KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

わたしはこころにかぎをかける

2006-05-31 14:10:20 | 趣味
わたしの好きな研究書(?)のシリーズの一つ、岩波書店の「今ここに生きる子ども」シリーズは、裏表紙に谷川俊太郎の詩が掲載されています。

その中のひとつ。
河合隼雄『子どもと悪』の裏表紙に載せられている詩の一節です。


へやにかぎはかけないけど
わたしはこころにかぎをかける
かぎのありかもわからずに


あー。これ、さすがだな…って思いました。

そう。
「かぎのありか」なんて自分にだってわからない。

わたしたちは、いつの間にか自分の心にカギをかける。
そして、いつの間にかそのカギのありかを見失ってしまう。

見つけられるのは、わたし以外の誰かだけなのです。
わたしと一緒にカギを探してくれる誰か。

でもそんなとき、大人たちは
「自分でかけたカギだろ?自分で開けろよ」…って言うんですよね。
これって、とても残酷なことだと思います。

もしかしたら、カギを隠したのは、彼らなのかもしれないのにね。

わたしを守るための五箇条

2006-05-30 12:06:30 | わたし自身のこと
あまりに、いろいろなところで、軋轢が起き過ぎた。

もうどうしようもなくなって、冷たいお風呂場の浴槽の中で

「どうせ、わたしが悪いんでしょう」
「どうせ、わたしが悪いんでしょう」

…と繰り返しつぶやいていた夜を終えてみて、

あらためて、わたしはわたしを大切にしなければと、僅かながらに、思う。

だから、せめてわたしを守るための五箇条を作っておこう。
これだけは、絶対に破らない。誓っておかなければ、すぐに自分の大切さなんて吹き飛んでしまうから。

1.わたしを裏切った人については、その人から謝られるまでは、一切なにもしない。連絡もしない。心配もしない。
(それが例えわたし自身の主観的なものであって、相手はそう思っていなかったとしても)

2.とりあえず、何か軋轢がおきたら、「自分は悪くない」という可能性を考慮してみる

3.この世界にわたしも存在していることを忘れないようにする。
  
4.何か選択しなければならないとき、軋轢を調整しなければならないとき、わたしという存在、わたしの利益関心をきちんと計算に入れること。

5.とりあえず、ご飯はできるだけ忘れないようにして、食べる

とりあえず、最低限これだけは守るようにしよう。
もし、どれか破っていたら、忠告してください。

文化保護の隘路

2006-05-29 11:27:21 | 研究室
どのような立場の方がわたしのブログを見ているのか、わからない。
だけど…いや、だからこそ、わたしはわたし自身の考えていること、わたし自身の違和感を言葉にしていかなければならないと思うのです。

だから、あえて今回のことをブログ上で話題にします。

kimistevaは「大人の世界」のことなんてわかってません。
ずっとずっと、果てしない青年期を生きているのだと思います。
アイデンティティの確立なんて遠い夢のような気がします。

ましてや、深夜22:00過ぎに疲れて寝てる女の子を無理矢理呼び出さなければいけないほどの、「顔をつなぐ」ことの必然性なんてわかりません。

だから、「わかってないなぁ」…っていう人は、読まないでください。

前回の学会のとき。
わたしは、非常勤先の専門学校の入試会議のため、一日目の学会に参加できず、懇親会にも参加できませんでした。
でそのことで、わたしの研究室のOGにあたる先生がわたしに、

「せっかく発表したんなら懇親会出ればいいのにー。
いろんな人から意見聞けたりして、おもしろいよ。」

…とおっしゃいました。

これについては、わたしも「そうだなぁ」と思いました。

だけど、懇親会費が異様に高い(←6000円ですよ!?)こと、そして、体力ないくせにお金もないから夜行バス生活であるということから、懇親会は遠慮せざるを得ないのだ、とその先生には説明しました。
(さらに今回はふつーに仕事があったので、ということも説明しました)

