KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

頼られることと頼ること

2007-08-31 18:25:00 | わたし自身のこと
体調が悪い。

昨晩の夜はひどかった。
携帯電話上で市内にある病院を検索してから、
ようやく眠りだす。

何度も携帯電話が鳴る。
そのたびに起きて、出なければと思うのだが、
「出なければ」と思う自分がイヤになって布団をかぶる。

着信音はいつまでたっても終わらない。


頼られる側にまわりがちな人間は、
いったい誰に頼ったらいいのだろう、とたまに思う。

誰もなにもしてくれないのなら、
自分で自分の身を守るしかないじゃないか。
そのこと自体を責められてもどうしようもない。

さすがにもう疲れたよ。
少し休ませてほしい。

どうして人はことばを紡ぎつづけるのだろう

2007-08-29 14:39:58 | 研究
先日の記事で紹介した、
わたしが過去に書いた論文を数年ぶりに読み返してみた。

現在と比べて文体が青いわ、
無駄に英語論文引用してるわ、
いろいろ恥ずかしいところはあるのだが、
それでも、
この論文は最高傑作だとハッキリ言える。

あの頃は、
教科教育学に進んだ自分がイヤでイヤでしかたなくて、
そんなわたしの中の葛藤が論文の序章のあたりで見事に現れているけれど、
それだけ、自分のやりたいことに正直だった。


博士論文の修正稿も提出したし、
修正表も提出した。
とりあえず、少しずつ博士論文も収束へと向かっていきそうだ。


博士論文が終わったら、
また、日記の研究がしたいと思う。
…いや日記じゃなくたってかまわない。
詩でも小説でも。
わたしの手元には、まだ、彼女からもらったたくさんの言葉がある。

いまのわたしにできることは、当時よりも、きっと多いはずだ。


書きつづける人たちに出会いたい。
どうして、あなたは書きつづけるの?
書くことってあなたにとって何?
…聴きたいことはたくさんある。


どうして人は書くのか、
どうして自分の言葉を紡ぎつづけるのかが、ものすごく、知りたいんだ。

思いの表現・関係の表現

2007-08-28 19:08:45 | わたし自身のこと
最近。
…といっても、ここ1年くらいのこと。

わたしの日常の中にいた人たちが去って、
あらたに出会う人たちがいて、
その人たちとの間で、傷つくことがあって…。

自分のそれまでのことばのありようを否定的に捉えるようになっていた。

そんな矢先、
久々に昔、手にとった本を読んでみて、
なんだか否定していた自分を肯定された気がした。


「ことばは自分の内側の「思いの表現」でありつつ、一方で自分と相手との「関係の表現」でもある。ことばというものの有りようをよく見てみれば、これは誰もが容易に気づくことである。ところが、案外そのことが見逃されて、重大な錯誤をきたすことがある。

 「ちょうだい」ということばなどは比較的単純であるために、関係によって言い方にさまざまなレパートリーがあるにせよ、もとにある「思いの表現」と「関係の表現」とが大きくすれ違うことは少ない。しかしことばによっては、本意が自分のうちの思いそのものを離れて、関係の表現だけが前面に出てくることがある。

 たとえば「すみません」ということば。これは本来、相手に対して自分は申し訳ないことをしたという謝罪や反省の思いを表現したものである。もちろんその本来の意味どおりに、このことばでもって真摯に謝罪し、反省の意を表すこともある。しかし必ずしもそういう場合ばかりではない。

 …そこで表現されるのは謝罪や反省の思いでは、さらさらない。とすればそこでの「すみません」は、むしろ状況や雰囲気が生み出す関係の表現なのである。」

(浜田寿美男「ことばは人間の何を表現するものなのか―供述分析の現場から―」『日本語学』22-3) 


供述分析を専門とする浜田先生がここで問題としているのは、
取調べ現場で発される「すみません」「申し訳ございません」という言葉である。
だから、ここで浜田先生が言わんとすることはとてもシンプルだ。
要するに、
人間は嘘をつくつもりがなくても、嘘をつくということ。
いや、結果的に嘘をついてしまうということだ。
「関係の表現」を迫られる結果として。


「関係の表現」としてのことば。

これこそ、わたしの研究の出発点だった。
わたしは「わたし」であるためにことばを用いる。
自分をとりまく関係の中で、まぎれもなく「わたし」であるために。

(余談だが、このときのわたしの一年かけた思考の旅の成果がインターネット上で見られるようになったらしい。そんなわけで実名をばらすことになるが、アドレスを掲載しておく。https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/dspace/handle/2241/89653 …外部から見られるのかどうかはわからないが。)


「関係の表現」としてのことばを大切にしようとするわたしにとって、
ことばが「関係の表現」であることを無視し、
特定のことばを無頓着に強要しようとする人はまさに敵だった。
ことばは、関係の中でわたしが「わたし」であるための手段である。
その手段を奪い、「わたし」の顔を奪おうとすることは暴力以外の何者でもない。


ことばは思いを表現するためのものだけではない。
ことばは思いを表現するものだと短絡的に考えることは、
わたしたちの世界をシンプルに考えるためのひとつの手段だとは思うけれども、
それは真実ではない。

