KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

水戸にいきたしと思えども…

2007-05-31 13:15:25 | わたし自身のこと
最近、
この3月にやった水戸芸術館での調査に基づいた論文を書いているせいか、
とても水戸に行きたくなる。
というよりは、「夏への扉―マイクロポップの時代」展が見たくなる。

だけど、水戸にいっても、「夏への扉」はもう見られない。
そろそろ次の展覧会が始まっているだろう。
「夏への扉」はもうすでに、過去の展覧会なのだ。

でも、そのことに自分自身の感覚がついていっていないような気がする。
いつでも、
水戸芸術館にいって、ギャラリーを折り返すと、あの暗い部屋があって、
そこには、「ヒューヒュー」やら「ブルルルル…」やら謎の音声がとびかうカオス空間があるのではないかと思ってしまう。

でも、もはや、そこに、そういうものはない。

ハシゴにのぼって、
一万円札とともにめっちゃ笑顔になったり、ションボリしたりする泉さんはもう見られない。
そのことが信じられない。

そういう感覚は、
小さい頃、勇気を出して入ってみた、あの古ぼけたお屋敷に似ている。
わたしの中で、そのお屋敷はまだあるのだが、
実際には、近くの河川工事の関係で壊されてしまった。
最後まで、人が住んでいるのかいないのか、わからなかったあのお屋敷。
それは、わたしの中にずっと生きている。

いろいろなものが、なくなっていく。
それが時間が流れるということなのかもしれない。

水戸に行きたいなあ。
せめて、有馬さんの個展を見に行きたい。
そのくらいの贅沢は、今のわたしに許されるだろうか。

潜在的介護福祉士

2007-05-25 12:23:02 | ニュースと政治
わたしの妹は、介護福祉士である。

そんなわけで、最近問題にされている「潜在的介護福祉士の数は4割」というニュースも気にかけている。
でも、そんなニュースを見ながら思うことは、ただひとつ。
「当然の帰結だよなぁ」ということ。
それは、わたしがずっと妹を見ているから、というより、彼女の不平不満はいつも正しいと思うからだ。

ニュースで特集された記事なんかを見ると、まさにそのことがよくわかる。

そんな矢先、
教育社会学のゼミで、「搾取される若者たち」の話を聞いた。
「人のために役に立ちたい!」そんなボランティア精神で職業選択をする若者たちの、まさにその「ボランティア精神」が企業による搾取の根元になっているというお話。
まあ、「ボランティア精神」でやっているのだから、本人たちに不満はなかろう。
だけど、それが結果的にあまりに安い賃金労働に、本当に、つながってしまっているのはどうなんだ?
企業倫理はいったいどうなってるんだ?


介護関係のお仕事なんて、まさにそういう類の「搾取」が起きやすい職種であることは間違いなかろう。
だけど、人に接している女性たちはかしこい!
搾取されてもされても、「人の役にたってる!」という実感だけでなんの不平も言わずに続けちゃう人たちとは一線を画している。

だから「潜在的介護福祉士」となる。
だって、ふつーに暮らせていけなきゃどうしようもないもん。
経済的基盤が確立できなきゃどうしようもないもん。
都心で働けないのは、あたりまでしょう?


わたしは、これをきっかけに、本当の「価格」のことを考えてほしいと思う。
「価格」は需要と供給で決定される。
それは労働の「価格」も一緒だ。
需要がこれだけあるのに、値段が上がらないなんて、はっきり言って資本主義のメカニズムが腐ってる!とわたしは思う。

そんなわけで、わたしの妹の給料あげてやってください。

真剣でありすぎることによる失敗

2007-05-25 12:14:23 | 研究室
一昨日は、わたしがずっと心にかけていた友人と久々に会って、お食事をした。

彼女は萩尾作品を心から愛している。
そのことが、萩尾作品について語らないときでも、にじみでているのが、すごいと思う。
わたしは、あれほどまでに、ひとつの作品やある作家の世界観を愛しているだろうか?…と考えてみると、思い当たるのは、小川洋子だったり鷲田清一先生だったりする。

そういえば、以前、USAM島さんに、そんなことを言われたような気もする。
自分にとって、特別な何かがあるというのは、とても幸せなことだと思う。

それはともかく、
彼女の去年の担当教官だったK先生やわたしの担当教官T先生が彼女のことを話すのを聞いていると、
彼女は、はてしなく、自分のことに真剣でありすぎるのかもしれない、と思う。

