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KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

幸せだったときの思い出

2008-02-12 15:06:00 | 
『Mind assassin(マインドアサシン)』の中に、「幸福者」という1回分のストーリーがある。

ご存じのとおり、この作品の主人公は、記憶と精神を崩壊させる能力を持つ。
・・・詳しい話は割愛するが、
ともかく、ある夫婦の奥さんに以来されて、主人公は奥さんの精神と記憶を崩壊させる。
夫は奥さんが精神と記憶をなんとか取り戻すよういろいろな試みを行うのだが、
最終的に、そのきっかけになったのが、「マッチ箱の音」。
夫は、結婚する前、煙草の火をマッチでつけていた。
そのとき、聞いた、マッチ箱の中のマッチがカシャカシャいう音が、
最終的に、精神と記憶を取り戻すきっかけとなる。


最高に幸せだったときのささやかな思い出。
それこそが、何よりもの記憶の宝物なのでしょうね、というようなことを主人公が言って、この話は終わる。


わたしが記憶を失ったとき、わたしを目覚めさせてくれるものはなんだろう?

それは、きっと「甘寧一番のり」とか、
『THE BIG-O!!』のはじめのナレーション部分に流れる
似非ジャズ調のサックス曲とか、
まったく美味しくない特定保健用食品指定のコーヒーとか、
サイフォンでコーヒーを煎れたあとのコーヒーの粉とか、
そんなものに違いない。

事件の反対側:金子雅臣『壊れる男たち-セクハラはなぜ繰り返されるのか-』

2008-02-05 12:19:42 | 
最近、巷で「セクハラ」が流行語化している。
セクシュアル・ハラスメントではなく、「セクハラ」。
そもそも「セクハラ」が何の略称なのか、わからない人がいるのではないかと懸念するくらい、流行している。

特にわたしはジェンダーをめぐる問題に敏感なところがあるので、
きっと周囲の男性たちが、わたしに対して「セクハラ」と言うときには、一種の揶揄をこめているのだろうと思う。
しかし、わたし自身の特殊な事情を除いても、
今、「セクハラ」とは本当にどういうことなのか、が見えずらくなっている事態はあると思うので、この本を紹介する。

金子雅臣『壊れる男たち-セクハラはなぜ繰り返されるのか-』(新潮文庫)


わたしは、DVやセクハラに興味があるので、それなりにいろいろな本に目を通しているが、これはわたしが読んできた中で、もっともわかりやすく、かつ、感情的にならずに冷静に事態を見つめた本だ。

当然といえば、当然のことながら、政治家にしろ学者にしろ、DVやセクハラのことを論じたがる主体は、フェミニストの女性であることが多い。
しかし、フェミニストの女性が論ずるDVやセクハラは、どうしても感情的になる。マス集団としての「男性」に対して批判的になる。
その結果、「男性はみんな壊れている」といった乱暴な議論に陥ることになってしまう。(もちろん、そういう急進的な議論が一定の意義を持つことは認める)

その点、この本は著者が男性であることもあり、
「壊れる男」と「壊れない男」の分岐点が論じられている。
現実的に見ると、こういう議論のほうが有効であることは間違いない。
「男性なんてみんな壊れているのよ」と言われたところで、どうしたらいいのかわからないが、「壊れる男」がなぜ壊れてしまうのか、という問題を立てることで、「壊れる男」の出現を回避したり、「壊れる男」から距離を置いたりすることはできる。


もう一点。
この本の良いところは、「セクハラ」をする男性たちの言い分が事細かに記述されているところ。
これは、本当にすばらしい。
実を言うと、この本を初めて読んだとき、男たちのあまりに身勝手な言い分があまりにそのまま記述されているので、(図書館で借りた本なのに)途中で破り捨てたくなった。
(具体的に言うと、「魚心あれば水心」という言い分にキレた。)
それほど、現場のリアリティを失うことなく事例が記述されている。

おそらく、「セクハラ」を経験していない多くの人たちや、加害者予備軍の男性たちにとって、もっともわかりにくいのは、「トレード型」(正式名称を忘れた)の「セクハラ」だと思う。
ようするに「こっちが○○してやってるのだから、許されるだろう」の類。
あるいは、「こちらの要求に応じれば、ポストを昇進させてやる」と、トレードに持ち込む類のもの。

