KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

テクマクマヤコンの世界:飯田淑乃展

2008-02-28 19:59:29 | 趣味
水戸芸術館で「宮島達男:Art in You」展が始まりましたね。
デジタル数字ばかりの広がる宮島達男さんの作品を見ていると、
唯一絶対の真実や唯一絶対の法則が知りたくて、それ以外のすべてのものを切り捨てて生きようとしてきた高校時代を思い出して、すこし甘酸っぱいような、悲しい気分になります。
あの頃は、数学の法則だけが美しく見えた。
数字の並ぶ世界だけが唯一の真理のように思えた。

そんなあの頃の自分を思い出します。

・・・それはともかく、そんな甘酸っぱい気分に浸るわたしにとってさらに衝撃だったのは同展覧会のチケットで鑑賞できる飯田淑乃展です。

飯田氏扮する歌のおねえさん・五軒ゆかりさんはブログも開設していたんですね!
驚きです。
ごけんゆかりブログ

うまく説明できないんですが、
ともかく、「これだよ!これ!」という感じです。
別にそういう構想をいつも思い描いているはずもないんですが、
「わたしが見たかったのはこれだ!!」と展示室に入ったとたんビビッと来ました。

・・・まるで、運命の人と出会ったような感じです。

五軒ゆかりさんは納豆を模したキャラクター「なっちい」と一緒に、
「なっちいの歌」を歌っています。
この歌詞がまたス テ キ。
なんともかんとも、わたしのために用意されたのではと錯覚してしまうような作品です。


飯田さんは「五軒ゆかり」のように、
その地域ごとにローカルなキャラクターに扮し、ご当地ソングを作り、それを歌いつづけているとのこと。
詳細は「Y. Music公式サイト」を見てもらえればとわかるのですが、
まさにその昔、小さい少女だったわたしがあこがれた「テクマクマヤコンの世界」がここにあります。

テクマクマヤコンテクマクマヤコン 政治家にな~れ
テクマクマヤコンテクマクマヤコン OLにな~れ

そんなことを言って、毎回サラリと簡単に変身していた「ひみつのあっこちゃん」。
あのときは、あっこちゃんのコンパクトが欲しくて欲しくてたまりませんでした。
「テクマクマヤコン」を唱えればなんにでもなれる秘密のコンパクト。

飯田さんは、まるでそのコンパクトを持っていて、
自由自在に「アコガレのおねえさん」になっているような気がします。

そういう女の子の永遠のアコガレを、こうしてまた20代後半になってから感じることができるとは思いませんでした。


大人になればなるほど、わたしたちは「たったひとつのアイディンティティ」を強制されるようになる。
それは、安定した世界を保証してくれる一方で、
とても息苦しいことでもあります。
そんなとき、まるで秘密のコンパクトを持っているかのように、
サラリと簡単にいろいろな人になってしまうように見える飯田さんの存在は、
わたしたちの奥底に封じこめたはずの、
「誰かほかの人になってみたい」という願望を照らし出してくれる気がします。


ああ。
わたし、絶対将来、あの人になりたい!
まずは政治家「桃山ヘレン」あたりからがんばりたいと思います。

受信拒否しない生き方

2008-02-27 09:53:03 | わたし自身のこと
受信拒否(着信拒否とメール受信拒否)が嫌いだ。

なぜもともと迷惑メール対策のために使われていた機能が、
親しい人との間で用いられるようになったのか。
それはおそらく、ストーカーの登場と関係があるのだろうが、
それにしても安易に受信拒否が用いられ過ぎていると思う。


受信拒否する人は、自分が受信拒否されて傷ついたことがあるのだろうか?
それとも、受信拒否の文化みたいなものがあってそれに慣れてしまっているのだろうか?

