KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

気にしすぎなのか/無頓着なのか

2006-03-28 23:26:17 | フィールド日誌
前の記事に書いた一件に巻き込まれて、精神的にボロボロだったこともあって、
今日はかなり自分の調整が難しいまま、フィールドに入ってしまいました。
来客として入ると、「なにかしなきゃ」って思わない分、身体は自由につかえるのだけど、自分の立ち位置が保証されない分、なんだかすごく居心地が悪いです。
…特に、今日はなんだか、ものすごく来客が少なくて、
ほとんどスタッフ余りの状態で、だから、ホントに困った。
居場所を見つけるのが大変だった。

もちろん、スタッフの大学生や高校生はふつーに話してくれるから、そこまで「どこにいたらいいのーっ!?」っていう感じはないのだけど、なんだか、今日はとてつもなくぎこちない感じだった。
どうしてだろう?
わたし自身の精神がギクシャクしてるからなのかな。
わたし自身がギクシャクしていた結果、いろいろ無神経なことをやってしまった結果、周囲との関係がギクシャクしてしまったのかな。

ともかく、今日はすごく自分自身の対応の悪さを気にする日だった。
なんだか、いちいち、ずっと気にしてた気がする。
ずっとずっと「ごめんなさい」「わたし、何か悪いことしたかな」「今の言葉、気分を害しちゃったかな」「わたしの存在が邪魔なのかな」…って考えてた。

特に、やっぱり、わたしを調査者として見ている担当者の方々の視線が痛い。異様に気になる。
ボランティアとしてシフトに入ってないのに、調査者が来てるのって、やっぱり迷惑かな…っていうのは、ホントにずっとずっと思っていて、今日はそれが爆発してしまった感じ。

特に、なんか、(他の方に許可を得ているとはいえ)、なんかふつうのお客さんがやらないようなことを、高校生のスタッフ(いつもスタッフとして入ってくれているが、今日はお客さん)の女の子にやってもらっちゃったりしてて、担当者の方に「ちょっと。」…って呼び出されたりすると、もうダメ。
「うわっ!やっちゃいけないことしちゃったのかな。ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!」って思う。

…いや、ただ単に、ワークショップに参加させてもらったから、そこで講義された内容をノートしていた唯一の人間として、参加者の高校生や大学生にフィードバックしたかっただけなんですけどね。
で、その手伝ってもらってた子が編集作業とかジャーナリストとかに興味があったから、「良かったらデザインして」…って感じで頼んだだけなんですけどね。

だから、その担当者の方も「ワークショップで聞いた内容をノートにとったから、聞いてたみんなにプリントで渡したくて…」って言ったら、「あ、それならいいんだ。彼女になんかオーダーしたのかと思ったから」…って納得してくださったんですけど…。

でも…。
でも…。
なんで、こんなに罪悪感…っていうか、「やってはいけないことをしたのでは?」っていう気持ちが消えないんだろう。

わたし、ブログがあって、よかったよ。
こういう気持ちを対象化することで、ちょっと落ち着ける。整理をつけることができる。
なんだか、本当に気にしすぎなのか、無頓着なのか、自分では判断できない毎日です。

てか、一番気にしなきゃいけないのは、その例の事件にあまりに悩みすぎて、高校生にまで相談することだと思います。
でも、みんな真剣に相談に乗ってくれた。うれしかったです。なんか最終的には恋愛観談義みたいになって、それはそれでおもしろかったんだけどね。

フィールドにおけるわたしの定義不可能性

2006-03-24 15:12:50 | フィールド日誌
 結局、今日(3/24)に水戸芸術館に行くか行かないかということを、三日間も悩んでしまいました。行くとしたら、20分後には出発しなければいけないという現在になって、ようやく、「今日は行かない」という結論が出る…そんな感じです。

 一週間に休館日を入れて三日休むぶんには、罪悪感もないし、悩むこともないんです。
水戸芸術館は月曜日が休館で、高校生ウィークのカフェがやっているのは一週間に六日。清書版フィールドノートの作成や、今後のフィールドワークの視点を定めるためのノートの検討をしなければならないことを考えたら、休館日以外に二日休みをとることは必要だろうなぁ、というのはなんとなくわかるからです。(また、他の仕事もなんだかんだ言って入ってくるので、二日間はどうしても必要なのです。)
 それに、わたしは「調査者」として学芸員の方々やボランティア・スタッフの方々に紹介されているので、毎日毎日行くのも、現場に対するプレッシャーをかけてしまうのではないかと思いますし、そうすると、やはり必然的に週二日の休みは必要かな、という結論になります。「調査者がいない日」が一週間に一日以下というのは、やはりわたし自身の感覚としては問題だと思うので。