するとその先生も「そっかぁ。」とだけ言って、納得してくれました。

わたしにとって懇親会の意味…ってこれだけのことです。
だから、どのように論理を転がしても強制参加にはなり得ないのです。
もちろん、研究室主催の学会は院生が幹事ですから、出席せざるを得ないのですが、これもまぁ「たまにしかない研究室全員参加の飲み会だしなぁ」という感じでふつーに納得できるレベル。

他の学会やらについては、自主的に参加しているわけですし、それなりのコストもかかっているので「強制参加」を強要されたことはありません。

だから、それがふつうだと思ってました。
だけどそうじゃなかったんですね。

「顔をつながなければいけない」
「先生方に挨拶ぐらいしておかなければいけない」
…だから、飲み会強制参加。

こんな論理がふつーにまかり通る、そんな世界だったんですね。
こんなに差別構造や上下意識のまかり通る世界だったんですね。
わたしたちの生きている世界は。

わたしが「敬語」について勉強していたときに、
ある社会学者が「「敬語」は「敬意」をともなわないから「敬語」たりえるのだ」と論じていて、なるほどと納得しました。

そのことを思い出します。

「敬語」の使用を筆頭とする、暗黙裏の強制事項が強制的であればあるほど、
人間関係で用いられるストラテジーの本質は見えにくくなり、最終的には消えてしまいます。
それが形骸化に形骸化を重ね、本質を失った結果が「敬語」であり、今回の事件なんでしょう。

先生方への敬意は、そこではまったく問われない。
学問的な興味や関心と、そこにつながる先生方への敬愛の念も。

ただ、「挨拶」であり「顔をつなぐ」こと。
形骸的な関心だけがそこにあります。
とりあえず、そのタテマエだけ満たしておけば、「敬意を示した」ことになる。

これって、まさに国語学者や国語教育学者を含め、さまざまな方が問題にしてきた
「偽礼」なんじゃないですか?
それとも、そんな形骸化した「偽礼」を欲しているのですか?「上」の方々は?
それとも「下」の方々がそういう形骸化した形でしか、尊敬や敬愛の念を表せないのですか?

まったく、よくわかりません。

わたしは、わたしが所属する研究室の先生が好きです。
特に担当教官T先生については、わたしが乗り越えなければならない最終的な目標だと思ってます。
研究的にも、人格的にも。

だから敬愛してる。だから大切にしたい。
…それでは、ダメなのでしょうか?

これって「文化保護」の隘路だと思います。
伝統的に受け継がれてきた「文化」を保護しようとすればするほど、
そこに何らかのプライオリティを付与して、権威化すればするほど…
その中身はわたしたちの日常的な思いや関心と離れて形骸化していってしまう。

落語も歌舞伎も狂言も、わたしたち大衆が、日常的なきらめきを求めて欲してきた文化だったではないですか。
それが「伝統文化」というプライオリティを付与された瞬間に、落語の面白さも、歌舞伎の魅力も、狂言のおかしさもすべて消えていってしまう。
残されるのは、「落語」「歌舞伎」「狂言」…といった形骸化した形だけ。

わたしにできるのは、ことばをわたしたちのものにしておくことだけです。
ことばだけは、わたしたちのものでなければならない。
ことばを奪われて、形骸化されてはいけない。

語らなければいけないのだから。わたしたちの世界を。
わたしたちのものとしての世界を創り上げなければいけないのだから。

受験科目としての「数学」/神秘なる世界としての「数学」:小川洋子『博士の愛した数式』

2006-05-23 12:38:37 | 
昨日も看護専門学校でした。

先週はけっこうあっさりした感じで朗読プレゼンテーションを行ってくれる学生が多かったのですが、今回は…本当に自分自身が悩みをもってきた軌跡と向き合った発表が多くて、本当にうれしかった。

その中の発表の一つが、小川洋子『博士の愛した数式』についてでした。
発表者の学生は、自分が受験で数学に取り組んでいた頃、この本と出会って、自分が今、受験科目としてしか見ていない数学に、こんな広い幸せな感動的な世界があったのだ…と気付いた、と語ってくれました。

