最近、
この3月にやった水戸芸術館での調査に基づいた論文を書いているせいか、
とても水戸に行きたくなる。
というよりは、「夏への扉―マイクロポップの時代」展が見たくなる。
だけど、水戸にいっても、「夏への扉」はもう見られない。
そろそろ次の展覧会が始まっているだろう。
「夏への扉」はもうすでに、過去の展覧会なのだ。
でも、そのことに自分自身の感覚がついていっていないような気がする。
いつでも、
水戸芸術館にいって、ギャラリーを折り返すと、あの暗い部屋があって、
そこには、「ヒューヒュー」やら「ブルルルル…」やら謎の音声がとびかうカオス空間があるのではないかと思ってしまう。
でも、もはや、そこに、そういうものはない。
ハシゴにのぼって、
一万円札とともにめっちゃ笑顔になったり、ションボリしたりする泉さんはもう見られない。
そのことが信じられない。
そういう感覚は、
小さい頃、勇気を出して入ってみた、あの古ぼけたお屋敷に似ている。
わたしの中で、そのお屋敷はまだあるのだが、
実際には、近くの河川工事の関係で壊されてしまった。
最後まで、人が住んでいるのかいないのか、わからなかったあのお屋敷。
それは、わたしの中にずっと生きている。
いろいろなものが、なくなっていく。
それが時間が流れるということなのかもしれない。
水戸に行きたいなあ。
せめて、有馬さんの個展を見に行きたい。
そのくらいの贅沢は、今のわたしに許されるだろうか。
この3月にやった水戸芸術館での調査に基づいた論文を書いているせいか、
とても水戸に行きたくなる。
というよりは、「夏への扉―マイクロポップの時代」展が見たくなる。
だけど、水戸にいっても、「夏への扉」はもう見られない。
そろそろ次の展覧会が始まっているだろう。
「夏への扉」はもうすでに、過去の展覧会なのだ。
でも、そのことに自分自身の感覚がついていっていないような気がする。
いつでも、
水戸芸術館にいって、ギャラリーを折り返すと、あの暗い部屋があって、
そこには、「ヒューヒュー」やら「ブルルルル…」やら謎の音声がとびかうカオス空間があるのではないかと思ってしまう。
でも、もはや、そこに、そういうものはない。
ハシゴにのぼって、
一万円札とともにめっちゃ笑顔になったり、ションボリしたりする泉さんはもう見られない。
そのことが信じられない。
そういう感覚は、
小さい頃、勇気を出して入ってみた、あの古ぼけたお屋敷に似ている。
わたしの中で、そのお屋敷はまだあるのだが、
実際には、近くの河川工事の関係で壊されてしまった。
最後まで、人が住んでいるのかいないのか、わからなかったあのお屋敷。
それは、わたしの中にずっと生きている。
いろいろなものが、なくなっていく。
それが時間が流れるということなのかもしれない。
水戸に行きたいなあ。
せめて、有馬さんの個展を見に行きたい。
そのくらいの贅沢は、今のわたしに許されるだろうか。