KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

偶然と必然

2008-01-31 18:35:16 | 研究
最終審査で聞かれた最後の質問は、
「水戸芸術館にたどり着いたのは偶然か必然か」、ということだった。

もちろんその質問の意図は教育学的文脈の、それもかなり深いところにある。
わたしはこの質問が、わたしの生涯の中でもっとも大きな意味を持つ論文に対する最後の質問だということが、なんだか感慨深かった。

ハッキリ言って、
わたしが、水戸芸術館にたどりついたのは偶然だ。
わたしが建築士を志したことがなかったら、
「アーキグラム」展がやっていなかったら、
そして、「アーキグラム」展の次の展覧会が「海洋堂の軌跡」展でなかったら、
わたしは、今、ここにこうしていないと思う。


でも、今ふりかえって見ると、
すべてのことが、わたしの研究的な文脈につながってくる。
本審査の委員の先生の一人は、川俣正氏が人々によって構築されるものとしての『アートレス』に示されるようなアートへの視点を構築する際に、重要な意味を持った人の一人だし、
わたしが社会構成主義の立場に立つことと、アートの問い直しの潮流の中でなにか実践を提言してきたことは、まったく自然なことだ、必然的なことだ、と言われる。


しかし、である。
実際、わたしが川俣正氏『アートレス』と出会ったのは、
水戸芸術館に通い出して1年くらいたった後のことだ。
それまで、わたしにとって川俣正氏には、揖斐幼稚園でひたすら板をテントンテントンたたいている「カワマタセンセー」のイメージしかなかった。
・・・っていうか、『アートレス』に出会ったときの衝撃は、
「こんなアートの見方があったのか・・・!」ではなく、
「カワマタセンセーは、芸術家だったのか・・・!」である。

・・・とてもじゃないが、芸術館では口に出せない事実である。


その「カワマタセンセー」をわたしが知ったのは、
本審査の委員にもなっていたその先生が、揖斐幼稚園で撮ったビデオ記録を整理するアルバイトをしていたときだ。
ビデオのラベルにやたら「川俣」「川俣」と書いてあるので、
本審査委員にもなったその先生に、
「この「川俣」ってなんですか?」と聞いたら、
「カワマタセンセーです」と一言、答えが返ってきた。


仕事は、ビデオを実際に見ながら、ビデオの時間的な順序を確認していく作業だったが、
その「カワマタセンセー」とやらは、その先生や補助の学生たちと一緒に、ひたすら板を打ちまくっている。
よくわからん。
コノヒト イッタイ ナニガ シタインデスカ。


そんな「カワマタセンセー」の書いた『アートレス』が最終的に、学位論文の中で重要な位置を占めるようになっている・・・というのは、なんというか、できすぎていてよくわからない。
だって、アルバイトに申し込むときにはそんなビデオだなんて知るよしもない。
だけど、わたしはそのとき、よくわからないうちに、現代アートの最先端に出会ってしまっていたわけだ。今考えると。

そして、今のわたしがある。

こう考えてみると、
「現代アートにたどりついたのは、偶然か必然か」という問いも、
「水戸芸術館にたどりついたのは、偶然か必然か」という問いも、
同じようにしか答えようがないことがわかる。
これまで、多くの人がそう答えてきたような陳腐な答えを繰り返すしかない。


出会ったときは偶然でしたが、
今となっては、必然的な出会いであったと思わざるを得ません、・・・と。

でも、そういう偶然を作り出す力こそが、
わたしの中にある唯一の秀でた能力なのではないかと、最近は思う。

弱さのちから

2008-01-29 18:05:00 | わたし自身のこと
恋人のことを、さらに、好きになる。

弱いときも、強いときも、彼は、美しいから不思議。
弱くあるときに、なんにも言わずに紅茶をいれてあげられる人間でいたいよ。
悲しいときに、一緒にカラカラと笑っていられる人間でいたいよ。