 問題なのは、一週間に四日間もフィールドに行かなくていいのか、ということ。一日は休館日としても、カフェが開催している六日間のうち三日間休むとなると、全日程のうちの半分しかフィールドに行っていないことになります。それでいいのか、というのが悩みどころなのです。わたしにとって、二日間と三日間との狭間は果てしなく大きい。こんなことを言うと、「だったら四日間行けばいいじゃん」と言われそうですが、そんな簡単に結論が出るのなら、さっさとフィールドに行っています。こんなに悩むことなんてないでしょう。
 なんだか、どうしようもない。「こんなことで悩む暇があるならさっさとフィールドに行ってしまえばいいのに」とか「さっさとあきらめて、他の仕事をすればいいのに」とか、自分を非難する言葉はいくらでも見つかります。だけど、そんな単純な問題ではないっていうことは、わたしが一番よく知ってるんです。

 三月中、わたしがカフェ・ボランティアとして入っているのは一週間に二日、週末(土日)のみです。この日は問題なく、フィールドに入れます。わたしはカフェ・ボランティアとしての仕事をしつつ、その場にカフェ・ボランティアとして存在していればいい。この場合は本当に気が楽です。…とは言え、3月中は大学生も高校生も春休み期間なので、必要以上にボランティア・スタッフが多かったりして、学芸員のHさんに「大丈夫?居場所ある?」…なんて気を遣われてしまったりするような状態です。
そんな状態なので、ボランティアに入っていないときには、フィールドに行くのが大変ためらわれるわけです。だから、どうにかフィールドに行くための微々たる理由を見つけては、フィールドに行き、開場から閉場まで居座る…ということをやるしかありません。…というか、やってます。
 3月15日は初日だったので、わたしが企画した「楽書掲示板」ノートの説明書を置くという名目で行きました。これはかなり正当性もあったし、気が楽だった。
 3月21日は、M農業高校生による「ワラ細工ワークショップ」があることを理由にフィールドに行きました。このときは、完全に「客」だったから、けっこう理由としては苦しかったかなって感じ。


 …なんて言ってても、行ったら行ったで結局、ボランティア・スタッフや他の大学生や高校生と楽しく雑談してるんだけどさ(笑)
 わかってるよ。そんなこと。わたし自身が誇りをもって、自分のことを「世界で最も幸せなフィールドワーカーだ」と言えるくらい、フィールドに受け入れられてるなんてこと、わかってる。
 3月21日だって、ただの客として行ったのに、開場前になんとなくその場の勢いで立ち上がった集合写真撮影に、あまりにも「あたりまえ」に混ぜてもらって、ホントに泣きそうになった。わたしが、不安な気持ちでカフェ会場に入ったにも関わらず、スタッフがわたしの顔を見るなり、「お。一人増えた、一人増えたー。」…って言ってくれて、ホントにうれしかった。うれしすぎ。あまりにうれしくて、そのまま一日テンションが高すぎたことはナイショです。
  ふつうに「お客さん」としてウロウロして、キッチンにも寄らずにテーブルで本読んだり、他のコーナーで高校生と話してたりしたら、ボランティア・スタッフの大学生が笑いながら、「ホントにお客さんですねー。忘れてましたよ、存在を。」なんて言いにきてくれるし、本当にうれしくて、泣けます。
 「お客さん」であることに違和感を表明されるって、すごいことだと思う。「kimisteva=カフェ・ボランティアとして働いている人」が前提となっているってことでしょう?なんだか、それってすごく幸せなことだなって思う。すでに、わたしは正統的なメンバーとして認められてたんだ…って実感しました。あんなにキッチンの横でガリガリ、フィールドノート書いてたりするのに…、突然インタビューに行ってしまって、キッチン離れたりしてるのに…、それでも、わたしのことを「あなたは我々(ボランティア)の一員なんですよ」…って言ってくれる。ああっ!なんだか、本当に、うれしくてうれしくて涙が出てくる。
さらには、農業高校生のボランティアの女の子に「姉さん」(ねえさん)やら「姐さん」(あねさん)やら「姉御」(あねご)やらと呼ばれたりして…。kimisteva、感無量。その子はようやく、この日にわたしとようやく話してくれたような子だったので、余計にうれしかった。

