KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

存在することの実感

2007-04-27 14:53:07 | わたし自身のこと
確かにその人が存在はしているのは事実なのだけれども、
その人が「確かに存在している」という実感が、果てしなく希薄な人がいる。

以前からいろいろな人に言っているが、
わたしは、眠っているときに見る夢の密度が、とても濃くて、
(あるいは、現実の記憶がとても薄いのかもしれない。相対的なものだから)
夢で見た内容と現実との境界が曖昧になることが、とても多い。
さらにいうと、物語でいつか見た内容との境界も曖昧になることがあって、
わたしにとっての「現実」というのは、本当にわたしが実際に体験した現実なのだろうか、と考えると、とても自信がない。

あるとき、
相手は覚えていないが、誰かに告白され、
なぜかわからないがパートナーに何か悪いことをしてしまった夢を見たことがある。
その後、すぐに「しまった!なんてことをしてしまったんだ!」と思って、ガバッと起き上がり、現在のパートナーに謝罪メールを打とうとして、ハッと我にかえり、「ああ、夢か」と気づいたのだが、こういうことがあること自体が自分でもよくわからない。

夢における自分の行動のコントロールができない、というのは誰しも抱える経験ではあるが、起きたあとにその行動に責任をとろうとした人はあまり聞かない。
それほど、わたしにとって夢と現実の境目は曖昧なのだ。

そんなわたしではあっても、
自分の存在が希薄であると感じたことは多々あっても、
他人のことをそのように感じたことは、これまで一度だってなかった。

だけどその人の存在といったら、あまりに希薄すぎて、
ぼんやり考えていると、
「あれ?いつか読んだ小説の登場人物だったかな…?」なんて、思えてきてしまう。
夢に出てきた記憶すらないから、そういう確信が深まってしまって、さらに質が悪い。


高校時代以来会っていない友人にも、
一度しか会ったことのない子どもたちにも、
そんな感覚は抱いたことがない。

だから、とても気持ちが悪い。
わたしって、そんなに現実感が危うい人間だったかなぁ。

カワナさんのこと

2007-04-26 17:28:25 | 研究室
わたしが通うT大学には学内郵便局がある。
カワナさん(仮名)は、その学内郵便局の中で働いている女性である。
わたしの記憶が正しければ、カワナさんは昨年度から、学内郵便局で働きはじめた…と思う。

わたしは、研究室内で分担している仕事の関係もあって、
頻繁に学内郵便局に行くのだが、
そのたびに、カワナさんに会って、ドキリとする。

そのくらい、カワナさんは美人だ。
「美しい」とか「美人」とかいう言葉は、きっと、カワナさんのためにあるんじゃないか、といつも学内郵便局の帰り道に思う。

カワナさんは茶色のふちのあるメガネをかけている。
カワナさんは、とても、美人だ。
メガネをかけている美人というものが、この世にいるのなら、
そして、3次元にきちんと存在するとしたら、それはカワナさんだろうと思う。
そのくらい、美人だ。

カワナさんはそんなに美人なのに、
こんなにちっぽけな郵便局で働いている。
いつも惜しみない笑顔ですべての人を迎えてくれるし、
細かな気配りもサービスも、いつも、惜しみない。

カワナさんの存在そのものが、わたしにとっては美しい。

わたしは不思議に思ったことがある。
カワナさんはなぜ、もっと広い世界にでないのかと。
こんなに美しいのに、こんなにキレイなのに、なぜ、こんなに小さな世界にいるのだろう、と。

でも最近、それは違うとわかった。

カワナさんは、学内のちっぽけな郵便局で働いているからこそ、
こんなにも美しく、
こんなにもキレイなのだと。

カワナさんの存在そのものからにじみでるような美しさは、
大きな世界のなかでは見えずらくなってしまうかもしれない。

学生ごときを相手にしつつ、
それでも最大限の気配りをするその美しさは、大きな世界の中ではくすんで見えてしまうかもしれない。

カワナさんは、美しい。
カワナさんのいる場所も含めた、いろいろな状況の中で、
カワナさんは、今日も、美しくたっている。

あるX線技師の話

2007-04-19 16:49:46 | 研究室
わたしの通う大学には、
内科や整形外科などのある小さな学生のための診療所があります。

その建物の地下の奥の奥に、彼がいるレントゲン室があります。
レントゲン室はそこにある多くの機器類のためにとてつもなく広く、
地下にあり、人もほとんど出入りしないため、とても薄暗い部屋です。

