KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

メールの文章と人格

2007-02-26 18:34:59 | 研究室
「文章は人を映す鏡」と申しますが、
書くことの教育と研究に携わっているとそのことを実感します。
逆に言うと、
「こう書くと、こういう印象を持たれるから止めとけ!」という指導を専門学校生にしています。kimistevaです。

今日、研究室で残った仕事を片付けていたら衝撃事件がありました。

とある研究所で職を得ている方なのですが、
「滞納している学会費を払った上で論文を投稿したいのだが、冊子は図書館にあるので必要ない。だから、請求する学会費を安くしろ」

…と簡単に言えば、こういう内容のメールを学会紀要編集幹事であるわたしに送ってきたのです。
衝撃でした。
世の中にはいろいろな人がいるものだとは思ってましたけど、
よくすでに研究職を得ている大人の方が、一介の院生にこういう依頼をするものだなぁ、と驚愕しました。
わたしの父親は、義理と人情に生きる堅気の職人なので、
確定申告でさえ

「変なことしてると思われたらシャクだから、金払ったって、税理士さん頼んだほうが間違いねぇよなぁ!」

…なんて言ってます。
変なところでケチなこと言って社会的な信用を落としてしまうことがある…と、父はよくわたしに語っていました。
そんなわけで、わたしの世界も義理人情です。

そういえば、以前、セクハラで訴えられたことがあることで有名な同じく研究職の方から、その方の著書を送っていただいたことがありました。
その著書の中にはさまれた手紙に、

「女性の方はポストを得ると、研究が進行しなくなるので、kimistevaさんも気をつけて」

というようなことが書いてあって、友人USAM島さんと一緒に「うそー!すげー!初対面の人間にこんなこと書いちゃうんだっ!」と驚愕した思い出があります。


失礼きわまりない…というよりは
常識がない。

そして、そのどちらの方も、社会的な評判がよろしくないところを見ると、
「メール(手紙)が変な人は、やっぱり変な人なんだ」
という結論が導き出されます。

研究の内容と人格が一致しないことは、ルソーが証明していますが、
どうやら軽く送ってしまうようなメールなどは、人がらが反映してしまうようですね。

誰かの声に耳をかたむける方法

2007-02-26 17:43:33 | フィールド日誌
なんだかこのブログだけ見てると、毎日ものすごくつらい思いをしているように見えますが、そんなことはありません。
ブログの件で直接声をかけていただいたり、メールいただいたり、心配させてしまったりしたので、これだけはハッキリ言っておきたいと思います。

むしろ、楽しく過ごしていると忘れてしまいそうな
小さな心の動きや
ちょっとした隙間に生じてしまった心の傷を見つめなおすために
ブログを書いている、という感じです。

このブログ(=フィールド日誌)は、フィールドノートの清書があらかた片付いたあとに書いています。
フィールドノートには、その日、すごく印象的だったことを書いています。
その中には、わたし含め高校生ウィークに参加するさまざまな人たちの間で何か学びが生じたり、関係性が変容したりするキラキラした瞬間がたくさん詰め込まれています。
(今年はあえてネガティブな側面も拾おうと思っているので、隙間に生じた小さなため息や誰かによって独り言のように語られた悩みなんかもはさまれていますが、わたしがそういう声に近づけるということ自体が、とてもすてきな人間関係の変容のように思えます)

そういうフィールドノートをガガガガッと書いたあと、残ってしまう…未消化なまま残ってしまった小さな傷をここでは拾っていこうと思っているのです。
まるで「ユートピア」が実現されたようなカフェの隅で、
ひっそりと生じてしまう傷。
それを見つめなおすことで、別の視覚から、カフェの場を見直すことができるのではないか。それこそが今年やるべきことなんじゃないか、と思うのです。

(とはいえ、2つ前の記事は単なる仕事の多さへの愚痴という側面が大きいですが…。
ちなみに大学での事務仕事もあまり苦痛ではないです。
むしろ「バリバリ働くキャリアウーマン」にもなってみたかった自分を実現するステキな機会です。)

