KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

わたしにできることは何か

2007-09-30 18:54:51 | ニュースと政治
あいかわらず、神戸の恐喝事件(いじめ事件とは言わない)に関心を抱いています。
わたしが一番悲しいのは、
こんなに悲しいのに、今のわたしには何もできないという事実です。
こういうふうに思うこと、それ自体も、第三者の身勝手な共感なのでしょうが。


教育学を学ぶわたしに唯一できることがあるとすれば、
それは、
今後、このような悲しい事件を起こさないようなシステムを考えることでしょう。
わたしが考えているのは、
システムといっても「教育制度」のようなマクロのシステムではなく、
学校や家庭、地域をとりまくミクロなシステムのことです。

いじめを起こさないシステムというのは、ほぼ、不可能でしょうが、
いじめが生じたときに誰かが発見できるようなシステムは可能でしょう。
あまりにも常識的な見解ですが、
学校とは異なる、第二・第三の公共の場が必要なのかもしれません。

以前、演劇部で対談をしたときにGK氏が、
「学校とコミュニケートして、学校をうまく転がしていけるような賢い民間人」
という構想を話していたことを思い出します。

あらゆるところで言われていることですが、
法的な制度上、公立であれ私立であれ、教師に不適当な人間が教員になることは防げないように思われます。
(もちろん、すばらしい教師はいます。それも事実。
だけど、どうしようもない教師が生まれるのを防げない制度上の欠陥があるのも事実だと思います)
そうであるとすれば、それをチェックする民間人…わたしの言葉で言わせていただければ、より高い公共性を持つ市民が学校とコミュニケートしていくことはとても大切なことのように思われるのです。

わたしの出会ったすてきな人たちの多くは、
学校という場の風土を嫌い、
学校という場から距離を置いていきました。

もちろん、わたしもその一人だと思います。

だけど、
そういう人たちに、ぜひお願いしたいのです。
学校や学校に通う児童・生徒たちとどこかでつながりを持ちつづけてほしい。
学校のマイナス面を知りつつ、
それでも子どもたちの未来を考えられる人たちに、
ぜひ、公共性の高い市民として子どもたちにかかわりつづけてほしいと思っています。
それは、とても大切なことです。


演劇部とのかかわりの中で、そして、「高校生ウィーク」とのかかわりの中で、わたしが学んだことは、このことでした。
かかわりの中にいる当事者たちには、かかわることの意味の大きさはほとんど見えないようです。
なぜなら、子どもや青少年たちとかかわるその場で、すぐに感謝されたりすることは少ないからです。

でもその意味はすごくすごく大きい。
その意味は、数年後に彼らの中にふっと現れてくるものです。
あるいは、悲しい事件が起こらずに済んだ…というその事実の中にその意味が見えてくるときもあるかもしれません。


わたしにできることは何か。
その答えのひとつをわたしはここに見出しているのです。

ひっそりとした透明なことばを

2007-09-28 17:20:47 | 趣味
高校生の演劇大会が約1ヶ月後にせまりました。
全体の方向性も決まったので、ついにラストシーンの脚本にとりかかることになり、ここ3日間、毎日、脚本を書いています。

ああ。
お願い。神様。
わたしに世界一、青くて透明なことばをください。

「誰もが感動する」とかそんな大層なものは、いりません。
ひっそりとした透明さ。
それだけでいいんです。

忘れ去られた場所に置かれた小さなガラス玉のように、
ひっそりとした場所で透明な光を放つような、
そんなことばをわたしにください。

Responsibility(責任・応答可能性)その1

2007-09-27 18:19:24 | フィールド日誌
最近、「リスポンシビリティ」(responsibility)について考えさせられることが多い。

【responsibility】[名]
1:(…に対する/…する)責任、債務
2:信頼性、確実度

【responsible】[形]
1:責任[責め]を負うべき、責任がある、監督責任がある、応答[報告]する義務がある
2:責任を取れる、ちゃんとした、信頼できる


Responsibilityに対する「応答可能性」という訳語をあてたのを見たのは、鷲田清一先生の文献だっただろうか?あるいはレヴィナスの訳本を読んだときだったかもしれない。
ともかく、わたしにとってResponsibilityというのは、とても重い言葉なのだ。
ニュースで、新聞で、あるいは学術文献の中で「Responsibility」という用語を見るたびに「応答可能性」という訳語を思い出す。

