KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

営業マンと会社の「腐臭」

2008-04-29 18:25:53 | ニュースと政治
先日、実家でちょっとした事件が起きました。

このブログでもちょこちょこ出てきますが、
わたしの父親は義理と人情と怒り感情によってあらゆる意志決定を行う人で、
わたしから見ると、「損得勘定であらゆる意志決定をする人」よりははるかに良いけれど、「複数の尺度で物事を測った上で意思決定をする人」よりは危なっかしい・・・と思わざるを得ない人です。

それはともかく、そんな父が1年前に複合機(プリンター+FAX+コピー+スキャナ)のリース契約しました。
で、そのとき来た営業マンがTさん。
Tさんは、初めのうちはそれなりに対応してくださって、
父も気を良くしたのか、我が町の花火大会の折には、彼女連れのTさんの車を我が家に駐車場がわりに置かせてあげたり・・・などもしてあげていたようなのです。
ところが、数ヶ月前からどうも対応が悪い。
コピー機の故障の件で連絡しても、ふつーに数週間以上、なんの音沙汰もなかったりする。
そんなことが何度も立て続いたため、ついに父、機嫌を損ねる。

いや、これは別にTさんの詐欺でも業務怠慢でもなく、
ただ単に、複合機の故障は修理会社に直接連絡することになっていたというだけの話らしいのですが。
実際、修理会社に連絡したらすぐに修理に来てくれて、複合機は直ったし。

しかし、父はそれでも「Tさんが連絡したのに何もしてくれない」(要するに、不義理だと言いたいんだろうね)ということに機嫌を損ねつづけておりまして、あと4年もリース契約が残っているのに、「複合機をとりかえる」と言って聞かない。
そんな日々が続いておりました。

・・・まあ、そんな矢先。
たまたま、我が家にかかってきた「コール・トゥ・○ブ」からの一件の電話。
OA複合機の営業の電話で、相手は「話だけでも聞いてほしい」と言う。
で、父はずーっと腹立ちまぎれに複合機のリースを取りやめたいと思っていたので、どうやら、「話だけは聞きますよ」と言ってしまったらしいんだなぁ・・・。
その報告を受けたときのわたしと父の会話。

わたし「え?なんで?あれ、まだかなり、リース残ってんじゃないの?」
父「いや、だってTのヤロー、気にくわねぇからさ。とっかえちゃおうかと思って。」
わたし「・・・・・・」

こうなると、もはや、何も言えません。
わたしだけでなく、妹も母もそんな感じで、「もう勝手にしろ」という態度だったのですが、今回ばかりはそうも行かなくなってしまいました。

電話があった次の日。
コール・トゥ・○ブの営業マンYさんが実家に来ました。
前日の電話で「15時に」という約束だったらしいのですが、来たのはどうも17時過ぎらしい。
(ふつう、この時点でどうかと思いますが、そこは田舎なので許容範囲)

そして夕方17時過ぎから、延々と営業トークを繰り広げること約5時間。
夜中の10時過ぎに妹から、「まだ、いるよ。驚いた。」という旨の連絡が来て、さすがに驚愕しました。
だって、夜中の10時ですよ。
そして、結局、深夜0時。
営業マンが帰らないことに疲弊した父が、「だって契約しねぇと帰らねぇんだもん」と言いつつ、実印を持っていき、その後、契約書の説明と契約書の作成、約1時間弱。
結局、父が家に戻ってきたのは深夜1時。
Yさんは、17時から延々8時間我が家にいたことになります。
これって、一種の拷問じゃねーの?
どう考えても、消費者保護法に違反する気がします。

そして、駅から歩いてきたという営業マンYさんが終電深夜0時の田舎の駅からいったい、どうやって帰宅したのか・・・いろいろ怖い怪しさのあるところばかりで、さすがにものすごい不安におそわれました。

「いやー。キョウビの営業マンはまったくよー」と、
わたしはよくつぶやいておりますが、今回の件はそんなわたしの予想をはるかに超えました。
だって、営業マンYさん自身も「被害者」としか思えない。
はじめは、「遅くなったし、さすがに誰か会社の人が迎えにくるんじゃない?」なんて言っておりましたが、父の話によると、Yさんはフラフラと歩いて帰っていったらしい。
深夜1時過ぎの電灯もない田舎の農道をYさんは一人で帰っていったのでしょうか。
駅からは電車ももうないはずなのに・・・どうやって?

・・・ 恐 ろ し い !!