メガネの腹黒副部長

2008-01-29 11:28:01 | 趣味
昨日は、不要な本を処分しにいったついでにブックオフで買い物をしました。

実は、現在、
日本のオタクと海外のオタクについての論考を集めた本の執筆に誘われております。
それで、たぶん(というか確実に)わたしが担当するとしたら腐女子のことか、ヤオイのことか、どちらかなので、
「これを機に、読んだことのない最近のBLコミックをガサッと読んでおくかー」と思い立ち、
さっそく、いそいそとBLコーナーへ。
(最近は、K書店以外、たいていどこに行ってもBLコーナーがあるから便利です)


はじめは、
「とりあえず参考程度に105円の漫画をまとめ買いするかな」
・・・と思っていたのですが、パラパラと立ち読みしながら見ていくうちに、まったくそんな話ではなくなってしまいました。
結局、『学園ヘヴン』の中嶋編1冊だけ買いました(正確に言うとオリジナルBLじゃないじゃん・・・)。
そうです。結局、自分の趣味でBL買いに行ったというそれだけの話です。反省。
おい!研究はどこに行ったんだよ!


結論。
わたしの萌えツボって、けっこう狭い。

やっぱり、攻はメガネの腹黒副部長(中嶋は生徒会副会長ですが)で決まりよね♪
もちろんそれさえ満たしてくれれば攻受の外見ギャップはあってもなくてもOKです。

うおー!!
でも・・・でもでも、今度こそっ、「研究者」としてBLまとめ買いするんだっっ!
・・・とかいいつつ、自分の萌えツボ範囲を確認してきたので、次に買おうと思ってるのもだいたい決まってるんですが・・・。
サイテーだな。

アートをめぐるソーシャル・ネットワークづくり

2008-01-28 20:03:17 | フィールド日誌
先日、
わたしが関わっている「高校生アートライター」の第二回企画が行われた。

第一回目は、水戸芸術館でやっている展覧会を見てから説明会&顔合わせ。

第二回目の今日は、ワークショップである。

チラシに「アトリエ訪問&ワークショップ」とは書いてしまったものの、何をするかといろいろ考えた末に、3~5人くらいの小さいグループで、芸術館のまわりでアート作品の展示が行われている場所をまわることになった。
行き先の候補は、キワマリ荘、「遊戯室」(←キワマリ荘内にある)、アートワークスギャラリー、「まちの駅みと」、セントラルビルの5カ所。
このうち、1カ所か2カ所を、それぞれのグループでまわって、そこで出会ったアートについて紹介する原稿を書いてみよう!

・・・というのが今回の流れである。


本来の「ギャラリーガイド作成」に向けた中間段階という位置づけのせいで、
ハッキリ具体的な意図やイメージを持って行われたワークショップではなかったが、
かえってそれが良かったような気がする。
(もちろん集合時間から開始までのグダグダっぷりと、外歩き時間の少なさは反省)

実際にやってみて、
あとから、「ああ。これはこういう意味があったんだなぁ!」と気づく実践は多くあるが、まさに今回のワークショップはそんな感じだった。

ちなみに、わたし自身は、
すでに2時間のドライブ中、話に花をさかせまくったT大生2人(しかもうち一人は、nakaさん)、プラス、カフェ・スタッフ仲間のりりーちゃんという、かなり内輪な仲間で、
キワマリ荘の寒いこたつ(なぜか玄関先にある)にあたりながら、
有馬かおるさん(キワマリ荘オーナー)の話を、だらだら1時間近く聞きつづけて終わってしまったが、
なんだか、わたしは、それで満足だった。

まだ展示準備中のキワマリ荘では、展示準備を進める星さん(作家)が、
自分の作品をもってきて、ひとつひとつ手渡しで、からくり絵(?)やからくり絵本(?)の説明をしてくれた。
まだ、かけられる前の絵は、おそらく100円均一で買ったと思われる額に入れられていて、額にはでかでかと「315円」と書かれたシールが貼られていた。

有馬さんは「あっち(「まちの駅」から回ると思ったよー」といいながら、走って帰ってきて、ぜぇぜぇと息をならしながら、展示を案内してくれる。


わたしは、作家に直接会うことにあまり喜びを感じない人間であるし、
先日、森美術館で、「直接作家さんと会えて親しくお話できますよ!」とサポートメンバー会員を薦められたときには、心底、気持ち悪く思ったが、
それでも、こういうのはなんかいいなぁ、と思うのだった。