そんなうす暗くてただただ広い部屋に、彼は一人でいます。

8年ほど前のある日、そこにある女子学生が訪れました。
歯科室から、レントゲン依頼書をもって、重いレントゲン室のドアをあけてきました。
そして、前歯のレントゲンの撮影をして、
レントゲン写真の現像ができるまでの、ほんの少しの間、彼と話をして帰ってきました。


それから一週間か二週間に一度、
彼女はレントゲン室を訪れました。
そしてやはり、レントゲン撮影をして、レントゲン写真が現像されるまでの少しの間、彼と話をして帰っていくのでした。


…そんなことが半年くらい続いたある日、
彼女は突然、はたりと来なくなりました。


一年後、彼女は再びレントゲン室を訪れました。
その日は健康診断でした。

彼は「やぁ。久しぶり」と言い、
彼女は「ああ。お久しぶりです。」と言いました。

彼は年に一度、彼女と会うたびに、
「ああ。kimsitevaさんか。長いよね。久しぶり。」
と言い、
彼女は「お久しぶりです。」と答える。
ただ、それだけです。


今年も同じでした。
わたしは毎年、同じ時間の流れるこのときが、とても幸せです。

レントゲン撮影は、新入生以外は希望者だけが受けることになっています。
それでも、毎年、わたしはレントゲン室を訪れます。
もしかしたら、来年、いけなくなるかもしれません。

そうしたら、彼は少し、淋しく思ったりするのでしょうか。

「……どっちだ?」

2007-04-18 16:20:27 | 研究室
よしながふみの『ピアニスト』という短編作品の中で、
ゲイのピアニストが、ある若くて「いい男」との、微妙なやりとりの中で、

「…どっちだ?」

…と問いつづける展開が、とても好きです。

なんでこんな話をいきなりするかというと、
最近、そういう相手の気持ちを量りかねるような事態が多くあるからです。
気がつくと、いつも自分に「…どっちだ?」と問いつづけています。


具体的に言うと、
「ぶっちゃけ出ていってほしいのか、そうでないのか。はっきりしてくれ!」
…ということ。
(カテゴリーを見れば明らかなことですが、研究室でのわたしの話です)

ある方とのお約束で詳しい話はできないので、
これを読んでいる方には、まったくわけがわからないと思うのですが、
ともかく、
担当教官T先生が、突然、いままで一貫してきた指導の方向性の手の平を返したような指示をしてきたので、面くらっています。
驚いています。
…いったい何なの?何があったんだろう?

研究室の人数が増えすぎたとか、
T先生の仕事が増えすぎたとか…そういう周囲の環境の変化によって、何かが変わった…ということなのでしょうか。

わたしは邪魔なのか。必要なのか。
…どっちだ?

ほんとうの名作とは:高村光太郎「レモン哀歌」

2007-04-13 14:01:57 | 趣味
ちょっと前の話になってしまいますが、
先日、我が母校O高校演劇部に、「O高校演劇部基礎練習テキスト」なるものを作成し、10部印刷してもっていきました。

その基礎練習テキストには、
活舌練習の定番テキスト「外郎売りの台詞」と、
表現力アップのためのテキストとして12編程度の詩が入っています。

12編程度の詩は、要するに、自分の心がしっくりと落ち着くように音読することを目的としています。
いわゆる国語科の授業でやる「音読」は、演劇関係者では「素読み」といいます。要するに、ただ文字面を追って読んでいる状態。
そうではなく、ことばの意味が自分の中で落ち着くように、しっくりいくように音読するのです。