それにしても、イヤだ。

まるでTVのリモコンでも扱うように、簡単にピピッと操作をして、一時的に関係を切断できてしまうというこの「お手軽さ」がイヤだ。
見たいときにはテレビをつけて、飽きてきたらテレビを消すかのように、
関係を持ちたいときには受信許可にして、めんどくさくなったら受信拒否。

・・・そんな文化、クルッテルヨ、とわたしは思う。



「関係を続けることはできません」と言って、
長らく受信拒否をしていたわたしの友人は、
先日、なにごともなかったかのように、
「立ち直りました」という文言とともにメールを送ってきた。

そのメールの中には、ずっと受信拒否していてごめんなさい、と一言だけ添えてあったけれど、
わたしはあらためて、そんな受信拒否の文化はイヤだなぁ、と思ったのだった。


立ち直って以前のことを忘れたら、すっかりもとどおり。
もう一度、リモコンを手にとって、TVをつける。
そんなものか、
・・・と思うと、自分の存在の薄さに絶望してしまう。


わたしはあまりにその事実が悲しくて、あまりに苦しいから、
それこそ、こちらから受信拒否してしまおうかとしばらく悩んだが、やめた。


わたしは受信拒否しない。
受信拒否しない生き方を選択したい。
複雑な網の目の中にあるはずの関係性を、リモコンのように操作することは、本来であればしてはいけないことのはずだから。

いろいろ・とらぶる

2008-02-20 13:12:55 | 研究室
一難去ってまた一難というか、
ようやく、友人に絶縁された件で受けた傷がおさまってきたと思ったら、
小さなトラブルが周囲でいくつも勃発している。

いろいろなトラブルが生じれば生じるほど、
なんで、トラブルが生じるのか、わからなくなる。

見逃せば済むような、小さなコミュニケーションのミス。
自分の期待が高いばかりに見えてしまう欠陥。

わたしがふだん、気になっても寛容に対応してきたはずのこれらの問題が、
少し相手の立場に立ってみれば理解しあえるようなこれらの問題が、
結局はトラブルの原因になっている。

それが、なんだか、本当に悲しい。

「いまの君がそうなったのは きっとそのせい」:東京都写真美術館『文学の触覚』

2008-02-18 18:48:13 | 趣味
東京都写真美術館まで『文学の触覚』展をみにいってきました。

東京都写真美術館『文学の触覚』

お目当ては、川上弘美+児玉幸子「七つの質問」だったのですが、
残念ながら、
静かに一人、鏡に向き合うことの意図されたはずのこの作品は、
ネジを回したい盛りの子どもさんを連れる家族に占領されていて、あまりきちんと見られませんでした。
「作品のコンセプトはわかった」というところで、あきらめて帰ってきました。


それでも、とても印象的な作品があって、
わたしはそれに出会えただけでとても満足でした。

それは、平野啓一郎+中西泰人「記憶の告白-reflexive reading」

「放課後の教室」「「あのこと」だよ「あのこと」」
「ほら 覚えているだろう」

など、ひとつの「記憶の告白」をめぐるひとつのテクストの断片が視覚的に分散し、いろいろな重なりや動きを伴いながら、
大きなスクリーンに映し出されるこの作品は、
なんというか、すごく 怖い。

誰にだって、忘れ去ろうとする過去、
封印しようとする過去はある。
その過去を、静かにほりかえされるような、そんな怖さがある。
そして、その怖さがなんとも美しい。
本当に、美しい作品であると思う。

大きなスクリーンの前に置かれた白い球を、
ゆっくりと動かすと、それに呼応するように、
スクリーン上の「記憶の告白」もゆっくりと渦を巻いていく。


わたしが白い球を何度も大きく動かしてから、前を見ると、
他の文字よりもうっすらと濃い文字で、



「いまの君がそうなったのは きっと そのせい」



 
と、書かれていた。
(なお、あとから原テキストを確認してみたところ、
この文そのものはテキストの中にはなかったから、言葉同志の偶然の出会いでこの文が浮かび上がってきたことは間違いない)

確かに、わたしがこうなったったのは、きっと「その」せいだと思う。
「その」の「それ」がいったいなんのかはわからないけれど、
そのわからない「それ」に向き合わされそうになり、怖くなる。

わたしが こうなったのは、きっと そのせい。

面倒見が良くて優しいかわりに、悩みの深いオネーサンです

2008-02-18 13:52:12 | わたし自身のこと
最近は、もっぱら、
「好きになるなら○○さん、付き合うならkimsitevaさん」という名言に落ち込んでいます。
そんな矢先、ある御方のブログで「ザ恋愛インタビュアー-あなたの代わりに1000人に聞いてみました-」とやらを見かけたので、「怖いもの見たさ」にやってみました。
(結果に落胆することは、わかりきってるんだけどさ)