それは、わたしにとっては、とても価値のあることで、
だから、彼女といるのがわたしは好きなのだけれども、あまりにも真剣でありすぎるあまりに、社会の側で用意したエスカレーターにうまく乗れない人というのが、確かにいる。

たとえば、わたしは下りエスカレーターがとても苦手である。羽田空港なんかにいくと、後ろの人から文句を言われたりするほど。
それは、わたしが「下りエスカレーターにいかに乗るか?」ということを考えすぎてしまうせいだということは、よくわかっている。
どういうタイミングで、どう乗ったらうまくその流れに乗れるのか?
落ちたりしないか?
滑ったらどうしよう?
そんなことを考えていると、足を乗せようとしても、躊躇してしまうのだ。

むしろ、そんなこと考えもしないほど、ルーティン化してる人たちは、わたしには信じられないスピードで、下りエスカレーターをズカズカと歩いていく。
本当に、信じられない。

そういうことが、わたしたちの生き方にも、あるのではないかと思う。
そして、真剣に考えすぎて、エレベーターに乗るのを躊躇している人のことを、わたしたちは「モラトリアム」と呼んでいるのではなかろうか。


でも、自分に対して本当に真剣になることって悪いことではないと思う。
少なくとも、わたしはそういう人たちが好きだ。

完全なる美しい身体

2007-05-22 17:14:32 | お仕事
先日の専門学校での授業では、元自衛隊員が匍匐前進を披露した。

学習活動名は「朗読プレゼンテーション」なので、
その観点からすると、いろいろ疑問は湧くけれど、
すばらしい実演だったし、
何よりも、一気にクラスの雰囲気がまとまったので、
わたしは本当に彼に感謝した。

そういう教育者的な思いとは別に、
久々に、完全なる美しい身体を見たことに感動した。


知的なサービス労働ばかりをしているせいか、
わたしの身体は、いつだって、散漫でバラバラだ。
精神と身体はいつだって別物のように思えるし、
身体なんて不必要なものとすら思える。
わたしの身体を必要としてくれるのは、この世界でたった一人で、
それは確実に自分ではない。

部位のひとつひとつをとってみても、
何一つとして、ひとつの目的に向かって整備されてない、
ゆるくて、汚くて、バラバラな身体。
それがわたしの身体だ。

そんなことを思っているので、
あるひとつの目的に向かって、「道具」として完璧にコントロールされている身体を見ると、あまりの美しさに感動してしまう。
そりゃあ、もう、
専門学校の生徒たちに、「先生!耳まで真っ赤ですよ!」と注意されるほど(笑)


机の前に座っている、元自衛隊員の身体は、一見なんでもないように思える。
だけど、
なぜ、匍匐前進をした途端に、そんなにも身体が美しく輝きはじめるのか。
それが本当に不思議だった。


ひとつの武器として、ひとつの目的をもって、鍛錬された身体。
それは、とにかく、美しい。
健康のために、とか美容のために、ジムに通って作り上げられたような「偽者」の美しさではない。
世界にひとつの方向性を持って向かっているという、その真っ直ぐさ。透明さ。
それこそが、本当に美しく輝いているのだと思う。

幸福論

2007-05-21 15:25:12 | お仕事
わたしは、基本的には功利主義者なので、個人の幸せの総和こそ、幸せの基準であり、善であると思うところがある。

そんなわたしにとっての幸せとは、自分が幸せだと感じるときに相手も幸せそうにしていること。
社会はこういう状態を目指すべきだし、幸せを犠牲にしてまで守らなきゃいけない大儀やら国家やらをわたしは知らない。

わたしにとって世界はこう見えている。


そんなわたしにとって看護学校での非常勤講師の仕事は、心から幸せだと思える仕事だ。

わたしは、授業があるたびに毎回とても幸せを感じている。
すごく楽しい。
週末の体調不良も精神的な悪さもすべて吹き飛ぶ。
学生たちは、いつも、元気に話しかけてくれる。わたしはすごく、それがうれしい。
こんなにわたしにとってありがたい仕事はないと思う。

近所のカウンセリングルームは、一回につき、一万円の料金がかかるという。

わたしは元気をもらって、さらに、給料までもらっている。
そんなの、おかしい!と思っていたのだが、どうやら学校側からも良い印象をもたれていると聞き、あらためて、人間関係は綱引きでもシーソーでもないことを思いだした。