 でもね。こんなにフィールドに受け入れられてるからこそ、余計に「この場を壊したくない」「この関係を壊したくない」っていう思いが強くなる。…だから結局、わたしが三日間も悩んでいたのは、フィールドにもっと通う方が関係性を維持できるのか、それとも、フィールドに現在の頻度を守りつつ行く方が関係性を維持できるのかが判断できなかったからなのだと思います
…でも、こういう問題として定位できた時点で、実は結論は決まっているんだよね。で、結局、わたしは今日、フィールドに行くことをあきらめたわけです。

わたしはすでに、「ボランティア・スタッフ」なのだから。
だから、ボランティア・スタッフの参加者として「あたりまえ」に行くようにすることが、今は最も大切なのです。
つまり、基本的にはボランティアとしてのシフトに入っている日に来ること。それ以外の日にちは「来客」として来るモチベーションが「説明可能な形で」わたし自身にない限り、フィールドには行かないこと。すなわち、フィールドで常に「調査者」以外の形で自分自身の立ち位置を説明することができるような状態でフィールドに行くこと。
それは、「借りたものを返しにきました」でも、「友達に展覧会を見せたかったんで、ついでに。」でも、なんでもいい。とにかく、調査目的以外の説明の仕方で説明できるような立ち位置を確保できない限り、わたしはフィールドに行くべきではない。

それが、芸術館から遠いところ(バスで1時間半)に住んでいる、カフェ・ボランティアである大学院生の、わたし自身のフィールドでの立ち位置なのだと思う。

BRIOCHEAL SENTIMENT

2006-03-24 07:03:09 | わたし自身のこと
遠く遠く、はるか彼方の地に住んでいたある方の部屋のコーヒーサイフォンが、今、わたしの目の前にある。
その事実に、なんだか、泣きそうになってしまう。

…この場合、わたしが泣きそうになるのはまったく筋違いであって、寂寥感にひたるのは彼の方であるべきなのだけど。

わたしって、シャーマニスティックだよなぁ…と感じるのは、こんなときだ。「うつる」…という日本語がもっともしっくりくるような感じ。
写る。映る。そして、移る。

共感でも、追体験でもない(なぜなら、当該者が本当にどう感じているのかはわたしには永遠にわからないから)。ただ、「うつる」。その出来事を出来事たらしめている、さまざまな痕跡がそのままわたしの中に刻印される。
…あたかも、わたし自身がそこにいて、まったく同じ出来事を同じような立場で共有したように。

こんなとき、人を励ましたり、人を支えようと言葉をかけるのはとても困難だ。いつも不安に襲われる。

「パンがないならブリオッシュを食べればいいのに。」
…わたしの言葉がこう聞こえてしまうことがあまりにも多いから。
わたしがどんな状況でも、結局、わたしは外部の人間だからね。どんなに傷に触れようとしても、傷を受けた本人との間には大きな壁がある。

わたしのせいではない。
相手との関係性の中で、たまたまそうとられてしまっただけだ。
…そう言い聞かせてはみるものの、傷つけた事実は変わらない。

言えることなんて、山ほどある。言いたいことも山ほどある。だけど、それを二人称の「あなた」に向かって言えるかというのは、また別の問題。自分自身をフィールドの磁場(=マイクロポリティクス)に巻き込ませて、そんな自分自身を遠巻きに眺めてみると、自分の言えることことのあまりの少なさに気付く。

「だから、わたしはそもそも部外者なんだから。」…と、そんなことを言ってみたところでしかたない。なにしろ、『リリィ・シュシュのすべて』を観て、生きている自分にリアリティがなくなり、自殺しなければと強迫的な思ってしまうような人間なのだから。

だから、結局、わたしにできることは、今、目の前にあるコーヒーサイフォンを受け入れることだけなのだ。
アルコールランプもないし、使い方もいまいちわからないから、コーヒーは結局いれられないのだけど。

