KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

文化祭は特別活動です

2006-06-28 17:40:51 | 研究
先週末、母校の演劇部の手伝いにいったとき、
ちょっとした問題に巻き込まれました。

わたしの母校、OTK高校は近年、金曜日に校内発表、土曜日に一般公開で文化祭を開催しています。
わたしは金曜日から演劇部のお手伝いをしていたので、校内発表のときの公演も、一般公開のときの公演も見ています。

それで…問題になったのは、何かというと、校内放送の利用です。

文化祭だとよくありますよね。「今から体育館でライブやるので見に来てください」とか「英語部が劇をやるので見に来てください」とか…、きまった時間内で発表を行うような団体は、校内放送を使って、自分たちの発表の告知をします。
どこの学校の文化祭にも見られるよくある光景です。

OTK高校演劇部も、例年、公演の前には校内放送をして、客を集めておりましたので、金曜日の校内発表のときも、校内放送を使って、客を集めました。

このときは、なにも問題なかった。
他の団体も校内放送をふつーに利用してました。

問題になったのは、次の日です。
午前中に演劇部企画で開催したシンポジウム「マイ・ブーム」の告知をしてもらうため、わたしが現役生に「シンポジウムの校内放送してきてよ。」と呼びかけました。現役生も「そうだ、そうだ」という感じで返事をして、すぐに放送室に駆けていき、校内放送が始まりました。

それから、約1時間後。シンポジウムも終え、今度は公演の告知をしようと放送室に向かおうとする現役生を、顧問の先生が呼び止めて、何か小さい声で注意しているのが見えました。

現役生は、事前に約束されたとおりのことしかやっていないし、
何かわからないときは、わたしを含めたOGやOBが助言していたので、わたしは不安になりました。
彼ら/彼女らが何か、怒られるようなことをしたのだとしたら、それはわたしの責任だと思いました。
だって、彼ら/彼女らに一連の助言や指導をしていたのは、わたしたちですから。

なので、すぐにその場に行き、
「何か、不都合がありましたでしょうか?」
と、注意をしていた顧問の先生に尋ねました。

すると、顧問の先生は、ものすごくバツの悪そうな顔をして、しばらく沈黙した後、
「…いや、校内放送はダメだから。」

とおっしゃいました。
なので、わたしは、「え。だって、いつも平気だったし、昨日は他の団体も校内放送使ってましたよ。」と言いました。
だって、おかしいじゃないですか。昨日は良くて、今日はダメなんて。

すると、顧問の先生は、「…昨日は、でしょ。」
と言ったあと、「今日は、図書室で会議があるからダメなんだって。」と事情を説明してくれました。
そしてそのあと、「…俺も、こんなときに会議やるなんておかしいと思うんだけどさ。」と付け加えました。

まったく、その通りです。

学校関係者のみなさん。教員のみなさん。わかってますか?
文化祭は、「特別活動」なんです。
きちんと、生徒に保障されなければならない、教育活動なんですよ!?

そこで行われていたのが、どんな重要な会議なのか、わたしは知りません。
その日の前日に学校付近で不審者が出たとかいう話もあったし、そのための緊急会議だったのかもしれません。
(まぁ、それだったら、わざわざ図書室で一日かけてやることもないだろうから、当然、違いますが)

それにしても、なぜ、校内放送が利用できなくなるのか、まったくわかりません。
しかも、突然に…です。
さらに言えば、現役生の様子を見たり聞いたりするかぎり、事前になにも連絡されないまま、突然、流れの中で決まったみたいだし。

事前説明もないまま、すぐに注意や説教が発動されるなんておかしい。
相手が生徒だから許されるんですか?
自分より目下のものだから、どんな不合理なことをしても許される…ってそんな論理が垣間見えてなりません。
本当に不愉快。
生徒の私物化もいいところです。

教育活動もまともに保障できんくせに、えらそーなこと言うな!
…とこの場を借りて申し上げたい。

しかも、高校だから、生徒はちゃんと金払ってきてるんですよ?
わかってるんでしょうか?