そこに関わるさまざまな人が同時に幸せになる方法は確かにあって、わたしは常にそれを模索してきたのだった。

そんなことをあらためて思い出した。

「所有」の季節:表現の「所有」について

2007-05-16 13:15:19 | わたし自身のこと
5月初めに、
いろいろとカルチャーショックなことがあって、
自分が当たり前と思っていた価値観を見直すきっかけになった。
その中のひとつが、表現のこと。
表現すること。そして、表現によって創作された作品のこと。


自分で書いたあらゆる文章は、
おそらく、わたし自身の「表現」といってもよいのだろうけど、
自分自身としてはそんなものとして思ったことがなかった。

でもそれは、ある種、特別な感覚なのかもしれないということに気づいた。

確かに、ブログの記事ならともかく、
「CINII」で本名で検索すればヒットしてしまうような論文の数々や、
一応、作者名をわたしにしている脚本まで、
「自分の作品ではない」「自分の表現ではない」と言い切ってしまうと、
さすがにそれは、一般的な価値観とのズレがあるのかもしれないと思う。

でも、実際にわたしはそう思っている。
そもそも、ある表現や作品を、
誰かが「所有」するものとして考えてこなかったし、
また、そう考えることが苦手なのだと思う。

例えば、脚本。
作者名をわたしの名前にして書かれた脚本は、演劇部の高校生たちに手渡される。
この瞬間に、作者名としてのわたしの名前なんて、ただのラベル以上の何者でもなくなってしまう。
わたし自身もそういうものだと思っているし、
高校生たちもそう思っているのだと思う。

実際、わたしが「作者」であることが顕在化する場面は、
あの高校生たち特有のジョークや嫌味(?)の中だけだ。
(わたしが「筆者の意図」という言葉が嫌いなので、わたしが演出していると、あてつけにそんなことを言ったりする。まったくもう。)

演劇部に遊びにきてくれているわたしのパートナーも、
「いろいろ手伝っている中で、そんなこともやっているって感じ」
…というようなことを言っていたし、きっと、そういうものなのだろうと思っている。


そう。
正確に言えば、あの脚本は「たたき台」であって、いつ捨てられてもいいもの。
目的が異なれば、いつでも変えられてしまうような「オモチャ」のようなものだから、作者も筆者もないのだ。
そんなふうに思っている。

「オモチャ」が人々が集まって行う遊びの中で生み出され、
その中で機能していくように、
わたしが書いたものも人々が集まって、何かを行うとする中で、
ひとつの「道具」として生み出され、機能していく。
それだけの話だ。

それは脚本だけでなく、論文も同様である。

そこにあるのは、フィールド調査―分析―論文執筆をめぐる一連の集団による行為でしかない。
そこには、さまざまな人が関わるし、
わたしがしていることは、たまたまそのようなさまざまな人々が行う行為のなかで、「研究」あるいは「論文執筆」という役割を担当しているだけなのだ。

オーサーシップは、たまたたま、執筆を担当した者に与えられた名前に過ぎないと思う。
こういうことを示して、
わたしは、ある方にこう言った。


わたしにとって、表現とは、作品とは、非常に倫理的なもので、
自己の表出、自己のオリジナリティの現れとは見ていないのだ、と。


そもそも表現とは、誰かが「所有」できたり、
「所有権」を主張できたりするものなのだろうか?
完全なる孤独の中に生まれた表現は、確かに、あるのかもしれない。
だけど、もし、そういうものだけが「表現」と呼ばれるのであれば、それはあまりにも表現の枠組みを狭めてしまうのではないか?


谷川俊太郎氏は、小学生が作った自作のパロディを見て、怒りを覚えたという。


もし、そういうものだけが表現なのだとしたら、
わたしは、一切、表現なるものを行ったことはない。
だって、例え、わたしが自分の論文内容の濫用に怒りを覚えたとしても、
それは、わたしが「研究」という過程をともに過ごしてきたさまざまな人への倫理的な責任感から生じる怒りであろうから。
それは、「自分を侵された」ことへの怒りとは一線を画している。

依存と搾取とカリスマと:「ワラッテイイトモ、」

2007-05-15 20:51:54 | 趣味
5月の初め、水戸のキワマリ荘に行ったとき。
涼しい風が茶の間をふきぬけ、
後ろでは有間かおるさんがなにやらハンガーで作品を作ったり、斜め後方で座ったりしている中で、

