KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「ねばねばなっちぃの歌」発見!

2008-05-19 20:58:43 | フィールド日誌
きゃー!!
わたしも大好き。みんなも大好き。
五軒ゆかりお姉さんの「ねばねばなっちぃの歌」がYou Tubeで見られるようになりました!
(futureさん。情報ありがとうございます!)

「ねばねばなっちぃの歌」

一応、解説をすると、水戸芸術館現代美術センターの「クリテリオム」という若手作家を紹介する企画展で、紹介された作品です。

水戸芸術館で出会った作品で、わたしに衝撃を与えた作品はいくつかありますが、まさに、その中のひとつです。
その熱のあげっぷりは、こちら参照のこと。

あらためて見てもステキっ!
みんなぁ!見てねぇ!

「美術館のアート・ビオトープ」:記録集のあとがきとそれに対する雑感

2008-05-01 22:26:28 | フィールド日誌
ついに、水戸芸術館現代美術センターで行った「アートライティング」企画の記録集『アートライティング』ができあがりました。
思い起こせば、この企画が始動したのは昨年の7月。
あっという間にもう1年近くの月日が経過したことになります。


わたしはこの記録集の「あとがき」を執筆させていただきました。

この「あとがき」に書いた文章は、わたしにとってかなり重い意味を持つものです。
正直、こんな内容を書いても大丈夫だろうかと何度も悩みました。
企画全体のテイストからはずれてしまうのではないか、と。
それでも、もしかしたらここで書かなければわたしは一生このことを書けないまま終わってしまうのかもしれない・・・と思い立って、この文章を書くに至りました。

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美術館のアートビオトープ


「アート・ビオトープ」(Art Biotope)。
わたしがこれまで水戸芸術館現代美術ギャラリーのさまざまな教育プログラムに調査者として関わりながら考えてきたことをあらためて振り返ってみると、この言葉に思い当たる。「アート・ビオトープ」とは、水越伸『メディア・ビオトープ』(紀伊国屋書店)を受けて作り出した造語である。「ビオトープ」(ドイツ語でbiotop、英語でbiotope)とは、「いのち」をあらわすバイオ(bio)と「場」をあらわすギリシア語・トポス(topos)の合成語で、生物たちが自然界の中に見出した、自分たちが生きるための小さな場所を意味している。「メディア・ビオトープ」は、この「ビオトープ」の考え方をわたしたちが日々生きているメディア社会に応用したものだ。つまり、ガチガチに硬直化してわたしたちの入る余地がないようなメディア社会に、わたしたちが生きる場所を作り出す営み。それが「メディア・ビオトープ」である。「アート・ビオトープ」は、この言葉をさらに応用した言葉である。つまり、作品の「正しい意味」とか、「正しい見方」とか、知識とか教養とか、そんなものでガチガチに硬まってしまったアートや美術の世界の中でわたしたちが自分らしいありかたで自分たちなりに生きる場所を見出そうとする営み。それが「アート・ビオトープ」である。
書くということはどのようなことなのか。この問いに対する答えのひとつに、「書くということは対話の場をつくり出すことだ」、というものがある。自分に向けて書くということは、自分と対話しながら自分を探求するための場をつくり出すこと、誰かに向けて書くということはその誰かとの対話の場をつくり出すこと。わたしたちは書くことによって、これから自分や他の誰かと対話していくための場をつくりだしている。
「アートライティング」とは、アートを書くこと。そして、書くこととは、自分や誰かとの対話のための場をつくりだしていくこと。だとすれば、「アートライティング」とは、アートに出会った自分や他の誰かとの間に共有された対話のための場をつくりだすことだ。そして、さまざまな人たちがアートについて書くということは、さまざまな人たちがアートや美術の世界の中に、自分たちのための場をつくりだすことにつながる。このようにして、アートや美術の世界の中に、小さな「アート・ビオトープ」がつくりだされていく。
今回、報告した三つのプログラムは、小さいけれども確かな「アート・ビオトープ」の芽を生み出した。この小さな芽がこれから大きく育まれていることを祈りたい。
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「アート・ビオトープ」という言葉は、
それ自体曖昧な「メディア・ビオトープ」という概念に、さらに曖昧な「アート」という言葉を重ねているので、
研究上はほとんど意味を持たない言葉です。

