わたし、看護学校で「論理的思考」「論理学」という授業を担当しています。
看護学校で、なぜ、「論理的思考」?
…と、いぶかしがられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし現在では、看護師の研究的姿勢や「証拠に基づいた」(Evidence Based)看護のありかたが強く求められているのです。
「証拠に基づいた医療」(Evidence Based Medicine)ならわかるけど、「証拠に基づいた看護」ってなんでしょう?
この場合の「証拠」というのは、患者さんの気持ちや考え方、そして状態など、ケアの場の中で見出される「証拠」であることが多いようです。
そのため、看護の世界では、質的な研究のありかたに関する議論が早くから議論されてきました。
こう考えると、看護学校での「論理的思考」「論理学」という授業の中で教えるべき内容が見えてきます。
つまり、
①既存文献や調査でわかっている情報と、②自分が体験した個別具体的な状況をてらしあわせて、自分なりに、看護計画を立てることができるような道筋のつくりかたを教えればいいわけです。
一番、大切なことは、「証拠」を①と②とにわたって、いろいろなところから集めて、照合させること。
既存の文献や調査から言えることだけでは不十分だし(看護師が相手にするのは個別具体的な個人だから)、自分が体験的に得た患者に関する情報だけでは先の見通しを立てられない。
「論理的」であること、とは、すなわち、「証拠に基づいて何かを考えること」と言い換えてもいいくらいなのです。
そんなことを思っていたので、
広く「証拠」(Evidence)を集めようともせず、
自分が一度見聞きしたことのある文献に書かれた情報を繰り返すだけのような議論をして、
自分を、「論理的」だと思っている人間がいることに驚愕いたしました。
「論理的思考」は、「証拠に基づく」という中核の精神を失ったら、
ただの言葉遊び、言葉のゲームに収支してしまいます。
三段論法のパロディなんて腐るほどあります。
そんなパロディめいた言葉のゲームを繰り返すことの中に「論理的思考」の精神なんて、一切ない、とここで断言しておきます。
「ディベートなんてちっとも面白くないし、
それで、論理的思考が身につくようなもんでもないよねぇ…。」
…と昨年の今頃、パートナーとこんな話をしていたことを思い出します。
相手をBeatする時代はもう終わりだよ。
いろいろな立場がある中で、それらを認めながら、どうひとつの結論を導き出していくか。
そういうことのほうが、この共生の時代には求められてる。
そうでなければならないし、
そうであってほしい。
看護学校で、なぜ、「論理的思考」?
…と、いぶかしがられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし現在では、看護師の研究的姿勢や「証拠に基づいた」(Evidence Based)看護のありかたが強く求められているのです。
「証拠に基づいた医療」(Evidence Based Medicine)ならわかるけど、「証拠に基づいた看護」ってなんでしょう?
この場合の「証拠」というのは、患者さんの気持ちや考え方、そして状態など、ケアの場の中で見出される「証拠」であることが多いようです。
そのため、看護の世界では、質的な研究のありかたに関する議論が早くから議論されてきました。
こう考えると、看護学校での「論理的思考」「論理学」という授業の中で教えるべき内容が見えてきます。
つまり、
①既存文献や調査でわかっている情報と、②自分が体験した個別具体的な状況をてらしあわせて、自分なりに、看護計画を立てることができるような道筋のつくりかたを教えればいいわけです。
一番、大切なことは、「証拠」を①と②とにわたって、いろいろなところから集めて、照合させること。
既存の文献や調査から言えることだけでは不十分だし(看護師が相手にするのは個別具体的な個人だから)、自分が体験的に得た患者に関する情報だけでは先の見通しを立てられない。
「論理的」であること、とは、すなわち、「証拠に基づいて何かを考えること」と言い換えてもいいくらいなのです。
そんなことを思っていたので、
広く「証拠」(Evidence)を集めようともせず、
自分が一度見聞きしたことのある文献に書かれた情報を繰り返すだけのような議論をして、
自分を、「論理的」だと思っている人間がいることに驚愕いたしました。
「論理的思考」は、「証拠に基づく」という中核の精神を失ったら、
ただの言葉遊び、言葉のゲームに収支してしまいます。
三段論法のパロディなんて腐るほどあります。
そんなパロディめいた言葉のゲームを繰り返すことの中に「論理的思考」の精神なんて、一切ない、とここで断言しておきます。
「ディベートなんてちっとも面白くないし、
それで、論理的思考が身につくようなもんでもないよねぇ…。」
…と昨年の今頃、パートナーとこんな話をしていたことを思い出します。
相手をBeatする時代はもう終わりだよ。
いろいろな立場がある中で、それらを認めながら、どうひとつの結論を導き出していくか。
そういうことのほうが、この共生の時代には求められてる。
そうでなければならないし、
そうであってほしい。