KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

誰かに止めてもらわないとどうしようもない状況

2008-06-12 18:28:12 | ニュースと政治
通り魔犯行予告「通報を期待」
http://mainichi.jp/select/today/news/20080612k0000m040171000c.html

このニュースを見てていたら、
ヴィゴツキー派の心理学者・ルリアが行った「ランプ押し実験」を思い出しました。

「ランプ押し実験」は3歳から6歳の子どもを対象とした実験で、子どもたちは「赤ランプがついたらボタンを押してね。青ランプでは押さないでね。」と指示されます。

この課題、実をいうと、3~4歳の子どもたちは、できないんです。
かわいいね。
・・・と、それはともかく、そんなわけでうまくいかないので、ルリアさんは、その前段階として、赤ランプがついたら「押せ」と言い、青ランプには何も言わないという練習を入れてみました。
この練習をした3~4歳の子どもたちが、再びランプ押し実験をしたところ、今度は成功することができました。

これが5~6歳の子どもになると、他人から言われた「押せ」という言葉に正しく反応するだけでなく、他人から何も言われなくなっても、次第に正しくランプを押すことができるようになりました。

ここからルリアさんは、このように考えました。

○3~4歳の子どもは、他者が言語で命令するとそれに併せて行動できるが、自分で言語で命令するようにやると、うまくできない。
○これに対して、5~6歳になると内言が発達し、自分の中の言葉(内言)で自分の行動を調整できるようになる。

以上、ルリアの「言語調整機能」の説明(半分ですが)です。


ルリアの「言語調整機能」の説明を見ると、「ねーねー。お片づけしなさいって言ってー」と言ってくる小さい子を思いだして、なんともいとおしい気持ちになります。
3~4歳の子どもは、自分の言葉で自分の行動を調整することができないので、「お片づけしなさいって言ってー」と他者に言って、他者(保育園の先生やお母さん)に、「お片づけしなさい」って言ってもらわないと、お片付けできないのです。
けして、おもちゃの片づけをしたくないわけではないのです。
うーん。なんて、かわいいんだっ!


転じて、秋葉原の殺傷事件ですが、
わたしは、「どうしてここまで誰も止めなかったの?」と思うような悪質ないじめ事件や今回の秋葉原殺傷事件のような事件を見るたびに、
ルリアの「言語調整機能」のことを思い出すのです。

ルリアが言うように、5~6歳にもなれば、みんな自分の言葉で自分の行動を調整することができるようになるわけですけど、でも、それは、「ボタンを押す/押さない」というレベルの、感情的になんの影響もないような課題だからなのではないかなぁ。

たとえば、怒りを止められなくなることなんて、誰にもでありますよね。
もう怒りの原因となることは、すでに消え去っているのに、なんとなくずっと怒ってしまっている・・・とか。
うつになった原因となる問題はもう解決しているのに、なんとなくずっと鬱々とした気分が続いてしまう・・・とか。

たとえばそういうとき、ある行動を起こそうと思い立ってしまって、
それが止められなくなるときもあると思うんですよね。
それは自分の言語調整機能だけでは、どうにもならなくて、ともかく誰かになんとかしてもらわないとどうしようもないときって。


どうも、秋葉原の「通り魔」はそういう自分をよく知っていたように思えます。
だって、こんなに、「誰か止めてー」ってメッセージをインターネット上に必死に書きまくる犯人なんて見たことありません。

インターネット上のカキコミの主が判明する事件って、ほんとうに希なんですよね。

でも、この犯人は捕まるなり、「カキコミしたのは私です」と自白してる。
自分のカキコミを見てほしかったんだろうなぁ。
それで、自分の暴走する力を押さえ込めるくらい強い力を持つ「誰か」に押さえてもらわないとどうしようもない状態だったんだろうなぁ。


だからと言って彼に同情するでも、なんでもなく、いつものとおり、「どうして、そうなるまで誰も止めなかったんだろうなぁ」と思うのでありました。
でも、犯人が憤慨した(?)とか言われている掲示板上の女性(「友達」さん)とのやりとりを見る限り、本人はもう悪く解釈するばかりで、とにかくとてつもない強大な力で押さえ込むしか方法はなかったんだろうけど。