Resopnsibirityという用語は、「責任」とは「応答可能性」であることをわたしに思い出させてくれる。
「責任」とは、「これさえ達成できれた大丈夫」というチェックリストをすべてチェックすることではない。
「責任」とは、その場にいる相手に対して応答していくことであり、対話のための場を確保していくことである。
そのことを、わたしに思い出させてくれるのだ。

今週の月曜日、水戸芸術館に行ってきた。
今年度の高校生ウィークと関連させて実施する、
ある企画のミーティングに参加するためだ。


ミーティングから帰ってきてからしばらく、わたしは悩んでいた。
悩んでいた…というよりも、凹んでいたというほうが感情の記述としては正しい。

何に悩んでいたかというと、
「わたしは、自分の意見を言うべきだったのか!?」
…ということだ。

わたしも一緒に企画をする立場なのだから自分の意見を言うべきだ、とは思っていたのだが、実際に自分の意見を言ってみると、「本当にこれでよかったのか?」という疑問が残る。

そもそも、わたしに発言する資格はあったのだろうか?
わたしは美術や美術館に対する専門家ではない。
なので専門的知識を理由に発言権を根拠づけることはできない。

さらに、
わたし自身、これが一番決定な点だと思っているが
水戸芸術館の現代美術部門に対して深く関わっていない。
これは、情けないことだが事実だ。
博士論文をはじめいろいろな論文を書いたり、学会発表をしたりするために、分析・発表と調査とのバランスをとっていかなければいけない…ということを考えると、わたしにとっては今のバランスがギリギリのバランスのとりかたなのだが、それはともかく、そういう事実はある。

わたしは現代美術ギャラリーで行われる展覧会には毎回、2度か3度は足を運んでいるが、展覧会初日に参加したり、レセプションに参加したり、ワークショップに参加したり、「高校生ウィーク」以外のボランティアに参加したり…そういうことをしていない。
これらは、スケジュールを調整してがんばれば、不可能なことではないと思うので、これは本当に致命的なことだと思う。

そういうさまざまな出来事(イベント)の中でゆるやかに形成されたコミュニティに参加した人たちが、次にやってみたい企画を提案していく。
それが、コミュニティにとって一番自然な、望ましい姿だと思うのだ。


わたしが行ったことは、そういう望ましい姿と逆行しているのではないか?


そんなことを悩んでいるときに、たまたま読んでいたある本で久しぶりに「Responsibility」という言葉を見つけた。

フィールドに対するResponsibilityとはいったいなんだろう?
研究倫理委員会から出されたチェックリストを埋めることではない、本当の「責任=応答可能性」とはなんだろう?
わたしは、その問いに対していまだに答えを出せずにいる。

だけど、
少なくとも調査者として関わらせてもらった「わたし」として、
次に行われる企画に対する率直な意見を述べていくことは、
ひとつのResponsibirityのありかたなのではないか、思った。
逆にいえば、
「資格がない」なり「発言権がない」なりと理由をつけて、自分自身をフィールドの「外部」に置こうとすることこそ、自分自身のResponsibilityの放棄なのではないか、と。
それこそ、フィールドからデータを奪うだけ奪って、フィールドには何も還元しない昔の人類学者たちと同じじゃないか。


わたしがフィールドに関わる、そのかかわり方のひとつとして、
企画に関わるという関わり方があるのであれば、
わたしは、「わたし」自身として率直に企画に関わればいいのだし、そうあるべきだと思う。
自分の関わるフィールドを少しでも良くしようとすること、
それこそ、クルト・レヴィンが提唱した「アクション・リサーチ」の根本的な思想ではなかったか。

そんなことを考えていた。
…でも、それは本当に正しい考えなのかどうか。
そもそも「正しい考え」というものがあるのかどうか。
わたしはわからない。

「お笑い」番組の「いじめ」事件に対する影響について

2007-09-23 18:01:33 | ニュースと政治
神戸市の恐喝未遂事件(あえて「いじめ事件」とは言わない)のニュースにひどく心を痛めている。

わたしはもともと、メディアで流される物語の「被害者(広義)」に対し、異常にシンクロしてしまう人間である。

岩井俊二『リリィ・シュシュのすべて』では、クラスメイトから強姦され、そのとき撮影された写真を脅しの種にされながら「ゾウキン」にされてしまう少女にシンクロしてしまって大変だった。
一週間くらい、「自分は自殺すべきなのになぜ生きているのか」(おそらく、わたしがその少女であったら自分に向けるであろう問い)と悩みつづけた。