それはともかく、今日一日、自分の中の小さな傷を見つめなおしてみて、わかったこと。それは、「誰かの声に耳を傾ける方法」はひとつではない、という、考えてみればあたりまえのことでした。
さらに言えば、わたしが今身につけている方法は、かなり特殊なものなので、理解されなかったり、忌避感を示されてもしかたないだろうということもわかりました。

たとえば、「誰かの声に耳をかたむける方法」の中で、一種のスキルとして確立されているのは、ロジャース派のカウンセリング・スキルだと思います。

いわゆる「傾聴」。

ライフストーリー・インタビューの方法を用いる研究者の中でも、傾聴を非常に大切にしている人たちもいます。
とにかく、おだやかなことばで語りかけ、相手の声を待つこと。
それが大切なこととされます。
(ちなみに、これはただのイメージに過ぎないことを付け加えておきます。
このことは、ロジャーズのカウンセリングが収録されたビデオ映像を見た人は、ロジャーズのしゃべりっぷり、ツッコミっぷりに驚きます)


これを「誰かの声に耳をかたむける方法」の一種の模範のようなものとして考えてみると、わたしのコミュニケーションは明らかに「理想的でないコミュニケーション」です。
「ダメなコミュニケーション」です!!(そんな話を以前、スクールカウンセラーをしている知人にも言われました(笑))
『看護コミュニケーション』とか『カウンセリング技法』の教科書だと、絶対にイラストに「×」がついている、アレです。

何しろ、真っ先に自分が発言するし、声がハキハキして強すぎるし、
ツッコミはげしいし、毒舌だし、最悪です。
ついでにいうと、初対面だとちょっと威圧感あるらしい(専門学校生談)し、最悪もいいところです。

小学校の頃に、同い年の少女たちに
「kimsitevaちゃんはナイショ話ができないから嫌い!」といわれたことを思い出します…

きっと、それが人によっては気に障ったりもするのかな、と思いました。
そう思ったら、気が楽になりました。

自分がコミュニケーション能力高いなんてちっとも思わないし、むしろ低いほうだと思うけれど、
それでも、わたしのことを受け入れてくれる人たちがたくさんいることを思い出したからです。

こんなわたしでも、とつとつと自分のことを話してくれる高校生もいました。
「わたし、kimsitevaさん、好きですよ。」と一言、ぽつりと言ってくれる方もいました。
わたしは、本当に不完全で、確立されたスキルもなにもなく、ただその場で自分にできるだけのことを必死にやってしまうだけだけど、
それでも、そんな不完全なわたしのコミュニケーションを拾ってくれる人は、けっこうたくさんいたわけです。

そんななかで、わたしも必死に誰かの話に耳を傾けようとしてきたことも確かなのです。
そして、わたしに向き合って語ってくれた人たちがいたことも。
わたしのやってきた方法は、確かに、ロジャースが提案するような確立したしっかりしたスキルではないけれど、わたしにしかできない、わたしだけの声のすくいかたなのかなぁ…、と今ではちょっと思います。

ただ、自分がずっとカウンセリング通いだったせいか、ロジャース的な傾聴スキルに感情的な忌避感を示してしまっていることも確か。
つい、おだやかに「…どうしたの?」と言われると、無言を通してしまいます(←ダメすぎ)
これは自分の課題として、これから、受け入れるようにしていきたいなぁ。

いろいろな人がいろいろな考えをもって生きていく中で、
わたし自身にできることを、少しずつ考えて、実践していくことが大切なんだな、とあらためて実感しました。

気楽な参加の意味

2007-02-25 19:43:24 | フィールド日誌
今日は、水戸芸術館で調査を開始して初めて、なーーんにも調査のことを考えず…、フィールドノートも書かずに、一日、カフェスタッフのボランティアを楽しみました。


日本のエスノグラフィー調査の神(今や)、佐藤郁哉先生に怒られるかもしれませんが、一昨日のフィールドノートを清書し終えて、論文にまとめられそうな見通しがたったので、安心してしまいました。カフェの調査は昨年もやっているし…、というのもあります。

