あいかわらず、神戸の恐喝事件(いじめ事件とは言わない)に関心を抱いています。
わたしが一番悲しいのは、
こんなに悲しいのに、今のわたしには何もできないという事実です。
こういうふうに思うこと、それ自体も、第三者の身勝手な共感なのでしょうが。
教育学を学ぶわたしに唯一できることがあるとすれば、
それは、
今後、このような悲しい事件を起こさないようなシステムを考えることでしょう。
わたしが考えているのは、
システムといっても「教育制度」のようなマクロのシステムではなく、
学校や家庭、地域をとりまくミクロなシステムのことです。
いじめを起こさないシステムというのは、ほぼ、不可能でしょうが、
いじめが生じたときに誰かが発見できるようなシステムは可能でしょう。
あまりにも常識的な見解ですが、
学校とは異なる、第二・第三の公共の場が必要なのかもしれません。
以前、演劇部で対談をしたときにGK氏が、
「学校とコミュニケートして、学校をうまく転がしていけるような賢い民間人」
という構想を話していたことを思い出します。
あらゆるところで言われていることですが、
法的な制度上、公立であれ私立であれ、教師に不適当な人間が教員になることは防げないように思われます。
(もちろん、すばらしい教師はいます。それも事実。
だけど、どうしようもない教師が生まれるのを防げない制度上の欠陥があるのも事実だと思います)
そうであるとすれば、それをチェックする民間人…わたしの言葉で言わせていただければ、より高い公共性を持つ市民が学校とコミュニケートしていくことはとても大切なことのように思われるのです。
わたしの出会ったすてきな人たちの多くは、
学校という場の風土を嫌い、
学校という場から距離を置いていきました。
もちろん、わたしもその一人だと思います。
だけど、
そういう人たちに、ぜひお願いしたいのです。
学校や学校に通う児童・生徒たちとどこかでつながりを持ちつづけてほしい。
学校のマイナス面を知りつつ、
それでも子どもたちの未来を考えられる人たちに、
ぜひ、公共性の高い市民として子どもたちにかかわりつづけてほしいと思っています。
それは、とても大切なことです。
演劇部とのかかわりの中で、そして、「高校生ウィーク」とのかかわりの中で、わたしが学んだことは、このことでした。
かかわりの中にいる当事者たちには、かかわることの意味の大きさはほとんど見えないようです。
なぜなら、子どもや青少年たちとかかわるその場で、すぐに感謝されたりすることは少ないからです。
でもその意味はすごくすごく大きい。
その意味は、数年後に彼らの中にふっと現れてくるものです。
あるいは、悲しい事件が起こらずに済んだ…というその事実の中にその意味が見えてくるときもあるかもしれません。
わたしにできることは何か。
その答えのひとつをわたしはここに見出しているのです。
わたしが一番悲しいのは、
こんなに悲しいのに、今のわたしには何もできないという事実です。
こういうふうに思うこと、それ自体も、第三者の身勝手な共感なのでしょうが。
教育学を学ぶわたしに唯一できることがあるとすれば、
それは、
今後、このような悲しい事件を起こさないようなシステムを考えることでしょう。
わたしが考えているのは、
システムといっても「教育制度」のようなマクロのシステムではなく、
学校や家庭、地域をとりまくミクロなシステムのことです。
いじめを起こさないシステムというのは、ほぼ、不可能でしょうが、
いじめが生じたときに誰かが発見できるようなシステムは可能でしょう。
あまりにも常識的な見解ですが、
学校とは異なる、第二・第三の公共の場が必要なのかもしれません。
以前、演劇部で対談をしたときにGK氏が、
「学校とコミュニケートして、学校をうまく転がしていけるような賢い民間人」
という構想を話していたことを思い出します。
あらゆるところで言われていることですが、
法的な制度上、公立であれ私立であれ、教師に不適当な人間が教員になることは防げないように思われます。
(もちろん、すばらしい教師はいます。それも事実。
だけど、どうしようもない教師が生まれるのを防げない制度上の欠陥があるのも事実だと思います)
そうであるとすれば、それをチェックする民間人…わたしの言葉で言わせていただければ、より高い公共性を持つ市民が学校とコミュニケートしていくことはとても大切なことのように思われるのです。
わたしの出会ったすてきな人たちの多くは、
学校という場の風土を嫌い、
学校という場から距離を置いていきました。
もちろん、わたしもその一人だと思います。
だけど、
そういう人たちに、ぜひお願いしたいのです。
学校や学校に通う児童・生徒たちとどこかでつながりを持ちつづけてほしい。
学校のマイナス面を知りつつ、
それでも子どもたちの未来を考えられる人たちに、
ぜひ、公共性の高い市民として子どもたちにかかわりつづけてほしいと思っています。
それは、とても大切なことです。
演劇部とのかかわりの中で、そして、「高校生ウィーク」とのかかわりの中で、わたしが学んだことは、このことでした。
かかわりの中にいる当事者たちには、かかわることの意味の大きさはほとんど見えないようです。
なぜなら、子どもや青少年たちとかかわるその場で、すぐに感謝されたりすることは少ないからです。
でもその意味はすごくすごく大きい。
その意味は、数年後に彼らの中にふっと現れてくるものです。
あるいは、悲しい事件が起こらずに済んだ…というその事実の中にその意味が見えてくるときもあるかもしれません。
わたしにできることは何か。
その答えのひとつをわたしはここに見出しているのです。