でも、「トレード型」セクハラは、一般的な説明だけだと、どうしてそこまで罪が重いとされるのか、わかりづらい。
だって、代わりに利益も得ているわけでしょう?・・・と、思えてしまう。
でも、それは逆なのだ。
「トレード型」だから罪が重い。
要するに、周囲の理解が得られない。
「あんただって利益を得ているんでしょう?」と周囲の人は思ってしまう。

特に、契約社員から正社員のポスト引き上げに伴うケース(この本の中に紹介されている)なんて、まさにそういうことが生じやすい。
例えば、他の契約社員もいるのに、その人だけが「トレード型セクハラ」によって正社員に昇格したとする。
そうすると、他の契約社員はおもしろくないだろう。
その人だけが「特別扱い」されているように見える。「優遇」されているように見える。
いくら本人が「セクハラ」に苦しんでいたとしても、そう見える。


そういう「セクハラ」のつらさは、具体的な事例の記述からしか見えてこない。
なぜ、「トレード型セクハラ」が罪深いのか、それは一般的な原則によって、一般的な論理によって説明できるものではない。
そのことを、実感させられる本である。

「おうちでごはん」を極めたい。:よしながふみ『きのう何食べた?』

2008-01-13 21:20:44 | 
年末に胃腸炎を起こして路上で倒れ、
年始からずっと風邪を引き続け、
治りかけたと思ったら、鬱病な精神状態がフワリフワリと続きましたが、
ようやく、回復してきました。
これだけ病気に困らされたので、さすがのわたしも反省し、ちょっと自分の健康に気をつけるようになりました。


生きていたくなかったし、生きていてもしかたない、と思っていたので、
とにかく今を駆け抜けよう。
自分の果たすべきことがあるならとにかくそれを全速力でやろう。
で、死ぬときがきたら思い残さずバタッと死のう。
…と、これまではそんな思いで生きてきたので、健康にも食事にも興味がなく、毎日なんとか死なない程度に食べたりしてましたが、ちょっと価値観かわりました。


今は、10年後の自分のために生きていようと思う。
わたしはここ10年以上、生きていたくないと言い続けきましたが、それでものらりくらりと生き続けて、それなりに、誰かにとって生きている意味があったことも事実だと思うのです。

遠く離れた地にいる友人はわたしがなんと言おうと「あなたはかけがえない友人だ」と言ってくれるし、
一緒に生きていたいと思ってくれる人もいるし、
演劇部の高校生や専門学校の学生たちはいろいろと頼ってくれるし、
わたしの研究のこれからを楽しみにしてます、と言ってくれる人もいるし、
それなりに人の役に立ってしまって、それなりに意味がある人生を送ってきてしまったようなのです。
死にたい、と言っていた10年間に。


だとしたら、まあ何か意味のあることはできそうなのだから、10年先の自分に向かって、正確に言うとこの先10年間でかかわるたくさんの人たちのために、自分を大切にしていくべきなんじゃないか、というのが現在の結論です。



前置きが長くなりましたが、
そんなことを思っているときに、よしながふみ『きのう何食べた?』を読んだために、
わたしの中で「おうちでごはん」がブームです。


作品中に出てくる年不相応な美貌を持つ43歳の弁護士・筧史朗の言葉に

「うーん仕事で案件をひとつキレイに落着させたくらいの充実感を一日に一回も味わえるなんて夕飯作りって偉大だよ」

…というのがありますが、これは言い得て妙。

栗原はるみ氏とか、ああいう系の料理って、なんというか「アート」的な楽しさがあるとは思うんだけど、どうもそれはわたしの中でしっくり来ない。
なんかこの不況で、ワーキングプアな現代で、たまたま幸運にも専業主婦になれた方の特権的な楽しみのような気がして、どうも好きになれない。

わたしが目指したい「おうちでごはん」はそういうアートな料理ではなくて、値段と栄養と味、そして手軽さの四大要素の絶妙なバランスを兼ね備えた料理。

この複数の要素があるところがポイントで、このバランスを考えていくのが面白い。
冷蔵庫の中にあるものを見つつ、この材料で満足のいくものを作るには…と考えて、うまく解答を導き出せたときの満足感がいい!


