KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

復活

2007-11-30 10:44:02 | Weblog
いろいろあってブログを消していましたが、
ようやくちょっと落ち着いてきたので、再び復活します。

心配してくださったみなさん、ごめんなさい。
そして、ありがとう。

教師冥利につきる

2007-11-24 12:01:22 | お仕事
看護学校の授業は終わったにもかかわらず、
ごくたまに学生からレポート相談や人生相談のメールをPCにもらったりする。

詳しいことはいえないけれど、
そのやりとりの中で、

「kimisteva先生とのやりとりそのものが、自分自身を振り返るすごく良い機会なんです。」

…と言われてしまった。

なんつーか、もう最高。
こんなうれしいこと言われたら、もうこのまま死んでもいいとすら思える。

自分のできることに対して謙虚でなければ、と思いつつ、
でも、やっぱりこんなこと言われるとうれしい。
つい舞い上がってしまいそうになる。

でも、わたしがどうこうということはともかく、
そういう人間に出会えた学習者は本当に幸せだろうと思う。
「先生はエライ」と思える瞬間に出会えるかどうかは何よりも学習者にかかっているけれど、そういう意味でこの発言をした方は、すばらしい学習者だったのだろうと思うよ。

そういう学習者に出会えるなんて、本当に滅多にないことだから、
一番幸せなのは、やっぱりわたしだと思うのです。

無知の無知の無知

2007-11-22 16:31:28 | 研究室
人がある特定の視点を持った「誰か」としてしか生きられない以上、
知らないことがあるのは当たり前のことだと思う。
だから、知識の多少をもって人を批難することには意味がない。

わたしが本当に「頭が悪い」と思うのは、
自分が「知らない」ことすら気づかず、
(もしかしたらプライドが高すぎで自分が「知らない」ことに気づきたくないのかもしれない)
さらに相手が自分より何かを「知っている」ことすら気づかず、
口三寸のレトリックだけでその相手を見下そうとする輩である。


昨日行われた教員と学生との懇談会での出来事である。

ある青年が言った。
「テレビドアフォン(セキュリティのために各研究室につけられているモニターつきのインタフォン)は費用効果という点から見てよくないと思う。だって誰も使ってないですよ。(他の学生に向かって)どなたか使っている人いらっしゃいます?」

この疑問がおかしい、ということは誰だってわかる。
「セキュリティ」は費用効果の原則とは異なる原則によって必要とされるものだし、そもそもその「効果」なるものを「テレビドアフォンを使っている人」という変数によって測るなんてことはまったく無意味。
「テレビドアフォン」を使っている人がいないのであれば、それは使っていない人に問題があるのであってそのこと自体を設置者側の問題にするのは、論理のすり替えである。


まあ、こういうちょっと変な意見を言われたときに、
「若輩者が馬鹿なこと言うんじゃない」
なんて、大ボケ反論をする人がいると余計に事態がむちゃくちゃになるのだが、
このとき反論をした教育学専攻長は、わたしが「勝てない」(…というか、わたしとは異なる論理において完璧)と思っている方の一人なので、彼らしい完璧にスマートな反論をして、完全にその学生に「勝って」おられた。

わたしの頭の中で、「教育学専攻長勝利」カンカンカーンと鐘が鳴った。



研究の世界にいると、自分が「知っていること」に対して、謙虚であるべきだと思うことが多々ある。
いろいろな人が自分の視覚の限界を知っていたら、もっと生産的で創造的な議論が可能になるのに。
なぜ、人は自分の打ち立てた論理で他人をビートすることに必死になってしまうんだろう。


そういう人たちの「無知の無知の無知」に対して、いつもため息をついてしまう。
もちろん、自戒をこめて。

今年もやります!走る芝居!

2007-11-20 16:23:00 | 告知
まだ稽古も始まったばかりなので、ちょっとフライングですが早めに告知を。
つい3日前、脚本を高校生に送りつけてきたばかりなので、本当に「これから」という感じなのですが。

今年も「走る芝居」こと、大多喜高校演劇部いすみ鉄道車内公演を行います。
詳しくは大多喜高校演劇部HP「ぼぼのす」をご覧ください。
(…といってもまだ何も情報は掲載されていませんが)
http://www.geocities.jp/ootakibobonosu/


【日時】平成20年1月6日(日)10:00~12:00くらい(※正確な時刻は現在交渉中)
【場所】いすみ鉄道車内(大多喜駅発―上総中川―大多喜―大原―大多喜)
    [第一回]大多喜―上総中川―大多喜
    [第二回]大多喜―大原―大多喜

    ※大原駅はJRと接続しています。

【出演】大多喜高校演劇部・大多喜高校演劇部OB、その他いろいろ
 
内容は昨年に引き続き、幕末芝居です!
男装の麗人にあこがれている、日本史のまったくわからないわたしが書いたハチャメチャな幕末コントですが、エネルギーだけは溢れているので今年もおもしろいこと間違いなし!