『ボーイズ・ドント・クライ』(性同一性障害(FtM)の話)で、性同一性障害の主人公が強姦されるシーンを見たあとも、しばらく精神的に不安定だった。
『ほたるの墓』もアウト。
先日、実家に帰省したらテレビ放映していたので、布団を頭からかぶって無理やりねた。

なので、ニュースでいたましい事件が流れると、自分が被害者と同じくらい傷ついたような思いに囚われてしまうのだ。
特に、「いじめ」事件や強姦事件はダメだ。
この社会で生きていくことがどうしようもなく恐怖になる。


そんなわけで、神戸の恐喝未遂事件である。


これはひどい。
連日、さまざまないじめの実態がぽろぽろとニュースや新聞で出てきているが、どれひとつとっても、ものすごい恐怖である。


さて、こういう「いじめ」事件が起こると、まずマスコミに叩かれるのは、一連のお笑い系バラエティ番組である。
以前、このようなお笑いバッシングに対して、ナインティナインの岡村氏が抗議していたことがあった。
おそらく、今度も同じようにお笑いがバッシングされ、岡村氏が吼えるであろうことは想像に難くない。


わたしは、自分自身お笑い芸人である岡村氏が、「僕たちがやっていること(お笑い番組でのコント)はいじめとは関係ない」と主張する気持ちはよくわかる。

わたしには、『めちゃいけ』でのコントに見られる、いわゆる「いじめ」的な構造(罰ゲームなど)に不快感を示す視聴者は多いらしいが、それが精巧に組み立てられた撮影トリックの中に現れる幻影であるという認識がある。

お笑いにしても音楽にしてもマンガにしても、
プロとアマの境目が曖昧になってきた結果、あまりにわかりにくくなっているが、「お笑い芸人」はプロであり、芸人がテレビで行っていることはプロの「芸」である。
つまり、ナインティナインはじめ『めちゃいけ』メンバーが番組上行っている「いじめ」的なシチュエーション・コメディは、すべてプロ集団による「芸」として行われていることである。
…少なくとも、わたしはそう認識している。


プロ集団にとって、「芸」を行うことは仕事であり、
それは個人的な楽しみである「ゲーム」や、ストレス発散とか、個人的なハラスメントとは、直接的には関係ない。
それは漫才における「ツッコミ」が、たとえどれほど激しいものであろうと、それは個人的な怒りや不快感とは無関係であるという事実と類似している。


だから、そういうプロ意識をもったプロ集団のメンバーである岡村氏がコメディにおける「いじめ」的構造を非難されたときに、「関係ありません!」と答えるのはもっともだと思う。
間違いなく、彼にとってそれは「芸」でありプロの仕事なのだろう。


最近は、『M1』が放映されていることもあるので、言わずともわかっている人が多いのだろうが、
テレビ番組を見て、視聴者が「これなら俺でもできそう!」「これくらいならアタシだって!」と思うことの多くは、実現不可能である。
「お笑い」は特に、誰もが「できそう!」と思いやすいらしい。
「お笑い」のための専門学校には多くの入学希望者が集まるという。
…そりゃ、そうだ!誰だって、身近な人を楽しませた経験は多くあるのだから。

だけど、それと「芸人」の「芸」とはまったく異なるものだ。
それが多くの視聴者にはわからない。
そしておそらく、プロの「芸人」である岡本氏には、視聴者がなぜそれがわからないのかがわかっていないと思う。


問題の核心はここにあるのではないかとわたしは考える。
つまり、
『めちゃいけ』等のお笑い系バラエティ番組における「いじめ」的な構造が、視聴者にとってもっとも「わかりやすく」「面白い」ものであり、かつ、それが自分たちの日常とかけはなれたプロの「芸」としては理解されないという点である。

「わかりやすい」「面白い」ものは、その名のとおり、感覚的にすぐ理解される。
感覚的にすぐ理解される笑いの構造として、現在このまれているものが、「いじめ」的な構造であるとも言える。

誰にでもわかって、誰でも楽しめるもの。
この誰もがよくわからない、理解しあえない時代にそんなものがあるのだとしたら、コミュニケーションのうまく成立しない状況で、それに頼ろうと思うのは当然のことであると言える。
しかも、それが「俺にもできそう」「アタシにだってできそう」なものであるのだから。