というわけで、コレ。
ザ恋愛インタビュアー結果


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【総合的なイメージ】

1位   甘えすぎて重そう 417票
2位   いつも悩んでいる 196票
3位   悩みが少なそう 98票
4位   したたか 96票
5位   女神様みたいだ 91票  


【こんな恋愛をしてそうBEST3】
1位 冷え気味で落ち着いた大人の恋愛 504票
2位 もやもやを常に抱えながら言えない恋愛 153票
3位 誰も分かってくれないと諦める恋愛 142票

【こんな理由で別れそうBEST3】
1位 淡々としてなんとなく別れる 495票
2位 女として見られなくなって別れる 157票
3位 いつも泣かされて別れる 147票

【こんな人がお似合い】
(SかMか)
1位 ドMの人 337票
2位 ノーマルの人 309票
3位 ややSの人 152票

(性格など)
1位 賢くて余裕のある人 513 票
2位 とにかく甘えさせてくれる人 144 票
3位 前向きで強く生き抜いている人 141 票

【街角の声】

宮城県在住 5歳 幼稚園生 しょうさん
なに?kimistevaおねーちゃん?うん、好きだよ。将来ケッコンするし。ぼくと。


東京都在住 17歳 高校生 けいたさん
え?kimistevaさん?あーはいはい。あのヒトは憧れッスねー。面倒見がよくて、素敵なおねーさんって感じ。こんな年齢で言うのもなんですけど、遊びではなくて結婚向きッスかねー。


佐賀県在住 14歳 中学生 ひとみさん
恋愛に夢は抱いてますけど、kimistevaさんのようにはなりたくないです。だって、すごい彼氏とかに頼るタイプなのに、なんか全然彼氏に感謝しないですよね。


埼玉県在住 56歳 経営者 としろうさん
kimistevaさん?知っていますよ。彼女は少し男性不信なところがあるように思えますが、分かってほしいだけなんですよね。むしろ世の中の男性陣に、彼女の気持ちを受け入れてやる器がないことが残念で仕方ありませんね。


東京都在住 20歳 大学生 こうたろうさん
ん?なんですか?あぁkimistevaさんのこと聞きたいんですね。あの人はいいですねぇ。優しくて大人びてて、細かいことにごちゃごちゃ言わなさそうだし、重苦しい感じもないし。でも、まぁおれみたいな年下は相手にならないでしょうけど(苦笑)。
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予想どおり、落胆。

東京都在住の大学生の言葉にこれ以上なく、絶望します。
そんな東京都在住の大学生を蹴り飛ばして、
埼玉県在住のとしろうさんと結婚しようかと思ってしまう今日この頃。
(・・・あ。しょう君のことは大好きだよー。将来ケッコンするんだよねー♪)

どうでもいいけど、
「総合評価」と「こんな恋愛してそう」のランキングを見るかぎり、アタシってホント、ツンデレだわ。

記憶する者

2008-02-17 08:25:37 | Weblog
わたしはそれでも記憶しつづける。
これまでも、これからも。
だってそれが、わたしが世界とつながる唯一の方法だから。


「子どもをつくらなくても、人は命をつないでいけると思っている。
僕はそう信じている。
ゲイであろうと、なんであろうと、
過ぎてきた時、
残されてきた意志や思い出や、
言葉に出来ない海や川や木々のきらめきとか、
笑い声や、涙や悔恨や、
そういったものをひっくるめて、
あとをついてくる者たちに、
バトンをつなげていくことはできるんだ」
(ハスラー・アキラ「Milk」)



わたしの仕事は、記憶すること、そして自分が見た現実を書くことによって残すこと。
わたしの生は、記憶すること、残すこととともにある。
記憶することで、わたしはいろいろな人に自分のバトンを渡していける。
わたしの見た現実を、他の世界に渡していける。


わたしに記憶を消せということは、小説家にペンを折れというのと同じこと。
わたしに記憶を修正しろということは、筒井康隆にブラックユーモアを書くなと言っているようなもの。


