KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「論理的思考」の精神:Evidence-Based…

2007-03-29 10:46:17 | 研究
わたし、看護学校で「論理的思考」「論理学」という授業を担当しています。

看護学校で、なぜ、「論理的思考」?
…と、いぶかしがられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし現在では、看護師の研究的姿勢や「証拠に基づいた」(Evidence Based)看護のありかたが強く求められているのです。

「証拠に基づいた医療」(Evidence Based Medicine)ならわかるけど、「証拠に基づいた看護」ってなんでしょう?
この場合の「証拠」というのは、患者さんの気持ちや考え方、そして状態など、ケアの場の中で見出される「証拠」であることが多いようです。
そのため、看護の世界では、質的な研究のありかたに関する議論が早くから議論されてきました。

こう考えると、看護学校での「論理的思考」「論理学」という授業の中で教えるべき内容が見えてきます。
つまり、
①既存文献や調査でわかっている情報と、②自分が体験した個別具体的な状況をてらしあわせて、自分なりに、看護計画を立てることができるような道筋のつくりかたを教えればいいわけです。

一番、大切なことは、「証拠」を①と②とにわたって、いろいろなところから集めて、照合させること。
既存の文献や調査から言えることだけでは不十分だし(看護師が相手にするのは個別具体的な個人だから)、自分が体験的に得た患者に関する情報だけでは先の見通しを立てられない。
「論理的」であること、とは、すなわち、「証拠に基づいて何かを考えること」と言い換えてもいいくらいなのです。


そんなことを思っていたので、
広く「証拠」(Evidence)を集めようともせず、
自分が一度見聞きしたことのある文献に書かれた情報を繰り返すだけのような議論をして、
自分を、「論理的」だと思っている人間がいることに驚愕いたしました。


「論理的思考」は、「証拠に基づく」という中核の精神を失ったら、
ただの言葉遊び、言葉のゲームに収支してしまいます。
三段論法のパロディなんて腐るほどあります。
そんなパロディめいた言葉のゲームを繰り返すことの中に「論理的思考」の精神なんて、一切ない、とここで断言しておきます。


「ディベートなんてちっとも面白くないし、
それで、論理的思考が身につくようなもんでもないよねぇ…。」
…と昨年の今頃、パートナーとこんな話をしていたことを思い出します。

相手をBeatする時代はもう終わりだよ。
いろいろな立場がある中で、それらを認めながら、どうひとつの結論を導き出していくか。
そういうことのほうが、この共生の時代には求められてる。
そうでなければならないし、
そうであってほしい。

探究心と研究倫理の間:「人体の不思議」展問題

2007-03-26 20:10:50 | ニュースと政治
「人体の不思議」展の倫理的な問題性が、
クローズアップされているようですね。

あまりに情報が錯綜しているし、
散見する限り、決定的に「事実」といえるような情報が不足しているので、
なんとも言いかねるところがあります。

一番、争点となっているのは、
どの時点でどのような了解を得たことを「本人による同意」と言っているのか、
というこの点なのでしょうか。
当然、死体となる時点で、「日本で展示されますよー」なんてことは言うはずもないでしょうから、論点は「死後の利用は自由」のような曖昧な「同意」が、死体の展示を許すか、許さないか、というこの点にかかってくるんじゃないかと思います。
当然、その「同意」を確認する時点で、「展示される」なんて想像を本人も家族もするはずないですから。そういう当事者の思いを汲み取れば、当然「同意に反する」わけだし、文章の文言だけを解釈すれば「同意にあたる」ということになるんでしょうね。
…まったくわたしの想像でしかありませんが。
(どういう「同意」がなされていたのかが、きちんと開示されないってことは、そういう解釈の曖昧さすらない「同意」だったという可能性もありますね。)

あとの議論…
例えば、「死体は尊厳を持って扱うべき」という議論や、「日本の法律では死体をあのように展示することはできないのに、中国人だからといって使うのは問題だ」という議論は、議論を行う立場によっていろいろな意見が出されるようなものですが、
これだけはちょっと性質が異なる論点かな、と思います。