しかし、
もし、その言葉が、わたしがこれまで関わってきた中で考えてきたことを、その質感を損なわぬままに表す言葉であるとしたら、
それは、もしかしたら、ある一定の強度をもって、新しい活動(それがどんなに小さなものであろうとも)を開く原動力になるかもしれない。
そう思って、この言葉をそのまま使って、「あとがき」を書きました。

事実を明らかにしていくためには厳密に定義された概念と論理的な緻密さが必要ですが、それは誰もが知っている事実を「普遍的なもの」として提示するだけで、新しい活動を開く原動力にはなりません。

人間が新しい活動を開くために必要とするのは、「物語」であり「メタファー」であるとわたしは信じています。
「アート・ビオトープ」というメタファー、
そのメタファーから紡ぎ出される物語が、新しい活動を開いてくれるであろうことをわたしは期待したいと思います。

水戸芸術館というフィールドに関わりつづけた、ひとりの研究者として。

コミュニティづくり考:水戸芸術館現代美術センター教育プログラム「先生のためのツアー」

2008-03-20 22:45:24 | フィールド日誌
先日、水戸芸術館現代美術ギャラリーで行われた「先生のためのツアー」プレ企画に参加。
企画者側として参加していたのは、
芸術館の学芸員の方が3人と、
企画にかかわっているアーティストの方1人。
で、参加者である先生は3人で、
トーカーとして参加していた現職教員のT先生1人を含めると4人くらいなので、まあ企画者と参加者が半々というかんじだった。

こういう状況って、一般的に
「あまりに参加者が少なすぎて、企画として成り立ってない」と思われると思うのだけど、(実際、話し合っている中で、「7・8人」=「参加者が少ない」と語られる場面もあったので)わたしはむしろ、「コミュニティ」を作ろうとするなら、こういう状況こそ大切だよなぁ、と思ってしまう。

わたしたちは「学校」の状況に慣れすぎていると思う。
「一斉教授」というスタイルになれすぎていると思う。

だから、企画者側(=教える側)1に対し、参加者(=学習者)が少なくとも10以上はいないと、なんとなく「参加者が少なすぎるように思えてくる。
でも、「一斉教授」のスタイルでは、コミュニティが形成されない。
1対10だとあまりにも、バラバラな文化を持った個人の比率が多すぎて、コミュニティとして組織されにくい。
(もちろん、「コミュニティを作ろう!」という意識の高い人だったら何人集まろうとコミュニティは形成されるのだけど、通常、そこに集まる学習者はそんな意識ないからね)


「先生のためのツアー」という企画は、おそらく、まったくゼロのところから、企画者側の立案によってコミュニティを創出しようとする試みである。
少なくとも、わたしはそう思った。


そんなこと、理屈で考える人だったらまずやらない
これまでどれだけの学者が「若者の居場所づくり」を唱え、それに失敗してきたことか。
コミュニティを人工的に作り出すことは、「錬金術」に近い。
何もないところから、人間関係を作り出すことなんて果たして本当にできるのか?
その答えは、いまのところ、アカデミックな世界では見出せない。


でも、今ここで、その試みを手探りの感覚だけでやろうとする人たちがいる、というのはなんともスゴイと思った。
たまにアート作品を見ていると、
「わたしがここまで頑張って考えてきた理論を、軽くヒョイと乗り越えてしまうんだから、やっぱりアーティストってすごいよなぁ」と思うけど、まさにそんな感じ。

