KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「大切さ」の三角測量

2007-01-04 21:00:39 | わたし自身のこと
今年の抱負は、昨年専門学校の生徒たちに誓ったとおり、

「生徒を無視しない」です。

…いやいや、意識的に無視したことはないんです。生徒もそれがわかってるから冗談で言っているらしいのだけど…考えことをしているとき、むやみに人に目を合わせては、視線があったとたんにふっと視線をそらすらしくて、それが「無視されている!」と感じさせるらしい。
どうしようもない癖です。


自分で自分のことを大切に考えたことがなかったせいか、
他人が自分をどう思っているかということに、過剰に敏感です。
徹底的に外側にいるような感じがするんだよ。いつだって、どこだって。
だって君の人生の中に、わたしが存在して良い位置なんて、ほんの少しだけだよ。
そのことに君は気づいてないだけだ。

ヤオイスト的な読みの戦略:よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』

2007-01-04 20:29:18 | 趣味
最近は完全によしながふみ氏のマンガにはまっています。
BLから少女マンガまで、とにかく短期間にぐわっとそろえてしまいました。そのくらい、わたしの人生にとって衝撃的なマンガでした。

よしながふみのマンガは、わたしなんかが、こんなところで発言せずとも、
いろいろなマンガ評論家やマンガ研究家が高く評価しているし、
いろいろなところで紹介もしているので、ここであえてそれを繰り返すことはしない。

むしろ、わたし自身の経験と、そういう批評家のことばを重ね合わせてみたいと思う。

多くの批評家が、よしながふみ氏のマンガに対して評することばのひとつに、
「さりげなさ」というのがある。
多くを語らずに、描かれた表情だけで、物語を説明しようとする。
どんなに深刻な事件も、どんなにつらい過去も、淡々とした白い絵柄で描かれていく。そんな「さりげなさ」

わたしは、それが「さりげなさ」と語られていることを知る前に、その対象に出会った。
そのときの感想は、「さりげない」でも「淡々としている」でもなんでもなく、

「この物語は、ヤオイスト以外の人でも、きちんと物語として伝わるのだろうか?」…だった。
他者に理解可能なのかどうか、という一抹の不安。
そして、誰にも理解できないだろうという閉ざされた心への小さな光。

そう。「さりげなさ」なのだ。
見逃してしまうようなやりとりの中に、ほんの一瞬、愛情深い言葉をしのばせたり、描かれる表情のわずかな雰囲気にせつなさを漂わせたり…そういう「さりげなさ」。その「さりげない」手がかりをたよりにして、自分たちの物語を膨らませるような読み方。
それは、まさしく、ヤオイストが開発してきた、ヤオイスト的な読みの戦略ではなかったか?

「俺たちずっと一緒だろ?これまでも、これからも。」
そんな少年マンガにありがちな「友情」の表現に、とてつもない深い愛の絆の物語を読み取っていくヤオイスト的な読みの戦略。

それを堂々と進めていくことが、よしながふみ氏のマンガにとっては、正当な読みの戦略になっているように思われる。
わずかな表情の雰囲気、おちゃらけた台詞の中にはさまれた真実の過去。ちょっとしたきざし。
それを見逃さずにしっかり、自分で組み立てていくこと。それがなければ、それぞれのマンガが物語として成立していかないのだ。

そんなことを思っていた矢先、マンガ評論家のヤマダトモコ氏が、文庫版『ソルフェージュ』の解説で、「よしながふみ『子どもの体温』を読んで、これがふつーの人にも面白いのかどうか知りたくて、いろいろなところで薦めてみた」…というようなことを書いているのを見た。

よしながふみ氏のマンガが一般的に高い評価を得ているというのは、少なくともBLやヤオイの文化にいる人たちに共通する、不思議な感覚なのだろうと思う。
もちろん、作品としてのクオリティとか、そういうものは問題ないのだが、そういう読みの戦略が一般的なものだったということが、わたしには驚きなのだ。


そして、ついに『西洋骨董洋菓子店』第3巻で、わたしですら見逃してしまった、「さりげない」一言があって…、読みすすめていくうちに、それが物語の中で重要な位置を占めていることを知って愕然としてしまった。
あまりに「さりげない」。
だからこそ、本当に好きでたまらないのだ。わたしは。