KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

幸せになるための企画:「走る芝居」終了!

2007-01-10 14:25:14 | 趣味
ついに1月7日、「走る芝居」が終了した。
電車の定時ダイヤに合わせて芝居をうつという、とんでもなく大変な企画ではあったけれど、奇跡的なことに無事にすべてを終わらせることができた。
これって、本当に奇跡だと思う。

今回、「走る芝居」をしてみて、一番うれしかったことは、
この企画が、企画にかかわるすべての人々を、幸せにしたことだった。

いすみ鉄道には、この日、5万円の増収があったらしい。
(ビミョウな金額だとは思うが…)ともかく、とても感謝された。

見ていた限り、お客さんもとても楽しそうだった。
声をあげてキャッキャと笑い、役者の高校生たちに声をかけてくれた。

そして、なによりも、演劇部の高校生やOB・OGが、やたら楽しそうだった。
コンクールでは見られないような、はじけたような楽しさがあった。

…うちの芝居では、通常、アドリブを禁止している。ひとつの作品を「作品」として作っていくためには、繊細に細部を構築していく作業が必要で…アドリブは、そんな繊細な構築物をいとも簡単に壊してしまうからだ。

だけど、鉄道での芝居は「予想外の事態」を前提にしてる。
こちらの想定内で終わる可能性は皆無。
なにが起きるかわからないし、それを楽しまなきゃいけない。

…そういう、何が起こっても万事OK!…という雰囲気が、そこに関わるすべての人々を包んでいたように思う。
わたしの友人は、後にメールで「なごやかな雰囲気でした」と感想を述べてくれたけど、きっと、それはそういう、あらゆることを受容していけるような潔い雰囲気のことを言っているんじゃないかとわたしは思った。

社会のあらゆるものがシステム化され、管理されているこの国の中で、
自分が受け入れられる場所、自分のいてもいい場所を探すことは、本当に大変なことだ。
なんらかの「資格」によって、参加の可否が判断され、その「資格」に応じた責任を要求される。
「誰でもないわたし」がいられる場所はどこにもない。

「誰でもないわたし」としてのわたし自身として、なんとなくその場にいることが許されるような雰囲気は、途方もなく大きな苦労の末に、ようやく作り出される。
その雰囲気が、今回、実現したということ。

それだけで、わたしは生きていた意味があるかなぁ、と思うのだ。

なお、写真は御主人様からご提供いただきました。

「大切さ」の三角測量

2007-01-04 21:00:39 | わたし自身のこと
今年の抱負は、昨年専門学校の生徒たちに誓ったとおり、

「生徒を無視しない」です。

…いやいや、意識的に無視したことはないんです。生徒もそれがわかってるから冗談で言っているらしいのだけど…考えことをしているとき、むやみに人に目を合わせては、視線があったとたんにふっと視線をそらすらしくて、それが「無視されている!」と感じさせるらしい。
どうしようもない癖です。


自分で自分のことを大切に考えたことがなかったせいか、
他人が自分をどう思っているかということに、過剰に敏感です。
徹底的に外側にいるような感じがするんだよ。いつだって、どこだって。
だって君の人生の中に、わたしが存在して良い位置なんて、ほんの少しだけだよ。
そのことに君は気づいてないだけだ。

ヤオイスト的な読みの戦略:よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』

2007-01-04 20:29:18 | 趣味
最近は完全によしながふみ氏のマンガにはまっています。
BLから少女マンガまで、とにかく短期間にぐわっとそろえてしまいました。そのくらい、わたしの人生にとって衝撃的なマンガでした。

よしながふみのマンガは、わたしなんかが、こんなところで発言せずとも、
いろいろなマンガ評論家やマンガ研究家が高く評価しているし、
いろいろなところで紹介もしているので、ここであえてそれを繰り返すことはしない。

むしろ、わたし自身の経験と、そういう批評家のことばを重ね合わせてみたいと思う。

多くの批評家が、よしながふみ氏のマンガに対して評することばのひとつに、
「さりげなさ」というのがある。
多くを語らずに、描かれた表情だけで、物語を説明しようとする。
どんなに深刻な事件も、どんなにつらい過去も、淡々とした白い絵柄で描かれていく。そんな「さりげなさ」

わたしは、それが「さりげなさ」と語られていることを知る前に、その対象に出会った。
そのときの感想は、「さりげない」でも「淡々としている」でもなんでもなく、

「この物語は、ヤオイスト以外の人でも、きちんと物語として伝わるのだろうか?」…だった。
他者に理解可能なのかどうか、という一抹の不安。
そして、誰にも理解できないだろうという閉ざされた心への小さな光。

そう。「さりげなさ」なのだ。
見逃してしまうようなやりとりの中に、ほんの一瞬、愛情深い言葉をしのばせたり、描かれる表情のわずかな雰囲気にせつなさを漂わせたり…そういう「さりげなさ」。その「さりげない」手がかりをたよりにして、自分たちの物語を膨らませるような読み方。
それは、まさしく、ヤオイストが開発してきた、ヤオイスト的な読みの戦略ではなかったか?

「俺たちずっと一緒だろ?これまでも、これからも。」
そんな少年マンガにありがちな「友情」の表現に、とてつもない深い愛の絆の物語を読み取っていくヤオイスト的な読みの戦略。

それを堂々と進めていくことが、よしながふみ氏のマンガにとっては、正当な読みの戦略になっているように思われる。
わずかな表情の雰囲気、おちゃらけた台詞の中にはさまれた真実の過去。ちょっとしたきざし。
それを見逃さずにしっかり、自分で組み立てていくこと。それがなければ、それぞれのマンガが物語として成立していかないのだ。

そんなことを思っていた矢先、マンガ評論家のヤマダトモコ氏が、文庫版『ソルフェージュ』の解説で、「よしながふみ『子どもの体温』を読んで、これがふつーの人にも面白いのかどうか知りたくて、いろいろなところで薦めてみた」…というようなことを書いているのを見た。

よしながふみ氏のマンガが一般的に高い評価を得ているというのは、少なくともBLやヤオイの文化にいる人たちに共通する、不思議な感覚なのだろうと思う。
もちろん、作品としてのクオリティとか、そういうものは問題ないのだが、そういう読みの戦略が一般的なものだったということが、わたしには驚きなのだ。


そして、ついに『西洋骨董洋菓子店』第3巻で、わたしですら見逃してしまった、「さりげない」一言があって…、読みすすめていくうちに、それが物語の中で重要な位置を占めていることを知って愕然としてしまった。
あまりに「さりげない」。
だからこそ、本当に好きでたまらないのだ。わたしは。