アートではなく、バランスを追求する論理性というか、そういうものの追求によってできる料理。
それが「おうちでごはん」。
だから、筧史朗が弁護士だというのとも説得力ある設定だよなぁ、とあらためて、よしながふみに感心します。



裏の世界の人:川上弘美『ゆっくりさよならをとなえる』

2008-01-10 16:42:16 | 
ああ。この人は裏の世界の人だ、と思うことがある。

「裏の世界の人」は、自分とかけはなれた「遠い世界の人」とは違う。
自分とまったく正反対の人、でもない。

「裏の世界の人」はその名のとおり、いま・ここにある「表の世界」に生きるわたしの「裏」の世界にいる人である。
正確に言うと、「裏」の世界にいるわたし。
わたしが過去のある時点で違う選択をしていたらこうあったであろうわたし、とでも言うべきだろうか。
そんな、いま・ここにいるわたしでない「わたし」。
それが「裏の世界の人」である。


「何者かになる」ということは、ありえた数多の可能性の「わたし」を捨てることである、と言った哲学者がいる。
何かを選ぶことは、それ以外のすべての選択肢を捨てること。
わたしは、いくつもの「こうであったかもしれないわたし」を捨ててきた。
自分の意志で捨てた場合もあれば、外側からの条件によって捨てざるを得なかった場合もある。
ともかく、そういうふうにいくつもの「こうであったかもしれないわたし」を捨てた結果としていまのわたしがある。

こうしてできた、いまのわたしを後悔しているわけではないけれど、
それでも、「こうであったかもしれないわたし」を見つけると、つい興味を持ってしまう。
好きになったりもする。
悪いときには、コンプレックスのようなものを感じて、本人にはなんの因果もないのに、なぜか嫌いになる。
これは、よろしくない。


芥川賞作家と自分を並べるのもなんだかずうずうしい気がするが、
川上弘美さんのエッセイを読んでいると、「ああ、この人は裏の世界の人だなぁ」と思ってしまう。
いまの「表」のわたしは、とにかくせかせかとしていて、たくさんある暇な時間にはとてもたえられないけれど、過去のあのとき、あの時点で別のわたしを選んでいたら、きっと「時間がたくさんあるならゆっくり過ごせばいいのになぁ」なーんて、こたつでミカン食べながらまったりと思っている自分になっていたはずなのだ。


今の自分もそれなりに悪くはないと思うけど、
でも、そういうわたしもいいなぁなんて思う。
なによりも「裏の世界の人」がまったりと元気に過ごしている様子を見ると、なんだかうれしくなるのだ。

裕福なアリと貧乏なキリギリスの国:三浦展『下流社会―新たな階層集団の出現』

2007-12-30 21:04:34 | 
もう1年以上(書き始めてから数えると1年半近く)、
博士論文ばかりのことだけにかかりきりだったせいか、
今、世の中がどうなっていて、自分がどういう世界に生きているのかを知りたくて知りたくて仕方ありません。

なにしろ、我が家にはテレビがない。
新聞もとってない。
博士論文のことを考えていると、以前は毎週読んでいた『AERA』も読まなくなってしまいました。

「これじゃヤバイ!」と感じたのがつい1ヶ月前。
『高学歴ワーキングプア』を皮切りに、半分狂ったように、新書や小説を読んでいます。
それでも久々にテレビや新聞を目にすると、ほとんど知らないような単語が飛び交っていて、「わたしはまるでタイムカプセルの中に閉じ込められていたみたいだなぁ」とあらためて思います。
突然、担当教官T先生からは「もう年なんだから」と言われるし、わたしの知らない間にわたし自身もわたしを取り巻く世界も大きく変わってしまったような気がします。


そんなわけで、『下流社会―新たな階層社会の出現』をいまさらながら読んでいます。
この本、確かに面白い。
もちろん、「N(固体数)=17でパーセント出すなよっ!」とかそのテの突っ込みはありますが、分析や考察そのものは面白い。
(もちろんその元となるデータの信頼性・妥当性の低さは最後まで残ってしまいますが、そのあたりは目をつむることにします)


この本で一番面白いところは、「自分さがし」「自分らしさ」とかそういうものを追求する人ほど「下流」の生き方をしている、というその逆説を暴いたところにあります。
「上流」「中流」の人は「自分らしさ」をそれほど求めない。つまり、「自分らしさ」を追及することが「下流」への扉を開いているのではないかと。