サルでもわかる「人体模型の夜」のつくりかた

2006-03-23 22:04:28 | 趣味
本番から一日あけて、ようやく、舞台についての感想をいただくことができました。結果から言うと、おおむね好評。

まぁ、好き勝手集団JUNK★BOXは、T大学マジシャンズクラブを母体とした団体ですし、来る客もほぼ全員、マジックの舞台を見に来ているわけですから、「好評」と言ってもそのまま、受け取るわかにはいかないんですけどね…。

なんて言ってはみるものの、やっぱりちょっとうれしい。
少なくとも、オーディエンスを考えながら、芝居を作ることはできたのかな、と思う。それだけでも、わたしは以前よりも一歩、成長できてるなって実感する。

実は、今回の芝居の演出は課題の多い仕事だった。
できるかどうか不安…というよりは、むしろ「当たって砕けろ」という感じだった。「できなくても知らない!」って思わないととてもじゃないけど引き受けられない感じ。だから、その辺りは座長のA氏にも伝えて、「だから、週一回ディレクションをするだけの関わりしかしないよ!」…って言っておいた。

…結果的には、それは役者陣にとってもよかったみたい。
演出が適度な距離をとってくれるってのは、役者にとっても良いことなのかもね。

なにしろ、「出演メンバーが決まった!」って言ってから二回もメンバーが増えたり減ったりするし(このあたり、ホントに「大学生」って感じですよね。良くも悪くも)、そのたびに「どうしても無理だから、kimistevaが脚本書くべきだ」とか依頼されたりするし(←絶対無理。そこまで責任負えない)、A氏はホントに作品優先主義的な人だから、構成や演出を暴走させようとするし…、なんだかいろいろ困難の多い仕事でした。

しかも、今だから言うけど、基本的にエンターテイメントを優先させるような芝居、成功させた試しがないんですよね。
だけど、基本的にメンバーはマジシャン=エンターティナーだから、やはり生かすとしたら、エンターテイメント性を重視した舞台を作るしかないわけだし、だとしたら、いったい何ができるだろう?…って考えるところから始めていきました。

結果的には、昨年末にみた「FOOL B」でのheterogeniousによる「変身」(原作:カフカ)のパフォーマンスにインスパイアされる形で、「恐怖」…というか、異なるものが日常の中に入り込むその「おぞましさ」みたいなものを出せたらいいなぁと漠然と思うようになり、たまたまうちに置いてあった劇団リリパット・アーミーの脚本集(?)から中島らも「人体模型の夜」を選びました。

※ちなみに「人体模型の夜」は小説もあり、それも中島らもが書いているのですが、そちらと脚本の話はまったく別物のようです。「はなびえ」の方はストーリーそのものは同じらしいですけど、「骨喰い女」の主人公は小説版だと男になっているそうな。(※わかぎえふ(リリパットアーミーの座長)が中島らもに「一人芝居がしたい」と駄々をこねたらしい(笑))

…小説が原作だから、それほど、芝居として出来が悪くてもストーリーの面白さは伝わるだろうという苦肉の策としての意味合いもありました。あっはっは。

まぁ、でも金とってきちんとやれるような劇団ではないので、舞台装置も作れないし、限界が多いので、そこら辺りは脚色していきました。「はなびえ」のエンディングなんてほとんど全てカットして、その場で役者と相談しながら作りました。当然、オープニングも脚本には書かれてません。

「ドレスを着たきれいな女の子が、自分の愛する男性のために死のうと決意しつつ、最後の死に化粧として、口紅を塗る」

…っていうシーンがやりたいつっっ!

…という、ほとんどヤオイスト同然のノリで、オープニングを作りました。
が、そんなわたしの妄想パワー暴走中のオープニングもなかなか好評だったので、自分でビックリです(笑)

映画やら舞台やらパフォーマンスやらは、好きでよく観に行くのですが、やっぱりそういう中で、自分にとっての「魅力的なもの」を増やしていっていたようです。
今回、演出してみて、わたしの中でそういうものが増えていたことにあらためて気づき、本当にうれしくなりました。

「魅力的なもの」「美しいもの」をもっともっと発見していきたい。
その引き出しが多くてはじめて、いろいろなものを美しいと見ることが出来ると思うのです。
わたしにとって、芸術の意味、アートの意味とは、果てしなくつづいていくありきたりの日常を「美しいもの」「魅力的なもの」として読み替えていくための、ツールになるところにあります。