理屈では乗り越えられない壁を、実践家やアーティストがなんの気なしにヒョイと乗り越えてしまうことがある。

「先生のためのツアー」もきっと、そんなふうになる気がする。
とても楽しみだ。
わたしはいつも、長く長く腰を据えてフィールドで起こることの顛末を見守っているけれど、今回も、そうやって長く長くかかわりながら、「コミュニティ作り」の試みがどうなっていくのかを見守っていきたいなぁと思う。

文化系筋肉痛:「Artless Art in cafe」

2008-03-09 14:12:52 | フィールド日誌
今年も3月6日から、水戸芸術館で高校生ウィークが開始しました。

わたしは、今年もカフェ「1 to 1」のボランティアスタッフをすることになり、
6日から7日かけて、カフェスタッフをやってきました。

で、筋肉痛です。

このつながりがよくわからないと思いますが、
ともかく、今日も筋肉痛が続いています。しかも右腕だけ。
こんな筋肉痛、コンパニオンのバイトをしていたとき以来です。

・・・というのも、今年のカフェには、
「Artless Art in cafe」というワークショップ・コーナーがあって、
そこには水戸芸術館の裏にあるアートワークスギャラリで11日から開催される「Artless Art」展の出品作家20人の小(?)作品が並んでいるのです。

で、わたしのお仕事はお客様にご注文いただいた作品をお客様のテーブルまで、「カッコよく」「スマートに」(←ここ重要!!)お持ちすることなのですが、重い作品を重くないように「カッコよく」「スマートに」見せる・・・って、ものすごく筋力を使うことなのですよ。


しかも、また重い作品ばっかり頼まれるんだ。また・・・。


しかしそこは元演劇部、かつ、元コンパニオンのプロ根性。
顔色ひとつ変えず、ニッコリわらって、「カッコよく」「スマートに」お持ちしています。

そして、そんなことばっかりやっていたら、筋肉痛です。
・・・アホです。


あまりに頑張ってたせいで、
アートワークスギャラリーの方から頑張りを認められ、ギャルソン・エプロンを貸してもらっちゃいました!
これがまた、「kimsitevaさんがつけるとカッコイイ!」と大 好 評。
んで、誉められると簡単にのせられるわたし。

えー。そうですかー?やっぱりー?
・・・なんつって、「また頑張ろう!」と張り切ってしまうわけです。
ホント。バカとハサミは使いようです。

でもこの仕事、ある意味、「天職」。
今年は、高校生ウィークの調査がなくてホントよかったです。
楽しいー。楽しいー。毎日でもやりたい。(←忙しくて無理だけど)

・・・わたしってホントにアホやなぁ・・・。

【Workshop】(仕事場・作業場):高校生アートライター編集作業2

2008-03-03 19:59:46 | フィールド日誌
昨日、ついに「高校生アートライター」企画の最終ワークショップが終了した。
最後のワークショップは、「ワークショップ」というよりは、むしろ「仕事」と呼ぶほうがふさわしい作業で、
そういえば、英語で「workshop」とは「仕事場・作業場」を意味するのだったとあらためて思い出した。

編集作業を担当するのは、デザイン系の専門学校に通うりりーさん。
イラストを担当するのは、4月からアート系の専門学校に進学するまなみさんである。
編集の方針もその場にいる参加者たちで話し合って決める。
ギャラリーガイドのタイトルも自分たちで決める。
スタッフのやることと言えば、原稿をファイルに打ち込む手伝いと、
終わりの時間を告げるくらいであった。

まさに「作業場」=ワークショップである。

こうして、
はじめ、「教育プログラム」的な色彩が色濃かったこの企画が、「作業場」へとその色彩を変えるにつれ、
参加者は、少しずつ自分の「居場所」を見出していく。
わたし含め、企画側のスタッフも誰がどのようなことを得意としているのかがわかってくるし、参加者側も自分のできることをアピールしてくれるようになる。
自分がどんなことができて、どういうことがしたいのか、をさまざまなかたちで伝えてくれる。