わたしやGK氏は一銭もお金もらわなくったって、演劇部の生徒たちに、どうやったら意味ある経験をしてもらえるか…って、いつも必死に考えてます。

他のOBやOGたちだって、そりゃぁ、第一義的には自分たちが楽しみに来てるだけかもしれないけど、現役生に自分たちと同じように楽しい経験がしてもらいたい…って、「芝居は楽しい」…って思ってもらいたいと思って、無理矢理、休みあけて手伝いにきてる。

それなのに、生徒たちに教育的な機会を提供する職業にある人たちが、そんなふうに、生徒の教育機会を疎かにして、さらに、邪魔までしているのかと思うと、なんだかすごく悲しくなるのです。

教員って授業してれば、それでいいの?
そういう時代になってきた…って話には聞くけれど、それをものすごく実感してしまいました。

現場の教員は忙しいから。…そんなことわかってます。
だけど、そのせいで、生徒の教育機会まで奪われているのだとしたら、それはさすがに、断罪すべきだと思うのです。

授業と秩序

2006-06-26 15:38:21 | 研究
先日、参加した他の専攻のゼミで、わたしと同期の院生が、博士論文の序論を発表した。彼は、ニクラス・ルーマンの社会システム論における「秩序」概念=「エントロピーの相対的な減少」を説明したあとに、こんことを言った。

「体罰を行う教師の前だと秩序が維持される。」だけど、他のある先生の前では歩き回ったり、私語もあったりして、秩序が維持されていないのだ、と。

この論理は二つの意味でおかしい。一つは、中立的な「秩序」概念に基づくといいながら、結局、素朴的なシロウト考えの「秩序」概念で現象を説明している点。


もう一つは、体罰という行為を必要とすること自体、(素朴的な意味での)無秩序を前提としていることを調査者が見逃している点だ。

ともかく、素朴概念としての「秩序」は、誰の目にもあきらかで、かつ、根拠もなくよいものとされていることはよくわかった。

しかし、この素朴概念としての「秩序」。学習にとってどのくらい必要なものなのだろうか?

国語の非常勤講師をしていたわたしの知人は、「わたし、「友達先生」だからよくないんだよねー」と言っていた。
わたしはいまだに、彼女が言おうとしていたことがわからない。言葉を教える科目に権威が必要な場面なんて、それほどたくさんあるのだろうか?

わたしは、どこに行ってもいわゆる「友達先生」だ。そして、そのことをあまり悪いと思ったことがない。わたしが教えているのは、言葉であり思考方法なのだから、権威を持ち出してきてはいけないとおもうのだ。
よりすっきり整理できる方法、他者に理解可能な言葉の使い方。
それらは、本人がきちんと自分なりに取り込んでいくべきものだ。

そんなとき、「秩序」なんて、はたしてどれだけの意味があるのだろう?

筑波オタク研究会への批判

2006-06-23 21:59:33 | 研究室
USAM島さんから、「Googleで「筑波オタク研究会」のブログ探そうとしたら、「筑波オタク研究会」の批判記事を発見しちゃいました!」というご報告をいただいたので、さっそくチェックしてみました。

確かに、確かに。ありました。
興味ある方はチェックしてみてください。
「オタク研究会」でググってみれば、下の方に出てくるはずです。

批判の内容としては、ようするに、以下の2点でしょうか。

①「オタク」なんて名前で銘打ってしまったら、オタクというスティグマを背負ったホンモノのオタクなんて来るはずがない。

ゆえに、

②そんなオタクの心情も理解できない人たちが集まったって何も本当のオタクのことは理解できない。

というものでした。

いやはや。そのとおり。
だからこそ、今いるメンバーには、いわゆる「濃い」感じの男オタクはいません。
この記事の指摘の中で前提されている「ホンモノのオタク」には、もしかしたら、出会えないのかもしれませんね。

でも、それは想定してました
だって、本当に自分の経験を対象化できないほどの「オタク」の人々は、この研究会に興味すら持たないだろな…って思っていたからです。

自分自身のオタクとしての経験、メディア・テクストへの深いかかわりの経験から一歩距離を置いて、それを研究として眺めなおしてみようと思ったとき、この研究会が少しでも役に立ってくれたらな…ってそれだけでした。