ちなみに、わたしは、この練習が大好き。
詩を声に出して読んでいるときが、一番、自分の声を好きになれる瞬間です。


さて、このテキストを高校生たちに渡して、
とりあえず、一通り、全員で順番に読んでみました。
そのあとに、わたしが、

「とりあえず、自分のレパートリーって言えるような詩をひとつ選んで、それだけでも自分の納得いくように読めるようにしようか」

というと、
女の子たち二人が、二人で「「レモン哀歌」がいい!」と言いました。

もちろんその理由は、国語科の授業で見たことがある、というのもあったのですが、どうも聞いてみると、声に出して読んでいて、とてもしっとりとしたステキな気分になれるらしいのです。
わたしも、その気持ちはとてもよくわかる。

それを知ったとき、さまざまな世代を超えて、つながる言葉というのは、確かに存在するのだな、と思いました。
「レモン哀歌」が、なぜそこまで名作なのかは、文学畑ではないわたしにはわからないけれど、少なくとも、20代後半にさしかかるわたしと、10代後半に入ったばかりの女の子たちとの間に共感が生まれるような「何か」が、「レモン哀歌」にはある、ということだと思うのです。

これは、とてもステキなことですし、
そういうステキな瞬間を生み出せる「レモン哀歌」はやはり名作なのだなぁ、としみじみ思いました。

そういう意味で、わたしに「名作」といえるような言葉を生み出せる力は、ほとんどありません。だけど、日々過ごす小さな瞬間に、そういう言葉を生み出していきる人間にはなりたいと思います。

きっと、
国語科における文学の意味ってこういうところに求められるべきなのでしょうけど、そういうステキな瞬間は、教師と生徒たちとの私秘的な時間の中にひっそりと残されてしまうようで、
そういう報告を目にしたことは、あまりありません。

自分の仕切りなおし

2007-04-12 12:49:59 | わたし自身のこと
わたしがこれまで生きてきて精神的に一番つらいと感じていた時期は、
大学院に入ってからの2年間でした。

わたしを支えてきてくれた周囲の人々をすべて失って、
自分のやりたいことすらハッキリとは見えない状態で、
自分にとって「なんか違う」と感じられるような授業ばかりを受けなければならなかったあの頃は、本当につらかった。
何度も、退学や休学を考えて、
カウンセラーに相談したり、担当教官に相談したりしました。
けど、結局、ここにいつづけています。
そして、もう5年生。最終学年です。

あのときは、あんなにつらかったのに、
それでも、ここにいるなんて、本当に不思議だと思います。

そういえば、昨日、最近知り合いになったかたに、
「T先生(担当教官)牧場の異端児です」とメールの最後に付け加えて書いておいたら…、

「kimsitevaさんだったら、T牧場の異端児どころか、N学系棟(わたしの研究室がある建物)の異端児と名乗っても許されるのではないでしょうか?(本気で。)」

…という返信がかえってきて、凹みました。

教育学の異端児だという自覚はあったけど、
心理学・心身障害学・教育学あわせても、さらに異端児と言われると、
「自分ってなんなんだろう?」
…とあらためてアイデンティティの危機に陥ります。

そんなわたしではありますが、
(まったく読んでもらってないようですが)博士論文のドラフト(草稿)も出したし、博士論文提出の用件もどうにか揃いつつあるようです。
これは、本当に不思議な話です。

とはいえ、そこまで来てしまった昨年の12月からは、
精神的に不安定な時期を送っていました。
自分の中の未整理なものすべてを整理しきってしまうと、そこには空虚感が残ります。
曖昧なものや未整理なものに支えられて、自分のやりたいことなり、自分のこれからの方向性なりを決めてきたわたしにとって、自分の中の整理がキレイについてしまっている状態というのは、不安定な状態でした(…なんて逆説的な話でしょう)

そのようなしだいなので、
いつか、自分の仕切りなおしをしようとずっと思ってました。
解決できない課題や、整理できない問題を、もう一度、自分の中で抱えなおさないと自分がこれから先、生きていけないような気がしたのです。

昨日はそのための一大決心をしました。

教育社会学のコミュニティに参加しようという決心です。
これまで、教育社会学っぽいことはたくさんやってきたつもりですが、実をいうと大学時代から本格的に学んだことは一度もなかったのです。
そのため、教育社会学に関わる人の資源が乏しく、いつも「孤軍奮闘」でした。

