みんな、大いなる教義が大好きだ。
それが日本という国家であれ、近代西洋であれ、自分を支えてくれる大きな柱が大好きなのだ。

みんなで共有できる、みんなでわかりあえる安全な場所をみんなが求めてる。
だって、「一人一人がバラバラな言葉を話したら、みんなわかりあえなくなっちゃうじゃない?」
…それが、そういう人たちからの意見としてだされる。

そんな、あなたたちに、わたしから言えることはただ一つだ。

「あなたは、すてきなユートピアにすんでいらっしゃるんですね。
だけど、本当に人間って、もともと、そんなにお互いに「わかりあってる」ものなんでしょうか?「わかりあってる」なんて幻想を抱いて人を傷つけるよりも、「わかっていない」ことを前提として、「わかりあおう」と努力する方が生産的ではないですか?」

…と、ここまで書いてきて何がいいたいかというと、
『使えないと恥ずかしい敬語200』という本を買った、というただそれだけの話なんですけどね。

テスト・リテラシー:第一回「本と人」研究会を受けて

2006-09-22 14:08:03 | 研究
前の前の記事のコメントの一部を転載します。
全然関係ない記事なのに、違うことで盛り上がっても困るから。


I県のある先生と以前、「テスト・リテラシー」という話をしたことがあります。

その先生は、生徒に国語のテストを作らせるんだそうです。
この文章からどういうテストが作れるか…って、選択肢問題・記述問題いろいろ。

そうすると、生徒の方で「テスト」というジャンルについての知がわかってくる。

「テスト」ってかなり特殊なジャンルなんです。
もともとの教材とも、わたしたちの能力ともなーんの関係もない、
それだけで完結した特殊なジャンル。

そして、それを解答する能力も、特殊な「テスト・リテラシー」以外のなにものでもない。
能力をはかるとかそんなのうそっぱち。
ただただ「テスト・リテラシー」がはかられてるだけ。

そのことがわかってくるみたいです。

そういう意味では、「テスト・リテラシー」として枠づけた上で、テストを解くためのスキルを教える時間っていうのがあっても良いかなぁとは思います。

でも、少なくとも「これが「読みのスキル」なんだよ」って教えるのはイヤですね。
嘘だもん。
あれはテストを解答するための「スキル」であり、限定的な意味での「リテラシー」ですよ。
「読解テストのスキル」って言い換えてくれればいいんじゃないですかね。

「社会で良い地位を獲得するために必要なスキル」ですよね。
「読解テストのスキル」。

きょうの かんさつにっき。めがでた。

2006-09-22 14:03:50 | わたし自身のこと
9がつ22にち きんようび はれ

きょう。あさ おきたら 
わたしが だいすきなひとと いっしょに うえた
おはなの たねから めが でていました。

うれしい!うれしい!

かぞえてみたら 7つ めが でていました。
たしか 50つぶくらい たねを うえたから 
あしたは もっと めが でているはずです。

うれしい!うれしい!

たくさん めが でると いいな。
はやく そだて そだて。
はなの たね。

「男装する少女」の余剰

2006-09-21 10:40:49 | 研究
先週の土曜日は、わたしの所属する大学で、藤本由香里氏による講演会があった。
事前に「講演会があるよ」としか聞いていなかったのだが、
行ってみたら、「ジェンダー・セクシュアリティ論」の講義の一環だということだった。
…というわけで、全体的に「ジェンダー・セクシュアリティ論を論ずるための少女マンガ論」、という感じの講演会だった。
最終的なまとめも、いわゆる構成主義的constructivism(←「構築主義」=社会構成主義constructionism,social constructionismにあらず)なジェンダー・セクシュアリティの三層論の説明だった。
なので、社会構成主義的な立場からマンガ・アニメ文化(主にヤオイ文化だけど)にアプローチしているわたしとしては、ちょっと、物足りない感じがした。

そもそも「Sex=生物学的性」「Gender=社会的性別」「Sexuality=性的志向性」の三層構造でそれぞれ「男と女、2種類ずつの組み合わせがあって、少なくとも合計8種類のジェンダーができるはず」という説明は、あまりにわかりやすい一方で、誤解を招きやすい説明だと思う。

そもそも初めから「男」「女」というカテゴリーを前提とすることに、どんな意味があるの?「男」「女」というカテゴリーは所与のものでなくてはならないの?どんなにフリーな議論の場でも、疑いようもなく前提として存在してしまうものなの?…と思ってしまう。

まぁ、そんなオカタイ議論は置いておいて、
わたし自身の個人的な違和感を言うとすれば、このようなことだ。

単に、ヤオイストであるわたし自身のありかたが「ジェンダーの傷」「女性であることの傷」として語られてしまうのがいやなのだ。
…まぁ、ヤオイ自体は「ジェンダーの戯れ」なのかもしれないけど、…うーん…そんなにジェンダーにとらわれなければならないの?わたしの存在?

