KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

フィールド調査者のヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)

2007-01-21 20:12:54 | フィールド日誌
「自殺したい人は「自殺したい」なんて言わないもんだ」、とよく言います。

わたしも、きっと、そんなものなので、(わたしのパートナー以外の人は)適当に、聞き流してくれれれば良いのですが、今日は朝から「ハムレット状態」でした。

「ハムレット状態」=「生きるか、死ぬか、それが問題だ」

こんなふうに軽く言ってはいますが、事実はもう少し深刻で、
半日間、泣き伏していました。
昨日は、フィールドワーク…ではないのですが、フィールドに行きました。
なので、そのときのことを整理しようと、キーボードをたたくのですが、
たたいているうちに、突然、うわっと絶望感や悲しみがこみあげてきて、
とてもじゃないけど、起きていられなくて、布団の上に泣き伏してしまうのです。

初めは、「先週、鬱状態だったし、なんかまだ鬱なのかな?」とか思っていたのですが、それだけでは解釈しようがないくらい、どうしようもなく感情が動くので、やはり、これはタダゴトではない、と思うようになりました。

だって、実際、「死にたい」って思いました。
私の言うことなんて、誰も理解してくれはしない。
研究なんてやめてしまいたい、と。

それほどの威力を持つ出来事というのは、現実世界には存在する、ということです。

「そんなの、負けなーい!」
…と簡単に言える人は、きっとフィールドワーク調査なんてしない人だと思います。

統計調査をしてる人は、自分の思いと現実の齟齬を、数値によって知るのでしょう。
数値はとてもシンプルに現実を物語ります。
あまりにシンプルで、あまりに無機的なので、人を傷つけたりしません。
調査用紙から得られたデータとのギャップに、知的な難しさを経験するだけです。
頭の中の処理で終わります。
「そんなの、負けなーい!」と言うことができます。

だけど、フィールドにある現実のしくみをそのまま描こうとする調査者は、自分の思いと現実のギャップを、まさに自分自身の傷として引き受けることになります。
その場にいることのつらさ。
自分自身にその場にいる資格がない、という感覚。
そして、それが現実だという重み。
そんなものを、すべて自分自身の身体で引き受けなければなりません。

いっそ、消えてしまいたい。
死んでしまいたい。

そう思うのは、わたしがフィールドワーカーとして危険なくらい、弱いからです。
ヴァルネラビリティは、場に臨もうとするフィールドの調査者になくてはならないものだ、とわたし自身は思っています。
だから、わたしはフィールドワーカーになろうと思った。

だけど、わたしは過剰にヴァルネラブルだと思います。
だって、こんなに死にたくなる。
消えてしまいたいと思う。
わたしの調査は毎回、命の綱渡りです。
…わたしが、この手法を調査方法として選んだのは、本当に、捨て身な選択だったと思います。


原因を探ってみると、あまりにも些細なことなので、
他人に説明することすらできないのです。
ブログにちょこっと書くことができるくらいです。


でも、もう結論は出ているので、大丈夫です。
研究者をやめることができないのなら、研究者としてすべき選択をするだけです。