レイブ&ウェンガーの「正統的周辺参加」論を持ち出さずとも、
「仕事」に関わる意味の大きさが、実感として伝わってくる。
「仕事」の場にかかわることで、人々は自分の役割=アイデンティティを見出していく。
「居場所づくり」とは、このようなプロセスを経て、
参加者が、その場に関わる自分のアイデンティティを見出すことなのではないか、とわたしは思う。

ただ受容的な他者がいるだけでは「居場所」は見出されない。
やはりそこには積極的な意味が必要で、その積極的な意味のためにはやはり「仕事」が必要なのだ。

そんなことを考えさせられたワークショップだった。

「居場所づくり」というテーマ:アートライター編集作業1

2008-03-03 19:52:10 | フィールド日誌
わたしの人生における大きな研究テーマのひとつは、
「居場所づくり」である。


「将来は建築士になる。いや、ならなきゃダメなんだ」と思っていた高校時代。
ある模試の日、なんとなく、
志望学科を「都市計画」と書いたことがあった。
それまで第一希望から第三希望の志望学科欄に「建築」以外の言葉が入ったことはなかったのに。

その模試の結果が出たとき、
当時通っていた精神科のカウンセラーにその模試結果を見せたら、
そのカウンセラーはそのことにいたく感動して、
「「都市計画」って書いたことを、大事に思わなきゃダメよ!」
・・・とわたしに言った。
そのカウンセラーにはめずらしく強い口調で。

当時のわたしはその意味がわからなくて、
気まぐれに違うところを書いてみたことのなにがそんなに大切なんだろう、と訝しく思いながら、家に帰ったのを覚えている。


「都市計画」と書いたとき、わたしの頭の中にあったのは、「公園」だった。
なんとなく「公園がつくりたい」と思った。
誰もがいていい公園。どんな人が来てもいいし公園。
いろいろな人が出会って、関係をつくりだしていく公園。

どんな人にでも「居場所」を提供してくれる公園。

今、考えると、自分の「居場所」づくりに疲れてしまったあの頃。
そんなユートピアを、「公園」という存在に重ねていたのかもしれない、とも思う。


その頃から、
「居場所づくり」は、わたしにとって、泣きたいほど切実なテーマなのである。


・・・「泣きたいほど切実なテーマ」という感覚は、理解してもらえないかもしれない。
研究は、そんなホットな感情でするものではない、と一般に考えられているから。
でも、わたしが向き合ってきたテーマは、常に「泣きたいほど切実なテーマ」だった。
他者との関係を結ぶ「ことば」というテーマも。
わたしたちの「現実」を作りだす「メディア」というテーマも。
どれも、わたしを深く傷つけてきたものだった。だから理解するために必死だった。


学位論文を書き上げることで、とりあえず、これまで自分を傷つけてきたものを整理することができた。
わたしが何に傷つけられてきたのか。
わたしはなぜ、傷つくのか。

これからは、わたしにとってのユートピアに向き合ってみたいと思う。
わたしが喉から手がでるほどほしかった「居場所」。
その「居場所」のつくりかたに、真っ向から向き合ってみたいと思っている。

「高校生アートライター」プログラムは、
わたしにとって「居場所づくり」とは何かを模索するための良い機会になっている。

わたしは、今、あらためて、「居場所」のつくりかたに取り組みたい。

らくがき万歳!:「有馬かおるのらくがき教室」

2008-02-16 16:31:25 | フィールド日誌
「まちの駅・みと」(水戸市南町三丁目)で開催していた、「有馬かおるのらくがき教室」に参加してきました。
【まちの駅×アート】プロジェクト

有馬かおるさんの「有馬」を「有間」と書き間違えて凹むこと複数回。
それでも、有馬さんの作品も、有馬さんがやろうとしていることも、
有馬さん自身も大好きなわたし。
有馬さんが教えてくれる「らくがき」なんて、こりゃ行くっきゃない!・・・とばかりにおしのびで水戸へGO!