「作家に会えるから楽しい」、というのとは違うと思う。
そうではなくて、
これはもっとふつうに毎日感じているような「なんかいいなぁ」である。
案外、自分の住んでいるところの近くにおいしい店を見つけて
「こんなところに、こんなところがあったのかぁ」と思ったりとか、
あるいは、ブログでコメントもらったり、あるいはmixiで友達の輪が広がったり、
わたしだったら、「おもしろそう」と思える学会や研究会を見つけたりしたときとか、
そんなときに感じる、「なんかいいなぁ」である。

そう。
これは、自分にとって社会的なネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)が、ちょっと広がったときに感じる、そういう感覚。


そんなことを思っていたら、
参加者の高校生たちに書いてもらった原稿にも、
そういう「なんかいいなぁ」が示されたコメントがたくさんあって、この感覚がわたしだけのものでなかったことを再確認した。
セントラルビルにいったある高校生は、セントラルビルの中にある店でお気に入りのものを見つけて、それを「買ってしまいました!」と書いていて、
わたしは、その原稿を見て、「これだよ、これ。」と大きく頷いた。


水戸芸術館の「内側」でやることは、やっぱり、限界がある。
それは何かというと、「芸術館」「美術館」という枠組みそのものが、
来る人たちの心に、「作り手」対「受け手」という二項図式を刻印してしまうところにある。
美術ギャラリーの中に入れば、やっぱり白い壁がずーーっと続いているわけだし、そこに展示されているものたちは否応なく、「僕たちはアートですよー」「アートとしての価値があるんですよー」と主張してくる。
わたしたちは、そんな主張をする作品たちの前で、ただ自分が「受け手」であることを自覚し、作品たちの主張を受け入れるしかない。

でも、街という場所は違う。
そこは、逆に、そこを通る人たちが自分たち自身が勝手に意味をつくりだして良い世界だし、そういう勝手に作り出す意味こそが、「価値」と呼ばれる世界である。
「ユニクロ」は買い手がそれぞれ勝手に「自分らしさ」という意味を見出して、商品を購入する。
売り手が用意しているのは、さまざまな色のさまざまなデザインの洋服だけだ。
あの場所では、見る側=買う側の自分勝手な想像力だけが「価値」を作り出す。


気に入ったものだけ買えばいい。気に入らなければ買わなきゃいい。
そういう「価値」の作り方が、街にはあると思う。


そういう場所であらためて、アートに出会ってみることは楽しいことだし、
そういう社会的ネットーワークの広がりのひとつとして芸術館が位置づくことは、すごく健全なありかたのような気がする。
美術館が展示する権威ある作品の「信者」になるのではなくて、
自分のライフスタイルのひとつとして「そういう場所もあるよね」って言っていられることのほうがずっと大切だと思う。

少なくとも今回のワークショップには、
そういう意味があったかな、と文集を見ながら、そんなことを考えた。

だってDV体質なんだもん

2008-01-24 11:59:06 | わたし自身のこと
昨日、「DV講演会」中止事件のことを書いたら、
「kimistevaという人は、DVの話題に関しては随分と「熱く」なってしまう人なのだなぁ」というメールをいただいたので、わたしの記事を相対化するためにもここで言い訳を。

そりゃ、熱くもなりますわ。
だって、アタシ、DV体質なんだもん。

わたしでなければできないことがある。
正確に言えば、ある社会問題に対して、当事者が言わなければならないこと、当事者が語らなければならないことがある。
前の記事は、当事者(といっても「DV被害者体質」とよく言われるだけですが)として、こういうことを言わなければならないだろうなぁ、ということを当事者としての生の感覚で書いたものです。


そりゃ、いくらでも第三者的な立場から客観的に語ることだってできます。
でも、それはわたしの仕事じゃない。
女性議員たちやフェミニストの学者たちがそんなこといくらでも論じているし、それを今さらわたしが繰り返したところで意味はないと思う。


DVに限らず、ハラスメントって被害者は本当につらいんですよ。

何が一番つらいって、「自分が悪い」「自分に罪がある」と思いこんでしまうところがつらい。
自分の思うことや考えることがすべて間違っていて、
だから相手は自分のことを罵りつづける。
でもその相手は少なくとも過去には自分のことを愛していてくれたはずだし、
きっとわたしが「良く」なれば愛してくれる。
わたしが「悪い」から愛してくれないんだ。