だから、わたしはやっぱりアートが好きだ。

そんな意味をこめて、開場前の一シーンをアップします。

舞台の上の果てしない美しさ

2006-03-22 20:58:24 | 趣味
こちらの写真は「骨喰い女」から。

ある方にデジタル・カメラを借りてきてから、
何を撮影しよう…とずっと悩んできた。
わたしが美しいと思えるもの。わたし自身の見いだせるような美しさってなんだろう?残しておきたいと思えるような、そんな瞬間ってなんだろう?とずっと考えてきた。

今日、その答えが出た気がする。
わたしは、やっぱり、人間が一番美しいと思う。
人間が存在することの美しさが、外に漏れ出てしまったようなそんな瞬間が。

わたしが舞台を愛するのもそんな理由だったと思い出した。
稽古場は、その人がその人として存在すること、そのものの美しさを見いだし、それを表へと転換していくような空間だし、
舞台照明や音響は、その美しさを誰にも理解できるかたちで、ひとつのアートへと高めていく形で噴出させる装置だ。

だから、わたしは舞台上に噴出した人間の美しさが
もっとも美しいと思える。

日常の「隙間」:「人体模型の夜」公演終了

2006-03-22 20:51:37 | 趣味
ついに、好き勝手集団JUNK★BOX公演「百鬼夜行」終了いたしました。
kimistevaは第一夜の「人体模型の夜」(作・中島らも)の演出をしたので、一応、関係者です。

演出として、いろいろ反省は残りましたが、
kimistevaは、演劇を「アート」としてやっているというよりは、
どちらかというと、「人間に対する関心」からやっているので、芝居が終わってみんなが楽しそうに「やってよかったー!」と言っていたり、「今度は三谷とかやってみたいよね…ってみんなで話してたよ」とかいう報告を聞いただけで、満足です。

本番より、稽古の方を何十倍も大切にする人間です。
だから、本番なんて、それほど気にしないんですよね。
自己満足な芝居作りですみません(笑)

それはともかく、今回は無謀にもちょっとチャレンジングなことをやってみました。
…というよりは、やらざるを得なかった、という方が正確。
ようするに、照明いじれる人もいないし、施設にもそんな設備がなかったので、誰でもいじれるアカリでどうにかしなければいけなかったんです。

そんな条件も加味して、
中島らも原作「人体模型の夜」から、日常的な生活の中に異世界のものが入ってくるような二つの脚本を選んで、やりました。
具体的にいうと、「はなびえ」と「骨喰い女」です。

ちなみに写真は、「はなびえ」より。

懐中電灯の灯りも、ハロゲンの灯りも…デスクライトの灯りも、
わたしたちは普段、それほど注意して見ることはありません。
だけど、こうして、舞台の上に立ててみると、
それらの灯りの肌理があらためてフワリと浮かびあがってくるような気がします。

日常なにげなく見ている風景に、異なるものが入ってくる瞬間って
きっとこんなんじゃないかなあ、とわたしは想像するのです。

ラジオから聞きなれない音が聞こえてきたら、
わたしたちは普段聞いていたラジオの波長にあらためて気付くはずです。
常識としていたものがどのようにして構成されていたのか。
そして、今みているものはそれとどこが違うのか。

そんなことを考えて作ってみたわけですが、
そんなことは演出しか考えてないのかもしれませんね。

芝居なんてそんなもんだよ。


優しさと狡さの間で

2006-03-21 13:36:33 | わたし自身のこと
昨日、ある方に「あなたはずるいんじゃない。優しいんですよ」と言いかけて止めました。

わたしの方に「優しさ」と「ずるさ」に関する明確な定義がない限り、水かけ論になることはわかりきってましたから。
明確な定義のないままにポジティブ用語を産出することで満足するほど簡単な人間なんて、わたしの周囲にはほとんどいません。
だからせめて、「優しさ」と「ずるさ」の定義を提示した上で、「あなたは優しいのだ」と言いたい。…そう思いました。

でもよく考えてみると、人間関係論的な意味で「優しさ」「ずるさ」を定義しようとすると、うまくいかないんですよね。どちらも、自己の行為の根拠として、他者の存在が根深く入ってきている様態を表す言葉なわけです。「自己の根拠としての他者」…ですかね。(…難しい議論で申し訳ありません)