この手の中にいる人たちを…

2007-08-26 20:29:12 | わたし自身のこと
何年前のことだったか。わたしの知り合いの人に、

「すべての人を幸せにすることなんてできないけど、
 せめて、自分の手の中にいる人たちくらいさ。幸せにしたいと思うんだよ。」

…と言われて感動したことがある。

わたし自身が、その方の「手の中にいる人たち」に入るかどうかわからないが、
少なくとも、
彼のことを長いこと知っているわたしには、
彼のいいたいことの意味がよくわかったからだ。

そして、
わたし自身も、今、同じ願いを抱いている。
せめて、わたしが言葉を交わす距離にある人たちくらいは幸せでいてほしいと思う。
それは見方によっては、ただのワガママなのだけど。


わたしにとってもっとも身近な存在であるはずのあの人は、
幸せでないようだ。
誰にもわかってもらえないかもしれないが、
わたしには、そのことがとても悲しい。

宿題論

2007-08-20 16:45:32 | Weblog
わが母校の高校生たちが終わらぬ宿題に苦しんでいる。
なにがそんなに終わらないの?と聞いたところ、
恐ろしい事実が判明。

「古典文法の資料集、約60ページ分、丸写し」

なんだこの無意味な宿題はっっ!!
「自分なりに整理してまとめる」でも「資料集の中の図表をまとめてノートに書く」でもなく、「丸写し」である。
信じられない。
そんなはずなかろうと思い、宿題を終わらせたと豪語する少女に聞いてみたところ、文例につけられた注(「ここでの○○の意味は『伊勢物語』での…」みたいな解説)まで「丸写し」しなければならないらしい!
まさに「丸写し」だ!
「写経」の真似でもさせたいのだろうか…。
なんなんだいったい。
しかも古典本文ならまだわかるけど、…文法資料集???

さらに国語教師は、「一年かけて夏休みの宿題をチェックするから一言一句手抜きしてもわかるからな!」とか脅しをかけているらしい。
ここまでくると先生のほうも根性である!
そんなのをチェックする暇があるなら、
教材研究や授業研究に勤しめばよいと思うのだが、そういう考えには至らないらしい。
…いったい、なにを目的として、そこまでの時間と労力を払いたいのか。
まったくわからない。
ここまでまったくわからないということは、きっと別の目的があるのだろう。
その目的とは、ずばり、

先生―生徒という非対称な権力関係の維持である!


『エス【es】』という映画を見たことがあるだろうか?
ドイツで制作された映画で原題は『実験』(the experiment)という。
実はこの映画、アメリカで実際に行われた心理実験での事件を映画化したものだ。
この心理実験で、被験者は無作為に「看守役」群と「囚人役」群にわけられる。
被験者に求められるのは、それぞれの役割で牢屋を模した実験室内で一週間暮らすこと。「囚人役」群は牢に閉じ込められる。「看守役」群は見張りを行う。それだけ。
ところが、この実験は当初の予定期間1週間を待たずにとりやめられた。
実験室内であるはずの牢屋では激しい暴行事件がおき、
ついに死者をも出したからだ。

どうして、こういう事態が生じるのか?
だって「看守役」群も「囚人役」群も、ただ無作為に与えられた役割に過ぎないのだ。「囚人役」はただの「役」であって、本当に犯罪者であるわけではない。「看守役」だって同様だ。

わたしはこの映画を見て、思った。
権力を持つ側は、非対称な権力関係(ここでは「看守」-「囚人」)を維持しようとするとき、過剰に自分の権力を濫用し、第三者にはわけのわからないようなことをすることがある。
それは、きっと、理不尽であれば、理不尽であるほど良いのだろう。
理不尽であれば理不尽であるほど、権力を持つ側はそれを行使する自分の優位性を確認することができる。
間違いなくここには、非対称な関係があると実感することができる。

そして、こういう権力の濫用が生じると、あとは悪循環だ。

権力を持たない側は復讐を考える。
あたりまえだ。
自分たちはいわれのない仕打ちをされたのだから。
…で、その復讐は、された仕打ちが理不尽であれば理不尽であるほど、
激しく、暴行的なものになる。
だって、自分たちに使える手段は限られているのだから。

これが最悪のスパイラルを描いた結果が、『エス【es】』の結末なのだろう。


わたしは、その古典の宿題の理不尽さを思うとき、
こういう社会心理学的な構造に思いを馳せずにいられない。
きっと、先生は生徒たちのあまりの成績の悪さ(←これは事実らしい)に、何か恐怖に近い感情を抱いてしまったのだろう。
学校や親への体面を考えてもどうしようもないくらいの成績の悪さ(事実)だったようだから。

その結果、古典の先生は自分の立場を維持するために、権力の濫用に出たのだと思う。
ここには、生徒たちへの学びへの配慮なんてまったくない。
どういうことを生徒たちに学んでほしいとか…そういう願いとはまったく別に、自分の立場を維持するために宿題が出される。
このとき、宿題は一種のサンクション(懲罰)として機能する。