「らくがき教室」でやる内容は、
有馬さんが描いた絵を見ながら、ダラダラと自分が扇子に描きたい絵を紙に書いてから、それを扇子に写す・・・と、至ってシンプル。

それまでに有馬さんが書いた絵の中で自分が好きなものがない場合は、
「カエルがいいんスけど・・・」と言えば、
(なぜか)その場で有馬さんが書いてくれる。
・・・で、それを真似して書いてみる。


至ってシンプル。


そんなわけで、できた扇子がコレ。
カエルの乗っている葉っぱがいろいろ間違ってる、これは蓮だから蓮、
・・・と有馬さんに指摘されましたが、
ソンナノ キニシナーイ。


これまでアート系のワークショップはいろいろ参加してきたつもりですが、
「らくがき教室」は、すごく、よかった。
アート系のワークショップってどうしても、
「みんな違ってみんないい」というところに落としどころを求めがちだけど、そうじゃないのが良かった。
有馬さんは、「これじゃ竹に見えん」とか「ハンコの位置はここがいい」とか、いろいろアドバイスしてくれるし、
「らくがき教室」に参加している人たちも、「これ灯台じゃなくて花火に見えるよー」とかいろいろ言ってくれる。

明らかに、「こっちのほうがいい」という方向性はあるんだけど、
それが単なる技術伝達とか、そうならなくて、
誰もが自分なりの基準で「こっちのほうがいい」と言える、そんな感覚の空間。


それはきっと、「らくがき」の本質が、
「誰かにその意味が通じる」という、そこだけに求められるからなのかもしれない。

その場にいる人に「カエル」に見えればそれは「カエル」だし、
「カエル」に見えなければ、それは「カエル」ではない。
誰もが、そのことについていろいろ言ったり、「こうしたほうがいい」と言うことはできるわけで、
有馬さんは、たまたま、「こうしたほうがいい」というそのレパートリーをたくさん持っているというそれだけに過ぎない。
それがすごく、いいなぁ、と思った。


そんなことを思っていたら、とても象徴的な出来事があった。

有馬さんが、参加者に求められて何枚もカエルのイラストを描いていたところ、
通りすがりのおじちゃんが、そのカエルの絵を一枚とりあげて、
「これ、あなたが書いたの?」
と、わたしを見た。
その場にいた参加者たちは爆笑。
有馬さんは「自分が書いたって言いたくない・・・(笑)」とちょっと下を向いて、笑っている。


いや、でも、本当に「らくがき」ってそんなものだし、
それだから、いいんだよね。
・・・と一人の「らくがき」好きとして思う。


「らくがき」はひとつのゆるやかであたたかな公共圏を作るよ。
らくがき万歳!!

アートをめぐるソーシャル・ネットワークづくり

2008-01-28 20:03:17 | フィールド日誌
先日、
わたしが関わっている「高校生アートライター」の第二回企画が行われた。

第一回目は、水戸芸術館でやっている展覧会を見てから説明会&顔合わせ。

第二回目の今日は、ワークショップである。

チラシに「アトリエ訪問&ワークショップ」とは書いてしまったものの、何をするかといろいろ考えた末に、3~5人くらいの小さいグループで、芸術館のまわりでアート作品の展示が行われている場所をまわることになった。
行き先の候補は、キワマリ荘、「遊戯室」(←キワマリ荘内にある)、アートワークスギャラリー、「まちの駅みと」、セントラルビルの5カ所。
このうち、1カ所か2カ所を、それぞれのグループでまわって、そこで出会ったアートについて紹介する原稿を書いてみよう!