これに関して、
「人体の不思議」展の主催者のページと、
それを批判する会のページの両方を見ていて思ったことは、
真実を探求したいという心と人間に関わる倫理的な問題というのは、最後まで相計れないものなのだなぁ、ということでした。


自戒をこめて言いますが、わたしもたまに、
「こんな面倒な手続き、なんの意味がある。別に問題は生じないに決まってるのに」と思ってしまうことがあります。

わたしがやっている調査は、
そんなに深く人間の生死や人間の尊厳そのものに深くかかわるような調査だと思われることがあまりないため、
実際、学校の先生なんかに、同意書をとりにいったりすると、
「そんなもの、いらないから」と言われたり、
ちょっと面倒くさがられたりすることもあります。
そういうことを繰り返していると、
「本当にどうでもいいのかな」という気になってくる。
ただただ、人に迷惑をかけているだけなのかな、という気になってくるわけです。


それでも、わたしがしつこく、同意書をとっているのは、
なによりも、自分自身のためです。
自分自身をしばるためです。

事実を知りたい。すばらしい現象を多くの人に紹介したい、と思う気持ちは、研究者であれば、誰しもが持っているはずです。
その誘惑はあまりに魅力的で、
だから、一歩間違うと、平気で人を傷つけたりしてしまうこともある。
わたしは、それが、怖いのです。

だから、自分をしばる道具として、「同意書」を利用しているというかんじです。
もちろん、「同意書」なんて最低ラインの倫理しか保証してくれませんから、
そこは慎重になっていく必要があるのだけど、
それでも、その「最低ライン」があるとないとでは、大きく違うと思うのです。

今回の問題を見ていて、
あらためてそのことを思いました。

実際の死体を用いた人体模型に触ることによって、得られる経験の重みは、
はかりしれないほど大きいでしょう。
それによって、わたしたちは、人体の真実に触れることができる。
だけど、「真実を広める」「真実を探求する」ということだけが目的化した結果、見落とされてきたことがあるのだと思います。
それが今、クローズアップされている。
そういうことなのだと思います。

真実を知りたいという誘惑はあまりに大きい。
そして、そういう探究心は無批判に賞賛されてしまう。
だからこそ、怖い。
だからこそ注意深くならなければいけないのだと、あらためて思います。

ワタシハ カンペキ ダー!!

2007-03-26 11:16:32 | わたし自身のこと
わたくし、言わずと知れた強迫神経症です。

ゴチャゴチャに集められたビーズの仕分けとか、
転がった無数のビンをすべてきちんと立てていく作業とか、
グチャグチャした文章をきちんと整理していく作業とか、
…大好きです。

こういう人間は、小論文の赤ペン添削に向いていると思います。
わたしの専門学校での仕事は、まさに、天職!

グチャグチャだった小論文が、
赤ペンで添削いれたあとに、スーッと筋のとおる清書で返ってきたりすると、
とてつもない恍惚感が味わえます(変)
しかも、なぜか(?)生徒たちにも感謝されます。
まさに一石二鳥!

それはともかく、
昨日、数日ぶりに実家から帰ってきたら、台所の電気がつけっぱなしでした。

が がががーーーん ! !

こういうとき、強迫神経症の人間はパニックに陥ります。

なぜだ!なぜだ!なぜだ!!
わたしの何が悪かったんだー!!

そして自分への不信感のデフレスパイラルです。

やっぱりわたしなんて信用ならないんですよぉぉ。
わたしは、カンペキじゃないんだぁぁ…。

そして外に出られなくなったりします。

ああ。いつになったらわたしはカンペキになれるのか。
いつもいつもいつも、

「ワタシハ カンペキ ダー!!」

と振り付けつきで言ってはみるものの、まったくカンペキになれません。
…こういう人間は、統計調査には向いていません。

「君のことが好きだ」

2007-03-25 14:39:49 | 趣味
現在、再び、高校生のために脚本の脚色をしています。
20人くらい出演する予定の脚本を、5人芝居に書き直すのだから、
さあ大変!
リフォームのつもりでいたのに、隣に家を建てていました!…という前回のような過ちに陥らないように気をつけます。

