昨日の初顔合わせ後のミーティングで、
あらためて、自分の教育・学習への見方を自覚させられた。
わたしは、「教える側」と「学ぶ側」が断絶しているという見方や、そういう断絶の中で学習が生じる、という見方にまったくリアリティを感じない人間である。
知識を持てる側=「教える側」と知識を持たない側=「学ぶ側」が完全に断絶した関係の中で、いったいどういうメカニズムで学習が生じうるというのだろう?
知識の受け渡し?
水のたくさん入ったビーカーから、空のビーカーに水を入れるようなものだとでもいうのだろうか?
わたしには、そのビーカーのメタファーをそのまま人間につなげることのできる人の現実感覚が理解できない。
さまざまな人には「知っていること」と「知らないこと」がそれぞれ別々に存在していて、そういういろいろな「知っていること」「知らないこと」を持っている人たちが集まって、なんとなくみんなが「知っていること」が増えて、新しい「知っていること」が作りだされて・・・と、そういうゆったりとした学習のプロセスしか想像できない。
だから、ともかくあるひとつの仕事のようなものに向かっていろいろな人たちが集まれば、そこで仕事に関わるさまざまな課題が行われる中で、学習が自然発生的に生じていくのではないかと思っている。
もちろん、そのコミュニティがきちんとコミュニティとして機能することが前提条件だけれども。
そういう見方をしているので、わたしがもしプログラムを立ち上げるとしたら、学習者は仕事をする「スタッフ」でなければならないと思っていた。
ともにある仕事の達成に向かうからこそその中で学べることがある。
「何かを教えたい」「何かを学んでほしい」という願いは脇に置いて、とにかく、学習が生じうるコミュニティをつくること。それこそが大切なことだと思うのだ。そしてそのコミュニティとは、仕事の達成に向かうコミュニティでなければならない。
いまさら自覚するのもおかしいのかもしれないけれど、
わたしは、「高校生アートライター」の企画を「サービス・ラーニング」(service learning)のようなものとして捉えているのだと思った。
【サービス・ラーニング(service learning)】
「サービス・ラーニングは、コミュニティ・サービスと教科学習をつなげ、アカデミックな学問を学ぶ社会貢献型の体験学習です。
1.地域のニーズを満たすこと(地域の課題解決をめざすこと)
2.アカデミックな学問としてサービスをカリキュラムに取り込むこと
3.生徒が考え、振り返る時間や機会を持つこと
4.クラスや学校を超えた地域と連動した学習の展開があること
5.他人を思いやりいたわる感性を養うこと
といった5つの要素が含まれることが必要だとされています。
近年米国では、「ユースパラドックス」とよばれる青少年の社会参加におけるパラドックス現象がおこっています。これは、青少年のボランティア活動の参加率が近年高くなっているものの、社会や学習への関心は著しく低くなっているというものです。このような青少年をめぐる社会背景から、米国で10年ほど前から注目をあび、着手されてきた学習法が、サービス・ラーニングです。」
(
世界の子どもネット公式サイト)
「アートライター」はボランティア=仕事である。
これが、わたしの考えの中核だ。
だって高校生にギャラリー・ガイドを書いてもらうというのが、ひとつのコミュニティ・サービス(=仕事)であることは確かだし、そのために時間を割いてもらってボランティアで集まってもらっている。これも確か。
・・・そういう仕事に関わるひとたちが集まるコミュニティを作る、ということがわたしの当初の構想であった、とあらためて気づいた。
そう考えると、学校をはじめとした教育の場に今やっているプログラムを広げていく手がかりが見いだされてくるような気にもなる。
いまいち、まだハッキリと言葉にはできないけれど。
そうか。
だから、「アートに親しむ」とか「自分のアートの関わりを発見」とか、
そういう「教育目標」や「ねらい」のようなものを明言することに忌避感を持ってしまうのかもしれない。
だって、それを明言したところで何かが起こるの?
学びとは、
仕事に関わる中で、学習者が勝手に見いだしたり、経験したりするもの。
だからそこに関わりつづけること、参加しつづけることそのものが目指されてもいいはず。
わたしはあいかわらず、そういう教育・学習観を抱いているのだと、あらためて気づく。