KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

多忙きわむる

2008-03-21 19:09:50 | わたし自身のこと
多忙を極めています。
たぶん、ワタクシ、今、人生の中で一番忙しい!

以前、ある方に、
「kimistevaちゃんは、年をとればとるほど、「今、人生の中で一番忙しい」思うときが増えていくよ」
と、予言されたのを思い出します。
本当にそのとおりになりました。

1つ仕事が効率的にこなせるようになるほど、
次の仕事を自分で入れてしまうので、
どんどん忙しくなる。
やっている仕事の量がハンパじゃありません。

そんなことを思っていたら、本日、
わたし以外の原因でさらに仕やるべき事がドドンと増えてしまって、もはや笑うしかないような状況です。

ついに、これだけはやるまいと思っていた、
南房総の実家から、水戸芸術館への大移動を決行することになりそうです。
(いや、距離の問題じゃなくて、意識的な問題なんだけどね)


でも、きっと来年にはこれが常識にナッテタリシテ…、
次はきっと大多喜から水戸に大移動したりなんてこともあるんだろうなぁ、と思うと、笑うしかなくなってきます。

あっはっはー。忙しいって楽しいなー。

コミュニティづくり考:水戸芸術館現代美術センター教育プログラム「先生のためのツアー」

2008-03-20 22:45:24 | フィールド日誌
先日、水戸芸術館現代美術ギャラリーで行われた「先生のためのツアー」プレ企画に参加。
企画者側として参加していたのは、
芸術館の学芸員の方が3人と、
企画にかかわっているアーティストの方1人。
で、参加者である先生は3人で、
トーカーとして参加していた現職教員のT先生1人を含めると4人くらいなので、まあ企画者と参加者が半々というかんじだった。

こういう状況って、一般的に
「あまりに参加者が少なすぎて、企画として成り立ってない」と思われると思うのだけど、(実際、話し合っている中で、「7・8人」=「参加者が少ない」と語られる場面もあったので)わたしはむしろ、「コミュニティ」を作ろうとするなら、こういう状況こそ大切だよなぁ、と思ってしまう。

わたしたちは「学校」の状況に慣れすぎていると思う。
「一斉教授」というスタイルになれすぎていると思う。

だから、企画者側(=教える側)1に対し、参加者(=学習者)が少なくとも10以上はいないと、なんとなく「参加者が少なすぎるように思えてくる。
でも、「一斉教授」のスタイルでは、コミュニティが形成されない。
1対10だとあまりにも、バラバラな文化を持った個人の比率が多すぎて、コミュニティとして組織されにくい。
(もちろん、「コミュニティを作ろう!」という意識の高い人だったら何人集まろうとコミュニティは形成されるのだけど、通常、そこに集まる学習者はそんな意識ないからね)


「先生のためのツアー」という企画は、おそらく、まったくゼロのところから、企画者側の立案によってコミュニティを創出しようとする試みである。
少なくとも、わたしはそう思った。


そんなこと、理屈で考える人だったらまずやらない
これまでどれだけの学者が「若者の居場所づくり」を唱え、それに失敗してきたことか。
コミュニティを人工的に作り出すことは、「錬金術」に近い。
何もないところから、人間関係を作り出すことなんて果たして本当にできるのか?
その答えは、いまのところ、アカデミックな世界では見出せない。


でも、今ここで、その試みを手探りの感覚だけでやろうとする人たちがいる、というのはなんともスゴイと思った。
たまにアート作品を見ていると、
「わたしがここまで頑張って考えてきた理論を、軽くヒョイと乗り越えてしまうんだから、やっぱりアーティストってすごいよなぁ」と思うけど、まさにそんな感じ。

理屈では乗り越えられない壁を、実践家やアーティストがなんの気なしにヒョイと乗り越えてしまうことがある。

「先生のためのツアー」もきっと、そんなふうになる気がする。
とても楽しみだ。
わたしはいつも、長く長く腰を据えてフィールドで起こることの顛末を見守っているけれど、今回も、そうやって長く長くかかわりながら、「コミュニティ作り」の試みがどうなっていくのかを見守っていきたいなぁと思う。

オタク研究者たちの共生の技法

2008-03-10 15:36:59 | 研究
先日、日米オタク本の編集会議に出席した。
わたしは「腐女子」についての論考(1章分)の分担執筆者として誘われている。
そんな下っ端が参加しても良いのか、とドキドキしながら会議に出席してはみたが、
来たひとたちが、全員オタクで、自分がこの本の執筆者として誘われた理由を瞬時にして理解できた。