たまたま、いろいろな人とのつながりの中で教育社会学を志す院生と知り合いになれたので、これを機にそのコミュニティに入ってみようと思いました。

わたしのやってきたことは、どれだけ「教育社会学」として通用するのかは、まったく未知数ですが、できるだけのことを今やっていきたいと思う。
そのための自分の仕切りなおしです。

国立美術館キャンパスメンバーズ

2007-04-10 11:20:00 | 趣味
とてもうれしいことがありました。
なんと、この4月1日からわたしの所属するT大学が、
国立美術館のキャンパスメンバーズになったらしいのです!

国立美術館のキャンパスメンバーズになると、
東京国立近代美術館も国立西洋美術館も、
そしてそして、噂の国立新美術館の企画展も無料!無料!

…というわけで、はしゃいでおります。

「モネ」が無料で見られるー。
「リアルのためのフィクション」展も無料で見られるー。

とてもうれしいです。
東京の専門学校の帰りに、行きまくっちゃおう♪

愛すべき乙女の方々へ

2007-04-09 11:46:20 | 趣味
最近、ショックな事実がわかった。

わたしが脚本を担当した、演劇部の全校公演「幕末人斬伝―以蔵と呼ばれた女―」についての感想で、文芸部のある女の子が、

「文芸部への嫌がらせはやめてください」

…と書いていたことだ。

演劇部の稽古場と文芸部の部室が隣り合わせなので、そこで起きた「ご近所トラブル」のこと(…いろいろあるらしい)を書いているようだ、と演劇部の高校生たちには言われたのだが、やっぱり「公演への感想」の欄でそういうことを書かれると、気にしてしまう。
やっぱり、内容自体も何かあったんじゃないか、と思ってしまう。
(…気にしすぎかなぁ)


そういえば、一時期、秋大会での公演を、某インターネット巨大掲示板にて、実名で叩かれていたときも、「さすがに女子は引くだろうな」みたいなコメントがあったし…もしかして、わたしの書いた作品って、乙女(=腐女子)たちには不評なのかしら。


こんなことを、わたしが気にしているのは、
わたしがそういうオタクな女の子で、
はっきり言って、いわゆる腐女子だからだ。
そのわたしが、自分なりの美意識とサービス精神を発揮させて書いた脚本が不評だというのは、いったい、どういうことなのか。
まったくわからない。

だって、幕末ものだし。
男子高校生の演ずるホモシーンもあるし(←ここ重要)。
16歳の少年の鎖骨チラリのシーンもあるよ(←ここも重要)。
16歳の少年、鞭うたれるよ。(←ここに萌える人は限定されるかなぁ)

いったい何がいけないんだー!
何がそんなに不評なんだー!


…と、こう考えて思い出しだのは水戸芸術館でのこと。
國方真秀未作品に対する、高校生の女の子たちのアンビバレントな反応。
「いやだ」「グロい」「引く」などと言いつつ、
結局、そこに止まる女の子たち。


なんかそういう反応のありかたと、通ずるものがあるのではないかと思ってしまう。
確かに、
男性の部位(わたしの場合は鎖骨だが)に対してセクシュアルな美を感じる心や、血を流す美少年にトキメキを感じてしまう心を、
自分自身で認めることは案外難しいのかもしれない、と思う。
しかも、それを他人の前に開示することは、さらに、難しい。

…そういえば、わたし自身はどうやってその壁をクリアしてきたのだろう?
そう考えてみると、自分でも、よく考えるとわからない。


ちなみに一部で、我々の作品は、
「重い問題を軽いタッチで扱うスタイル」と、評価されているらしいと耳にした。
わたしは、あんまりそんなことを考えたことはなかったけれども、
それはひとつのオーディエンスの反応としては正しいと思う。
でも、
「「ツンデレ」をめぐる男女の表象における非対称性の問題をコメディタッチにパロディ化することで、そういう男女の非対称性を批判しようとしているのだ」
…とか言われると、なんだかよくわからない。