確かに、わたし、男性不信だし、「ジェンダーの病」・拒食症にもかかりました。
それで加えてヤオイストだから、フロイトやユングの精神分析を根拠としたジェンダー論学者たちから言わせれば、わたしは完全に「ジェンダーの傷」を持った女性なんでしょうね。

でも、わたし、そういう説明にうんざりなんです。
もちろん、そういう説明に落ち着いてしまうヤオイストもたくさんいることは知ってる。
「ヤオイはジェンダーの戯れなんだ!」と自らのありかたを発見して、安定して生きていける人がたくさんいることをわたしは知ってる。

でも、わたしはイヤ!
これはただのワガママ!
「男装する少女」は「アニマ」でも「アニムス」でもない、と言い続けたい。
そういう普遍的な原理に回収できない余剰の部分があまりにも大きすぎる気がするんだ。「男装する少女」の余剰が。

確かに「男装の少女」は、「少女の永遠のアコガレ」みたいなところがある。
そういうモチーフがさまざまな文学作品に表れる。
だから、ユングを持ち出したいのもよくわかるし、それは一つの説明のありかたなのだろう。

だけど、小学生の頃、わたしが一人で部屋に閉じこもってかいていた小説に出てきた主人公の男装の少女は、本当に、それだけの存在だったのか?
わたしは、あのとき、いったい何を求めて、何をしたかったのだろう?

それは「内なる男性性」とはまた異なる何かのような気がする。
「ファルスへの同一化」でもないと思う。
もちろんそのどれでも説明可能だけど、当事者の思いをそこまで単純化していいんだろうか。
学者たちの用意したわかりやすい物語に回収されてしまう恐怖。
そんなものを感じざるを得ない。

「男」とか「女」とか、そんなこととは離れたところで行われる、ひっそりとした物語をめぐる営為に、もっと忠実でありたい。
そうでなければ「男装の少女」の余剰は見えてこないだろう。

わたしは、これからもひっそりと女性たちの語りをききつづけるよ。
「男装の少女」の余剰にある「何か」をつきとめたいんだ。

仕事のモチベーション

2006-09-19 14:24:51 | お仕事
来年度4月から、また新たな看護学校で授業を担当することになった。

研究のこともあるし、実際、引き受けてもよいものかどうか、けっこう悩んだ。
担当教官も「近いから、まぁ、大丈夫かな。」とはいいつつ、「他のところはやめられないのか。」と聞いてくるような状態。

大学院にいるために、お金は必要だけど、
そのためにあんまり働いてしまうと、今度は研究する時間がなくなってしまう、というジレンマ。
そのジレンマは、特に、わたしみたいに、いろいろな人と出会うのが好きで、「働くこと」「教えること」が好きな人間だと特に問題になってしまう。
それに、わたしは体が弱い。
すぐに体調を崩すから、「本当に大丈夫?」…って自分でも聞きたいくらい。

でも、働きたい。教えたい。
自分が研究してることを、誰かのために生かしていきたいって思う。
そうでなければ、いつか苦しくなってしまう。
研究だけの生活なんて、わたしには耐えられない。

そんなジレンマを抱えつつ、今日、看護学校の面接に行ってきた。

で、感想。
いろいろ悩んだけど、引き受けてよかったなー…って思う。
わたしの仕事のモチベーションになるのは、なんといっても、人間なんだと思う。

「教職員全員が、できない子を育てることを、生き甲斐にしてやってますからね。」

…って言われて、
ああ。ここで働きたいな、って思った。
ここならわたしのいる意味はあるのかもしれない、って。

大学に戻ってきて、いろいろな人に報告したけど、みんな「……大丈夫なの?」って不安そうな顔をする。もう4年生だしね。不安がられるのは当然かもしれないけど。
…でも、それって違うと思う。

自分のやりたいことだと思うから、わたしはやるんだ。
わたしは、自分のやりたいことのために、今まで時間を使ってきた。
だから、これからもそうしていきたい。それだけだ。

無駄にたくさん時間だけ確保することに、どれだけ意味があるのだろう?
高校3年生のときにたてた問いを、また新たに問い直している。

資本主義社会という幻影:郵政公社VSヤマト運輸問題

2006-09-14 11:29:55 | ニュースと政治
わたしにとって、今一番興味のあるニュースは、
ヤマト運輸と郵政公社の対立です。

とうとう裁判に出ましたね!
ヤマト運輸、すごい!その漢(おとこ)っぷりに拍手!