「下流」の人々は、将来もないし収入も低いけど、「自分らしく」生きることを求めて、その日その日をなんとなーく楽しく暮らそうとする。働く意欲はないから、あくせく働くこともない。

「上流」の人々は収入は高いけど、毎日朝早くから夜遅くまで仕事仕事の毎日。有給休暇もままならずとにかく働きまくるけど、それでもともかく将来性はあるし、収入は安定している。「自分らしさ」はないけど、生活は安定してる。そんな暮らし。

こういう二分化が生じている、という議論を見て、
いつの間にやら日本は裕福なアリと貧乏なキリギリスの国になっていたのだなぁ、と思いました。
アリさんは将来のために毎日せっせせっせと働く。
それを見てキリギリスは半ばそれを軽蔑しながら「もっと自分らしく生きればいいのに」「毎日楽しく暮らそうぜ」とアリに呼びかける。…でもキリギリスには将来がない。
冬が来れば、キリギリスは蓄えをなくしていきだおれる。


日本のアリさんたちは、そのとき、キリギリスにどのような対応をするのだろうか。
わたしはそのことにすごく興味がある。
文部科学省ご推奨の『アリとキリギリス』で、アリさんは雪の中で倒れるキリギリスを助け、自分たちの貯蓄した食べ物をわけあたえる。
政治家や企業のアリさんたちは、文部科学省に推奨されたこの童話のように、キリギリスに手を差し伸べてくれるのだろうか。

もちろんその答えはノーだ。
ニート・フリーター問題の議論を見れば明らかなように、アリさんたちは「お前が悪い」としか言わない。
自分たちが仕組んだシステムの結果であるとしても「お前が悪い」としか言わない。


だとすれば、キリギリスはいったいどうしたら良いのだろう。

キリギリスにアリのようになれ!というのは意味がないだろう。
だって、アリだってそもそも幸せなわけではなさそうだもの。
だとしたら、わたしたちが幸せになれる方法って何?

そんな疑問をあらためて投げかけられる本であった。


なお、わたしはこの本で紹介されている女性のカテゴリーに無理やりあてはめると、「かまやつ系」(高所得のキャリアウーマンタイプではないが、手に職をもって働きつづけようとする新たなタイプ。美容師や保育士、ダンサーやミュージシャンなどを目指そうとする若い女性)に当てはまると思われる。
だから国立大学の文化になじまないのかなぁ。
でもって、専門学校の文化に親しみを感じるのかなぁ…。

「荒廃した世界/愛し合う僕たち」を超えて:よしながふみ『大奥』第3巻

2007-12-25 18:19:01 | 
よしながふみ『大奥』の第三巻が出ました。

昨年購入した『大奥』第二巻は、読後、ドゴーンと重いショックを受けてしまい、一晩眠れませんでした。
そんなわけで、わたしの中で『大奥』はもう封印!買わない!という勢いだったのですが、結局、第三巻も買って、読んでしまいました。

買ってみてやっぱり後悔。
昨晩は結局、不眠に悩まされることに。
よしなが氏があるところで「何もかも奪われてしまった人の最期のプライドさえも奪われていくみたいな話が好きなんです。」と語っていたらしいが、恐らくそういうよしなが氏の萌えポイントがが、わたしには重すぎるのだと思う。


とはいえ、名作は名作である。
第一巻では「男女逆転大奥」という設定の斬新さが話題にされ、
第二巻ではその純愛の果てしなく重い描き方が高く評価されていたが、
わたし自身がもっとも評価したいのは、今回出た第三巻である。
第三巻を見てはじめて、よしなが氏が『大奥』の「家光編」でチャレンジしていることがフワッと見えた気がする。

「家光編」がチャレンジしていること。
それは、「荒廃する世界/愛し合う僕たち」という二項対立で語られることの多い「純愛」の物語構造ではないか。


『網状言論S改』に寄せられた論考にも書かれていたと記憶しているが、
「荒廃する世界/愛し合う僕たち」という二項対立は、男性をオーディエンスとして想定したアニメや漫画、あるいはゲームに頻繁に見られる物語構造である。
その筆頭にあげられるのは、もちろん『最終兵器彼女』。
『最終兵器彼女』の内容を知らない人でも、そのタイトルから「荒廃する世界/愛し合う僕たち」という二項対立を読みとることができるだろうと思う。
僕の「彼女」は(←「愛し合う僕たち」)、戦争のための「最終兵器」である(←「荒廃する世界」)というその設定。
その設定の中で、「僕たち」は荒廃した世界をにくみながら、あるいはあきらめの境地に立ちながら、そういう荒廃した世界とは別の次元で愛し合う。
荒廃した世界の中で成立するからこそ「純愛」であることが強調されるというこの構造。
これは、当然、男性向けのテクストだけでなく、女性向けのテクストにも見られる。
おそらく、わたしたちにとって、もっともわかりやすい「純愛」の物語構造である。