実は、わたしもこの本が大好きです。

でも、わたしはこの本で朗読プレゼンテーションをする気にはなれなかった。
わたし自身に特異な経験に、あまりにもぴったりと寄り添っていて、それを言語化するのが躊躇われるのです。…ましてや、大勢の人の前で発表するなんて、とてもじゃないけれどもできません。

わたしにとって『博士の愛した数式』がそんなにも特別な存在である理由。

それは、あらゆる物語作品にどっぷりと浸かっていた中学時代を抜けた高校時代。
わたしにとって、唯一信じられる、他者と共有可能な言語が、
「論理」であり、「数字」であったからです。

『博士の愛した数式』の作者・小川洋子と藤原正彦との対談の中でも触れられていることですが、
三角形は誰が書いても三角形なのです。
「3」という数字はあらゆる文化のあらゆる社会にいる誰に聞いても「2」の次にある数字であり「4」の前にある数字なのです。

こんなに、完璧で美しい世界が、この世界に本当にあったのか…!と思いました。
高校時代「数学Ⅰ」「数学A」を受けていたことのことですね。

文化摩擦やエゴセントリック。
さまざまな現代社会に起きるゴタゴタした汚い事件とは、まったく無縁な世界で、数学だけが完璧な世界を創り上げているように思いました。

そして、「数学」を愛する人間は「美しさ」に対して、果てしないほど謙虚です。

中学校の数学なんて算数の延長線上ですから、
それでもまだ「期末テストで○○さんが何点とったらしい」…なーんてレベルの低い話をしてる。
でも、高校に入ったら違います。
特に、選択科目として数学をとった高校二年以降、「数学Ⅱ」「数学B」以降はまったくそれまでとはちがう美しい世界が実現されているように感じました。

そりゃ、大学受験やら内申点やらありますから、少しは点数の話もしますけど、選択数学の受講者の関心のほとんどは、

「誰がよりスピーディーに美しく解答を導き出すか」

…という点にありました。
だから、みんなセンター模試がキライ。
記述式の模試だと、なぜか、燃える選択数学受講者。
そして、模試結果が返却されると、最後の問題だけが注目されます。

「誰が一番美しい証明をしているか。」

そして、どんなに点数が高くても、その証明が美しくないと、負けた気になったりします(笑)
さらに、大学の基礎科目で数学をとったときには、そんな世界が常識になっていた…というのは、また後の話。

そのときのわたしにとって、
自分が他者とつながる手段は「数字」や「論理」でしかなく、
わたしが生きていける世界も「数字」や「論理」でしかなかった。
そして、あらゆる世界の真実が数字の中にしかないような気がして、毎日、ずっと数学の参考書と向き合ってました。

そんな青春時代を送ったわたしにとって、『博士の愛した数式』に登場する博士は、他人のようには思えないのです。あまりにわたしに近い人物。
きっと、わたしも記憶を失いつづける病におかされたならば、「数字」や「論理」の世界だけに生き、その世界の中で他者とつながろうとするのだと思います。

博士論文の目次

2006-05-21 16:02:38 | 研究
今、博士論文の目次の修正を終えました。
これで、来週のゼミに提出できます。
(別に「提出しろ」なんて言われてないのに、提出しちゃうあたりが、わたしらしい)

博士論文の目次編集は、さまざまな研究プロセスの中でも苦しく楽しい作業の一つでしたね。こんなに熱中できるなんて思いませんでした。

博士論文の目次を作る作業って、「自伝」や「自分史」を作る作業に似ています。

わたしのこれまでの人生の中で、何を報告し、何を報告しないかを決めていく作業…。これもきっと苦しく楽しい作業であるに違いないですから。

そういえば、大学2年生のときに、書かされましたね。「自分史」。
あのときは、ともかく「自分のセクシュアリティの特異性」に焦点をしぼって、大きな一つの物語にまとめあげました。