「いじめ」のゲームを開始してしまう人たち、そこに巻き込まれてしまう人たちは、マジックを習いはじめる人たちと似ているのではないかと思う。

「いじめ」ゲームによる笑いもマジックによる驚きも、
わかりやすくて、おもしろいもの、誰にでも共通に理解可能な希少なツールとしてマスコミが喜んで流し続けているという点では共通している。
両方とも、コミュニケーションが成立しにくい状況において強力な武器になってくれる。少なくとも、それを用いることができる限り、居心地の悪い思いをしないですむ。そんな印籠として、「いじめ」ゲームが存在しているると思う。


それが、この問題のもっとも怖いところだ。
わたしたちに必要なのは、もしかしたら、居心地が悪くてもそこでどうにかやっていくという力なのかもしれない。

Love is not to say sorry

2007-09-19 13:19:51 | 
内田樹『子どもはわかってくれない』を読んでいる。

内田樹氏は、なんというか最近文章を読んだ人の中では、一番、世界をキレイに切り取ってくれる人だと思う。
彼のよく用いる言葉に「クリアカットに説明する」というのがあるが、
この言葉はまさに彼にぴったりだという気がする。


そんな内田氏の本の中で紹介されていた言葉。

Love is not to say sorry.


これは、映画『ある愛の詩』のキャッチコピーである。
日本版で紹介されるとき、
この言葉は、
「愛とは後悔しないこと」と訳された。

でも、どう考えてもそれは誤訳だ。
内田氏のいうように、映画の内容を見てもそれはハッキリとわかる。

「愛とは「ごめんなさい」と言わないこと」

…それが正しい。

すなわち、
人を愛するとは、後から謝らなければならないようなことをしない
…そんな関係を維持することなのだ。
パートナーに対し、頻繁に「ごめんなさい」と言う傾向のあるわたしは、これを見て大いに反省した。

とはいえ、
そんなに完璧な人間同士がお付き合いするわけではないのだから、
それがそこまでうまくいく原理だとは思わない。
それでも基本的には、謝らない関係でいたい。
それは確か。

そうだとすれば、
Love is not to say sorry…とは、
相手に謝らせるようなことをしない、ということをも視野に置いたことばなのかな、と思う。
寛大であることも含めて、お互いに気遣いあえることで謝らない関係を維持することはできたら、それは確かに「愛」と呼ぶにふさわしい関係なのかもしれない。

Love is not to say sorry

著作権って何?

2007-09-18 16:56:16 | 趣味
著作権って何だろう?

ずっと以前から持ち続けてきた疑問だ。
「著作権」とは誰のための権利なのだろう?
誰を守るための権利なのだろう?
わたしが物心ついてから、ニュースなどで出あった数々の事件は、
著作権に対するわたしの疑問を増大させることはあっても、減少させることはなかった。

もっとも衝撃的だった事件のことは、
きっと多くの人が覚えていると思う。

ある小学校が子どもたちの卒業記念として、
小学校のプールに壁画(?)を描かせた。
絵を描く子どもたちは、キャラクターが大好きだ。
その子どもたちはプールにディズニーのキャラクターを描いた。
そんなありふれた行為だ。

株式会社オリエンタルランドは、それを著作権侵害として訴え、
プールに描かれた子どもたちの絵をすべて消させた。
…卒業制作として子どもたちが描いた絵を、すべて。

わたしは子どもたちの心を考えると、
いったい著作権とは誰のための権利で、
いったい誰を守ろうとしているのか…と疑問を抱かざるを得ない。

著作権は経済的利益を保護するための法律だという。
地方の小学校の子どもたちが、強大な株式会社オリエンタルランドのどのような利益を侵害しえたというのだろう?
わたしには、まったく、わからない。


著作権の問題は、その事件をめぐる議論をきっかけに下火になってくのではないかとわたしは楽観視していた。
でも事態はまったく逆だった。


今や、高校演劇も著作権バッシングを気にしなければならないらしい。
「教育」の場は著作権の適用外項目だったはずなのに、
とりあえず、校外だから著作権の対象になるとか、なんとかかんとか…。
いったいそこまでして、
誰のどのような利益を保護したいのだろうか?


『アニパロとヤオイ』の作者である西村マリは、
「著作権は強者の権利である」
…と言い切った。
わたしもそう思う。
強者が強者同士で闘う分には必要な権利。
だけど、相手が弱者であった場合には使ってはならない権利なのではないか…?
そんなことを思う。

ついに見てきました!男子シンクロ!