さて、
「君のことが好きだ」
…なーんて、脚本に書いたらおしまいだね、
と思っていたのですが、
つい、さっき、どうしようもなくなって書いてしまいました。

「好き」という気持ちを、
「好きだ」という言葉で表すようじゃ、作品としてはまずいよなぁと思いつつ、
そんなストレートな表現でしか、
表せないものもあるんじゃないかと思う今日この頃です。

言い訳はしないよ。
そう書くことでしか、表現できないことがあったんだから。


それにしても、今回の元脚本は、あまりにキュートな青春モノなので、読んでいてたまに恥ずかしくなってしまいます。
そんなわけで、それを自分なりに消化しつつ書くと、どんどん、ボーイズラブになっていくという悪循環。

とにもかくにも、がんばります。

やさしさの実感

2007-03-24 16:39:20 | わたし自身のこと
以前、どうしようもなく落ち込んだときがあって、
誰のまなざしも意識することなく、
その気分をぶつけるかのような文章を書いてしまいました。

落ち込んだときというのは、不思議なもので、
自分では見えているつもりでも、実は何も見えなくなっているようです。
実は、目を閉じている。
それまで開いた目を自ら閉じているのに、自分で「見えている」と暗示をかけているようなものです。

わたしの場合、こういうときに心配してくれる方がいて、
そのことをとても幸せだと思います。

心配してくれる人の存在、
気にかけて声をかけてくれる人の存在は、
わたしが目を閉じている…というその事実に気づかせてくれます。


そういえばあるとき、
自分が現在いる研究室に自分の居場所が見出せなくなったときがありました。
(一般的に見ても、国語教育学という分野にわたしの居場所が「ない」ことは明らかなのですが(笑))
「もうダメだ。明日から研究室に来るのはやめよう」と決意して、担当教官T先生に、「精神状態を崩したのでしばらく学校休みます」…のような文面のメールを書きました。
メールを書いて、送信して、
PCをシャットダウンして、荷物を片付けて帰ろうとしたそのとき、
T先生がかけこんできて、
「大丈夫か!」と第一声。

たったこれだけのことですが、
そのおかげで、わたしは次の日も研究室に来ることができました。
別にそのあと、きちんと相談したわけでもなんでもないのです。
でも、そういうやさしさを実感する出来事が、わたしには必要だったんだと思います。

今のわたしが生きていられるのは、
「もうダメだ」と思ったそのときに、
やさしさを実感させてくれる人が、周囲に存在してくれているからだということは、間違いないと思う。

今回も、そんなことを実感しました。
わたしは、本当に、幸せだね。

コミュニケーションへの不信感

2007-03-23 14:29:45 | 趣味
昨日は、我が母校が年に一回行う芸術系部活動の発表会でした。
この日は、学校から徒歩10分くらいのところにある公民館のホールを午前中の間かりきって、学校内に設置された芸術系(演劇・音楽)の部や同好会が舞台に立ち、全校生徒の前で公演を行います。

演劇部はトリをつとめます。
(もともとは演劇部が公演するだけの企画だったことも関係ているのでしょう)

今回の公演では、うちの主役をやる女の子が、
発表会出演団体全5団体のうち3団体に出演していたため(すごい話だ)、いろいろとバタバタいたしましたが、どうにか無事に(?)公演を終えることができました。
よかったよかった。パチパチパチ。


それはともかく、
わたしの母校の生徒たち…今年観客として参加していた生徒たちの間には、恐ろしいくらい、コミュニケーションへの不信感が蔓延しているような気がします。

実をいうと、心からぞっとしてました。

「頭が悪い」とか「想像力がない」とか、
そういう…いわゆる「若者批判」で言われているような、いろいろな批判の仕方はあるのかもしれません。
でもそういう「すっぱいブドウ」のような合理化を全部無効にしてみたとき、最後に残るのは、やっぱり、コミュニケーションへの不信感の蔓延なんじゃないかと思います。