それはともかく、一日ただカフェスタッフとして過ごしてみて、発見すること・気付くことが多くて驚きました。
調査のためにと考えているだけで、視点が凝り固まっていってしまうものなのかもしれません。そのことを思いしりました。
そして、調査のことを考えてばかりで、自分のことを話すことに躊躇していたこと。それが大きな足枷になっていたことにも気付きました。

自分の思ったこと・感じたことを、なんでも、率直に誰かに伝えてみたので、当然、否定されたりしました。けっこうたくさん。
今日何度、首をかしげられたり、「そうですか?」と言われたりしたことか。
そんなことは自分から何か言ってみなければわからないことです。

で、いちいち、ちょこちょこ傷ついたり、気を揉んだりしてわかったことは、わたしがあの場で気楽に過ごすための方法論を会得してないということです。
きっと気をつかわなくて良いところで気を揉んだり、気を遣うべきところでとんでもないことをしているのでしょう。

そのことがわかりました。
見ている対象もおなじように見えていないときもあるし、きっとそこになにかがあると思うのです。それはいったい、なんだろう?

やることおおすぎ

2007-02-24 18:37:24 | フィールド日誌
もう夕方6時25分である。
信じられない…。
今日中に昨日のフィールドノート完成は無理だ。あきらめるべきか。否か。…いや、とりあえずやるだけやってみよう。

フィールド日誌は、自分の言い訳のために書いているので、言い訳して自分を癒そう。
仕事が多いのである(…情けない)。
2月後半、というこの時期が悪い。
専門学校(2つ)の入試と、もうひとつの専門学校の期末試験が重なっているのみならず、わたしが編集幹事をしているT教育学会の学会期用を3月第一週までに完成させなければいけないのだ。
とりあえず、学会紀要仕事は、今日、机の上においてあった第二校原稿を目にしたとたんに、バンッ!と机の引き出しにしまいこみ、カギをかけておいた。
精神安定のためだ。しかたあるまい。
…知らん。知らん。学会紀要なんて、二校校正を一人でやらなきゃいけないなんて知らん。
忘れなきゃ、やってられない。

なんなんだ。なんで、研究室に5人も院生が(4月からは7人という大所帯)いるというのに、なんでこんなにわたしとY氏にばかり仕事が回るのだ。
日本人だからかっ!
日本人の宿命なのかっ!

それはともかくフィールドワークのつらいところは、非常にパートタイムがやりにくいところにある。
新しいことがほとんどないようなところで、大まかに文化を記述するようなフィールドワークならまだしも、わたしのようないわゆるマイクロ・エスノグラフィーは、その場にいった一回一回が勝負だし、毎日が自分の記憶力との戦いなのだ。

今日、フィールドノートをかけなかったら、明日は無心ですごすしかない。
ただのボランティアとして入って自分を休ませるしかない。
…まあ、それでもいいのかな、とも思ったり。

なにしろ、昨日は知的発見がありすぎた。
ただ単に、自分が企画に関わったイベントだということでもないし、
会話が多かったから情報量が多い、というだけのことでもない。

すごく知的発見に満ちてた。
やっぱりフィールドは宝の山だ。
久々に、ものすごく、知的に興奮した。
わたしのやりたいことは、「これだ」って思った。
絶対、昨日みたことはまとめなければいけないと思う。
とりあえず、これをまとめて世に出すまでは死にたくない、と心から思った。
伝えなければ。
それが、わたしの任務だ。

頭の中がグルグルキュルキュルと回りつづける。
容量オーバーの記憶と分析が同時に進んでいく。

こんなとき、わたしはやっぱりフィールドワーク・マシンなのだな、と思ってしまう。
フィールドワークが誰にもできるなんて、うそだ。
すごく特殊なものを、いつのまにか、わたしは持ってしまったようだ。

夢はお姫様:合格発表日エピソード集

2007-02-21 10:02:39 | 研究室
昨日はわたしが所属する大学院博士課程の合格発表日でした。
そんなわけで、今日から水戸芸術館で高校生ウィークが始まるというのに、まったくその準備(…っていってもあとはほとんどないけど)もできず、そちらに意識を向けることすらできず、あわただしく一日が過ぎ去っていきました。