父親との軋轢から男性不信になった少女が、セクシュアルな存在としての自分に葛藤しつつ、ヘテロな存在としての自分自身の位置づけを探っていくまでの物語です。

ちなみに、後ろに座っていた友人が、それを読んで「読み物としておもしろい」と言いました(笑)…てか、「自分史なんて面白く書かなきゃ意味ないだろ!」…と思うのはわたしだけ?
自分が納得いくような物語を見つけだす一連の作業が「自分史」なのですから、ただ淡々と自分に生じた出来事を列挙するようなものは意味ないと思います。

…お。ちょっと言語教育者の卵っぽいこと言いましたね、わたし。

閑話休題。
基本的にはフィールドワーク研究ばかりやってきたので、わたしにとっての博士論文も半分「自分史」みたいなものです。
フィールドでのわたし、フィールドでの経験を編集し直すわけですから。

これまでの論文や発表資料やデータを見返しながら、
「あー。あのとき楽しかったなー。このときのデータ、博論に入れられないかな?」
…なんてぶつぶつつぶやきながら、内容を考えていくのは、とても楽しい作業です。だけど、本当に苦しい。
なによりも、すべてが盛り込めないところが苦しい。
ある視点から、一つの物語になるようにデータを厳選していかなければいけない。どんなにそのフィールドが大好きでも、博士論文を貫く一つの物語から漏れ落ちてしまうものは、博士論文には入れられないのです。

これって、わたしにとってすごく、つらいことなんだよ。

ともかく、そんな苦しみを経て、どうにか目次案が完成しました。
これから少しずつまた変化していくとおもいますが、きっと今ある内容だけで基本的にはやっていかなければなならないのだと思います。

少なくとも、博論完成までは、あとに残された宝の宝庫は一旦、わたしの心の中にしまっておきます。
…こうして、いつまでもいつまでもわたしの心の中には、きらめきをもったたくさんのデータが蓄積されていくのですね。
それって、すごくうれしいことでもあります。

ゲルニカ「新世紀への運河」

2006-05-19 10:11:59 | 趣味
先週、看護学校の授業で使うトッド・ブラウニング『フリークス』をレンタルするついでに、以前から「もう一度聞きたい!」…と思っていたCD・ゲルニカ「新世紀への運河」をレンタルしてきた。

「ゲルニカ」とは…女優兼歌手の戸川純と、作曲の上野耕路に加え、美術・作詞で太田螢一が参加した、なんだかすごいグループ。そもそも「音楽」というジャンルなのかどうかすらわからない。現代音楽や大陸歌謡、モダンとノスタルジーが一体となった、ともかく異世界へと誘ってくれる「アーティストの集団」である。

kimistevaは戸川純が好きなので、その関連でこのCDを偶然借りたのだが、ともかく、なんだかすごい!
しかもCDはほとんど絶版なので、それがレンタルCD屋にあること自体がなんだかすごいとも言える。

「ゲルニカ」のCDは他にもあるのだけど、わたしはこの「新世紀の運河」が一番好き。
「歌」というもの、「歌う」ということの原点に迫っている気がする。音楽を聴いていると、自然に歌い出してしまう。曲全体の持つオーラにわたし自身がすっぽりと包まれてしまって、その世界の中でわたしは自然に歌い出す。

大陸歌謡の力…なのかな。
わたし自身のリズムを作り出す音楽の力。そんなものをすごく感じさせてくれる。なにか単調な作業をしているとき、少し気分が良いとき、自然にわたしの口から流れ出る音楽のほとんどは「新世紀の運河」に収録された音楽だ。

このCDを聞きながら運転していたら、隣に座っていた失語症の母まで
「♪ぼくらはパノラマ~」
…と言って歌い出す始末。
音楽の共振性…というか、人々を同一のリズムに巻き込んでいく音楽というか…そういうなんだか、すごいものを感じてしまう。