わたしみたいな人間は、こういうとき、本当に無力です。

甘美なる時間

2008-06-11 09:41:22 | お仕事
わたしが看護学校で非常勤を始めて、もう、3年目になる。

これはどういうことかというと、
看護学校の現在、1年生から3年生までが顔見知り・・・ということであり、
また、
来年度には、ついに念願の「知り合いの看護師さん40人計画」が実現する、ということでもある。

早くも来年が待ち遠しい。


さて、そんなわけで今年度からは、
各学年40人(定員)1クラスの1年生から3年生まで全員と顔見知りになり、看護学校に行けば、あらゆる学年の学生たちと出会うことになった。

そんな状態の日々で数ヶ月過ごしながら、ずっと、気になっているのが、
そのあらゆる学年の学生たちが、わたしに、

「先生、うちらのときが一番良かったでしょ?」
「先生、アタシたちんときが一番楽しかったでしょ?」
「先生、うちらと一番気が合ってたもんね」

・・・などと、言ってくることである。

ともかくどこの学年の学生も、「一番」を強調してくる。
なんでだろう?
そもそも「一番」ってなんだ?
・・・などと深く考えつつ、

「そうね。一番、パンチがきつかったかな。」
「うーん、そうだな。なんか一番、エロエロなトークで盛り上がった気がする」
「あー、なんかそうね。一番、個性きつかった。」

とか、わたしのわかる範囲で「○○で一番」を決めて答えるようにしている。
・・・すると、なんだかよくわからないが、うれしそうに、キャッキャッと喜ぶので、なんとも、うれしくなる。


しかし、この「一番」を求めてくるというのは、いったいなんなんだろう?
もしかしたら、
それは要するに、授業の中で私たちが、かけがえのない「甘美な」時間を過ごし、親密な関係性を形成していた・・・ということなのかもしれない。

ここで、「甘美な」という言葉は、恩師K先生の言葉を借用している。

長年の喫煙生活を離れ?、ついに禁煙に成功したK先生は、
ある懇談会の場で、こうスピーチした。

「禁煙した途端、N先生から「ついにやりましたね」と褒められたりして、良いことばかりなのですが、ただひとつ残念なことがありました。
それは、C研究室の院生のAくん・Bくんと一緒に、2階の隅の喫煙所で過ごしていた時間を失ってしまったことです。
2階の隅の喫煙所で、煙草を吸いながら、「俺たち、ダメ人間」なんて言っていた時間は、なかなか甘美な時間だったのですが。」


わたしは、この「甘美な」という表現が好きだ。
なんともK先生らしい、美しい日本語だと思う。


「甘美な」時間は、恋人同士が睦言を交わし合うその愛らしい時間のみを指すわけではないだろう。
「わたし」が「あなた」をかけがえない存在と思い、
そして「あなた」が「わたし」をかけがえないと思い、
「わたしたち」で過ごす時間をかけがえのない大切な時間だと思えるなら。
そして、その「かけがえなさ」を二人が暗黙のうちに(お互いにそれを確認しなくとも)信じることができるのなら。
それは、紛れもなく「甘美な」時間と呼べるのだと思う。

その「甘美な」という言葉を借用させていただくなら、
授業の間、私たちの間に流れていた時間は、まさに「甘美な」時間だったのだろうと思う。


だからこそ、新しい学年が入学し、わたしの授業が始まると、
以前、担当していた学生たちは、少し不安を覚えるのかもしれない。
暗黙のうちに共有されていた「かけがえなさ」への信用を失いかけてしまうのかもしれない。

「わたしたちが、一番でしょ?」
という問いは、まさに、その失いかけた信用を取り戻したいというメッセージなのではないか、とわたしは解釈した。

だから、わたしは「あなたたちは、かけがえのない存在だ」と言い続ける。
わたしには「一番」がどういうことかわからないけど、あなたたちがわたしにとってかけがえのない存在であることは確かで、それはまったく揺るぎないことなのだ、と言い続ける。