教育は懲罰と紙一重だ。
こういう構造が続く限り、「学習」という現象は永遠に生じえない。
あるのは、非対称な権力関係をめぐるイタチごっこだけだ。

マッチ擦る…

2007-08-19 21:14:13 | 趣味
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
      身捨つるほどの祖国はありや  
                     
あまりにも有名な寺山修司の短歌である。
教科書にも載るくらい、あまりにも有名な…。


インターネットで検索すると、
「マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし…」と記してあるところもある。
だけど、わたしは「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし…」と書いておきたい。

どちらが正しいかとか、
どういう解釈が正しいかとか、
そんなことには興味がない。

たまに手持ち無沙汰に、
マッチを擦ってみるとき、
その一瞬だけ、
霧に消えた海が見えるようなする気がするのだ。

マッチを擦るその一瞬。
そのつかのま。

2007-08-19 00:14:58 | わたし自身のこと
夜になると風が吹く。

夏の夜風はいつもわたしに、過去と未来を考えさせる。
15歳の夏、
わたしは夜風の中で10年後の自分を考えていた。

今、夜道を歩いていて風が吹くと、
なぜか幼い頃、浴衣を着て歩いていた自分を思い出す。

10年後もわたしは、わたしを好きでいられるだろうか。

K.K.作「ワラッテイイトモ」

2007-08-17 14:38:15 | フィールド日誌

以前からちょくちょく話題に出している「ワラッテイイトモ」(K.K.作)がGoogle Videoで見られることが判明いたしました。

うれしい!うれしい!

…うだるような暑さの続くこの機会にぜひご覧ください。

You Tubeほど早くはなくてもGoogle Videoですからいつ削除されてしまうかわかりません。まさにこの機会に!です。

 

1/5 http://video.google.com/videoplay?docid=-7878209151093236009

2/5 http://video.google.com/videoplay?docid=2487257463167332191

3/5 http://video.google.com/videoplay?docid=-4443020897061865957

4/5 http://video.google.com/videoplay?docid=8271641744960971050

5/5 http://video.google.com/videoplay?docid=-6110793106665750521

 

「ワラッテイイトモ」は、「アート」「芸術」とは遠くはなれたところで、それでも確かに、新しい意味や視覚を作り出しています。

イデオロギーからは距離を置きつつ、とにかく自分自身であること。その自分自身の揺れる過程までが作品化されているところが、すごいと思うのです。

カタチにならないものをカタチにしている。

そういうものに出会うとき、わたしはこの上ない感動を覚えます。…それが「プロ」の作品であろうと、あるいは非常勤先の課題で学生が書いた文章であろうと。

そこには「プロ」や「アマ」などという区別は無意味で…むしろ障害ですらある。

ただそこにあるのは、<いま・ここ>に向き合い、<いま・ここ>を自分なりのことばでその瞬間を切り取ろうとするその美しさだけなのです。

 

「ワラッテイイトモ」にはそれが、間違いなく、あると思うのです。

なお、余談ですが、K.K.さんを事前に見かけ、彼の奇怪な行動を目にしていたわたしにとって「ワラッテイイトモ」は妙に納得のいく作品でもありました。


人のことは言えないけれど

2007-08-16 19:29:11 | わたし自身のこと
初めて、高校生を叱ってしまった。
わたしの場合、「叱った」というよりも注意を促したという、
それだけのことだけれども。


考えてみれば、高校生にありがちなおねだりだ。
彼氏・彼女で一緒にいたい。
だから「ダブルデート」状態になるように車割りをしてください、と。
まあカンタンにいえばこういうことだった。

…ここまでアカラサマなことはいわれなかったけど。

でも、
そのメールが、彼ら・彼女らのダブルデートからの帰宅途中に送られていたことと、
他にもいるはずのつきあっている部員たちのことをまったく考えていない
内容だったことが、
わたしを激しく失望させた。


彼ら・彼女らは、集団の中でどうあるべきかとかそれなりに考慮していることは、わたしなりにわかってる。
だから「はいはい」と言うことを聞いて適当に車割りをすることもできたのだけど、どうにもそれができなかった。


わたしだって人のことは言えないのだ。
だからこそ、彼ら・彼女らに言わなければと思ってしまった。

自分のつきあっている相手のことだけじゃなくて、
周囲にも目を配らなければならない場面があるのだということを伝えたかった。

なぜなら、
わたし自身、そういう時期に、
身近な人にそんなかたちで説得をされたことがあったから。
そしてその人に今でも感謝しているから。


それでもやっぱり
自分のしたことが正しいのかどうか悩む。
「価値観」で済まされる問題とは、いったいどこまでの範囲の問題なのか、
いまだにわたしはわからない。

ああ。ついに:「おしりかじり虫」

2007-08-16 10:10:59 | Weblog

わたしの周囲であまりに流行しているので、ガッカリしていたら、ついにこんな記事が!

「宇多田こえた!おしりかじり虫」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070816-00000045-spn-ent

「だんご三兄弟」並みのヒットらしいよ。

「みんなの歌」でこれが放映される時間に合わせて仕事を帰ってくるお父さん(知り合い)もいるらしいしなあ…