とりあえず、朝からひどかった。
本年度から研究生で来ていた留学生(本年度受験)が、受験票を「捨ててしまった」らしく、しかも受験番号も忘れたとかで、テューターをしている(同じく留学生の)PINGOちゃんとともにバタバタ。
研究室内外を走り回ってました。
…最終的には、受験案内の入った封筒に受験番号が記載されていることを思い出して、そこでチェックして一件落着したんですけどね…。

捨てるのか。捨てるのか…受験票を。
ちょっとカルチャーショック(?)でした。

でも同時に、受験番号を忘れる…というただそれだけで、何をどうがんばってもあとから修復できない(=どこに行っても自分の本当の受験番号はわからない)というシステムにもショックでした。
情報保護にこんなにも熱心なのは、電報詐欺があいついだ時期があったからなのか、匿名性の保護を重視するためなのかよくわかりません。
とりあえず、わかったことは、
日本の学生は受験票を捨てないことを前提とされている…というよりは「受験票をなくす人は論外」とされているということです。
そう考えると、けっこう画一的だな、とも思えてきたりします。

まあ、それはともかく表題に戻りましょう。
この日、合格発表があったというので、夜には合格者の祝賀会がありました。
祝賀会では、わが研究室に科目等履修生でいらっしゃっているポストドクターの方とその娘(5歳)が来ていて、ご想像どおり、ずっと5歳の女の子と遊んでました。

塾や家庭教師をいろいろやってきていて、さらに、リテラシーの社会・文化的文脈のことを研究上よく知っているわたしは、いつも、「この子はとっても順調な発達のコースをたどっているなぁ」と思います。
要するに、いわゆる主流文化のリテラシー実践を、きちんと、段階的に身につけていっているのです。
この「読書はなれ」が問題視される世の中。そのことそれ自体が驚きの事実のように思えます。

人はなぜ本を読むようになるのでしょう?
その答えは、意外と単純なことなのだと思います。
要するに、「そこに何かある」と思えるから。
本の世界の中に、「何か」があると思えるから人は本を読むのではないでしょうか。
(ちなみに物語内容を重視するリテラシーへの見方はいわゆるアカデミックな文化に通用するリテラシーへの考え方であって、普遍的なものとはいえません。
ファッション雑誌のように現実との重ね合わせにおいて意味をもつリテラシー実践も、大きな文化として確かに存在しているからです。ただその場合も、本の中に「そこに何かある」という思いを抱いていることは事実でしょう)

だから本の中に、物語の中に「そこに何かある」と思えること自体が、
読書文化への、とてもとても大切な入り口なのです。

その子(仮にEちゃんとします)はわたしに言いました。

「Eはね。本当のお姫さまになるの。だから、劇ではお姫様はやらないんだ」と。

現実の世界と発表会の劇で作り出される虚構の世界が違うものであることを認識しながらもなお、その世界の魅力が語られる。
そして、現実はその物語によって豊かになる。
…そういう世界の作り出されかたが、この言葉から見えてくるように思うのです。

社会構成主義者のケネス・ガーゲンはいいました。
我々が「キス」という言葉とその社会文化的な意味を知らなければ、それはただの肌の接触に過ぎない、と。
「キス」という言葉の意味。「お姫様」の意味。
それらをわたしたちは、物語によって知っている。そして、それがどれだけ魅力的なことであるかを知っている。
だから、キスに感動するし、「お姫様になりたい」と思えるわけです。

わたしたちが作らなければいけないのは、こういう意味での物語と現実との関係なのだと思います。

だからさ。
だから、「青い煙」がどうだっていいのよ。
「ごんぎつね」が何歳だろうが、別にどうだっていいのよ。

わたしの最終講義:「2番目に好きな授業」

2007-02-19 18:48:15 | お仕事
今日は現在通っている専門学校の最終講義でした。

来年度からちょっとした研究職の身分をゲットすることになったので、そのあたりの規定で非常勤は原則禁止になってしまったのです。
…とはいえ、後から詳しく送られてきた規定を見てみたら、「週5時間までOK」ということらしいので、がんばれば大丈夫だったかもしれないのですが、さすがに担当教官からお許しは出ませんでした。