「純愛」が強調される『大奥』第二巻のストーリーは、この物語構造を蹂躙している。荒廃する世界=「大奥」と、その世界とはある種別の次元で愛し合う「僕たち」=有功と家光。
だから、わたしは第二巻を読み終えた時点で、「とりあえずこの重さも少しは軽減されるかな」と思ったのだ。「愛し合う僕たち」ができてしまえば、ある程度その「僕たち」の密やかな幸せが物語全体を明るく照らし出してくれるから。

ところがどっこい、わたしの予想は大きく外れてしまった。
「愛し合う僕たち」の密やかな幸せが物語を照らし出してくれたのは、第四巻のはじめの数頁のみ!
あとは「この時が二人の最も幸福だった頃だったかもしれない」というナレーションが入って、ひたすら厳しい状況が次々に訪れる。


・・・「愛し合う僕たち」の心が通じ合った途端、女の子のほうが他の男性と体の関係を持たなくちゃいけなくなる、という設定は、わたしの心には重すぎます。。。


しかし、ここで「世の中って汚いね」「僕たちって不幸だね」と言って終わったり、二人で一致団結して世界と戦ったり(少年漫画調)しないところが、この作品のチャレンジングなところ。
二人はただただ奪われるだけの立場にいて、その中で、自分の生きる道を見つけていく。
・・・と書くとあまりにもキレイな感じがするが、
なにしろ、女の子のほう(家光ですが)はひたすら他の男性と関係持たないといけないわけだから、全然キレイごとではない。
むしろ、つらい。
ひたすら、つらい。
それでも、「他の男の子を生んでもそなたをいとおしくおもう気持ちは以前と変わらなかった」と言う。幾多の他の男の子を産もうと、自分の心の中にいるのはあなただけだと。


作品中に出てくる言葉をそのまま使うなら、「静けさ」を獲得していくこと。
そういう意味での強くなること。美しくなること。


それは、荒廃した世界を遮断したところにある「愛し合う僕たち」とはまったく異なる「純愛」の物語である。
世界を遮断して、他者を遮断して、他者のいない汚れのない世界の中で一層近づくていく二人の関係の「純粋さ」ではなく、
荒廃する世界が二人の間をますます離していくにもかかわらず、その中で成立する細い糸のようなつながりの「純粋さ」。離れていくからこそ見えるそのつながりの糸の強さ。
そういうかたちで「純愛」を物語ろうとすることは、非常にチャレンジングな試みだと思う。
だって、それってすごく伝わりにくいもの。


「荒廃する世界/愛し合う僕たち」という構図は非常にわかりやすく、かつ、非常に幸せな気持ちをわたしたちにもたらしてくれる。
どんなに荒廃した世界でも、わたしたちは「純粋であれる」のだと。
しかし、その「純粋幻想」が「幻想」でしかないのもまた事実。
そんな中で、その二項対立を壊し、「荒廃する世界の中で生きているからこそ見える僕たちの愛」を模索しようとしたこと。
それこそが、この作品の意義だと、わたしは思う。


・・・よしっ!ほとんどネタばらしはしてないはず。

どうする余剰博士:水月昭道『高学歴ワーキングプア-「フリーター生産工場」としての大学院』

2007-12-17 11:55:39 | 
わたしは、言わずとしれた高学歴ワーキングプア予備軍なので、
『高学歴ワーキングプア―「フリーター生産工場」としての大学院』を読みました。

高学歴ワーキングプアの不安を抱く、わたしのような大学院博士過程在学院生には、スカッと胸のすくようなことを言ってくれる本ですし、
これまでネット上ではさまざまなところで話題になりながら、その複雑な政治的事情もあってなかなか世に出せなかった内容を出したという功績はすばらしいと思います。