わたしも今から楽しみです。
みなさん、ぜひ、お正月の房総で暴走する奴らに会いにきてください。

二人の人間・二つの倫理

2007-11-20 16:08:33 | わたし自身のこと
たとえば、こういう状況を考えてみる。

Aという人間が命題Aとして示される倫理規則(例:どんなに親しい間柄でも金銭の貸してはしてはならない)を持っていて、
もう一人の人間Bが命題Bで示される倫理規則(例:困っている人がいたら必ず助けるべき)を持っているとする。

AとBとはお互いに交友関係がないが、Cという人間はAともBとも交友関係があるとする。
(Cはきっと苦労が多いだろうなぁ)

ある日、CとAとの関係の間にトラブルがおきた。
Cは以前、Aに1000円を貸していたのだが、その1000円をいつまでたっても返してくれないので、CがAに抗議した。で、Aとの間が気まずくなった。


問題は、このトラブルが起きたという一件を、
CがBに話すとしたら、
どのように話すのが妥当であるか、という問題である。


だってBは、「困っている人がいたら必ず助けるべき」という倫理規則を持っているのである。

Cが「Aにお金を貸したんだけど、いつまでたっても返してくれないんだよ!ぷんすか(怒)」と言ったら、Bは気分を害するに違いない。
Bは言うだろう。
「C、お前そんな奴だったの?だってさ、そのAって人間は困ってたんでしょ?それを見て困ってるからお金を貸したんでしょ?それについて文句を言うのは筋違いじゃない?」

ここで問題になるのは、AとCとの関係性における倫理規則と、BとCとの関係性において成立している倫理規則が異なるということにある。


考えるに、Cがとりうる手段は三つ。
ひとつは、①Bとの間に起きたことを今後一切Aには話さないこと。
もうひとつは、①C自身の倫理規則を立ち上げること。もちろんその中には、AかB、どちらかの倫理規則を選択することも含まれる。その場合、選ばれなかったほうの交友関係を閉ざさざるを得なくなるけれど。
最後の手段は、③異なる倫理規則があるという状況を説明した上で事件を話すこと。


おそらく、最善の選択肢は③ではないかとわたしは思う。
しかし、根本的な問題は、③の手段が通用する相手は、そもそも命題でキッチリ記述できるような倫理規則など持っていないのではないか、ということ。
AやBが、柔軟な倫理規則を持っている人間であれば、そもそも問題は起こらないのではないか。Cが窮地に立たされることはそもそもないのではないか、ということである。



最近、他人が自分を傷つける理由に興味がある。
そういうときは、たいてい、きっと自分が他人を傷つけているから。

恐竜好きな男の子と、「源氏物語の中でもっとも好きな女性は誰ですか?」と聞く男性

2007-11-19 11:40:30 | わたし自身のこと
最近、ぼんやりと考えていたことではあったが、
フェミニズムが本当に問題にすべきなのは、
恐竜好きな男の子でもメカ好き・電車好きな男の子でもなく、
初対面の人間に「源氏物語の中でもっとも好きな女性は誰ですか?」なんて、
同世代の少女(あるいは年上の女性)に平気で尋ねるような男性だと思う。。


まあ、わたしの場合、大抵、そういう質問をされると、
ニッコリ笑って(高校生のときはキッパリとにらみつけながら)
「葵の上です。」
…と言うだけだけれど。


「男の子はブルー」「女の子はピンク」の紙オムツを批判するよりも、
国語教科書の中から『どろんこ祭り』を「性差別的である」として削除するよりも、やるべきことがあるのではないか、と思ってしまう。

イメージとしての「女性なるもの」に憑依されること、
そのものを問題にするべきではないかと思う。
だって、イメージに憑依された男性が、それで幸せであるとも思えないもの。

世界に幸福をもたらすことが社会科学の仕事なら、
ジェンダー論者の仕事は、憑依された男性たちから、憑依したイメージをお払いすることにある。
それはけして、憑依する前の霊そのものを退治することとは違う次元のことなのではないだろうか。