・・・というのが今回の流れである。


本来の「ギャラリーガイド作成」に向けた中間段階という位置づけのせいで、
ハッキリ具体的な意図やイメージを持って行われたワークショップではなかったが、
かえってそれが良かったような気がする。
(もちろん集合時間から開始までのグダグダっぷりと、外歩き時間の少なさは反省)

実際にやってみて、
あとから、「ああ。これはこういう意味があったんだなぁ!」と気づく実践は多くあるが、まさに今回のワークショップはそんな感じだった。

ちなみに、わたし自身は、
すでに2時間のドライブ中、話に花をさかせまくったT大生2人(しかもうち一人は、nakaさん)、プラス、カフェ・スタッフ仲間のりりーちゃんという、かなり内輪な仲間で、
キワマリ荘の寒いこたつ(なぜか玄関先にある)にあたりながら、
有馬かおるさん(キワマリ荘オーナー)の話を、だらだら1時間近く聞きつづけて終わってしまったが、
なんだか、わたしは、それで満足だった。

まだ展示準備中のキワマリ荘では、展示準備を進める星さん(作家)が、
自分の作品をもってきて、ひとつひとつ手渡しで、からくり絵(?)やからくり絵本(?)の説明をしてくれた。
まだ、かけられる前の絵は、おそらく100円均一で買ったと思われる額に入れられていて、額にはでかでかと「315円」と書かれたシールが貼られていた。

有馬さんは「あっち(「まちの駅」から回ると思ったよー」といいながら、走って帰ってきて、ぜぇぜぇと息をならしながら、展示を案内してくれる。


わたしは、作家に直接会うことにあまり喜びを感じない人間であるし、
先日、森美術館で、「直接作家さんと会えて親しくお話できますよ!」とサポートメンバー会員を薦められたときには、心底、気持ち悪く思ったが、
それでも、こういうのはなんかいいなぁ、と思うのだった。


「作家に会えるから楽しい」、というのとは違うと思う。
そうではなくて、
これはもっとふつうに毎日感じているような「なんかいいなぁ」である。
案外、自分の住んでいるところの近くにおいしい店を見つけて
「こんなところに、こんなところがあったのかぁ」と思ったりとか、
あるいは、ブログでコメントもらったり、あるいはmixiで友達の輪が広がったり、
わたしだったら、「おもしろそう」と思える学会や研究会を見つけたりしたときとか、
そんなときに感じる、「なんかいいなぁ」である。

そう。
これは、自分にとって社会的なネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)が、ちょっと広がったときに感じる、そういう感覚。


そんなことを思っていたら、
参加者の高校生たちに書いてもらった原稿にも、
そういう「なんかいいなぁ」が示されたコメントがたくさんあって、この感覚がわたしだけのものでなかったことを再確認した。
セントラルビルにいったある高校生は、セントラルビルの中にある店でお気に入りのものを見つけて、それを「買ってしまいました!」と書いていて、
わたしは、その原稿を見て、「これだよ、これ。」と大きく頷いた。


水戸芸術館の「内側」でやることは、やっぱり、限界がある。
それは何かというと、「芸術館」「美術館」という枠組みそのものが、
来る人たちの心に、「作り手」対「受け手」という二項図式を刻印してしまうところにある。
美術ギャラリーの中に入れば、やっぱり白い壁がずーーっと続いているわけだし、そこに展示されているものたちは否応なく、「僕たちはアートですよー」「アートとしての価値があるんですよー」と主張してくる。
わたしたちは、そんな主張をする作品たちの前で、ただ自分が「受け手」であることを自覚し、作品たちの主張を受け入れるしかない。

でも、街という場所は違う。
そこは、逆に、そこを通る人たちが自分たち自身が勝手に意味をつくりだして良い世界だし、そういう勝手に作り出す意味こそが、「価値」と呼ばれる世界である。
「ユニクロ」は買い手がそれぞれ勝手に「自分らしさ」という意味を見出して、商品を購入する。
売り手が用意しているのは、さまざまな色のさまざまなデザインの洋服だけだ。
あの場所では、見る側=買う側の自分勝手な想像力だけが「価値」を作り出す。