なんか「すごい」「すごい」としか言ってないですね。
とにかく好きなんです。「ゲルニカ」。

パロディとパスティッシュ

2006-05-18 11:13:42 | 研究
研究を進めれば進めるほど、
自分が螺旋状なルートを辿っていることがわかる。

まぁ、「螺旋」と言っているのは、「円=リング」ではないと信じたいだけなんだけどね。でも、明らかに以前よりは前に進んでいるという実感がある。だから、やっぱり「螺旋」なのだと思う。

実は現在、「パスティッシュ」のことを調べている。
「パスティッシュ」を書くということが、学習者にとってどういう意味があるのか?…ということについての文献を読んでいる。

水戸芸術館での調査をまとめる中で「パスティッシュ」という言葉に出会ったとき、なんだかすごくなつかしい風が吹いたような気がした。

「パスティッシュ」(Pastiche)。
中学から高校にかけて、あれほど、没頭して読んだ清水義範の「パスティーシュ作品」を思い出す。
『アキレスと亀』『似非物語』…たくさん読んだなぁ…。
あのときは、筒井康隆と清水義範がすべてだった。(どういう中学生だ(汗))

筒井康隆の手法も基本的には、「パロディ」「パスティッシュ」だと言えるから、基本的には、わたしはその周囲をぐるぐるぐるぐると巡っていることになる。

わたしは昔から、「パロディ」や「パスティッシュ」が社会に訴える力をなんとなく感じていて、だから「パロディ」や「パスティッシュ」が大好きだったんだろう。


そしてその経験を今、研究者として捉え直している。
わたしにとって「パロディ」「パスティッシュ」とはなんだったのか?
今のわたしを「パロディ」「パスティッシュ」がいかに形成してきたのか?
それを捉え直す入り口に今、わたしは立ったのだと思う。

そんな気がする。

鷲田清一『夢のもつれ』:「アイ・ラヴ・ユー」の政治性

2006-05-17 20:39:16 | わたし自身のこと
久々に、ある目的のために鷲田清一先生のエッセイを読むことにした。
図書館に行ったら、たまたま『夢のもつれ』があったので、それを読むことに。

その『夢のもつれ』の中のはじめのエッセイが「ラヴ・ミー・テンダー」だった。

「「ラヴ」という言葉は欧米人にとって一種の催眠効果があるらしい。この言葉を確認できるかできないかが特定の二人の関係を決定的に変えてしまうというのだ。つまり彼らにとって「ラヴ」はきわめて戦略的な言葉なのである」

言葉の政治性…である。
ある言葉を発することで、相手が誘導されてしまうことがある。
だからこそ、使う側は戦略的にその言葉を用いる。
それが「ラヴ」という言葉にあるというのは、幸せというべきか、不幸というべきか。

会話分析という言葉をしってから、もう7年の歳月がたつ。
本格的に会話分析を習ったのが4年前、それからずっと会話分析で研究をしている。
そんなわたしにとって、言葉の政治性は否応なく考えざるを得ないことになってしまっている。
幸せというべきか、不幸というべきかはわからない。
だけど、すごくそのことを不幸だと思うときがある。

今はまさに、そんなときだ。

わたしは、言葉の政治性を否応なしに意識してしまう自分が、すごく不幸だと思う。そして、言葉の政治性をよく知っているだろうと人に思われている自分が。

なにも考えずに、一人称のわたしとして、フワリと自分のことばを発することができたら、どんなに楽だろう。

誰かの悲しみに面しているときに、
結局、何も言えなくなってしまうのは、わたしがすでに一人称のわたしを捨てて、三人称の「わたし」へと生まれ変わっているから。

そんなとき、本当に自分が悲しくなる。
戦略的に言葉を選ばざるを得ない自分…っていったい、なんなのだろうと思う。
ふとそんなことに気付いて、もう一度、一人称の自分をとりかえしてから、あらためて自分の中にことばを探す。
そんなことを、ずっと何度も繰り返してる。