だから研究会には、オタクもオタクでな人も、漫画すら読んだことない人もいます。メディア・テクストとのかかわりかたは本当にさまざま。
そのメンバーたちがかかわりあうなかで、わからない人に自分の経験を理解可能なかたちで提示していく中で、自分の中の経験が整理できる。一歩はなれたところから眺めなおすことができる。

そういうことに意味を見出す人に、わたしたちの研究会が役にたってくれればそれでいい…って思います。

本当のオタクの人たちが、自分自身のプライベートでマイナーな経験を、共振しあうように交流する場なら、ネットで十分。イベントなどでのやりとりで十分です。
そのための場はすでに用意されているのだから、そこで十分に自分自身の経験を共有したり、傷をいたわったりすれば、それでいいと思う。

今、望まれているのに、その場所がないのは、アカデミックな形で…あるいは、何か一歩自分自身の経験から距離を置いた形で、オタクとしての経験、メディア・テクストに関するプライベートな感情や経験を捉えなおす場なのだと思います。

わたしたちの研究会はそういう人たちを参加者として想定している。
そして、そういう人たちは、自分自身を「オタク」として語ることのリスクを引き受けた人たちだと思います。
少なくとも、そういう人たちが、どうにか自分の経験を語りだす支援をしていけるなら、わたしはそれで十分なのです。

少なくとも、メンバーはみんな「あってよかった」「あの場所はいい」って言ってくれる。
わたしにとっては、それで十分すぎるほど、十分です。

わたしがいつまでも高校演劇に関わる理由

2006-06-21 16:14:33 | 趣味
先日、ついに高校演劇の地区大会が終わりました。
わたしの母校の演劇部もなんとか、出場できました。
いろいろ、あったけど、やっぱり地区大会終わると「やってよかったな。」…って思う。
今回は、その思いがひとしおでした。

今回、上演したのは以下の作品。
「飛びます boy’s version フライングロマンスは突然に…」
http://www.geocities.jp/ootakibobonosu/

原作は、スチュワーデス3人のコントが展開しながら、環境問題的なテーマに絡んでいくような、そんな作品。
この演目をわが母校の演劇部が上演するのも、もう3回目でしょうか。
ちなみに、初代スチュワーデス1(女王様系スッチー)を演じたのは、他ならぬわたしです。
あのときは、体重が60キロ以上あったから、まったくスチュワーデスには見えなかったなぁ………orz

ただし、今回はひと味違いました。
何しろ、スチュワーデス3人中、2名が花もはじらう男子高校生(15歳♪)ですから♪
………そんなヤオイストの要らぬ妄想はともかくとして、今回はかなり心配でした。

何が心配か…って、一番心配なのは、「舞台に立って良かった」「これからも舞台に立ちたい」…っていう経験をさせてあげられないことです。

舞台の出来映えなんてどうでもいい。
予定調和のドラマみたいな舞台より、まったく破天荒でストーリーなんてわからなくても、エネルギッシュで、役者がきらきらと爆発しているような、そんな舞台の方が断然良い!

予定調和の美しいストーリーが見たいなら、小説で十分です。
完璧な世界を実現するために、文字という手段がある。
誰にも通じる完璧な世界に、肉体なんて不要なんです。

だけど、演劇ではあえて身体を中心的なメディアとして用いる。
ストーリーを見せたいのだとすれば、これは、本当に劣悪なメディア的手段だと言わざるを得ません。
人間の身体は、バラバラ。
完璧に同じような行動をできる人は二人と存在しない。
そんなバラバラで、偏った不完全なる身体を用いて、わたしたちは一体、何がしたいのか?