「コバルト」の時代:氷室冴子氏死去

2008-06-07 11:23:54 | ニュースと政治
以前にも書いたが、現在、少女マンガや少女雑誌の歴史を研究中である。

そんな矢先、あまりにタイムリーで、
だからこそ、あまりに悲しいニュースが飛び込んできた。


少女小説の氷室冴子さん死去

毎年、全国図書館協議会と毎日新聞が共同で行っている「学校読書調査」の結果を過去にさかのぼって見てみると明らかだが、
わたしが、小学校高学年から中学生だった時代-つまり、わたしが「少女」だった時代-、
「少女」たちが読んでいる本のだんとつトップは、氷室冴子『なんて素敵にジャパネスク』だった。

わたしが「学校図書館調査」を調べはじめた当時わたしと一緒に調査の手伝いをしてくれていた友人とともに、この調査結果を見たとき、
これ以上なく、なつかしい気持ちになったことを覚えている。


『なんて素敵にジャパネスク』は、あまりに当たり前にみんなが読んでいたので、わたしたちの世代にとっては、「基礎教養」ですらあった。
わたしもこれ以上なくはまっていて、
自分の雅号(=華道師範ネーム)を決めるときには、主人公「瑠璃姫」の「璃」の字をとって、「璃翠」(りすい:「翠」はわたしの師匠の雅号にある文字である)にした。


その氷室冴子さんが、この世からいなくなってしまった。


信じられない。


今、少女小説の世界に彼女が描いたような「おてんば姫」はほとんど出てこない。
代わりに登場したのは、麗しい少年たちのボーイズ・ラブである。


「コバルト」の時代が、こうして終わりを告げていく。
わたしは、そうしてわたしの「少女」時代が過ぎ去るのを、ただただ眺めているしかない。

「字義」と「意味」:梅佳代『うめ版-新明解国語辞典×梅佳代』

2008-06-06 21:20:06 | 趣味
ギャラリーショップをうろうろしながら、写真集など見ていたら、
耐えきれなくなって買ってしまいました。

梅佳代『うめ版-新明解国語辞典×梅佳代』

この写真集は、梅さんの写真に、新明解国語辞典に掲載されている本当の用語説明が付されていて、その組み合わせがなんともおもしろい。

ちなみに画像は表紙にある「ライバル」の写真。
この写真には以下のような文言が付されている。

ライバル
①[rival=同じ川を使用する者]
競争相手。[狭義では恋がたきを指す]
「――をたたく」


なんだろうな。
写真だけでも十分かわいらしいし、面白いんだけど、
この「ライバル」の用語解説が付されていることで、なんとも言えないキューーンとしたかわいらしさが伝わってくる。


「ことばの意味」には、辞書に掲載されているような「字義」(meaning)と、人々が生活経験などを重ねる中で重ねていった感覚的な「意味」があるけれど、
この本は、その「字義」と梅佳代さんの写真とが重ね合わされることで、
言葉の「意味」の側面がふんわりと映し出される。


わたしがこれまでに生きてきた中で、積み重ねてきた言葉の「意味」


そんな言葉の「意味」を大切にしたいな、とあらためて思わせてくれる写真集でした。

学会大会@水戸終了しました

2008-06-04 12:11:06 | 研究
ついに先週末、国語教育学会大会@水戸が終了しました。

わたしは昨年度行った、水戸のとある高校の鑑賞教育の実践を報告したのですが、
想像以上のオーディエンス数でした。
発表が始まる時点で、すでに、発表資料が不足し、立ち見が出る事態に。
広島大学を卒業した知人からも、「後輩が欲しいと言っているので、あとで1部郵送してください」と言われました。

実をいうと、宇都宮大会のときもこういう事態が生じたのですが、
そのときは、大会実行委員の人が、学校の印刷機で増刷してくれていたようです。
・・・学会事務局から言われているとおり、100部持っていっているのに毎回足りないなんて・・・。
これから先、対策を講じる必要がありそうですね。