気に入ったものだけ買えばいい。気に入らなければ買わなきゃいい。
そういう「価値」の作り方が、街にはあると思う。


そういう場所であらためて、アートに出会ってみることは楽しいことだし、
そういう社会的ネットーワークの広がりのひとつとして芸術館が位置づくことは、すごく健全なありかたのような気がする。
美術館が展示する権威ある作品の「信者」になるのではなくて、
自分のライフスタイルのひとつとして「そういう場所もあるよね」って言っていられることのほうがずっと大切だと思う。

少なくとも今回のワークショップには、
そういう意味があったかな、と文集を見ながら、そんなことを考えた。

「サービス・ラーニング」としてのアート・ライティング企画

2007-12-09 17:04:35 | フィールド日誌
昨日の初顔合わせ後のミーティングで、
あらためて、自分の教育・学習への見方を自覚させられた。
わたしは、「教える側」と「学ぶ側」が断絶しているという見方や、そういう断絶の中で学習が生じる、という見方にまったくリアリティを感じない人間である。
知識を持てる側=「教える側」と知識を持たない側=「学ぶ側」が完全に断絶した関係の中で、いったいどういうメカニズムで学習が生じうるというのだろう?
知識の受け渡し?
水のたくさん入ったビーカーから、空のビーカーに水を入れるようなものだとでもいうのだろうか?

わたしには、そのビーカーのメタファーをそのまま人間につなげることのできる人の現実感覚が理解できない。
さまざまな人には「知っていること」と「知らないこと」がそれぞれ別々に存在していて、そういういろいろな「知っていること」「知らないこと」を持っている人たちが集まって、なんとなくみんなが「知っていること」が増えて、新しい「知っていること」が作りだされて・・・と、そういうゆったりとした学習のプロセスしか想像できない。
だから、ともかくあるひとつの仕事のようなものに向かっていろいろな人たちが集まれば、そこで仕事に関わるさまざまな課題が行われる中で、学習が自然発生的に生じていくのではないかと思っている。
もちろん、そのコミュニティがきちんとコミュニティとして機能することが前提条件だけれども。

そういう見方をしているので、わたしがもしプログラムを立ち上げるとしたら、学習者は仕事をする「スタッフ」でなければならないと思っていた。
ともにある仕事の達成に向かうからこそその中で学べることがある。
「何かを教えたい」「何かを学んでほしい」という願いは脇に置いて、とにかく、学習が生じうるコミュニティをつくること。それこそが大切なことだと思うのだ。そしてそのコミュニティとは、仕事の達成に向かうコミュニティでなければならない。


いまさら自覚するのもおかしいのかもしれないけれど、
わたしは、「高校生アートライター」の企画を「サービス・ラーニング」(service learning)のようなものとして捉えているのだと思った。


【サービス・ラーニング(service learning)】
「サービス・ラーニングは、コミュニティ・サービスと教科学習をつなげ、アカデミックな学問を学ぶ社会貢献型の体験学習です。

1.地域のニーズを満たすこと(地域の課題解決をめざすこと)
2.アカデミックな学問としてサービスをカリキュラムに取り込むこと
3.生徒が考え、振り返る時間や機会を持つこと
4.クラスや学校を超えた地域と連動した学習の展開があること
5.他人を思いやりいたわる感性を養うこと
といった5つの要素が含まれることが必要だとされています。

近年米国では、「ユースパラドックス」とよばれる青少年の社会参加におけるパラドックス現象がおこっています。これは、青少年のボランティア活動の参加率が近年高くなっているものの、社会や学習への関心は著しく低くなっているというものです。このような青少年をめぐる社会背景から、米国で10年ほど前から注目をあび、着手されてきた学習法が、サービス・ラーニングです。」
世界の子どもネット公式サイト


「アートライター」はボランティア=仕事である。
これが、わたしの考えの中核だ。
だって高校生にギャラリー・ガイドを書いてもらうというのが、ひとつのコミュニティ・サービス(=仕事)であることは確かだし、そのために時間を割いてもらってボランティアで集まってもらっている。これも確か。
・・・そういう仕事に関わるひとたちが集まるコミュニティを作る、ということがわたしの当初の構想であった、とあらためて気づいた。