会議には、ヤオイスト=「腐女子」であるkimsitevaの他、鉄道ヲタ、ゲームヲタ、日本のアニメを英語に翻訳して流通させる「ファンサブ」の関係者などが参加していて、
わたしは昔見た『七人のオタク』という映画を思い出した。

わたしが高校時代にものすごくアコガレていた研究者、M先生は、
マイパソコンに初音ミクの動画をストックしているらしく、会議中に動画を流して、会議出席者の全員がミクミクした。
(・・・想像してみてください。)


以前、言われたこともあるが、研究の場で出会ってきたオタクの方々は、すごく不思議である。
別に、特別に進化した新人類とは思わないが、
少なくとも、価値観が多様化した時代において生きる術を誰よりも心得ているように思える。
誰よりも、多文化時代の共生の技法を心得ているように見える。

「オタク」であるというだけで通じ合える。
「オタク」であるというだけで、年齢とか身分とかそんなこと関係なく、対等な立場で話ができる。
アコガレのM先生にも、自分の立場を主張できる。


わたしたちは、自分にとって「善いもの」が、他人にとっての「善いもの」ではないことを知っている。
それを「善いもの」と思うことが、誰かを傷つけたりする可能性があることも。
それを認めた上で、
それでも一緒にいられる技法をずっと磨いてきたし、
これからもその技法を模索しつづけているのだと思う。


会議の出席者の中には、
わたしと同じ、お水仕事の経験者がもう一人いたりして、
そのことにもいろいろと考えさせられた。
オタクでありつつ、でも誰かとつながろうとする人たち。
それが、オタクの研究者なのかもしれない。

文化系筋肉痛:「Artless Art in cafe」

2008-03-09 14:12:52 | フィールド日誌
今年も3月6日から、水戸芸術館で高校生ウィークが開始しました。

わたしは、今年もカフェ「1 to 1」のボランティアスタッフをすることになり、
6日から7日かけて、カフェスタッフをやってきました。

で、筋肉痛です。

このつながりがよくわからないと思いますが、
ともかく、今日も筋肉痛が続いています。しかも右腕だけ。
こんな筋肉痛、コンパニオンのバイトをしていたとき以来です。

・・・というのも、今年のカフェには、
「Artless Art in cafe」というワークショップ・コーナーがあって、
そこには水戸芸術館の裏にあるアートワークスギャラリで11日から開催される「Artless Art」展の出品作家20人の小(?)作品が並んでいるのです。

で、わたしのお仕事はお客様にご注文いただいた作品をお客様のテーブルまで、「カッコよく」「スマートに」(←ここ重要!!)お持ちすることなのですが、重い作品を重くないように「カッコよく」「スマートに」見せる・・・って、ものすごく筋力を使うことなのですよ。


しかも、また重い作品ばっかり頼まれるんだ。また・・・。


しかしそこは元演劇部、かつ、元コンパニオンのプロ根性。
顔色ひとつ変えず、ニッコリわらって、「カッコよく」「スマートに」お持ちしています。

そして、そんなことばっかりやっていたら、筋肉痛です。
・・・アホです。


あまりに頑張ってたせいで、
アートワークスギャラリーの方から頑張りを認められ、ギャルソン・エプロンを貸してもらっちゃいました!
これがまた、「kimsitevaさんがつけるとカッコイイ!」と大 好 評。
んで、誉められると簡単にのせられるわたし。

えー。そうですかー?やっぱりー?
・・・なんつって、「また頑張ろう!」と張り切ってしまうわけです。
ホント。バカとハサミは使いようです。

でもこの仕事、ある意味、「天職」。
今年は、高校生ウィークの調査がなくてホントよかったです。
楽しいー。楽しいー。毎日でもやりたい。(←忙しくて無理だけど)

・・・わたしってホントにアホやなぁ・・・。

経過分析レポート

2008-03-08 08:58:42 | Weblog
2日間かけて、自分とパートナーのこれまでの経過を分析した。
残っているメールのやりとりと、覚えている限りの会話のやりとりの分析によって得られた知見の中には、わたしにとって驚くべきこともあって、あらためて、距離をとって眺めることの重要性に気付いたのだった。

何よりも収穫だったのは、彼に伝えなければいけないことが明確になったことで、わたしは今、いつそれを彼に伝えようかと考えている。

経過分析レポートはなにかあたらしい変化を生み出してくれるだろうか。

【Workshop】(仕事場・作業場):高校生アートライター編集作業2

2008-03-03 19:59:46 | フィールド日誌
昨日、ついに「高校生アートライター」企画の最終ワークショップが終了した。
最後のワークショップは、「ワークショップ」というよりは、むしろ「仕事」と呼ぶほうがふさわしい作業で、
そういえば、英語で「workshop」とは「仕事場・作業場」を意味するのだったとあらためて思い出した。

