少女マンガ研究とか、やおい研究をネットで探していると、
卒論・修論レベル(嫌味ではなく、「卒論」や「修論」をそのままアップしたものが多いのよ)の研究にけっこうヒットします。
そういう研究って、だいたい、
1950年以降の少女マンガの歴史をふれて~の、
初めての少女マンガは、手塚治虫の「りぼんの騎士」ですね~の
1950年代半ばには少女マンガ雑誌誕生ですね~の、
1970年代は「少年愛ブーム」ですね~で、
「JUNE」誕生、やおい誕生にふれて~の、
1990年代からBL出ましたね~の、
最近は拡散傾向ですね~。
お わ り。
という部分が(だいたい同じような記述で)あるのは、なぜ?
しかたないといえばしかたないけど・・・、そういうものなのかな。
いやだって、少なくとも「JUNE」ってそんな(全部の研究がそっちに回るほど)、オンナノコが全員読んでるようなもんじゃないでしょ?
(言っておきますが、わたしは 読 ん で ま し た !!)
海外の人が見たら、
「OH!ニホンノジョセイハ ミンナ 10代で ゲイ・マンガに ふれるのですか!」
・・・って驚かないかなぁ・・・。
閑話休題。
そんな論文のなかのひとつ(どこかの大学の卒論)を読んでいたら、
「1950年代半ばには『りぼん』や『なかよし』など、低学年向け少女マンガが誕生した」(ちょっと文章変えてます)
という記述があって、ひとりの研究者としてショックを受けました。
・・・というのも、そのときわたしが延々とやっていた作業というのが、『花とゆめ』創刊号(1974年)に掲載された漫画を調べることだったからです。
なにが言いたいかというと、
きっとこの文章を書いた方は、きっと、『りぼん』や『なかよし』が「低学年向け」なのは、疑うこともできないくらい、「あたりまえ」のことだったんだろうなぁ、ということ。
『りぼん』は創刊1955年。『なかよし』は創刊1954年です。
戦争が終わって、まだ10年くらいしか経ってないんですよ。
わたしには、この時代のことが「想像できない」「なんにもわからない」と思う。
戦争から10年くらいたったとき、どのくらいの人たちがマンガ雑誌を買えたのかも、はっきり言ってわからない。
そんなわけで、
1974年の『花とゆめ』創刊を、わたしは「10代後半向けのマンガ雑誌が誕生した」と解釈したいけど(今の『花とゆめ』の位置づけはそんなかんじだから)、本当にそう言えるのかどうか、すっっっごく考えた。
どうやったら、どういう資料が手に入ったら、それが言えるのかも、一晩中考えた。
でも、そんなことを思いつきもしない人がいることを、わたしは初めて知った。
「想像力の貧困」というのは、「想像しようとしてもできない」ことではなく、
そもそも、「想像すべきである、ということすら思いつきもしない」ことなんじゃないかと思う。
それってすごく恐ろしいことではないかしら。
こういうことが起こるたびに、
星新一さんが、「本当に恐ろしいのは、「ワレワレハ チキュウヲ セイフクスル」と言ってくる宇宙人ではなくて、何の気なしにゴミを捨てていたら実はそれが地球に届いていてものすごく地球にとってものすごい有害物質だった・・・というような宇宙人だ」というようなことを言っていたのを思い出します。
有害物質を地球に捨てる宇宙人。
その宇宙人には、地球にそのゴミが有害であることも・・・いや、地球という星があって、そこに人間が住んでいることすら「想像できない」のではないでしょうか。
そんな「想像できない」宇宙人も、
「あたりまえ」を疑えない人間も大差ないという気がします。
「男と女がつきあうのなんて「あたりまえ」じゃん!」というその言葉が、多くの人たちを傷つけてきたように。
卒論・修論レベル(嫌味ではなく、「卒論」や「修論」をそのままアップしたものが多いのよ)の研究にけっこうヒットします。
そういう研究って、だいたい、
1950年以降の少女マンガの歴史をふれて~の、
初めての少女マンガは、手塚治虫の「りぼんの騎士」ですね~の
1950年代半ばには少女マンガ雑誌誕生ですね~の、
1970年代は「少年愛ブーム」ですね~で、
「JUNE」誕生、やおい誕生にふれて~の、
1990年代からBL出ましたね~の、
最近は拡散傾向ですね~。
お わ り。
という部分が(だいたい同じような記述で)あるのは、なぜ?
しかたないといえばしかたないけど・・・、そういうものなのかな。
いやだって、少なくとも「JUNE」ってそんな(全部の研究がそっちに回るほど)、オンナノコが全員読んでるようなもんじゃないでしょ?
(言っておきますが、わたしは 読 ん で ま し た !!)
海外の人が見たら、
「OH!ニホンノジョセイハ ミンナ 10代で ゲイ・マンガに ふれるのですか!」
・・・って驚かないかなぁ・・・。
閑話休題。
そんな論文のなかのひとつ(どこかの大学の卒論)を読んでいたら、
「1950年代半ばには『りぼん』や『なかよし』など、低学年向け少女マンガが誕生した」(ちょっと文章変えてます)
という記述があって、ひとりの研究者としてショックを受けました。
・・・というのも、そのときわたしが延々とやっていた作業というのが、『花とゆめ』創刊号(1974年)に掲載された漫画を調べることだったからです。
なにが言いたいかというと、
きっとこの文章を書いた方は、きっと、『りぼん』や『なかよし』が「低学年向け」なのは、疑うこともできないくらい、「あたりまえ」のことだったんだろうなぁ、ということ。
『りぼん』は創刊1955年。『なかよし』は創刊1954年です。
戦争が終わって、まだ10年くらいしか経ってないんですよ。
わたしには、この時代のことが「想像できない」「なんにもわからない」と思う。
戦争から10年くらいたったとき、どのくらいの人たちがマンガ雑誌を買えたのかも、はっきり言ってわからない。
そんなわけで、
1974年の『花とゆめ』創刊を、わたしは「10代後半向けのマンガ雑誌が誕生した」と解釈したいけど(今の『花とゆめ』の位置づけはそんなかんじだから)、本当にそう言えるのかどうか、すっっっごく考えた。
どうやったら、どういう資料が手に入ったら、それが言えるのかも、一晩中考えた。
でも、そんなことを思いつきもしない人がいることを、わたしは初めて知った。
「想像力の貧困」というのは、「想像しようとしてもできない」ことではなく、
そもそも、「想像すべきである、ということすら思いつきもしない」ことなんじゃないかと思う。
それってすごく恐ろしいことではないかしら。
こういうことが起こるたびに、
星新一さんが、「本当に恐ろしいのは、「ワレワレハ チキュウヲ セイフクスル」と言ってくる宇宙人ではなくて、何の気なしにゴミを捨てていたら実はそれが地球に届いていてものすごく地球にとってものすごい有害物質だった・・・というような宇宙人だ」というようなことを言っていたのを思い出します。
有害物質を地球に捨てる宇宙人。
その宇宙人には、地球にそのゴミが有害であることも・・・いや、地球という星があって、そこに人間が住んでいることすら「想像できない」のではないでしょうか。
そんな「想像できない」宇宙人も、
「あたりまえ」を疑えない人間も大差ないという気がします。
「男と女がつきあうのなんて「あたりまえ」じゃん!」というその言葉が、多くの人たちを傷つけてきたように。