例えばですね。
わたしは現在、USAM島さんとともに、地図上の道案内課題における学習者の相互行為を分析しているのですが、その中で、学習者の道案内の仕方が変化していくことがわかった。当初行われたのは、「右に行ってください」「はい」「で、まっすぐ行ってください」…てな感じで、指示と指示へと応答の繰り返しだった。だけど、回を重ねるにつれ、少しずつ変化して、最終的には「そこに、建物があるよね?」「建物?…あるある。うん。」「それを、右。」てな感じで、お互いの了解事項を確認しあいながら、共有された情報を少しずつ増やす形で道案内が行われていくようになる。
わたしは、この変化を見て、「ああ。聞き手が他者として立ち現れたんだね」…とUSAM島さんに言った(この分析視点は却下されたので、せめてブログで言っておきます(笑))

この変化は、「優しさ」としても「ずるさ」としても説明できる。案内役は聞き手の知識に配慮する「優しさ」を獲得したとも言えるし、聞き手を自分の意図したように動かす「ずるさ」を獲得したのだとも言える。
「優しさ」と「ずるさ」はあまりにも似ている。だから、誰もがそれらを混同して、被害妄想にとりつかれたり、自己否定感にとりつかれたり、…逆に相手を非難したりする。

つまり、異なるのは、その「他者」なるものがどういうものとして、その人の中に立ち現れているか、ということだけなのだ。
愛情の向けられる先としての他者であれば、それは「優しさ」だし、自分自身の欲求を充足させるための手段としての他者なら、それは「ずるさ」なんだろうな。

だから、「わたしは優しい」と言えるか、「わたしはずるい」と言うかは、要は他者に対して開かれている自分を認められるかどうかにかかっているのだと思う。逆に、「あなたはずるい」…っていうときは、ただ不安なだけなんだよね。その「あなた」が「わたし」を受け入れてくれるのかどうか。「あなた」と「わたし」はきちんとつながっているのかどうか。

さて、「この記事は自分のことだな」と思う人は、きっと、多かれ少なかれ人間不信なのだと思う。最終的には自分しか信じられない。そうでしょう?
だから、「わたしはずるい」としか言えないんだよね。だって、他者に開かれていない自分を自ら構築しつづけているのですから。

だから、わたしのすべきことは、あなたをがんじがらめにしているディスコースを解きほぐすこと。脱構築すること。
というわけで、わたしがあなたに言えることは、ひとつだけなのです。

「あなたはずるいんじゃない。優しいんですよ」

「わたしはいつだって一人よ…」

2006-03-20 19:27:42 | フィールド日誌
実を言うと、「本格的」にフィールドワークをやるのが、今回が初めてだったりします。kimistevaです。

「本格的」ってわざわざ、カッコ書きにしてるのは、おそらく、今のわたしが見るからそう「見える」っていうだけなんだろうなぁ…って思うから。おそらく、半年前のわたし、もっと言えば一週間前のわたしだって、こんな「現実」は見ていなかったでしょう。
わたしはこれまでもフィールドに立ってきた。ファミレスや学食でのヤオイストへのインタビュー、中学校・高校のオタク部…いろいろなところにわたしは立ってきたはずだし、いろいろな世界の意味に触れてきた。それは紛れもなくフィールドワークだった。それは本当に間違いない。紛れもなく「本格的なフィールドワーク」。誰が聞いてもそう言うだろうし、わたし自身だってそう思ってきた。

だけど、今、振り返ってみると、もうそうは見えない。
確かに、フィールドワークだけど。紛れもなく、わたしはフィールドに立ってきたわけだけど、なんかどこかで「逃げ道」を用意してきたような、「甘さ」を抱え込んできたようなそんな気がする。
フィールドだって、まったくの「異文化」っていうわけじゃない。わたしの慣れしたしんだフィールドだし、録音テープにたよりっきりで、わたしはただ、ヤオイストの自分自身として話していればよかった。
…そこから見えてくるものも、すごく多かったし、逆に言えば、わたしは「ヤオイスト」当事者として、そこにいることがベストだった。そのことによって、生成される豊かなインタビューは、いまでも価値があると思ってる。

だけどね。
それは確かに戦略的に行われたひとつの調査なんだけど、だけど、今、わたしが抱えているようなこんな困難を抱えなくてよかった…っていうぶん、やっぱり、どこかで「逃げ道」は用意されていたし、わたしはそれに甘えていたんだろうなって思う。