・・・とこう思うことがどれだけつらいことか。
「お前みたいな男、こっちから願い下げだー!」とスッパリ縁を切ることもできないし、かといって永遠に関係が回復する見込みもない。
なぜなら、「わたしが悪いから」。


内田樹氏は田口ランディの言葉を引用して、ハラスメントを「呪いのコミュニケーション」と呼んだ(内田樹『子どもは判ってくれない』)けど、それは本当に言い得て妙だと思う。
DVを含むハラスメントの被害者は、「弱い酸に浸されるように」ゆっくりじっくり自分の心を壊されていく。
反撃することも、拒否することも許されず、とにかく縛りつけられ動けない状態で呪いの言葉をかけられる。


DV防止法関連のサイトに掲載されている「DVとは?」の項目には、雑多ないくつもの項目が並べられているけれど、それらに共通するのは、そういう「呪いのコミュニケーション」。


でも、呪われたもののつらさは、誰にもわからないし、
呪いをかける者は「呪いをかけている」自覚すらない、というのがハラスメントの恐ろしいところで、だからこそ、DVもハラスメントも当事者(厳密に言えば被害者)以外の人々にとっては、「よくわからないもの」「得体の知れないもの」としか映らないのだと思う。


だから、せめて「呪い」をかけられた人の絶望感がわかる人間として、
「当事者以外の人間に何がわかる!」と熱く叫んでおくことは大切だと思ったわけです。

家族というタテマエのおかげでお幸せな方々へ

2008-01-23 11:47:56 | ニュースと政治
つくばみらい市で行われる予定だった「DV講演会」が、電話やメールでの多数の抗議、市民運動による抗議で中止になったそうですな。

わたしはこの講演会がどういう趣旨のものだったのか、誰が呼ばれてどういう話をする予定だったのかを知らない。
だから、新聞上には「「DV防止法」に反対する人々」としか書かれないような抗議者の人たちが、何にそこまで憤って、何をそこまで反対して、講演会の中止に至ったのかわからない。
少なくとも、「DV防止法」に反対する人たちにとっては、「家族」がものすごく大切なものなようだから、その前提に沿って話を進めるしかない。


新聞が報道する限り、「家族が壊れる」という理由で「DV防止法」に反対する人たちが、「DV防止法」に関する講演会の開催に抗議し、中止に至らしめた、とそういう話であるらしい。


・・・これ、本当に、この世界で起きた現実の話なのだろうか?
と、わたしは耳を疑ってしまった。

なにそれ。
よーするに、「家族」の存在を疑うことすらできないよーな、お幸せな方々が、暴力を受けて日々泣き暮らしているような人たちをなんとか保護しようとするような法律の制定に反対したあげく、そういう人たちがどうにか自分の現状を理解しようと集まろうとするその場までなくしてしまったということ?


・・・なにそれ?


いまどき、そんなにわかりやすい「悪者」って存在するの?信じられない。
まるで、「パンがなければブリオッシュを食べればいいのに」と言い捨てたマリー・アントワネット日本版。
そんなの、まだ現実にいたのか。
信じられん。


・・・でも実際そうなんだよね。
お幸せな人たちは、自分の「幸せ」を自明のものとして疑わないから、その前提そのものが崩れることをなんとしても阻止したがる。
自分の幸せが、どうしてどうやってどのようにできてるのかなんて知ろうともしない。わかったとたんに「幸せ」は「幸せ」じゃなくなっちゃうからね。
残るのは、ただ無味乾燥な権力構造だけ。
それを知ったときに、その人ははじめて自分が「権力者」であったことを知るんだ。
それはとてもつらいことだから、そういう人たちは権力構造を見ないようにする。
そういうことは歴史の中で何度も何度も繰り返されてきたことだ。

・・・まぁ、でもそれはいい。
わたしがわからないのは、なぜ、困っている人・傷ついている人を助けようという法律を、「自分の幸せを崩したくない」という理由でそこまで反対できるのか、だ。
そこまで、人間って利己的にしか動かないのか。
J.S.ミルの描いた人間像なんて嘘八百なのか。
「公共性」なんて概念は、もはや遠い世界の話なのか。
そんなに人間って他人に対する想像力が働かないのか。