そう考えると、学校をはじめとした教育の場に今やっているプログラムを広げていく手がかりが見いだされてくるような気にもなる。
いまいち、まだハッキリと言葉にはできないけれど。

そうか。
だから、「アートに親しむ」とか「自分のアートの関わりを発見」とか、
そういう「教育目標」や「ねらい」のようなものを明言することに忌避感を持ってしまうのかもしれない。
だって、それを明言したところで何かが起こるの?

学びとは、
仕事に関わる中で、学習者が勝手に見いだしたり、経験したりするもの。
だからそこに関わりつづけること、参加しつづけることそのものが目指されてもいいはず。
わたしはあいかわらず、そういう教育・学習観を抱いているのだと、あらためて気づく。

アートライター初顔合わせ

2007-12-09 15:33:31 | フィールド日誌
以前告知した水戸芸術館での企画、
「高校生アートライター」の初顔合わせ(第一回ミーティング)が終わりました。

前日までかなり暗澹たる気持ちになるほどいろいろと悩み、信頼できる方に真摯に相談にのってもらった結果、今年はとりあえず「調査」という名目を捨てて、
ふつうに参加者として関わることにしました。


調査計画としては、予備調査の予備調査として位置づけられると思います。
どういうことが起こるのかを、参加者の目で眺めてみて、「こういうところが面白そう」「ここは調査せねば」と思ったところを来年(勝手に来年もこの企画があることを想定している)調査したり、あるいは、今年できそうなら最後にインタビューさせてもらったりしちゃおうかな、・・・とそんな勢いで企画に参加しています。
そのほうがその場に参加している人のまなざしに近いまなざしで物事を見られるようになるので、まぁ、あせることはないかな、と。
そういう結論です。


毎日のほほんとした記事を書いてはいますが、
それでも実は博士論文が佳境中の佳境に入っていて、今日も大学に来て博士論文(修正)5部の印刷をしています。
12月25日には修正論文の通過可否を決定する審査会があって、
それでOKが出るといよいよ1月中旬までにまたもや5部印刷して、書類をきっちりそろえて本審査論文を提出です。
それが終わって、次に博士論文の本審査があって、ようやくそれで終了。
とりあえず、それが終わるまではギッチリそちらに専念していなければなりません。


なので、とりあえずフィールド調査はお休みにしました。
企画者、兼、参加者として参加するので精一杯です。
あとは落ち着いてから考えます。


そんなわけで昨日は初顔合わせだったわけですが、
見事、高校生の女の子ばかり20人!
思春期から青年期にかけての女の子ってどうして、ああ、面白いんだろう?といつも不思議に思います。
しかも女の子ばかりの集まりだったので、余計におもしろい。
女子校みたいな楽しさがあります。

展覧会で展示されているパレット(ロボット)を見ながら、
「あれって希望によって胸の大きさ変えたりするのかなぁ?」
「Fカップとか?」
「でも男の人が一番好きなカップはCカップらしいですよ?」
「えー。でもあれ(パレット)ってCはないよねぇ。Bくらい?」


・・・なんて話が出るのも女の子だけの集団ならでは、って感じです。


現代美術ギャラリーに来なれている人も、そうでない人も、
友達同士で来たひとも、一人で来たひともいたけれど、
みんなそれぞれに自分の文脈で、適当にその場にいる人や展示してあるモノを利用しつつ、楽しんでいたのが、すごく不思議でした。


初めから、「アートを前にいろいろお話しましょう」という声がけをしたチラシだったからでしょうか。
水戸芸術館現代美術ギャラリーの「おしゃべりしながら鑑賞しましょう」という風土が共有されている人たちが集まった不思議なコミュニティでした。

また次の集まりがすごく楽しみです。