答えは簡単。
そのバラバラな身体、不完全なる身体が引き起こす軋轢そのものを見たいのです。
その不完全さこそが美しいのです。

不完全な身体の中にある、完全なる美しさ。
わたしはそれをこれまでもずっと愛してきたし、これからも愛していくのだと思う。
そういう、不完全な中にある美しさを見る、その萌芽。
それは、「舞台に立つことの楽しさ」の実感だと思います。

だから、「楽しい」って思ってほしい。

この世界の中にあなたの居場所はないかもしれない。
少なくともあなたはそう思っているんだろうね。
だけど、舞台だけはあなたのことを必要としてくれている。
だって、不完全さこそが美しいのだから。
あなたが不完全であるという悩みを抱える限り、
舞台はそれを受け入れてくれる。

わたしにとって、舞台ってそんな場所でした。
だから、舞台って好きだ。そしてそんな経験が今のわたしの研究の根幹にあることも間違いない。

だから、わたしは完璧なプロ演劇よりもドラマよりも、
やっぱり高校演劇が好きなのです。

ラビット病

2006-06-16 23:18:46 | わたし自身のこと
「うさぎってね。淋しいと死んじゃうんだよ。」
…あらゆる人々の心をとらえる有名なエピソードです。

現在のわたしは「ラビット病」。
孤独でいっぱいになって死にそうです。

なんどもこのブログで言っていますが、
研究をしてるときは、本当にすごく、楽しい。
だけど、これ以上ないほど孤独なのです。
自分がただ一人だけの世界に閉じ込められてしまって
「あなたはこの先もここで一人で過ごすのよ」…って宣告されてしまったようなそんな気分なのです。

しかも、これから先は、しばらく調査できないんだ…って思うと、あまりに先の見えない淋しさの渦に絶望的になります。

ヤオイにかかわってきた女の子と話してきたことも、
アニメ部やイラスト研究会や美術部の調査も
高校生ウィークの調査も、本当に本当に楽しかった。

今、わたしが整理しようと目の前に広げた資料からは、あまりの楽しさにきらきらと輝いているわたしだけが映されています。

でも、今のわたしは、たった一人。
これからもしばらくずっと一人。

そう考えると、いても立ってもいられなくなるのです。
未来に希望が持てなくなる。

とりあえず、来年も高校生ウィークでボランティアをするぞ、と心に決めておこう。それだけを心の希望にして生きよう。

「瑠璃子さんは楽器だった。でも薫さんは音楽そのものだった。」

2006-06-15 19:27:44 | 
また小川洋子の小説を読み始めてしまいました。
今度は小川洋子『やさしい訴え』です。

わたしは、小説を読むとき、けっこう解説から先に読んだりする(←邪道)タイプなのですが、『やさしい訴え』の解説の中に印象的な言葉がありました。

「瑠璃子さんは楽器だった。でも薫さんは音楽そのものだった。」

瑠璃子さんというのは、主人公「わたし」です。
(小川洋子の小説は「わたし」による一人称の語りの中で物語が進行します)

この小説は、繊細で完璧であるがゆえにチェンバロを弾くことができなくなってしまったピアニストの男性とその女弟子の薫さんとの暮らす場所に、瑠璃子さんが入り込むところから始まります。みんな、悲しい過去、つらい過去をもっていて、三人はそのそれぞれの傷を癒しあうようにそれぞれの関係を紡いでいきます。

そんな中で、瑠璃子さんは男性に心惹かれていくのです。
自分が作り出すチェンバロの音のように繊細な、その男性に。

瑠璃子さんは、その男性と身体的に結ばれるのですが、ある日、見てしまうのです。
その男性が、薫さんの前でチェンバロを弾く…その姿を。
誰の前でも弾けなかった…、そして、瑠璃子さんがどんなに頼みこんでもひいてくれなかったチェンバロを、その男性は弾いているのです。

その瞬間、瑠璃子さんは思います。
自分が身体的に結ばれているのとは、それよりもはるか遠くかなたのところで、この男性と薫さんとは結びつきあっているのだ…と。

男性は言います。
「彼女の前だと弾くことができる。」「だけどそれは自分でもなぜかわからない」…と。

このような物語について、音楽家でもある解説者が述べたことばが、これです。

「瑠璃子さんは楽器だった。でも薫さんは音楽そのものだった。」

わたしも音楽に長いこと関わってきたものとして、なんだか、とてもよくわかる気がするのです。

「彼女の前だと弾くことができる」…という、その関係性の美しさと、それゆえの残酷さが。

理由なんて誰にもわからない。もちろん本人自身にも。
あらゆる人間関係のスキルも「優しさ」も何もかものりこえて、ただ、「彼女の前だと弾くことができる。」
彼女がいることで、彼女という存在があるというそれだけで、フワリとすべてのものが開かれ、音楽そのものが流れ出てくる。