わたしのパートナーと一緒に、
K.K.作「ワラッテイイトモ、」を、見た。


実を言うと、わたし、
「ワラッテイイトモ、」が見たくて見たくてしかたなかった。

そもそも、マスメディアのカリスマ番組を題材としたパロディ作品を見るのが好きなわたしである。

さらに、この作品は、作品に対する評判も含めて、わたしの中でいろいろな疑問が沸き起こっていて、とにかく見たくて見たくてしかたなかった。
そして、わたしなりの答えを見出さなければ、と思っていた。
例えば、
VJコミックカット氏がやっているような、エンターテイメント性の高い、パロディ作品と、いわゆる現代アートとしての評価を得ている「ワラッテイイトモ、」とは、どこがどのように違うのか?とか。
水戸芸術館の「マイクロポップ展」で展示されたK.K.氏の作品との連続性がどこにあるのか?とか。

そのためには、実物を見なければならない、それしかない、とずっと思っていた。

それが実現したのだ。
これほど、うれしいことはなかった。


その結果、わたしが見出した答えは次のようなものだった。
もちろん、わたし個人がそれで納得したというだけのことであって、これが正しいかどうかなんて誰にもわからないけれど。

K.K.さんは、カリスマへの依存性を、自己を基点とすることによって、作品として現出させることができる方なんだと思う。
自己を基点とすることで、他者への共感性へとつながる扉が開かれている。
そんな不思議な構造を持っているんだな、と思った。

「ワラッテイイトモ、」は長い。
1時間以上あるらしい。
その中には、マスメディアへの「対抗」とも見られるなんらかのアクションも見られる。
だけど、そういうアクションは行われた途端に、作者=K.K.さん自身の反撃にあう。

新宿アルタに行く、という行為は無能な自己を可視化させるだけだし、
結局はリバース(巻き戻し)によって、舞台は八王子の小さな部屋に戻されてしまう。
ブラウン管を壊すという作品中もっとも「対抗」的なシーンも、すべてがリバースされることで、結局、カリスマ番組になんらかの期待を持とうとする作者=K.K.さん自身の思いへと引き戻される。

進んではリバースされることの繰り返し。
事態は一向に進まない。1歩進んだと思ったら、すべてが元の木阿弥へと引き戻される。

「対抗」を完遂することはできず、
わたしたちはカリスマに依存したままだ。
「対抗」のポーズをとったと思ったら、いつの間にか、元に戻っている。
いつの間にか、やっぱりカリスマに依存している。

でも、これって、真実だ。
もちろんK.K.氏自身の真実でもあり、
それは間違いなく、わたしたちの真実でもあると思う。

こう考えてみると、
VJコミックカット氏がやっているような、完全なる「カリスマ番組ジャック」としての「対抗」は、わたしたち、オーディエンスに有能感・全能感を与えるという意味で、楽しい・快活なエンターテイメントだけれども、それは真実を隠蔽する装置でもあるように思えてくる。


考えてみれば、
「カリスマへの依存性」とそこに潜むさまざまな問題性を、「批判する」というかたち以外で表現することのできた人なんて、それほど多くない。

わたしの思い当たる人は、少なくとも、一人だけだ。
それは、雨宮処凛。
「天皇陛下、バイバイ」という一説は至言だとわたし自身は思っている。
そんなことを思っていたら、
仙台メディアテークの、「<私>から始まる物語」と題されたイベントで、雨宮処凛主演の「新しい神様」と「ワラッテイイトモ、」が並んで紹介されていたことを知った。


これから先、近代主義的な「批判」はもしかしたら有効性を失っていくのではないかと思う。
そういう時代に、自己を基点としてさまざまな問題を語りなおしていくこと。
その可能性を、この二つの作品は見せてくれるように思う。

そんなわけなので、わたしとしては、「ワラッテイイトモ、」にとても勇気づけられた。
とりあえず、博士論文をがんばります。

ガチャピン・ロック:はじめての歌詞づくり

2007-05-10 11:57:26 | 趣味
わたしがお手伝いしている高校の演劇部の関係で、挿入歌の歌詞を作ることになりました。
とはいえ、脚本の内容と曲のタイトルと曲(Johnnie B. Goode/C.Berry)が決まっていたので、「替え歌」みたいにして作ればいいだけで、それほど大層なものではありません。

それでも、「歌詞つくるのって大変なのね!」…と実感しました。
譜わりが良くないとイライラしてくるし、
内容としてコレを入れたい!って思っても、
実際入れてみると、音のすわりがよくなかったりして。

芝居で使うから、歌うことになっている登場人物の役(咳止めシロップでラリッたロッカー)のことも考えないといけないし…なんだかいろいろ難しいです。

とりあえず、「これでいいや!出しちゃえ!」ってレベルになったのが昨晩深夜。
一応、いろいろと便利なので掲載しておきます。

************************************************************

「ガチャピン・ロック」 
(C.ベリー/曲(「Johnnie B. Goode」))

1.
俺らのアイドル ガチャピン
いつの間にやら アイドル
本当は恐竜なのに なんと いまや子どものアイドル
子どもになめられまくって いまやキバをなくしたアイドル

GO!GO! ガチャピン!GO!GO! ガチャピン!GO!GO!
ガチャピン!GO!GO! ガチャピン!GO!GO! Go to Hell!