「フィールドワーカーになる」って、こういうことなのかな…って思う。
これまでも自分を甘えさせないために、ビデオ機器は用いないでやってきたけど、カセットテープも外して、フィールドノート一本で勝負している今、フィールドノートだけを資料としなければならない状態でフィールドに立っている今、わたしのフィールドへの見方は確かに変わってきている。

それは、すごく大変で、すごくつらくて困難で、
そして、だからこそ、ものすごく魅力的。
…そして、なによりも、今感じているのが、これまでに感じたことのないような絶望的なまでの孤独感。

いつも頭の中に、映画『メゾン・ド・ヒミコ』の柴崎コウの声がふと浮かんでは消えていく。

「わたしは、いつだって一人よ…」

人間は、物理的に一人だという状況には耐えられるが、人々に疎外されるという「孤独」には耐えることができない。
今、わたしが感じているのはそれと同じくらいの、…いやそれ以上の孤独感。
こんなにも親しくなりたいのに、こんなにもわたしに親しくしてくれているのに、そして、わたしもみんなのことが大好きなのに、それなのに、自分自身をその場から疎外しつづけなければならないという、孤独感。

こんなこと、フィールドワークの本に書いてあるから、理解してはいた。だけど、本当につらい。本当にこんな絶望的な孤独だったんだ…ってあらためて思う。フィールドにいる高校生や大学生と仲良くなればなるほど、つらくてつらくて仕方ないと思うようになる。
フィールドワーカーで、現地の人と付き合った人や結婚した人がいないのって、まったく不思議でもなんでもないね。もし、そんな人がいるなら、よほどの厚顔無恥(こういう場合はエスノグラフィーなんて書けないからありえないだろうな)か、よほど強靱な精神の持ち主だと思う。

通常の人間には、無理。
少なくともわたしには、無理。

それでも、わたしがこうしてふつーに生きて、ふつーに調査を続けているのは、きっと、今まで徹底的な自己疎外感にさいなまされ続けてきたせいだろうな…って思う。
だって、フィールドにいなくたって常におもってるもの。

「わたしはいつだって一人よ…」

わたしはずっと一人だったし、これからも一人で生きていかなきゃいけないんだ…って。

学部から大学院に上がるときに、とある若い文化人類学者の先生に、「フィールドワークがしたいんです」と言った時のことを思い出します。

彼女は、ぞっとするくらい遠い瞳をして言いました。
「フィールドワークは……楽しいよ。すっごく楽しい。
……だからこそ、すごく、孤独。」

ようやく、わたしにもその意味がわかってきた気がします。
彼女の発言には一つの偽りもない。もし、わたしが誰かにそう言われたら、彼女とまったく同じことを言うでしょう。
「フィールドワークは楽しいよ。…だから、すごく孤独」って。

こんなに手が痛くて、もうPCのキーボードなんて触りたくないのに、それでもブログを書かざるを得ないほど、やっぱり、つらい。

きっと、フィールドワークを終えたときには
これまでよりもずっとずっと遠い瞳をしているのだろうな。

「傷ついていないと言えば嘘になります」

2006-03-20 17:00:10 | わたし自身のこと
優しすぎる人間が好きです。

でも優しすぎる人…って、その優しさが過剰であるために、たいてい人に理解されないんですよね。

「傷ついていないと言えば嘘になります」

ここ一週間のうちに、この言葉に何回も接触して、そのたびにすごく悲しい気持ちになりました。
「悲しい」じゃない…「哀しい」かな。

接するたびにこれって、ホントに優しすぎる人間が優しすぎる人間のために編み出したような言葉だよなぁって思う。
幾重にも他者が入りすぎていて、あまりにも自分の存在が希薄化していて、最後の抵抗としてうっすらと自分自身が見えているようなそんな言葉だと思う。

「傷ついた」っていう言葉を言える人間は幸せです。
もしかしたら、使用者側の人間は知らないのかもしれないのですが
「傷ついた」という言葉は向けられる側の相手に、多大なる負荷をかけるのです。

言語行為論を用いて説明しましょう。
言語行為には、
(1)発話するという行為そのもの(言語行為;locution)
(2)発話することによって生じる個人内の効果(言語内行為:illocution)
(3)発話することによって生じる相手への効果(言語間行為:perlocution)
という三つの次元があるのですが、