…そんな深く遠いところでつながりあっているような関係性。
誰もその関係性の中には立ち入ることすらできない。

それは、あまりに美しく、あまりに残酷です。

わたしは、わたしの愛する人にとって音楽そのものとして存在しているのだろうか。…そんなことを考えます。
そうだったらいいな、と思う。
誰にも立ち入れない、はるか遠くにある関係性を、わたしが開くことができるのだとしたら、それは本当に美しいことだと思うから。

もちろん、楽器であるとしても、それはそれで十分なのだけど。

楽しい!テスト作成入門

2006-06-14 16:16:24 | お仕事
専門学校で働くようになってから、
やたらとテストを作成する機会が増えました。

しかも、敬語やら四字熟語やら慣用句やらといった、ことばの知識に関する問題。

…言っておきますが、
わたし(と妹)は慣用句とことわざは、けっこう、よく知ってますよ。

「言葉は変化するものなんだ!」
「古い言葉を強制的に懐古させことにどれほどの意味があるんだ!」

…と学問上は主張しつづけているわたしですが、それほど、そういうものがキライだというわけではないんです。

しかも清水義範のパスティーシュ小説に馴染んでたりするから、慣用句やらことわざのテストを作るのが楽しくてしかたない。
きゃほきゃほ言いながら、作ってます。

特に楽しいのが、意味の一致・不一致を判定させる問題。

例えば、こんなやつ。

Q:次のことわざとその意味が対応しているものには○を間違っているものには×を記せ。

①ことわざ:「かわいい子には旅をさせよ」
 意味:「子どもを育てていくためには、子どもの好きなことをやりたいようにさせるべきである。」

当然、答えは「×」。
…まぁ、この程度の一般的に「間違いやすい」「誤解されている」問題は、ネットで検索かければすぐに出てくるようなやつなので、面白くもなんともありません。

面白いのは、こういう「誤解」を自分で作りだす作業です。

「美人薄命」は有名すぎて誤解のうみだしようがないのですが、
「佳人薄命」と言い換えてみると、いろいろ浮かんでくるわけです。

「昔、中国に「佳」という国があって、その国は戦争ばかりしていたので、その国の人々は恐ろしく皆、短命だったという。
すなわち「佳人薄命」とは、「戦争はしてはいけない」…という意味である。」

とか、なんとかかんとか、無理矢理、故事成語的な解釈をしてみる。
(テストにはまったく使えないけど)なんだかすごく、おもしろい!!

これをテストに使えるレベルにするとなると、また、大変な作業になるわけですが…、それをばらすといろいろ問題になりそうなのでここでは割愛。

ことわざになると、もう少し考えやすくなります。
「月夜にちょうちん」=「美しい調和のとれたもののたとえ」
とか。
「月にすっぽん」=「わび・さび、すなわち日本人の美意識を暗喩的にたとえたもの」
とか。
それっぽいでしょ?

でも、やっぱり奇抜に発想が飛んでいくのは、四字熟語だな。
なにしろ、どんな漢字でも、中国の国の名前にしてしまえば、それっぽく話が展開するので(←ひどい話だ)、いかようにでもストーリーが生まれてくるわけです。

ちなみに、慣用句は本当に誤解を生んでいるものが多いので、テストには使えそうなのが多いのですが、考えるのはあまりおもしろくありません。

ぬらりひょんにゾッコン!LOVE♪

2006-06-14 09:52:23 | エンターテイメント
以前から、「学校の怪談」の研究がしたいと言っていることから、
なんとなく、わかっていただけると思いますが、「妖怪」の類が好きです。

いや。違うな。
通常、男の子が妖怪にワクワクするような、そんな「好き」じゃないんです。
もっと、知的な「好き」。
研究対象として「好き」…ということかもしれません。
そう言ってしまうと、ちょっと語弊があるかもしれませんけど。

…そんなわけで、大学の図書館で、
水木しげる『カラー版 妖怪画談』(岩波新書)を見つけて読んでしまったときには大変でした。

わたしが小学生か中学生くらいの頃、「三度の飯より三国志」…という名フレーズがありましたが(…そのときの、わたしはまさにそんな感じだったので(凹))、まさに、「三度の飯より「ぬらりひょん」」という感じで、ぬらりひょんにはまってしまいました。

このような次第ですので、わたしの「ぬらりひょん」への思いを熱く語らせていただきたい!