2007-09-10 19:02:37 | 趣味
『ウォーターボーイズ』が流行するずっと以前…
高校2年生のときから、男子高校の水泳部に注目していたわたし。

そんなわたしにとって念願の
男子シンクロ@川越高校(=男子校)を見てきましたっっ!
テラモエス!!
ギザモエス!!

…そんな腐女子コメントは置いておいて、
男子高生のくんずほぐれつのシンクロ演技は激しくウットリでした。

ダンスを交えてとはいえ、30分間演技してしまうあの体力も、
あらゆるところにバラまかれている下ネタ・テイストも、
なかなか女の子の交わる文化の中にはないものですよ。
本当にうらやましいなぁ。

昔からずーっと思っていることですが…

あああーーー!
男の子になりたいっっ!
そして、男子校に通いたいっ!


男性の友人が多いせいか、
男性OBが比較的多い演劇部に関わっているせいか
ふつうの女性よりは、男の子のそういう文化に触れることが多いのですが、
そのたびに、いつもいつも、疎外感を感じてきているので、
そういう文化の中に、入っていられるということ自体が、
心からうらやましいのです。


…逆にその中にいる当事者の男の子たちは、
それを「当たり前」だと思っているから、
その場にいる女の子が居場所をなくしていても気づかないってことも痛いほどよくわかってるし、
そういうことで何度も傷ついてきたから、
余計に、そういうことを感じないでいられるそういう文化の中にいる人たちが、うらやましいのかもしれません。

そういう幸せな時間は、やっぱり、大切だなって思う。
エネルギッシュな時期にエネルギーを発散できること。
そんな当たり前のことすら、できない時代になってきてる。
それは本当に不幸なことだと思う。

だから彼氏は「そううけ」なのです

2007-09-09 11:40:04 | 研究
謎言語のタイトルでごめんなさい。
オタク関係なので、わからないかたは読まないでおいてください。

ついに話題の『となりの801ちゃん』を読んだ。
この本はいろいろな意味で面白かった。
文化研究をかじったりしていると、
(広い意味での)文学やアートの意味は新しい意味を作り出すこと、新しい価値観を作り出すことだと思えてくるのだが、
この本にはかたちでそれがあると思う。
とても、ささやかなかたちで。

もしこのマンガの作者が「チベットさん」ご自身であるならば、
「チベットさん」は、自分の思ったこと・感じたことを、その質感…というか肌理というか…そういうものを壊さないままにことば(ここではマンガ)にできる人なんだろうと思う。


それは、誰でもできるようでいて、実は難しいことだ。
言葉にこだわってきた人、
書く人にこだわってきた人なら誰でも、
ことばにするその瞬間に自分が感じたその質感が壊されてしまう、
そんな瞬間をたくさん経験してきていると思う。

春のひざしを感じたときのやわらかな質感は、
言葉にした瞬間に硬質化して、誰にもそのやわらかさが伝わらなくなってしまう。
そんな経験。

「オタク」をめぐるさまざまな言葉は、
そういう不幸な経験を何度も何度も繰り返してきたけれど、
この本はそれを乗り越えている。
そんな感じがする。
それは、ただ「801ちゃんの彼氏の視点で書く」という設定だけによるものではないと思う。

801ちゃんと一緒にいる日常の中で流れるやわらかな瞬間が、
そのまま、その質感を失わずにことばになっていることが大切なのだと思う。
その瞬間の選び方も、
ことばの選び方も
本当に愛おしい。


個人的には、
「彼氏って、付き合う前は攻めだけと、付き合いだすと受けになるよねー」
…という発言が、すごく本質をついてると思う。
パートナーと幸せな年月を重ねてきたひとりのヤオイストとしてこの発言を見ていると、なんだか本当にやわらかくて、幸せな気持ちになる。

いらぬ解説をしてしまうと、
わたし含め、たいていの腐女子たちは自分の愛するキャラクターを「受け」にすることが多いのだ。
だから、好きになればなるほど、その人物は「受け」になる。
「付き合う前は「攻め」だけと、付き合いだすと「受け」」というのは、そのあたりの関係の変容をうまく捉えてるなぁと思う。
一人の「女の子」としてある男性のことを「いいなぁ」と思ってる段階だとその人のことは「攻め」のように関じる(自分は女性側だからね)けど、お互いに好きだということがわかって付き合いだしていくと、自分の方で相手をすごく愛おしいと思うようになる。そうなると、「受け」に見えてくるんだよね。だって関係がふかまればふかまるほど、「男」「女」という枠組みはなくなっていくもの。そうすると残るのは、相手を愛おしいと思うその気持ちだけじゃない?
そんなわけで、
801ちゃんと付き合う男性は、みな(801ちゃんにとっては)「受け」なのだ。