「傷ついた」という言葉には(1)自身の状態=「傷ついている」ことの記述という「言語行為」、(2)「傷ついた」ということにより、「傷ついた自己」が構築されるという「言語内行為」、(3)「あなたが傷つけたのだから、どうにかしてください」「あなたはわたしの傷を癒す義務があります」という言語間行為があります。

この(3)をどの程度、どのような意味で受け取るか?が人によって違うところなのですが、とりあえず、優しすぎる人は、かなり強迫的な実行力を持つレベルで「あなたはわたしの傷を癒す義務がある」と受け取らざるを得ないようです。

少なくとも、わたしは、そうです。
でも、わたし以外の人間はそう受け取らないことをよく知ってる。だからこそ、けっこう「傷ついたー」とか言います。

だけど、わたしみたいに児童虐待児のボランティアしたり、高校生の悩み相談に10年もつきあったりしていなければ、「傷ついた」の受け取り方が人さまざまだなんて気付かないものなのかもしれません。

そんなわけで優しすぎる人であればあるほど、「傷ついた」って言えません。だって、その言葉が強制力を発生させる可能性があることは、自分が一番よく知っているのですから。
相手に負担をかけることは、何がなんでも避ける。
ましてや、相手に「借り」を作るようなことはしたくない。
自分が傷ついたことは自分でどうにかできるけど、
相手に負担かけたり、傷つけたりしたときの傷やストレスは自分でどうにもできませんからね。

そんな、優しすぎる人たちの編み出した言葉。
「傷ついていないと言えば嘘になります」

すごく、すごく、これ以上ないくらいに、あまりに優しすぎる。
それは「ずるい」と他人から非難されることかもしれないけど、だけど、そんなふうに他人を織り込まざるを得ないくらい、それくらい他者の影響から自分を守れないくらい優しい人間は確かにいて、こうやってせめてもの自分の防御壁を貼ろうとする。
そうすることくらいでしか、自分を守れないから。

もし、このことを非難するなら、
そうしようとする、あなた自身が覚悟しなければならないのだと思う。
あなた自身が、それだけの「傷つきやすさ」を持つその人を守れるのかどうか、よく考えてから非難した方がいい。
そうでなければ、あなた自身がただ加害者になるだけだ。

ついに「高校生ウィーク」開始です!

2006-03-17 19:12:23 | 研究
先日、3月15日からついに水戸芸術館・現代美術センター教育普及プログラム「高校生ウィーク」が始まりました!

はじめから「研究者」という役割でフィールドに入るのが初めての体験なもので、なんだか、いろいろと不慣れなところはありますが、それでも無事、一日目は楽しく過ごすことができました。
スタッフの方に気を遣っていただいて…それにも関わらず、自分の企画以外のところでダラダラ手伝ったりしていたので、きっと気になさってるんだろうなぁって思います。
でも、一緒に何かをすることでしか見えてこないことがあまりにも多いので、つい動いてしまうんですよね。フィールドワーカーの性です。

それにしても、「高校生ウィーク」のカフェはおもしろい!
昨年度、来客としてきたときも、「すごく良い空間だなー」と直感的に思っていましたけど、ボランティアとして入って、研究者の目でintensiveに見てみると、本当に豊潤な意味の世界が見えてきます。

やはり、一番おもしろいのは、
アートのしての意味が生成される瞬間に立ち会えるということ。
特に、カフェ・ボランティアとして参加するからこそ、そういう世界が見えるのかもしれませんが、ボランティアの「仕事」としてなされていたことが、いつの間にか、「アート」になってる…そんな瞬間に立ち会えて、息をのむような思いをすることがけっこうあります。

あと、バラバラだったものが、突然ある瞬間にネットワーク化されていたり、突然何かが生成されていたりする。
うーん………。ホントに、フィールドワークにしてよかったなって思います。こういう意味や関係性が生成される瞬間ってフィールドワークという形でしか捉えられないものだと思いますから。

わたしは、すごく意味のあるフィールドを選ぶことができたなって実感しました。こういうところの勘は誰よりも優れているんじゃないか…ってちょっと思います。

明日と明後日は、また、「高校生ウィーク」のカフェ・ボランティアとして参加します。
今度は、どんな瞬間に立ち会えるのだろう?
本当にワクワクします。