というわけで、最後の「国語表現法」を本日、やってまいりました。
とはいえ、やるべきことは決まっているし、たくさんあるので、感動的なことはなにもありません。

でも、やっぱりちょっと、最後らしいこともしたいな、と思い、片方のクラスで感想を書いてもらいました。
わたしは、A組とB組の2クラスを担当しているのですが、
A組のほうではちょっぴり時間があまったので。

…実は、これ、わたしの授業経験上、はじめての試み。

同じ研究室のY氏は大学の授業のTA(ティーチング・アシスタント)のときでも感想を書いてもらったりしているようなのですが、わたしは自分の授業に対する感想を書いてもらったことがありません。
教育実習中から、ずっと、そうでした。
学生に気を遣われて「よかったです」みたいなことを書かれるのも嫌だし、あんまり悪いことばかり書かれてそれに耐えられる勇気もないという小心者かつ意地っぱりなわたし。
どうにも「授業の感想」を書いてもらおうという気になれないのです。


結果から言うと、「リップサービスばかりになっちゃうかな」という、わたしの予想は大幅に甘かった。
彼女たちは、わたしの予想以上に正直でした。

正直感想第一位はこれ!
「先生の授業は1年生の授業の中で2番目に好きでした」

…さすがです。
なんか、「国語表現法」の担当教員としては、「わたしは良いけどさぁ、他の先生にはちゃんとそこら辺はリップサービスしときなさいね(汗)」と言いたいような気持ちもありますが、わたし自身はなんだか、とってもうれしかったです。
すごく、あたたかい気持ちになりました。
ああ。もう暦の上では春なんだなぁ、としみじみしてしまいました。
幸せ。ほんとうに、すごくしあわせ。

半期だけの、短い間の授業だったのに、しかも「国語表現法」なんて将来にも関係なさそうなつまんない授業なのに、それでも彼女の中で「2番目に好きな授業」という意味ある位置に位置づけられたことは、わたしにとって大きな誇りです。

それにしても、
「来年度の引継ぎの参考にするから、「この内容は残してほしい」とか「これはこうしてほしい」という感想を書いてね」と言ったのに、

「kimistevaちゃん。好きー。」
「もう来ないの、さみしいよー。また来てね。」

…みたいな感想が多いのは、わたしのキャラクターのせいなのか…。
それとも、彼女たちがあまりにも甘えんぼうなのか。


ああっ!悪かったなっ!
わたしも、みんなが大好きだよっっ!チクショー!

一人暮らしの台所

2007-02-16 17:25:32 | 趣味
いろいろなところで言っていることだが、
わたしは草月流の師範(師範四級)の資格をもっている。

華道にはいろいろ流派があるわけだが、
その中で草月流の特徴は、と聞かれたら、わたしは間違いなくこう答える。

「その場所に生ける…ってことを大事にするところかな」と。

草月流というと刈屋崎先生があまりにも表に出すぎてしまって、どうも「自分の生けたい場所を探す」というイメージが強いようなかんじがする。
わたしはどちらかというと、「場所」まずありき、というタイプ。

あんまり床の間とか玄関とか、「いかにも」の場所は好きじゃない。
最近はわが町の文化祭でも作品を発表していないけれど、それもそんな理由がある。
ホワイトボックスが嫌いなのだ。もっと変わったところがいい。
一見、花なんかと無関係そうなところが、好き。
場所の匂いが強いところのほうが、わたしは好き。
(こう考えてみると、わたしもそういう場所を探している、ということになるのかな。)

だけどもちろん、そういう場所は長く花を飾っておくことができないので、一瞬だけ花をおいてみて、写真を撮っておくことにした。
…この写真をためていって、文化祭で発表する…っていうのじゃ、ダメかなぁ?とこんどわたしの師匠に聞いてみよう。