質疑応答も、ヒートアップ。
「現代アート」という存在の難しさとともに、可能性を感じさせる質疑応答で、わたし自身、いろいろ考えさせられました。

まず出たのが、
Q1:「なぜ、アートについて言語化しなければならないのか?」という質問。


わたし自身、これについてはいつも悩んでいるので、初めからなかなか本質的な質問が来るなぁ、とうれしく思いました。
・・・というか、わたし自身「読書感想文」反対派なので、「美的体験は美的体験のまま経験されるべきである」という主張には、むしろ、賛成なのです。
その質問をいただいた方も、「文学体験」をとても大切になさった研究をなさる方で、研究の端々から、そういう思いが伝わってくるので、その方がこういう質問をなさるのは当然のことだなぁ、と思いました。

次に出た質問。
Q2:「意味生成のための言語化」の段階から、「不特定多数の他者に向けた言語化」に行けない学習者がいるというのは当然のことなので、むしろ、「不特定多数に向けた言語化」を行わせるためにはどんなハードルが存在していて、どのように支援すれば「不特定多数の他者に向けた言語化」が可能になるのかを仮説で良いので明示すべき。

わたしは、「そんなこと当たり前」「そんなこと知っていた」という意見をいただくたびに、「それって本当かなぁ?」と思う。
正確にいうと、その方が「当たり前」に知っていることをあらためて、理論的に整理し、言語化しておく必要はないのかな?、・・・と思う。
・・・というのは、わたしの仕事の主な部分は、みんな既に感覚的に知っていてそれを毎日当たり前のように実践することを理論的に整理することだと思っているから。


少なくとも、その方は、すでにアートに向き合ったときになんなく言語化できてしまう方で、その立場から、そういうことを言っているように見えた。
きっと、その方は、自分がこんなに難なくできてしまうことをできない学習者に疑問を抱いていて、「どうしてできないのか?」という問いを立てているのだと思う。

実際、その方はその問いをわたしに発した後、こう言った。
「日本人は部分しか見ずに、全体の世界観を言語化できないことに障害があるのではないかと私は考えます。」と。
ドイツの国語教育を研究しているその方にとって、日本人のそういう障害は苛立たしいところでもあるのだろうと思う。

わたしの立場はまったく逆だ。

わたしは、「わからない人」である。

「わからない人」だから、「わからない人」がどうやったらそれを楽しめるのか、どうしたら自分なりに意味を生成できるのか、それを必死に考えてる。

だから研究の結論として、
「意味を生成できる段階までできること、そのものを大切にしてほしい」
・・・ということを述べた。
でも、きっとその方には、それが少しも伝わらなかったのだと思う。


それは、とても残念なことだ。

しかし一方で、
わたしの発表を聞いて、

「これは、アートだけの話ではなくて、kimsitevaさんが議論しようとしているのは、ホントウに、今の社会で生きる上で必要な言葉の力なんだと思う!」

・・・と熱を持って語ってくれた方もいて、いたく感激した。
その方は最後に、「頑張ったから、ご褒美!」と言って、
わたしに『その国語力で裁判員になれますか?』(明治書院)という本をプレゼントしてくれた。

わたしはその本を読みながら、
「きっと、その方が思い描いていたリテラシーと、わたしの思い描くリテラシーは、いろいろなところで異なるんだろうなぁ・・・」
と思いつつ、それでもそういうふうに自分の文脈で、わたしの研究を評価してくれたことを、とてもうれしく思った。


良い研究というのは、いろいろな人たちがいろいろな可能性をそこに感じて、
勝手にさまざまな解釈をして、自分なりに利用できる研究だと思ってる。
そういう意味で言えば、今回の研究は間違いなく「良い研究」だし、「良い発表」だった。

わたしは、満足だ。
自分が、「実践報告」という新たな分野にチャレンジできたことも、
国語教育研究界で著名な方々が発表を見にきてくれたことも、
ヒートアップした質疑応答も、
本当に発表してよかったな、と思わせてくれた。


こういう満足した発表ができると、もっともっと研究したくなる。
発表したくなる。

さあて、次は何を発表しようかな?