わたしが英語話者だったら、「ラヴ」と発音するたびにそんなことを考えなければならないのかと思うと、ぞっとする。
せめて、誰かを愛するときくらいは、一人称のわたしでいたい。
そんな権利すら剥奪されるなんて、考えるだに、つらすぎる。

鬼編集

2006-05-17 11:25:31 | 研究室
先日、わたしが所属する研究室のK先生から、

「USAM島さんが、「この世で一番恐ろしいものはkimsitevaさん」っていう感じで話してたよー(笑)」

…と言われ、ショックを受けました。

その後、授業でその話になったときも、
阿普魯氏が、「奉行さんがこの前泣きそうになってました」

…と発言したり、

Y氏が、「そうやって、また、追い込むー(笑)」

…と発言したりして、すっかり「鬼編集」イメージが定着してしまいました。

…そんなことないのに。ひどい。
みなさまへの対応は懇切丁寧を心がけていますし、かなり寛容な精神で応じていると思います。

「〆切に間に合わない」と言って尋ねてくるUSAM島さんや奉行さんにも、きちんとコーヒーをお出ししているではないですか。
きちんと、笑顔で対応しているではないですか。
催促を申し上げるときも、きちんと丁寧な敬語で対応しているではないですか。
どうしても無理だと言われれば、〆切を譲歩さしあげているではないですか。

…それなのに、いったい、なにがいけないというのでしょう。
嗚呼。世の中はいつだって不合理。

そんなわけで、〆切は5月19日(金)ですので。
よろしくお願いいたします。

「偽徒然草」:わたしたちの世界を発信する

2006-05-16 11:22:33 | 告知

最近、殊に思うのですが、わたしが研究するテーマって、すべてわたしのパートナーや友人らから、インスピレーションを受けることで成立しているんですよね。

わたしにとって関わってくれる人すべてが、わたしの研究にとって必要なんだ…って実感します。

特に、わたしの友人たちには感謝してる。

さらに、わたしのことをいつも支えてくれているパートナーには、いくら感謝しても足らないです。精神的にも、研究的にも、すごく守られてる…って思う。

 さて、それでタイトルの話に入ります。

 わたしが友人との間に重ねた経験や、友人から聞いた話が研究につながってくることはもちろんなのですが、わたしが自分の研究の内容をそんなに詳しく話したこともないのに、自分が研究しているテーマのすごく重要な部分にぴぴっとくるような実践を友人がいつの間にか始めていたりすることがあります。

 そんなときは、ものすごくビックリする。 「事実は小説よりも奇なり」と申しますが、現実の人間は、わたしが研究する内容をいとも簡単に乗り越えてしまうようです。

 わたしが一つの現象を報告し終えたときには、もっと魅力的な実践を展開してる。 …だから、わたしの研究する内容はいつまでたっても尽きないわけですね。でも、それってすごく幸せなことです。

 そんなわけで、告知。高校の後輩、吾郎氏が首謀者となって立ち上げた合同企画サイト「偽徒然草」 http://www.geocities.jp/nise_ver2/

このブログをご覧になっている方の半数くらいは、わたしの研究発表なども見ているのでしょうから「あー。これこれ!」…って思ってくれるはずです。

青年期の少女たちによるコミュニティの生成。

そして、メディア・テクストの生成と発信。

 そういうことを、青年期の少女たち自身が自分たち自身で企画して行っているんです。 …これって、すごいことだと思いませんか?

自分の世界、自分たちの世界を、もっと大きな世界に向けて発信しようとするその行為を、わたしは応援したい…って思う。

一人一人の世界は小さくて、すごく弱い。

だから、みんなで集まって、「わたしたちの世界」を作ろうとするその営み。

「わたしたちの世界」でもって世界とつながろうとするその営み。

それって、これまで5年間かけて、わたしが築き上げてきた研究の成果そのものです。 というわけで、kimsitevaはあなたたちの試みを全面的に評価しますよ!がんばってください!