第一弾は、我が家の台所。
台所は、わたしの好きな場所のひとつだ。
すべてのものに合理性があって、すべてのものが生命とつながっていて、無駄がない。

★遅咲きガール★

2007-02-16 14:36:07 | わたし自身のこと
生物というものは、とても、うまくできていると思う。

わたしの所属する大学の実験心理学の先生の中に、
動物実験で恋愛行動を確かめる…という、大学院生になった今から考えると、おそろしく先進的なことをやっていたなぁと思える、偉大な先生がいた。

その先生は、わたしが大学2年生だった当時、鼻息が荒いことで有名で、
そしてその鼻息はマイクに音声として拾われてしまうので、
宿命的に学生たちにネタにされていた。
「~ですーっ…フゴー(←鼻息)」という言い回しは、かなりわたしの周囲でブームだった。(同じころに、「kimistevaウォーク」もネタとして流行していたという話はまた別の話)


その先生は、その鼻息の荒さも去ることながら、
言い回しがいちいち印象的で、多くの名言を残した。
その名言のひとつに、

「セックスなんて動物だろうが人間だろうがやることは一緒。なんの面白みもない。面白いのは、それまでなんですーっ…フゴー」

というのがある。
1年生必修の基礎科目「心理学」で18歳前後の少年少女相手に、そんな話しなくても…、とも思いつつ先生の話を聞いてみると、面白い部分というのは「恋愛」、すなわち、できるだけ無作為に(そしてできるだけ進化に効率が良いように)相手を選ぶプロセスだという。

そう考えると、一番効率が悪いのは、「ペアができない」状況が多々発生すること。でも、実際はけっこうスムーズにペアは形成される。
これってすごい。

人間も同様で、
いくら、自分の顔が悪いとか、プロポーションが悪いとか、悪いところを並べあげて絶望的になっていても、
結局、そういう不完全な誰かを好きになってしまうのだし、
不完全な自分も誰かに好かれてしまう。
ただし人間の場合、生物的な進化云々よりも、社会・文化的な要因のほうが強いから、このペアは生物学的な要因によるペアというよりも、社会・文化的な要因のためのペアなのかもしれないけれど。

それはともかく、
そんなシステムのおかげで、わたしも孤立することなく生きていけるのだが、
それでも、「自分が孤立せず存在するための」「好かれるための」コミュニケーション・パターンというのが安定し、確立するにつれ、自分がどんどんそこから離れられなくなることに一種の絶望感を抱くことがある。

こうすれば、「好かれる」ことはわかってる。
だけど、だとしたら、そうでないわたしはどうなるの?

そんな不安を、試すこともできないまま、漠然と抱えてしまうことになる。

そんなとき。
自分を他のコミュニケーション・パターンに誘ってくれる他者が存在することは、これ以上なく、ありがたいことだ。
とにかく、うれしい。喜ばしい。
飯田橋駅西口前を「わーい♪」と言いながら、とびはねてしまうほど、うれしい(実話)
突然、任天堂DSを買おうかな、と思えてくるほどうれしい。
わーい♪わーい♪わーい♪


この日、関東には春一番が吹いていたらしい。
そんな「遅咲きガール」な一日だった。

…誰かに無条件に優しくされることって、稀有な経験だよね。
わたしも、誰かに対してそんな存在であれるだろうか。
いつでも、そうありたいと願うよ。

「びっくりセーター」は何が「びっくり」か:「夏への扉―マイクロポップの時代」展2

2007-02-15 10:24:49 | フィールド日誌
「夏への扉」展をめぐるエピソード第二段である。

2月に入った途端、突然忙しくなって、なかなかブログの更新ができないので、この機会にたくさん書いておこうと思う。

今年の高校生ウィーク会期中に、水戸市内にあるとある高校の美術部の数名の生徒たちを対象に「高校生に向けたギャラリートーク」を実施してもらうことになっている。この企画の意図について、わたし自身が考えていることは、また後々書くことにして、この生徒たちと先日あったときに聞いたことについて書いてみたい。