ですが、どうしても、パブリックな場での議論が浅い分、関連資料も少ないわけです。そういうこともあって、本全体での議論の荒さ・・・というか偏りが目立ちました。


一番問題なのは、水月さんが文系大学院出身の方なので、主に文系の大学院生の実態が中心に報告されているにもかかわらず、それが博士卒一般の傾向として語られてしまっていること。

2ちゃんねるの「ピペド」(=ピペット土方)関係スレでも、「分子生物系」と「農学系」「遺伝系」ではで事情が違うことが話題にされたりしますよね。(前の記事で我が町には研究職の契約・派遣の職が多い・・・ってなこと書きましたが、こういう事情があったのか・・・と思ったり思わなかったりします。)

当然、文系と理系では事情が異なるし、
さらに言えば、文系の中にも理系と同様、さまざまな分野があるわけで、たとえば今どこの大学も規模縮小に走っている「日本文学」と、教育系の分野とではまったく事情が異なるようです。
「文学系」のある先生がカラカラと笑いながら、自分の研究室のことを「ブロイラー以下」と言っていたのを聞いたことがあります。その研究室では12畳くらいの院生室に50人近くの院生・ポスドクの人を抱えているのですが、「ブロイラーは行き先があるけど、あの子たちは行き先がないからねぇ」と言ってました。
・・・恐ろしい!
何が一番恐ろしいって、先生がそういう意識なのが一番恐ろしい!
もし本当にそう思っているなら、毎年20人近く入学者を採用する今のシステムをどうにかすべきだと思います。
そういうことを、しようとすらしないところが恐ろしい。

わたしの研究室の先生方であれば、思いつきもしないようなことを平気で言うことに驚愕しました。
こういう先生方こそ、「学生を飯の種くらいにしか思っていない」と非難されてもしかたがないと思います。


そういう意味でこの問題は、社会構造全体の問題として論じられなければいけない一方で、分野ごとの実態にも目を向けなければならない問題であると思っています。


そんなことをだらだら思ってネットを見ていたら、こんなサイトを見つけました。
博士(はくし)が100人いる村


分野ごとの実態云々言っておいて恐縮ですが、
ここまで単純化して見せられるとかえって爽快です。
「富士山のふもと」という設定が最後になって伏線として生きてくるのも、なかなか、ブラック。
しかし笑いごとではありません。
なにしろ、国の政策課題として挙げられるほどの大問題ですから。


一般企業においても、研究職においても、
わたしたち、「ロストジェネレーション」(現在、25歳から35歳の人々)は不幸の波を被り続けているようです。
いったい敵は誰なのか。
なぜ、これほどまでに不幸な世代が作られてしまったのか。
「ロストジェネレーション」に属するわたしたちは、他の世代とは異なるかたちで自分の幸せのかたちを追求しなければいけない時期にきたのではないか、と、ここ最近の論調を見ながら考えます。

Love is not to say sorry

2007-09-19 13:19:51 | 
内田樹『子どもはわかってくれない』を読んでいる。

内田樹氏は、なんというか最近文章を読んだ人の中では、一番、世界をキレイに切り取ってくれる人だと思う。
彼のよく用いる言葉に「クリアカットに説明する」というのがあるが、
この言葉はまさに彼にぴったりだという気がする。


そんな内田氏の本の中で紹介されていた言葉。

Love is not to say sorry.


これは、映画『ある愛の詩』のキャッチコピーである。
日本版で紹介されるとき、
この言葉は、
「愛とは後悔しないこと」と訳された。

でも、どう考えてもそれは誤訳だ。
内田氏のいうように、映画の内容を見てもそれはハッキリとわかる。

「愛とは「ごめんなさい」と言わないこと」

…それが正しい。

すなわち、
人を愛するとは、後から謝らなければならないようなことをしない
…そんな関係を維持することなのだ。
パートナーに対し、頻繁に「ごめんなさい」と言う傾向のあるわたしは、これを見て大いに反省した。

とはいえ、
そんなに完璧な人間同士がお付き合いするわけではないのだから、
それがそこまでうまくいく原理だとは思わない。
それでも基本的には、謝らない関係でいたい。
それは確か。

そうだとすれば、
Love is not to say sorry…とは、
相手に謝らせるようなことをしない、ということをも視野に置いたことばなのかな、と思う。
寛大であることも含めて、お互いに気遣いあえることで謝らない関係を維持することはできたら、それは確かに「愛」と呼ぶにふさわしい関係なのかもしれない。