そういう幸せな関係が見えてきてしまう。


とはいえ、振り返ってみると、
わたしのパートナーは、付き合う前から「受け」に見えていたような…

ドアテレビフォンがやってきた

2007-09-06 07:06:06 | Weblog
我が研究室に「ドアテレビフォン」なるものがやってきました。
「テレビドアフォン」だったかな?…まあいいや。とにかくテレビ画像つきのインターホンです。


T市の中央部に住んだことがない人にはあまり信じてもらえないのですが、T市の中央部、大学付近というのは、かなりアブナイところで、頻繁に不審者が現れるのです。
…というよりは、「昨日の真面目学生、今日の犯罪者」という感じで、外部者の犯罪もあるのですが、学生が「不審者」「犯罪者」になっているケースが多いので始末に追えません。要するに、スラムとかと一緒で、治安のよろしくないコミュニティなのです。


そんななか、新宿駅前でふつうに立っているだけなのに、よくわからん通りすがりの中年男性から
「…いくら?」
と、声をかけられるいろいろな意味で隙の多いわたしですが、なんとか、レイプにも暴行事件にもあわずに生きてます。
学生宿舎に住んでいた時代は、猥褻で脅迫的なイタズラ電話も、拉致寸前の宗教勧誘も、ちょっとした通り魔事件もありましたが、同じ棟に入居した女の子が入学後一週間もたたないうちに殺される…というとんでもない事件が起きたせいで、たいしたことがないように思えてきてしまいました。


とはいえ、そんな治安の悪いコミュニティのど真ん中で夜9時過ぎまで一人でいるのは、今でもちょっと怖い。
てなわけで、待望のドアテレビフォンでございました。


どうでもいいけど、奉行さんはドアテレビフォンで遊び過ぎだと思います。

「ぞっとするおとぎ話」

2007-09-03 13:32:33 | Weblog
「ぞっとするおとぎ話」。

『日本発映画ゼロ世代』(フィルムアート社)の中で、
犬童一心監督の映画作品に対して述べられたことばである。

ゲイのための老人ホームを舞台にした『メゾン・ド・ヒミコ』。
障害のある少女とふつーの青年とのはかない恋物語『ジョゼと虎と魚たち』。
あと、これはまだ見ていないのだけど、
銀行強盗を企てる老人ホームの老人たちの話『死に花』

確かに、そのどれを見ても、
「ぞっとするおとぎ話」ということばがしっくりくるなぁ、と感嘆した覚えがある。
どれも、現実世界を舞台にしているけど、
どこか現実感がなくて「おとぎ話」チックなのだ。
だけど、それが現実が舞台であることに、最後の瞬間にハッと気づくからこそ、「ぞっとする」。
そんな「ぞっとするおとぎ話」の世界が、確かに犬童作品にはあると思う。


わたしは、いうまでもなく犬童監督作品が好きなのだが、
洋画で同じくらい好きなのが、ティム・バートンなのである。

ティム・バートンといえば『チャーリーとチョコレート工場』と『シザー・ハンズ』が有名だろうか。
『チャーリーとチョコレート工場』『シザー・ハンズ』『ビッグ・フィッシュ』…どれも「おとぎ話」的な世界と現実世界との関係(その関係のつくりかたは二作品でまったく異なるけれど)の中で、現実ともファンタジーともつかない世界がくりひろげられる。
何が現実で、何が現実でないのかは、最後まで曖昧なままだ。


こう考えると、
わたしという人間は、現実と「おとぎ話」の境目を美しいと感じる人間なのかもしれないと思う。
数々の映画の中で、心に残るシーンというのは意外と限られるものだけれど、
わたしの中でそういうシーンとしてまっさきに挙げられるのは、
王子様のようなフリルつきの白シャツを着たオダギリジョー(『メゾン・ド・ヒミコ』)と、幻想の町「スペクター」(『ビッグ・フィッシュ』)である。

どちらも現実離れした現実。
現実なんだけど、「ちょっと変」。
そういう世界。


…べ…別に、ディズニーランドになんか行きたくなんかないんだからねっっ!