国相手に国を訴える…ってすごいことだと思う。

もちろん「行政」と「司法」は別で、三権分立で…って、
そんなことはわかっているけれど、
どこかで敵国のフィールドで敵と戦うそんな弱者の姿を思い描いてしまう
ロマンティックなわたし。

もちろん、現実がどのようなものなのかは、わたしなんぞに知る術はないけれど、そんなロマンティシズムに萌えたっていいじゃないか。

とにかく、ドラマとしては、ヤマト運輸に勝って欲しい。
そして、「ヤマト死すとも、資本主義死せず!」とかなんとか行ってもらって「完」!

そうでもなければ、「日本には経済の自由なんてないのだ!」と認めてほしい。
そして、ヤマト運輸に「ヤマトは死に、日本の資本主義も死んだのだ…」とラスト台詞を吐いてもらって、「完」!

わたしの中には、このどちらかのシナリオしかない。
とってもドラマティックだ。

日本に資本主義なんてないんだ…ってそんなことわかりきってるくせに、それでも「公民」科では自由競争の原則を教えてる。
そこで、自由競争の原則を知って、「神の見えざる手」に感動して…、
だからこそ、日本の現状に絶望した若かりしわたしが存在したことは事実。

社会福祉が悪いのも、なにもかも、資本主義のせいにしている人がいるけど、それは違うと思う。
日本では、健全な資本主義なんて少しも残されていないのだ。
だから、いろんなところでうまくいかなくなってる。

なんでだろう。
「資本主義は最悪なシステムだけど、これまで生み出されてきた中ではもっともマシなシステムだ」と言った有名な経済学者がいたけど、わたしもそれに賛同する。

そんな「最悪なシステム」すらきちんと作れない日本。
「郵政公社」は、そんな欠陥品の「最悪なシステム」を結晶化したような存在だと思う。
この問題がどう解決するか、それは日本の資本主義が今後どうなるかを決定すると思う。
てなわけで、わたしはこれからもこの問題に注目していきます。

最近のこと

2006-09-10 15:43:09 | 研究室
最近は研究室が嫌いだ。
研究室にいると、自分がこの世界に生きているという実感がもてなくなる。

こんな感覚、前にもあったな…。あれは中学生のときだったと思う。

わたしは、ひどく太っていたから、
当時の太ってる中学生の女の子のほとんどがそうであったように、
「いじめ」にあっていた。

学校の帰りに歩いていれば、見知らぬオヤジから、
「息してんじゃねーよ。このデブ!」とか謎なことを言われるし、
なんか知らないが、部活動では顧問にやたら嫌われるし、
そのくせやたら正義感だけは強いから、
自分以上の「いじめ」に遭っている子のことを放っておけなくて、
自分に災いがふりかかるべく、
「よい子ちゃん」発言なんかするものだから、
余計に自分の居場所をなくしていたように思う。

とはいえ、わたしはずっと元気だった。
「元気なように振る舞っていた」という陳腐な言い回ししかできないけど、
とにかく、わたしは学校ではいつも楽しそうにしてた。
元気だった。
 

それが功を奏したのかなんなのか、
中学二年後半あたりから、別になにごともなかったかのように
罵倒されることも、なにもかもなくなってしまった。

もともと、ふつーに友達はいたし、ただ、悪口を言う人だけがいっている、という感じだったので、まぁそんなもんなのかな、という感じだったけど。

ちなみに部活動の顧問は永遠に軽蔑してます。

それはともかく、今、研究室にいると、そのときの感覚がよみがえるんだよね。
それが、なんとなく、わたしを絶望に陥れる。

「ニギヤカなのが好き。」
それはいい。それでもいい。

…だけど、わたしはそういう人たちがすごく怖い。
その場のノリとか、「楽しめればいいじゃん」という雰囲気を最優先して、一人一人の思いとか感情を結果的に無視してしまうような雰囲気を、わたしは警戒しつづける。

どんなに傷ついても、それを元気な仮面で隠しつづける人がいる…ってことをわたしは知ってる。
そして、わたしがそういう人間であることも。

今、研究室にいて、そのことをちょっと恐ろしく思う。

「みんな、大変なんだから。」なんて説教めいたことは言わない。

少なくとも、誰かのことを傷つけたり、誰かの領域を侵害していることに対して、センシティブになることは必要だという、ただそれだけのこと。