高校生が現代美術ギャラリーに無料で入れる「高校生ウィーク」の期間は2/21からなので、当然のことながら、この前あった生徒たちの誰も、まだ展覧会はみにいってなかったようだった。
そんなわけで、以下に紹介する発言は「夏への扉」展そのものではなく、「夏への扉」のチラシに出ている國方真秀未さんの作品「びっくりセーター」についてのものである。

「「びっくりセーター」って、何が「びっくり」ってセーターの下に何も着てないのが「びっくり」だよね」

これほど、簡潔かつ明瞭な、現代アート作品の解釈を、わたしは知らない。
しかも、なんだかものすごく納得した。

そんなわけでそんな話を、「夏への扉」展をみにいったあとに、ご主人様にしてみたところ、新説登場。

「何が「びっくり」って、あの大きさがびっくり」

…キャンバスの大きさの小ささに「びっくり」だそうです。
確かに、小さいけどね。

さまざまな新説をうむ「びっくりセーター」!
さてさて、いったい「びっくりセーター」は何が「びっくり」なのか。
新説、乞うご期待!

わたしの価値観の居場所:わたしたちの「夏への扉―マイクロポップの時代」展1

2007-02-15 09:54:17 | フィールド日誌

前回の記事を書いてから今この記事を書くまでに、3回、水戸芸術館にいってきた。

わたしは誰かと一緒に展覧会をみることが多いので、そのたびに、展覧会の感想を聞くのだが、今回は、それ以外にも展覧会の感想を聞くことがあった。一緒にみにいった人とも、けっこうたくさん展覧会について話せたりして、なんだか今回の展覧会はすごく「特別」だな、という印象。

そんなわけで、わたしが出会ったいくつかのエピソードをブログに記事として投稿したいと思う。
今回の企画展ほど、たくさんのエピソードを産む展覧会はそう多くは出会えないと思うのだ。

まず最初に紹介したいのは、非常勤をつとめている専門学校で会議があったときのエピソード。
そのとき、たまたま同席した、「英語」科目担当の女性(アメリカから日本に来て、現在はどうやら帰化しているらしい)に、偶然、「夏への扉」展の話をされた。

彼女は、「日本でこんなアートに出会えるなんて思わなかった」と、なつかしそうに語った。「まるで子どもが描いたアートみたい!」と。

彼女は大学時代、アメリカの大学で「アート・セラピー」を専攻していたらしい。だけど日本にはアカデミックに「アート・セラピー」について研究したり勉強したりできるところはほとんどない。実践レベルではいくつか展開しているところもあるけれども、そういうところは、茨城からとても遠いのだという。
彼女は、「アートセラピー」の実践をしたいと思いつつ、その難しさに直面して、今は、いくつかの学校で「英語」の非常勤をしている。

そんな彼女にとって、「夏への扉」展は、若き日に故郷で学んだあのときに、自分が心から「すばらしい」と思えるような「何か」を再び見せてくれたのだと思う。
「まるで子どもが描いたアートみたい!」という言葉は、日本の通常の文脈で聞くと、作品をけなしているようにすら思えるが、彼女にそんな意図がまったくないことは自明だった。彼女は目を大きくして、両手を打ち合わせるようにして手を組んだ。まるで「wonderful!!」といわんばかりだった。
彼女は、そこで自分の価値観の居場所を見つけたのだと思う。
アメリカにしかなかったもの、日本では遠い地方にいかなければ見られなかったと思っていたもの。
その価値観に居場所が与えられたことに、彼女はとても喜んでいた。

わたしたちは、なぜ、美術館に行くのだろう?
その答えのひとつがここにあるような気がする。

わたしたちは、それぞれ一人で、自分の価値観を抱えて生きている。
その価値観の居場所を見出すこと…自分の価値観が誰かにわかってもらえるという感覚を見出せることはほとんどない。
だけど、美術館にいくと、たまに、そんな価値観に出会えることがある。
その出会ったときの感覚は、「笑える」やら「おもしろい」やら「なつかしい」やら…。
「陳腐」で「浅い」といわれそうなものばかりなのかもしれないけど、
そんなときに見出している「わたしは一人ではない」という感覚は、とてつもなく大きなもののように思える。