ぬらりひょん。最高だよ!いいよっ!ホントにすごい。
ちょっとネーミングがまぬけだけど、やっぱり、いいっっ!

ちなみに「ぬらりひょん」というのは、
夕方、店の忙しいバタバタしているときに、ゆったり堂々と何の気なしに入ってきて、ゆうゆうとお茶を飲んでいたり、その店の主人の煙草をふかしていたりする…そんな妖怪。
ぬらりひょんの風貌は大家の主人のようだし、あまりに、あたりまえに堂々と入ってくるので、誰も気付かない。
気付かないままに、堂々とゆったりとその店に入ってきて、あたかも主人のようにお茶を飲んだり、煙草をふかしたり。

でも、誰もその存在に気付かない。
あまりにもあたりまえに振る舞うから。あまりにもあたりまえの風景だから。

そして、ぬらりひょんはこんなに存在感がないくせに、なんと、妖怪の総大将!!すごい!!どういう仁徳があったんだ!
妖怪の世界のことはよくわからないけど、「もっと存在感のあるやつを、リーダーに選んだ方がいいんじゃないの?」と助言したくなる。…大きなお世話か。

それはともかく、
ぬらりひょんのすごいところは、
こんなに存在感がないのに、誰もその存在に気付いてくれないのに、
それでも堂々と生きているところだ。

なんて、健気なんだろう。
ぬらりひょんは、えらい。

「小豆とぎ」やら「尻目」やら、人間をビックリさせることでしか、自分の存在意義を確認できない妖怪なんて腐るほどたくさんいるのに…、

ぬらりひょんは一人で立っている。

誰にも依存しない。自分自身のために生きて(?)いる。
ぬらりひょん、えらい。本当にすごい。
お前こそ、「終わりなき日常」(宮台)を生きる知恵を身につけた妖怪だよ。

幼女連続殺害事件の犯人だった酒鬼薔薇くんは、「透明な存在としてのボク」ということばを残した。それは、当時、中学生や高校生だったわたしたちの心をぎゅっと捉えることばだった。
酒鬼薔薇くんは「透明な存在」であることに悩み、殺戮によって自分を確認しようとした。
だけど、ぬらりひょんは誰も殺さない。それどころか、嫌味の一つも言わない。お茶を飲んで、煙草を吸って…。それで満足して生きて(?)いるのだ。

本当にすごいと思う。
これほどまでに、それほど誰にも迷惑をかけず、自分のために生きられたらいいなぁ、と思う。

繰り返しになるが、しかも、それで妖怪の総大将なのだ。
他の妖怪からの信頼は得られているのだ。
はっきり言って、すごい。

鬼太郎なんて、まだまだ、器が小さいよね。
「人類救済」だの「正義」だののために戦っているんだから。

「あの月に宇宙人がいるなんて信じられないな」

2006-06-13 16:57:55 | エンターテイメント
ついに。…ついに見てしまいました。

『宇宙大戦争』(1959年、日本)

「鉄橋が浮き上がったり、大型船が山に激突したり、海が凍りつくなどの怪現象が地球各地で頻発した。すべては宇宙人ナタールが地球侵略のために放った"冷却線"によるものだった。科学者グループは世界各国の協力を得て、"熱線砲"を開発。ナタールの前線基地を叩くため、宇宙ロケットで月へ向かうが…。