具体的に何がいいたいかというと、
自分たちから、そこで生じるコミュニケーションに参加しよう、と歩み寄ってくれる姿勢を、ひとつも感じられないのです。

ヴィトゲンシュタインは、あらゆる言葉のやりとりが、教える-教えられるという関係であることを論じました。
コミュニケーションは、そのコミュニケーションを成立させている言語的な慣習やきまりを教え、教えられることをともなう中で成立していきます。
はじめから、きまりきったひとつのルールが存在しているわけではない。
コミュニケーションへの参加の中で、そこで展開する教える-教えられるという関係のなかで、わたしたちはそこにある慣習やきまりの中に生きられるようになるわけです。


でも、そのコミュニケーションに参加する気がなかったら?
もちろん、永遠に理解不可能なままです。
コミュニケーションの断絶は解消可能ですが、コミュニケーションへの不信感はもはやどうしようもない。
そもそもの関係性が成立しないのですから。


「わからない」「理解できない」という言葉が、そういう関係性の拒否の中で、使われているところに、わたしは一番、落ち込みました。

「そもそも参加する気はないんだからさ。
だから、よほど丁寧にわかりやすくしてくれなきゃ、知らないよ。」
…そう言っているように聞こえるのです。


そういえば、
水戸芸術館で行った高校生の鑑賞教育の中で、
「「俺は芸術はわからない」という言葉は嫌いだ」といっていた高校生がいました。
わたしが今いいたいことも、きっと彼が感じている苛立ちと同じことなのだと思います。彼が苛立ちを感じている「芸術はわからない」という言葉は、自分の現在の記述ではなく、コミュニケーションへ参加することへの拒否でしょう。

はじめから拒否していたら、コミュニケーションは成立しない。
それを「わからない」ということで、相手のせいにしている。
…そういう事態は、現実に存在していると思うのです。
特に、芸術は特殊なコミュニケーション形態ですから、そういう事態に直面することも多いのでしょう。


「わかりあいたい」という欲求をなくしたとき、
人間はいったいどうなってしまうのだろう、と思います。
わたしたちは、永遠に、一人一人のシェルターの中で生きるようになるのでしょうか。

ことばの肌理:大文字のことば・小文字のことば

2007-03-21 21:11:59 | フィールド日誌
「ことばには肌理がある」というのを初めに聞いたのは、
わたしの尊敬する臨床哲学者・鷲田清一氏の本の中でした。

確かその本は、「現代思想の冒険者たち」のシリーズの中の
『メルロ・ポンティ』だったと思います。
(もしかしたら違ったかもしれません)
実をいうと、わたしはこの本をすべて読破したわけではありません。

わたしの研究なんて意味ない、とか、
わたしの言いたいことなんて誰も理解してくれない、とか、
…そんな研究上での孤独感を感じたときに、
パラパラとめくっているだけです。

だけど、わたしは何度、この本に支えられたか、わかりません。
鷲田先生は、メルロ・ポンティの言葉の肌理をとても大切にしていますが、鷲田先生の著書に書かれる言葉の肌理も果てしなくおだやかで、やわらかくて明るいのです。
パラパラと数ページめくっただけで、なんとなくわたしが孤独から救われたような気になるのも、そういうことばの肌理のおだやかさややわらかさが、その本の中すべてにいきわたっているからです。


わたしがふだん書いている「論文」という表現媒体には、
「アカデミック・リテラシー」と呼ばれるようなさまざまなきまりや慣習があります。
そこで要求される言葉は、かたくて、しかも、閉鎖的です。
だから、わたしはそういうものがあまり好きではないのです。
いつもこっそり、日常使うようなポップな言葉を入れて、
担当教官に「言葉がやわらかすぎる」とか「言葉がポップすぎる」とか指導を受けたりします。
それでも、その中のいくつかは、そのまま論文に残っていたりして、
後から見ると、とてもうれしくなります。