Love is not to say sorry

知は、現場にある。

2007-07-25 15:11:39 | 
「知は、現場にある。」


この前買った好井裕明『<あたりまえ>を疑う社会学』(光文社新書)のしおりに書いてあった言葉である。
光文社新書は、その本のテーマにあわせて、しおりに書く文言が決定されるらしい。なんとにくらしい試みだろうと思う。

そして、わたしは見事にそのにくらしい試みに見事にはまってしまった。
このしおりは、これまでもらったどのしおりよりも大切なものになった。

「知は、現場にある。」

そんな美しい言葉が、
誰にでも買える新書の中にはさまれているというそのことが、
なんだか、うれしくてたまらない。

☆★統計マジック★☆

2007-07-12 17:53:49 | 
ここのところ「新書」と呼ばれるものはほとんど読んでなかったのだが、たまたま図書カードの残金が1000円くらいだったので、新書を買ってみた。

それが谷岡一郎『「社会調査」のウソ』だった。
この本が本当に面白くて、つい続編にあたる谷岡一郎『データは嘘をつく』も買ってしまった。
こういう買い方をすることは、本当に久しぶりで、
それだけでも、久々にすがすがしい気持ちになった。


それはともかく、
この二つの新書のどちらにも共通して書いてある文章のひとつに、
わたしは、ひどく感銘を受けた。

それは…、
統計というのはとっても危険な道具であって、
社会調査のなんたるかも調査倫理もわかってない輩が、パソコン上でカンタンに、統計使ってデータ分析しちゃうことは、
子どもにマシンガンを持たせることと同じくらい危険だ!
…ということ。

これは本当にそのとおりだと思う。

「ペンは剣よりも強し」というけれど、
まさに「統計調査はマシンガンより強し」。
社会調査で導き出された偏見のせいで苦労している人、苦しんでいる人、傷ついている人は本当に多いと思う。

わたしが統計を捨てた理由、質的調査に魅力を感じた理由は、
「わたしには強大な武器を持つほどの力はない」
という否定的なものだった。
今では、より積極的な理由で、質的な方法論による調査をしているけれど、当時は正直言って怖かった。だから逃げ出したかった。それだけだった。

データさえあれば(このデータというのもいまや、大規模な社会調査や世論調査であればインターネット上で拾ってこれてしまう)、あとはデータのファイルを読み込ませて、キーを三つも叩けば、恐ろしいほどキレイで強大な分析結果が出てしまう。
「年齢が上がれば上がるほど、自民党支持者が多くなる」ことも、
「都市社会より地方のほうが保守政党支持者が多い」ことも、
わたしは、大学1年生の時点で、自分で導き出すことができた。


ネット上でデータを拾って、キーを三つ押す。
そんな、子どもでもできそうな簡単な操作だけで、日本社会をわかりきったような気にさせてくれる。
…そんな統計ソフトが恐ろしく怖くて怖くて、
こんなものもう一生触るものか!…と思った。

実際、それからもう8年以上も触っていないことになる。
代わりに、わたしの手元にあるのは、ノートとペン、ICレコーダーだけだ。
そんな誰でも電気屋に行けば買えるものだけでわたしは十分だ。


そういえば、
心理統計を専門とするある先生のしたで卒論を書いていた友人が、「統計マジック」という言葉を使っていたのを思い出す。
「どんなデータでも最後は「統計マジック」でなんとかなるから」
…なーんて言っていたのではなかったっけ?
実際、彼女は「統計マジック」を使わずとも、まっとうな結果を出せていたようなので安心したけど、「統計はマジックである」というその認識に苦笑いせざるを得なかった。


先日、看護学校で「考えているものあて」ゲームをしたときに、わたしが出題者に「それはどんな用途で使うものですか?」と質問したら、自衛隊員だった彼は「守るためのもの」と答えた。
正解は「戦車」。
出題されたわたしたちは、結局、正解を当てることはできなかった。
わたしたちにとって、「戦車」は武器だった。「人を殺すためのもの」「人を傷つけるもの」。


「人を傷つけるもの」は「人を守るためのもの」でもある。
この二つは紙一重だ。
だからきっと、大規模調査も統計も、「人を守るためのもの」になりうる。
だけど、それだけ大きな力で人々を守ってくれた統計調査を、
わたしはまだ知らない。