考えるプロセスを顕微鏡でのぞく:「論理的思考」の授業について

2007-04-05 13:58:39 | お仕事
先日、わたしが非常勤講師をつとめている学校の講師会がありました。

この講師会では、科目を担当している先生方が集まって、自己紹介がてら自分の授業の紹介をします。
今回は、来年度から新カリキュラムになるということもあって全員分のシラバスも配布され、ようやく学校のカリキュラムの全体像の中で自分の科目の位置を理解することができました。

「論理的思考」「論理学」は、専門学校に入りたての新入生に向けた科目として設置されることが多いようです。
そこで求められていることは、いったい、なんなのだろう?
学生たちはいったいなにを求めているのだろう?
といつも考えます。
今回、シラバスをもらってあらためてその問題を、カリキュラム全体の問題として考えさせられました。
その中でわたしが考え、講師会で発言したことは以下のようなことです。

「わたしの授業では、自分で考えてレポートを書いていくそのプロセスを顕微鏡でのぞきこみながら、ひとつひとつ確認していく作業をしています。」

その場の思いつきで発言してはみましたが、
後から考えてみても、そのとおりだと思いました。


わたしはふだんから、当たり前のように「考える」作業をしているわけですし、それが一種のお仕事のようになってしまっていますが、「考える」という作業は案外わかりにくい作業のようです。
なにしろ、考えなくてもできてしまうことが、あまりにも多い。
レポートだろうが、発表だろうが、楽しようと思えば簡単にクリアできてしまう。

そんな中、それほど苦労を要せずに、
考えるプロセスを体感してみることってとても大切なことなんじゃないかなぁ、と思ってます。
苦労や忍耐を重んじて、ひたすら字数の多いレポート課題を出すこともできるけどそんなことにあまり意味を感じません。

わたしは考えることが好きです。
楽しいと思う。
その楽しさを、ひとつひとつ分解しながら、教材プリントを作っていくことも、またとても楽しい作業です。

今年も、楽しい授業ができるといいなぁ。

4月4日は「おかまの日」:ホモセクシュアルの表象について

2007-04-04 09:41:02 | 趣味
「3月3日は女の子の日。
5月5日は男の子の日。
4月4日はアタシたち、おかまの日よ。」

北区つかこうへい劇団「ロマンス」(原作:つかこうへい「いつも心に太陽を」)の中の有名な一説です。
わが演劇部では、4月4日が来るたびに、
誰かしら、こんなことを誰かにメールでうったりして、
みんなで「ああ、今日はおかまの日だなぁ」としみじみしています。


そんなことを思っていたら、
ある知り合いのかたのブログで、「劇団員の中で男色疑惑が持ち上がって困ってる」という記事を発見して、ちょっと凹みました。
演劇関係者ってどこもかしこも、ホモセクシャル疑惑で盛り上がるものなのでしょうか…。
というか、うちの高校生はなぜ、あんなにホモセクシュアルを演じたがるのか…?いろいろ謎です。


ヤオイストで演劇に関わってて、
しかも、セクシュアル・マイノリティのことを真剣に理解しようとしている
…という複雑な立場にいるわたしは、
いつもいろいろな場面で複雑な思いを抱いてしまいます。

ボーイズ・ラブ作品の中で表象されるホモセクシュアルの男性を見て、キャーキャー言っている少女たちを見て、ホモセクシュアルの人たちが「差別されている」という意識を持っていることも知っています。
『メゾン・ド・ヒミコ』で、ホモセクシュアルの男性がヘテロセクシュアルになるシーンに憤りを感じる方がいることも。
それでも、なお、ボーイズ・ラブ作品を求めてしまう自分がいることも。


現在、わたしが高校生に向けて書いている脚本は、
高校生たち側の要因も多分に影響してはいますが、ほとんどの作品にホモセクシュアルがでてきます。
でも、書きながら、いつも自分に「これでいいのか」と問いかける。
どんなに、考えてもなお、表象の権力に憤りを感じる人がいることは避けられないと思います。

それでも、自分なりの答えを用意しながら文章を書いていきたいと思う。
少なくとも、自分の差別性を自覚しながら書いていきたいと思う。