「高校生(と大学生)アートライター募集」

2007-11-13 12:13:57 | 告知
わたしが関わっている水戸芸術館の企画の告知です。

このブログ見ている人なんて基本的に院生が社会人だしなぁ…、とも思ったのですが、ちらほらと大学生の人もいるし、院生や社会人の人も、もし可能ならふつうに手伝ってほしかったりもするので、告知しておきます。

距離的・時間的に無理だからしかたないけど、
宙さんのほうがわたしより適任なのに…って思ってます。
きっと見てないだろうから言うけど、旅費を科研費から出してもいいから来てほしいです。
…そんなこと言ってもしかたないけど。


それでは企画の告知を。

「高校生アートライター募集」
…とありますが、高校生でも大学生でも専門学校生でも、そのくらいの同世代の方なら基本的に参加OKです。

わたくし27歳ですが「同世代」と言い張ってますから、(←無理があります)何も怖いものはありません。
というか、それ以外の人でも相談していただければたぶんOKだと思います。だって決めるのわたしたちスタッフだし(=超アバウト)。


なんか、ともかく、超「アート」って感じの人とか、「趣味・教養でございますわよ」的な美術ファンばかりが集まる感じでなければいいんじゃないか…って思います。
高校生や大学生とふつうに接してくれて、自分の言いたいことを押し付けるんじゃなくて、高校生や大学生がどういうふうにその場にいようとしているのか、何を感じているのかを知ろうとしてくれる人なら。


…というか、いろいろな人に来てほしい。
そういうことによって、バランスって保たれるものだと思うのです。


ちなみに企画の内容は、基本的に、
2月23日(土)にみんなで一緒に展覧会を回りながら、
作品についてグダグダおしゃべりして、
それをもとに自分なりに文章を作成。

3月1日(土)(あるいは3月2日(日))に、
それをもちよって、それをもとに白上質紙(A5版くらいかな)に原稿作成(イラスト有・文章有な感じ)ってそれだけです。

(それだけだとあまりに淋しいので、その前に二回「顔合わせ」(12月8日)と「ワークショップ」(1月下旬)がありますが、全部出る必要はないらしいです)。


それらの原稿を集めて「ギャラリーガイド」って名前つけて、展覧会にきた方に配る予定。

…うーん。全体的にダラダラした流れのわりには、
文化研究的にいうと画期的…というすばらしい企画だ。
あらためて。


そんなわけで、興味あるかたはご連絡ください。
もちろんわたしもスタッフとして参加してますので、足はどうにかすることができると思います。

チンピラに刺される「さやかさん」

2007-11-12 15:25:44 | エンターテイメント
パートナーから『親指からロマンス』(椿いずみ作)を貸してもらった。

この貸してもらったことそのものについて、昨晩から今日にかけて、
わたしの中で一大叙事詩があったので、それについて書こうと思ったのだけれど、
その前に、マンガそのものについて書く。

今日書く内容は読んだことがない人には、よくわからないと思われるが、
もし何かの機会にそのマンガに触れることがあれば、この記事を思い出して、「さやかさん」に同情の意を表してほしい。


その昔『ファンロード』で、
「ヤムチャ」と「チンピラに刺される」という言葉が流行していた。
どちらもほぼ類似した現象を刺すことばで、要するに、マンガ・アニメ等の登場人物が、ストーリー上に居場所をなくしていって、最終的に放置され…消失していく…というそういう現象である。
一般的には、どちらかというと「ヤムチャ」の方が有名なので、「ヤムチャ化」などの「ヤムチャ現象」派生語ができた。これらの用語は、比較的、日常的にも聞く
ので、知っている人もいると思う。

でも「チンピラに刺される」は、なんというか、「ヤムチャ」よりもっとひどい現象を示している。
ストーリー上に居場所をなくした結果、「無理やり消去させられる」というそんな感じ。
まさに犬死である!
ヤムチャは、それでも最終話までマンガの中にいつづける。
ブルマと結婚できなくても、「地球人の中で一番強い」という座をクリリンに奪われようとも、それでもとりあえずマンガの中に描かれる。


ここで、『親指からロマンス』の「さやか(明佳)さん」の話になるのだが、
「さやかさん」は、あれだけ頑張って伏線を張っているにも関わらず、
トラウマ告白フラグが立てられているにも関わらず、
何か、わたしたちには見えない強力な力によって、その伏線もフラグもベキベキ・ボロボロに折られてしまう。