宇宙空間を舞台に、人類と宇宙人との攻防戦を描いた本格SF。「ゴジラシリーズ」の黄金トリオ、監督・本多猪四郎&特技監督・円谷英二&音楽・伊福部昭による迫力満点の宇宙冒険ロマンである。宇宙ステーションやナタール星人の円盤、宇宙ロケットなど、精巧なデザインとミニチュアワークスは見逃せない。 」
(以上、DVDirect HPより http://direct.nagase.co.jp/dvds/ItemTDV-2970D.html)

どういう立場から感想を言ってよいものかどうか、迷います。
とりあえず、サブカル研究者としては、すごくおもしろかった。

1959年という公開時期を考えると、なんだかすごく感慨深い。
さらに言うと、特技監督の円谷英二氏が沖縄出身だった…なんて裏情報を一昨年のCultural Typhoonで耳にしていたりしたので、本当にいろいろと考えさせられました。

わたしたちを取り巻く世界は、こんなサブカルの集合で作られている。
時代的な状況を反映するのも、新たな世界を提示するのも、こういうサブカル的な世界なんだろうな…とあらためて実感しました。

それほど、とにかく、「戦争」=第二次世界大戦イメージの濃い映画でした。

現代の映画の中で「戦争」という言葉がつかわる場合、単純に「WAR」という意味合いが強い。
なんとなく、争いがあって、派手な闘いシーンがあれば、それは「戦争」という名前で括られます。『妖怪大戦争』なんかはまさにそんな感じですよね。

だけど、「宇宙大戦争」は違う。
戦闘ロケットには、きちんと律儀に日の丸がかげられている。
「人類を守るための闘い」…とかセリフでは言ってるくせに、ちゃっかりナショナリズムを組み込んでる。
世界会議は公用語としての日本語で行われる。場所も当然、東京・日本。
宇宙船の乗り組み員も半数が日本人だし。

どう見ても、残されるイメージは、日本、対、宇宙の「宇宙大戦争」。
すごい!
当時の人々はこれを、なんの疑いもなく見ることができていたんだろうか?…と考えると、当時の人々との思考のギャップに唖然としてしまう。

でも、翻って、じゃあ、今のわたしはどうなんだ?…と考えてしまう。
公用語=英語の世界会議に、わたしは違和感を感じるだろうか。
乗り組み員のほとんどが米国人だったら?
『ディープ・インパクト』なんて、アメリカ、対、宇宙を明確に打ち出してる。
…そんな映画にわたしは違和感をそれほどまでに感じていただろうか?

「宇宙大戦争」ほど、嘲笑しながら、わたしは『ディープ・インパクト』を観ていたのだろうか?

そう考えると、わたしが今持っている、「あたりまえ」がまったく当たり前でないことに気付かされる。
「欧米化」「アメリカ化」やら「マクドナルド化」やらと呼ばれている、その思考形態は、まさにわたしの思考形態であったのだ。

…とはいえ、言い訳をしておくと、
やっぱり、わたしにとって『ディープ・インパクト』は、やっぱりお笑い映画でしかなかった。
当然、『宇宙大戦争』ほどではないにしてもね。

読書依存症

2006-06-09 16:10:51 | 趣味
「kimistevaは、カフェイン依存症です。」
…と公言していたら、みなさんからインスタント・コーヒーを大量にいただきました。ありがとうございます。
たぶん、全部、一人で飲みます。

それはともかく、最近、読書依存症です。

2日前に、「うちにある文庫、ほとんど読み終わっちゃったなー。」と思ったのですが、「まぁ、ガマンしよう。」と放っておいたら…、
ついに禁断症状が!!

大学に来て、ネットを開くと、いつの間にか、AMAZONで好きな作家を検索してます。それが終わると、古本ネット。そして気がつくと1時間経ってたりします。最悪です。

…毎回、出る結果なんて同じだってわかっているのに…。
なんでこんなに、本を欲しているんだ、わたしは。謎です。
お金も時間もないのに、なぜ、本が読みたくなるんでしょう。
きっと、アルコール依存やタバコ依存の人もこんな感じなんでしょうか?

ああっ!このままだと、仕事にも学業にも支障が出てしまう…。
早く書店か古本屋に行きたいよぅ。

今から歩いて、ブックオフに行こうかなぁ。
いや、行くべきだ。行こう。