わたしには、わからない。
ともかく、理解不可能だ。
いくら「家族というタテマエ」で幸せになっている人がいようと、大切なのは現在、困っている人を救うほうだろう。
っていうか、「DV防止法」くらいで崩れるような「家族」なんてはじめから崩壊してるんだよ。そんなことすら、わからないのか。


「家族」というタテマエのおかげでお幸せな方々へ。
もう一度、自分たちがマリー・アントワネットだということを思い起こしたほうがいい。
「暴力をふるう夫がイヤなら、暴力をふるわない人と結婚すればいいのに。」・・・って本気で言えるようなら、それはもうすでに現実認識狂ってるよ。

「間口が広すぎる」

2008-01-21 15:08:21 | 研究
ある方に、「どうにか博士号がとれそうです」、とご報告したら、
「なんの博士になるの?」と聞かれる。

「教育学です。教育学博士。」
「教育学になるんだ。」
「ええ。あやうく学術になりかけましたが・・・」
「・・・お前、間口が広すぎるんだよ。」

「間口が広すぎる」。
まさに、そのとおり。
誉めてるのか、けなしているのかはわからないが、
とりあえず、「間口が広すぎる」ことは確かだなぁと納得する。

でも、わたしはそれが、新しい研究の可能性を開いてくれることを信じてる。
これまでの研究を再生産するばかりじゃ、社会と研究とが分離するばかりだもの。

お願いだから勝手に自由に読ませてください:『ユリイカ BLスタディーズ』

2008-01-21 15:00:17 | 研究
『ユリイカ』の「腐女子体系」「BLスタディーズ」を購入した。
これらに掲載されている論考を読んで、あらためて、
わたしは「文学批評」というジャンルが嫌いなんだなぁと思ってしまう。


わたしは「ヤオイ読み」のできる「腐女子」である。
だけど、「ヤオイ読み」を、あたかも「これこそが正しい読みだ!」と言わんばかりに他者に押しつけるのには反対だ。
だって、それでは、これまでの権威的な文学者や国語教育研究者がやってきたことと何も変わらないではないか。ただそれが「支配的な読み」であるか「対抗的な読み」であるかが違うだけ。一つの読みのありかたを押しつけようとする点ではまったく変わらない。

「ヤオイ読み」は、オルタナティブな読みの戦略を示す一事例であって、それは、いろいろある読み方の「One of Them」として示されるからこそ意味がある、というのがわたしの主張である。
だから別に「ヤオイ」じゃなくたって良いのだ。
わたしがたまたま「ヤオイ」が好きで、「ヤオイ」が有名だったから、「ヤオイ読み」を事例として取り上げているだけであって、
『枕草子』を読んで「わたしは清少納言の生まれかわりだ!」と思いこむ事例(←実話)だろうが、
『人魚姫』の絵本の最後のページを破り捨てて、画用紙に自分の思い通りのラストを描いてはりつける事例(←これも実話)だろうが、
少女漫画誌の読者投稿欄に必死に投稿しまくる事例だろうが(←これも実話)
なんでも良かったのだ、わたしは。
たまたま、先行研究として「ヤオイ」があった。それだけ。

「寛大なる不干渉」。
・・・これこそが、わたしの理想だ。

しかし、どうも「文学批評」というジャンルはそういうわけに行かないらしい。
それは、そうだろうと思う。
「ヤオイ読み」なら「ヤオイ読み」。
「非モテ読み」なら「非モテ読み」を、一種の「正しい」読みとして打ち出していかなければならないのだろう。
研究や批評ってそういうものだ。それはわかる。

だけど、やっぱりわたしは好きになれない。
あの「正しさ」を作りだそうとする語り口に違和感を感じてしまう。
ハッキリ言って、嫌いだ。


「文学」という研究領域が、永遠にいくつもの「正しい」読みを提示しつづけるだけの領域なら、わたしは「そんな研究領域なんていらない」、と思う。
「読むこと」の民主主義を遠ざけるだけの研究領域ならいらない、と思う。

お願いだから、勝手に自由に読ませてください。