…はっきり言おう。これは完全なる無視である。
驚きだ。

その結果、悪役としてしか登場しない「さやかさん」は、乳幼児期に何かがあったか、あるいは器質的に何か障害のある人格障害少女になってしまった…!
(だって、「さやかさん」は主人公の双子の姉という設定なので、おそらく環境要因とは考えられない)


恐ろしい。


ちなみに、わたしがストーリー上位置づけに困ってしまった登場人物を処理する方法は、「アメリカに行く」だそうです。
演劇部の高校生にしばしばネタにされています…。

『フリーダム・ライターズ』

2007-11-08 17:37:54 | 趣味
今日は大学院の授業で映画『フリーダム・ライターズ』(Freedom Writers)を、見ました。

事実を基にした映画(しかもいわゆる「感動もの」)ということだったので、
映画としては、それほど期待していなかったのですが、
映画作品としてすごく意味のある作品だと思いました。

監督側のこだわりのようなものが、すごく感じられる作品だし、
いろいろと細かいところで仕事が丁寧です。
高校演劇に関わる日々を送っていた矢先だったので、
その仕事の丁寧さに、まず感動しました。

わたしにとって、何よりも良かったのは、サウンドのすべてが、ブラック・ミュージックだということ。

映画全体をとおして流れるクールで重いビート音が、
そこで行われている出来事のリアルさを常に刻印し続けてくれる感じがします。
ストーリーだけを見るとと金八先生のような「甘っちょろさ」があるお話なのだけど、映画を見た感触として、そういう「甘っちょろさ」を微塵も感じさせないのもすごい。
事実に題材をとったという事実と、サウンドとして選ばれているブラック・ミュージックと、米国映画としては異例にさまざまな人種・民族の役者たちが起用されてることと…。
これらすべての微妙なコーディネーションの上で、この「リアルさ」が作られていると思うと、その仕事の丁寧さに心から敬服せざるを得ません。

その中でもわたしの中で特に印象深かったのが、ブラック・ミュージックのビート音でした。


なお、個人的にサウンドというのは映画作品を作るその語り手の立ち位置を明確に示すものだと思うのですが、この映画の語り手は、「エヴァ」と呼ばれるアフリカ系の少女だということになっています。
事実上の「主役」であるはずのグルーウェル先生は「語り手」としては登場しない。
出てくる語りは、生徒役の少年・少女たちの語りだけです。
グルーウェル先生は常に語られる対象の側にある。

これはきっと、本として出版されている『フリーダム・ライターズ』(生徒たちの日記集)を明確に意識した上で行われているのだろうけど、そういう「教育」への語り方、つまり、キレイな言葉で言えば「生徒側の視点から教育を語る」という語り方それ自体がわたしにとってはピピッとくるもので、非常にエキサイティングでした。


…あーあ。DVD買っちゃおうかなぁ。

わたしたちの新しい倫理

2007-11-06 16:58:17 | 研究室
博士論文の修正なんていう憂鬱な作業をしている中にも、面白いことはある。

わたしは「書くこと」が好きだ。
言葉にすることで、わたしは社会とつながることができる。
そんな実感があるし、
何よりも、「書くこと」はわたしにとって知的発見の手段でもある。


「実践的倫理知」(practical-moral knowledge)という、
これ以上ないくらいわかりにくい用語の説明を書き加えているうちに、
わたしの前に、新しい世界の姿があらわれてきた。


それは、ただのユートピア的な幻想なのかもしれないけど、
既成の「善悪」とは異なる場所で、
わたしたちの生きる実感から生まれてくるような倫理を考えること。

自分自身がどうあるべきで、
他者がどうあるべきで、
わたしたちは、どう関係を作っていけるのか。
わたしたちが「うまくやっていく」ためにはどうすればいいのか。

そんな、具体的な人間関係に対する問い直しの中から生まれてくる、
ひとつの知のようなものとして倫理を捉えること。
(そんなことは、わたしたちが日々友人関係や恋愛の中で当たり前にやっていることだ。わたしが誰かと「うまくやっていく」方法は、わたしたちの関係性の中で見出すしかない)
それが、わたしが「実践的倫理知」ということばで言おうとしたことだったと、
今さらながらに気づいた。


その瞬間、わたしがなぜこんなに「恋愛」について語りたがるのかが、
はっきりとわかった。
わたしは、新しい世界のなかで、人と人とがつながるための倫理や規範を、「恋愛」のうちに見出そうとしてきたのだ。


わたしが「書くこと」は、
今まさに新しい世界を作っている。そんな実感がある。
そういう瞬間は、何よりも、うつくしい。