わたしはこういう、理論武装して戦うためのかたくて閉鎖的な言葉を「大文字の言葉」と呼んでいます。
「大文字の言葉」を持ち出されると誰も逆らえない。
「大文字の言葉」があまりに閉鎖的で強い力を持つから、誰もそこに意見を言うことができない…そんな言葉です。
だけど、「大文字の言葉」は強くてしっかりしている(ように見える)から、「大文字の言葉」は人を弾きつけます。
まるで何かの目印になっている旗のように、人はそこに集まります。
そういう意味で、「大文字の言葉」は、広い意味での政治に関わる人にとって、とても便利で有用な言葉です。


でも、わたしはそういう言葉に抗っていたいと思う。
どんなに小さくてもいい、弱くてもいい。
ほんの少しの人にしか認められなくてもいい。
だけど、どこかで誰かを幸せにする言葉をつむぎだしていたいと思うのです。
世界の片隅で、ほんの少しずつ、世界が変わっていくようなそんなイメージ。
そんな小さな世界の変革を、小さな言葉で作り出していきたいと思うのです。



水戸芸術館という場所にいて、ずっと感じていたことはそんなことでした。


アートをめぐる「大文字の言葉」は、
わたしたちの周囲を取り囲んでいて、
わたしたちは身動きがとれなくなっていくような…そんな不安を感じます。


でもそれに小さな力で対抗する人たちも確実に存在する。
小さな言葉の生成を支援したり、
小さな価値観を賞賛したり、
そういうことで、「小文字の言葉」の存在を可能にしている。


一昨日、休みを利用して『マイクロポップの時代:夏への扉』(パルコ出版)のカタログを読みました。

カタログに書かれている松井みどり氏の作品批評の文章を見て、
自分のことばが失われていくのを感じながら、
それでも、
泉太郎さんのことを「愛おしい」と書いたわたしの幼い文章は、
間違いなく、松井みどりさんの手元に、簡易なコピー誌のかたちではあるけれど、残されたのだなぁと思う。

そう考えると、自分のことばがこの世界の中にきちんと消えることなく存在できたような気がして、ちょっとうれしい。


少なくとも、この世界の中に、何かかたちあるものとして、
わたしや高校生の言葉が存在しているということ。
消えないまま、誰かの手元に届いているということ。
それって、すごくすごく、意味のあることじゃないかなぁ。

常磐線内の「ささやかな抵抗」

2007-03-12 19:26:01 | わたし自身のこと
TMライナーという便利で人気のない乗物の本数が激減してしまったため、
現在、水戸芸術館に通うために常磐線を利用している。

この前、常磐線の人気のない車内で揺られながら、
ぼーっと前の扉を見たら、
あまりにも小さな、ささやかな抵抗が電車のドアに施されているのを見つけた。

ドアにシール(テープ?)が貼られている。
ドアが開いたらどうなるのだろう…と、ちょっとだけドキドキする。


ドアが開く。


当然、はがれる…が落ちない。
うまく、それぞれのドアに片側だけ粘着して、
またドアが閉まると、もとのようにドアの分け目にシールが貼られているように見える。

でもきっと、初めにはった人は、電動で動くドアに対し、ささやかな抵抗を試みたに違いない。
そして、わたしより、もっとドキドキしたに違いない。

「ドアが開いたらどうなるんだろう?」


そんな常磐線内のささやかな抵抗のお話。

学校のちょっとした都市伝説

2007-03-11 14:21:28 | フィールド日誌
以前、博士論文の草稿を書き上げて、ちょっと時間があったときに自分のこれからやってみたい研究をリストアップしていた。
水戸芸術館の調査や、文化系部活動の調査、
日本のオタク文化やマンガ・アニメ文化をめぐる人々の調査は当然継続してやっていきたいというのはあるのだが、
これ以外に、是非ともやってみたい…が、まったく手をつけていない調査というのがある。

それが、「学校の噂」「学校の怪談」などいわゆる学校をめぐる都市伝説の調査である。

そもそもわたしは小学校の頃から、都市伝説が好きだ。
小学校2年生から4年生にかけて、夏休みの自由研究は、ずっと「学校の怪談」だった。(5年生になると理科で「星座」を習うので、自由研究の内容は星座をめぐる伝説・神話になった。…進歩がない(汗))
教育学や発達心理学で学校の都市伝説調査がちょこちょこ初められているが、「トイレの花子さん」と「口裂け女」(佐倉市に出没しているらしい)「人面犬」「高速ババァ」についてわたしほど詳しいものはそれほどいないと思われる。