編集作業を担当するのは、デザイン系の専門学校に通うりりーさん。
イラストを担当するのは、4月からアート系の専門学校に進学するまなみさんである。
編集の方針もその場にいる参加者たちで話し合って決める。
ギャラリーガイドのタイトルも自分たちで決める。
スタッフのやることと言えば、原稿をファイルに打ち込む手伝いと、
終わりの時間を告げるくらいであった。

まさに「作業場」=ワークショップである。

こうして、
はじめ、「教育プログラム」的な色彩が色濃かったこの企画が、「作業場」へとその色彩を変えるにつれ、
参加者は、少しずつ自分の「居場所」を見出していく。
わたし含め、企画側のスタッフも誰がどのようなことを得意としているのかがわかってくるし、参加者側も自分のできることをアピールしてくれるようになる。
自分がどんなことができて、どういうことがしたいのか、をさまざまなかたちで伝えてくれる。


レイブ&ウェンガーの「正統的周辺参加」論を持ち出さずとも、
「仕事」に関わる意味の大きさが、実感として伝わってくる。
「仕事」の場にかかわることで、人々は自分の役割=アイデンティティを見出していく。
「居場所づくり」とは、このようなプロセスを経て、
参加者が、その場に関わる自分のアイデンティティを見出すことなのではないか、とわたしは思う。

ただ受容的な他者がいるだけでは「居場所」は見出されない。
やはりそこには積極的な意味が必要で、その積極的な意味のためにはやはり「仕事」が必要なのだ。

そんなことを考えさせられたワークショップだった。

「居場所づくり」というテーマ:アートライター編集作業1

2008-03-03 19:52:10 | フィールド日誌
わたしの人生における大きな研究テーマのひとつは、
「居場所づくり」である。


「将来は建築士になる。いや、ならなきゃダメなんだ」と思っていた高校時代。
ある模試の日、なんとなく、
志望学科を「都市計画」と書いたことがあった。
それまで第一希望から第三希望の志望学科欄に「建築」以外の言葉が入ったことはなかったのに。

その模試の結果が出たとき、
当時通っていた精神科のカウンセラーにその模試結果を見せたら、
そのカウンセラーはそのことにいたく感動して、
「「都市計画」って書いたことを、大事に思わなきゃダメよ!」
・・・とわたしに言った。
そのカウンセラーにはめずらしく強い口調で。

当時のわたしはその意味がわからなくて、
気まぐれに違うところを書いてみたことのなにがそんなに大切なんだろう、と訝しく思いながら、家に帰ったのを覚えている。


「都市計画」と書いたとき、わたしの頭の中にあったのは、「公園」だった。
なんとなく「公園がつくりたい」と思った。
誰もがいていい公園。どんな人が来てもいいし公園。
いろいろな人が出会って、関係をつくりだしていく公園。

どんな人にでも「居場所」を提供してくれる公園。

今、考えると、自分の「居場所」づくりに疲れてしまったあの頃。
そんなユートピアを、「公園」という存在に重ねていたのかもしれない、とも思う。


その頃から、
「居場所づくり」は、わたしにとって、泣きたいほど切実なテーマなのである。


・・・「泣きたいほど切実なテーマ」という感覚は、理解してもらえないかもしれない。
研究は、そんなホットな感情でするものではない、と一般に考えられているから。
でも、わたしが向き合ってきたテーマは、常に「泣きたいほど切実なテーマ」だった。
他者との関係を結ぶ「ことば」というテーマも。
わたしたちの「現実」を作りだす「メディア」というテーマも。
どれも、わたしを深く傷つけてきたものだった。だから理解するために必死だった。


学位論文を書き上げることで、とりあえず、これまで自分を傷つけてきたものを整理することができた。
わたしが何に傷つけられてきたのか。
わたしはなぜ、傷つくのか。

これからは、わたしにとってのユートピアに向き合ってみたいと思う。
わたしが喉から手がでるほどほしかった「居場所」。
その「居場所」のつくりかたに、真っ向から向き合ってみたいと思っている。

「高校生アートライター」プログラムは、
わたしにとって「居場所づくり」とは何かを模索するための良い機会になっている。

わたしは、今、あらためて、「居場所」のつくりかたに取り組みたい。