これは絶対、Yさんが属する会社自体が腐っているに違いない。
と、わたしは確信しました。
ともかく、こことは関わりにならないほうがいい。

わたしは、そういう「腐臭」に対しては、それなりに感度が高いのです(フィールドワーカーだからね)。・・・いや、っていうかそんなに感度高くなくても、誰にだってオカシイことはわかる。
そのくらいこの「腐臭」はタダモノではありませんでした。

先日読んだ、内田樹『街場の現代思想』(文春文庫)の中に以下のような文章があります。

「私は営業マンをしていたことがあるので経験的に申し上げることができるが、「ダメな会社」というのは、あらゆる点でダメである。だから、「ああ、ここはダメな会社だな」ということがすぐ分かる。
 そういう会社は、入居しているビルへのアクセスが悪く、階段が暗く、廊下にはゴミがちらかり、トイレは汚く、受付の女の子は無愛想、下っ端社員は横柄で、課長は口臭がひどく、社長は自分がいかに金儲けがうまいかという話しかしない。もちろん納品してくる仕事の質は最低で、納品に対する支払いは最悪である。そういうことは社員5人の会社でも、社員5000人の会社でも、基本的には変わらない。そういう会社にはそこここに「腐臭」がただよっている」

・・・なにも言うまい。
この文章にすべてが集約されているように思う。

「これをたべると元気がでるよ」

2008-04-22 11:33:48 | Weblog
水戸市内のバーミヤンに立ち寄ったらこんなものを見つけました。

「や○い」・・・って「○」の位置が明らかにねらいすぎです。
しかも「これをたべると元気が出るよ」・・・って、腐女子に向けたレーザービームですか。

昔、『ファンロード』というその名もずばりオタク系雑誌で、「やさい」という隠語(?)が流行った時期がありました。
(今もあるのかな?)
つまり、
「やおい」→「や○い」(自主規制)→「やさい」(読み替え)
というプロセスを経て、「やさい」という言葉になったわけです。

「やさい」という隠語の登場は、対概念としての「くだもの」(=百合。女の子同士のラブストーリー)、「おにく」=(男女のラブストーリー)を一方で生み出し、
また一方で、
「ベジタリアン」=「やさい」愛好家=「やおい」愛好家
「健康優良児」=「やさい」も「くだもの」も「おにく」も食べる人=なんでもアリの人
・・・という言葉を生み出していきました。

こういうふうに、ひとつの言葉からその連想でさまざまな言葉を生み出せる能力というのは、人間らしい、実に知的な活動だと思います。
『みんなの国語辞典!』は「内輪ことばを集めてどうするんだ!」とか、いろいろ批判もあるようだけど、わたしはやっぱりああいう発想をして、言葉を生み出していく日本人が好きだし、ああいうかたちで人間は文化を作るんだよなぁ・・・としみじみしてしまうわけです。

言葉なんて、結局「内輪ことば」からしか生み出されないと思います。
「方言」だって、「あたたかみがある」とか最近は評価されつつあるけど、あれだって結局、その地域の「内輪ことば」でしょ?


おもしろがって、言葉を生み出したり、
それによって、コミュニティを形成したりする人間特有の能力こそ、
ソシュールが「ランガージュ」と呼んだものに他ならないのではないか。
そんな大層なことを思ったりします。

プロフェッショナル考

2008-04-16 12:00:40 | お仕事
最近、「プロフェッショナルとは何か」について、よく考える。

それはもちろん、
つい先月、不意に「博士」になってしまったり、
専門学校で果たす自分の役割の大きさに(非常勤なのに!)気づかされたり、
そんなことが大きい。

人間を相手にする商売で「プロフェッショナルとは何か」を考えるのは、ものすごく難しいことだ。
特に、教育なんて目的すらいまいち、ハッキリしない。
いや、介護も看護も、みんな同じようなものなのかもしれない。

すべての人が共有できるような「目的」がないのであれば、
徹底的に具体的な場の中でゆらぎながら、そのゆらぎの中でのプロフェッショナル性を考えるしかなかろう。
だとしたら、それはまさに現場の中で「ゆらぐことのできる力」であり、「ゆらがない力」なのだと言ったのは、尾崎新である(『現場の力-社会福祉実践における現場とは何か』)

妹が介護現場での仕事に携わっているせいかもしれないが、
わたしは「プロフェッショナル」の問題を考えるとき、常に、介護の現場におけるプロフェッショナルを考えてしまう。
保育・教育は、子どもが育っていく。なんだかんだで「より良い」方向に向かっていってくれるから、保育や教育の専門家はやりがいを見つけやすい。
だけど、介護や看護はそうはいかない。
しかも、介護は今のところ、知識や技術の優越性で自分のプロフェッショナル性を自覚することすらできない。
だとしたら、介護のプロフェッショナルとはなんだろう?