2.
きみどりカラーの Back Style
黄色とピンクの Body Paint
ショッキングピンクの Life Style
流れ 流され Down! Down! Down!
お子様向けのメディアで OH! 永遠5歳のアイドル

GO!GO! ガチャピン!GO!GO! ガチャピン!GO!GO!
ガチャピン!GO!GO! ガチャピン!GO!GO! Go to Hell!


3.
シラフじゃ生きれぬ世界で
ハイになってるチャレンジャー
咳止めシロップ キメたら 
そうさ!俺もアンタと Go to Heaven!
ガチャピン様、ホラ、行こうぜ! あの天国へ!GO!GO!

ガチャピン!GO! GO!GO!ガチャピン!GO! 
GO!GO!ガチャピン!GO! GO!GO!ガチャピン!GO! 
GO! Go to Heaven!

「高校生による「夏への扉―マイクロポップの時代―」展紹介文

2007-05-09 10:00:41 | フィールド日誌

高校生ウィーク期間中に、
わたしたちが企画し、作成した、
「高校生による「夏への扉―マイクロポップの時代―」展紹介文」が、
水戸芸術館のホームページに掲載されました。

http://www.arttowermito.or.jp/natsutobira/kokosei/note1.html

前文に「「夏への扉―マイクロポップの時代」展企画者松井みどり氏の希望により…」という一節があって、とてもうれしくなりました。

このような幸運な機会はほとんどありえないかもしれないですね。
展覧会の企画者自身も高校生の声を知りたがっていて、そこに何かきらめきを感じてくれる。
そんな幸せな人と人との関係性の中で、この紹介文は生まれ、企画者や出品作家ふくめ、多くの人の手に渡っていきました。

わたしはそんな幸せな瞬間に立ち会えたこと、
そこにひとりの企画者として関われたことを、本当にうれしく思っています。


kimistevaは愛する泉太郎さんと、
わたしの日々感じるさまざなねじれに形を与えながらときほぐしてくれる杉戸洋さんの作品にコメントを書いてます。
(もうひとり、愛する大好きな作家さんにも書いていますが、本名がばれるので割愛)

高校生にぜひ気軽に書いてほしくて、
あらゆるフォーマルで堅い文体から距離を置きながら書いているので、
「ばからしい」「何考えてるんだ」といわれるかもしれませんが、
どうか、ご容赦ください。

わたしにとって、もっとも自然なスタイルで、息をするように好きなことを思ったままに書いた文章です。
これが本当の「言文一致体」。なんてね。


医学と似非医学:「アルカリ性」と「酸性」

2007-05-09 09:48:41 | わたし自身のこと
さきほどの診察の話の続きです。

とりあえず、診察を終え、風邪だろうという話になりました。

医者はおもむろに「かぜを治すためには」と書かれたプリントを取り出して、わたしに説明しだします。
「休養すること」「暖かく過ごすこと」など二つの項目の説明を終え、
最後の「食事について」に入った途端、医者はこう言いました。

医者:「大事なのはね!体をアルカリ性にすること!」
わたし:「…は…はぁ。」
医者:「だから、スポーツドリンクや緑茶なんかね。いいから。アルカリ性。あとは、梅ぼし!アルカリ性ね。」

医者はやたらと「アルカリ性」を繰り返します。
そして、最後に、

医者:「牛乳は乳製品なんかはダメ。酸性だからね。下痢したりとかしちゃうから。」
わたし:「…はぁ。」


体液はアルカリ性だとして、
「アルカリ性食品」とやらと人体との関係は、ないんじゃないでしたっけ…?
それとも、そういうわたしの認識が似非医学なの?

どうも「アルカリ性」やら「酸性」やらという言葉を聴くと、
「あるある大事典」やらその他の、似非科学健康番組を思い出してしまいます。
…うーん。疑わしい…と思ってしまうわたしが間違っているのか?


ちなみに、
今は、医者の指示に従って、緑茶とスポーツドリンクを飲んでます。
とりあえず、回復には向かっているようです。