H大の国語教育学の先生のブログでも述べられていたが、
学校の都市伝説は、子どもたちが自分たちの言葉で、学校を意味あるようなもの、ワクワクしたものにするような物語を生成する様子を明らかにしてくれていると思う。
学校の都市伝説の急激な減少と、現代の子どもたちの学校はなれは軌を一にしているんじゃないかと、本気で思っている(実証されてはいないが)。だって実際、わたしは小学校の頃、楽しかったのだ。
5年生の階のトイレにある、トイレの奥から3番目には何があるんだろう?とか、学校に夜入り込んだら、何が起こるんだろう?とか、そんなこと考えていると、学校は怖くもあり、おもしろくもあるワクワクした空間に見えていた。

「何かありそう」というワクワクした気持ち、それはその場所をとても魅力的なものにする。


…フィールド日誌でなんでこんなことを書いているかというと、昨日、小学生の女の子たちがこのようなかたちで場所を意味づける場面に出会ってしまったからだ。小学生(小学生だけではないが)は、よくわからないものから、都市伝説をつくりあげる。「何かありそう」が「絶対、何かある」になり、そこから物語=都市伝説が作られる。

前述したが、この「何かありそう」という気持ち、そこに付随するワクワク感が、場所に人をひきつける魅力だとわたしは思う。
そうだとしたら、このようなかたちで、物語=都市伝説が生まれる水戸芸術館のカフェはすばらしい場所だといえるのではないだろうか。

…とこんなかたちでキレイにまとめればフィールドノートだけで十分なのだが、
ことはそう単純にはいかない。

フィールドには紛れもなく調査者=わたしが存在する。
何度も言っているが、「調査者は壁の上のハエにはなれない」。
そう。調査者がちょっとした学校の都市伝説になることだってあるのだ。
もちろん、「都市伝説」というにはひっそりとした小さな物語ではあるけれど。


昨日、「楽書掲示板」コーナーで久々にイラストを描いていたら、
隣に座っていた小学6年生の女の子が、突然、

「…ねえ、マンガ家なんでしょ?」

と期待に満ちた瞳をして、声をかけてきた。
聞くと、どうやらカフェの常連である同じ学校の女の子が、「カフェにマンガ家がいる!」と彼女に言っているらしい。

他人の期待に沿いたい一心のわたしである。
これは、かなりつらい。

「そんな、ワクワクした期待のまなざしでわたしを見ないでくれ!
 おねーさんは、ヤオイ同人はやるけど、それは本当に趣味なんだっ!しかもどっちかっていうと小説派!そして最近は読み専!」
…なんて言ったところで通じるはずがない。

そこで苦笑して、
「うーん。マンガ書けば誰でもマンガ家ってわけじゃないからねぇ…」
とよくわからない曖昧なことを言ってみる。

しかし、これは明らかに逆効果だった。
彼女はまったく納得したそぶりを見せず、「だってここくれば、マンガ家がいるって言ってた」といって、わたしが描いたイラストを見る。そして…

「超うまーーい。」


…しまった…!!
曖昧なことを言ったために、余計に確信を深めてしまったっっ!(ような気がする)わたしのバカッッ!!

そ…そういえば、今日カフェ開場前に昨日もきていたカフェスタッフの方から、
「Kちゃん、昨日きて「今日マンガ家来てないの」って言ってたんで、「今日はマンガ家来ない。明日は来るよ」って言っときました」…って言われたような。
その顛末が、ここに来るとは思わなかった…!迂闊っっ!


こうして、きっと二人の間で伝説が深まっていくに違いない。

水戸芸術館にはマンガ家がいて、
たまにカフェに来てマンガかいてるんだよー。

…そんな物語=伝説。
いや、調査者としては面白い事実だと思うし、かわいくていいんだけどさ。


自ら都市伝説になってしまったkimisteva。これからどうなるっ!?(少女マンガ調)