その答えこそ、もっとも純粋なかたちで、「プロフェッショナルとは何か」というわたしの問いに答えてくれるように思うのだ。


わたしには「ゆらがない力」が足りない。
「ゆらぐことのできる力」だけにプロフェッショナル性を見出してきた結果なのかもしれないが、最近、それだけではダメだということにうすうす気がついてきている。

「ゆらがない」こととはなんだろう。
「かたまること」と「ゆらがないこと」はどこが違うんだろう?
きっと、わたしはこれからも、現場の中でその問題を考え続ける。

ヒラツカセンセー

2008-04-14 18:17:49 | お仕事
今日、中野坂上駅で大江戸線から丸の内線に乗り換えるとき、
長い長いエレベーターの途中、
あきらかにお嬢様私立の小学生から、

「ヒラツカセンセー!」

・・・と、手を振られてしまいました。

みつあみのカワイらしい小学生からニコニコしながら、手を振られるのはうれしいですが、相手からの期待が大きいだけに、反応に困ります。

違うんだっ!違うんだっ!
アタシは、あんたが思ってるような女(=ヒラツカセンセー)じゃないんだっっ!
・・・と思いつつ、
しかたがないので、ちょっぴりそちらを見て、ニコッと笑ってみました。


午前中にも、友人から
「土曜日の午後、秋葉原の本屋さんでkimistevaさんに似た人を見つけたので、ワザと近くを歩いて、凝視してしまいました」
・・・とかいうメールがくるし、

また以前、
「TXの電車内で、英語をぺらぺらしゃべるkimistevaさんを見かけましたよ」
とか言われたこともあるし、

わたしに似た人、多すぎ。
そんなにわたしって、どこにでもいるような容姿をしてるんですかね?
それともそれ全部、「ヒラツカセンセー」なんだろうか。
だとしたら、「ヒラツカセンセー」は、秋葉原にあらわれる英語ぺらぺらの私立小学校教員か。

それって、すごくデキる女じゃない?
ちょっと会ってみたいな。ヒラツカセンセー。

人間ドックという贅沢

2008-04-13 10:01:41 | わたし自身のこと
はじめて人間ドックを受けました。
28歳…というのは、わたしが勝手に設定していた「節目」の年でもあり、経済的に少しだけ以前より余裕がでてきたこともあって、
この機会に人間ドックを受けようと思ったのでした。

身体に関する不安を挙げれば数かぎりなくあります。
まず、丸1年間はかっていない身長と体重。
体重が減っているのも心配だけど、増えているのはもっとイヤ。
あと、高校3年間の拒食症時代の後遺症は、いま、どうなっているのか?…とか、
(あの頃は、ふつーに白血球が変形してました)
あとは、これが一番の心配どころですが、
ともかく、頻繁に胃腸を悪くするので、わたしの胃腸ははたして大丈夫なのか?…とか。

そんな不安を感じながら、人間ドックを受診したわけですが、
結果は、

「まったく問題なし!オールA!」(←医者の言葉そのまま引用)

でした。

先ほど挙げた不安をすべて伝えたんですけど、
拒食症の後遺症なんかもぜんぶきちんとチェックして、「問題ない」ことを伝えてくれました。

「いやー。いつもはメタボな人ばっかり相手にしてるから、
こんな正常値見るの久々だよー。
むしろ、自分が凹むわ。」

…とは、最後に言われたお医者様のことば。

どうも、わたしの住む地域には関西弁のノリの医者が多いような気がします。
…わたしがたまたま選んでいるだけかもしれませんが。


あらためて、
自分の健康状態を知って不安をなくすことができるなんて、
なんと贅沢なことだろう!
…と思い知ったのでした。

健康診断は、「就職活動のため」とかいろいろな理由がつくので、「やらされている」感じがありますが、
人間ドックは完全に自由意志だもんね。
自分のために、自分でお金を払って、自分の不安をなくすことができる。
わたしにとって、こんな贅沢なことは、ありません。


わたしくらい、若い年齢だとなかなか躊躇してしまいますが、
わたしは人間ドックおすすめします。

それでもドキドキの日々

2008-04-08 16:50:52 | Weblog
ブログをまったく更新しないうちに、高校生ウィークも終了してしまった。

今年こそ最後の打ち合わせに出て、昨年からのある御方としていた約束を守るぞ、と思っていたのに、完全に体調を崩してダウンしてしまった。

やっぱり「レジデンス」とは名ばかりの幽霊屋敷の前に、春とはいえ寒い夜空の下閉め出されたままいたのが、よろしくなかったのかしら。

ともあれ、まったくこの世の中で思いどおりにならないものは、サイコロの目と自分の体調であることだなあ(…教養低下のこの時代に元ネタがわかる人はいるのかな…)、と、あらためて思う毎日である。


無事に博士になって、研究室も出て、六畳二間になったアパートで、パコパコとキーボードをうつだけの日々になりましたが、それでもやっぱり毎日がドキドキの日々です。

つらいことも苦しいことも果てしなくあって、
鬱になることもダウンすることもあったけど、
わたしの前には、
まだやることも、
やらなければいけないことも、
無限に広がっているようで、
強風の桜吹雪の下、病み上がりの体で雨にうたれつつ空を見上げてみるのでした。


カラリと晴れた青空よりも、
春に似合わぬ雨風の中の桜吹雪のほうがわたしにはよっぽど似合いますなあ。