わたしには、それはできないよ。
だから、
どんなにそれが残酷なことになろうとも、
それでもわたしは記憶しつづける。

らくがき万歳!:「有馬かおるのらくがき教室」

2008-02-16 16:31:25 | フィールド日誌
「まちの駅・みと」(水戸市南町三丁目)で開催していた、「有馬かおるのらくがき教室」に参加してきました。
【まちの駅×アート】プロジェクト

有馬かおるさんの「有馬」を「有間」と書き間違えて凹むこと複数回。
それでも、有馬さんの作品も、有馬さんがやろうとしていることも、
有馬さん自身も大好きなわたし。
有馬さんが教えてくれる「らくがき」なんて、こりゃ行くっきゃない!・・・とばかりにおしのびで水戸へGO!

「らくがき教室」でやる内容は、
有馬さんが描いた絵を見ながら、ダラダラと自分が扇子に描きたい絵を紙に書いてから、それを扇子に写す・・・と、至ってシンプル。

それまでに有馬さんが書いた絵の中で自分が好きなものがない場合は、
「カエルがいいんスけど・・・」と言えば、
(なぜか)その場で有馬さんが書いてくれる。
・・・で、それを真似して書いてみる。


至ってシンプル。


そんなわけで、できた扇子がコレ。
カエルの乗っている葉っぱがいろいろ間違ってる、これは蓮だから蓮、
・・・と有馬さんに指摘されましたが、
ソンナノ キニシナーイ。


これまでアート系のワークショップはいろいろ参加してきたつもりですが、
「らくがき教室」は、すごく、よかった。
アート系のワークショップってどうしても、
「みんな違ってみんないい」というところに落としどころを求めがちだけど、そうじゃないのが良かった。
有馬さんは、「これじゃ竹に見えん」とか「ハンコの位置はここがいい」とか、いろいろアドバイスしてくれるし、
「らくがき教室」に参加している人たちも、「これ灯台じゃなくて花火に見えるよー」とかいろいろ言ってくれる。

明らかに、「こっちのほうがいい」という方向性はあるんだけど、
それが単なる技術伝達とか、そうならなくて、
誰もが自分なりの基準で「こっちのほうがいい」と言える、そんな感覚の空間。


それはきっと、「らくがき」の本質が、
「誰かにその意味が通じる」という、そこだけに求められるからなのかもしれない。

その場にいる人に「カエル」に見えればそれは「カエル」だし、
「カエル」に見えなければ、それは「カエル」ではない。
誰もが、そのことについていろいろ言ったり、「こうしたほうがいい」と言うことはできるわけで、
有馬さんは、たまたま、「こうしたほうがいい」というそのレパートリーをたくさん持っているというそれだけに過ぎない。
それがすごく、いいなぁ、と思った。


そんなことを思っていたら、とても象徴的な出来事があった。

有馬さんが、参加者に求められて何枚もカエルのイラストを描いていたところ、
通りすがりのおじちゃんが、そのカエルの絵を一枚とりあげて、
「これ、あなたが書いたの?」
と、わたしを見た。
その場にいた参加者たちは爆笑。
有馬さんは「自分が書いたって言いたくない・・・(笑)」とちょっと下を向いて、笑っている。


いや、でも、本当に「らくがき」ってそんなものだし、
それだから、いいんだよね。
・・・と一人の「らくがき」好きとして思う。


「らくがき」はひとつのゆるやかであたたかな公共圏を作るよ。
らくがき万歳!!

Reason for the Pain/ Pain for the Reason

2008-02-15 19:54:26 | わたし自身のこと
すがすがしいほどに、いたいたしい。

きっと、今が、これまで生きてきた中でもっとも、つらい時期だと思う。
わたしにとって、今、必要なことは、絶望すること。
カラカラと笑いながら、涙を流しながら、絶望すること。
そのあとで、春を待ち望みたい。

のっぺりした広い野原で、
ひとり、
風に吹かれながら、
この傷みに絶望していたいよ。

パンドラの箱

2008-02-15 13:36:44 | わたし自身のこと
ある国で戦争が起こったとして、
その戦争の最中に、AとBという二人の人間が出会い、友情が芽生え、彼らは「戦友」となる。
ところが不幸なことに、Aはその後、恐ろしく酷い拷問にあってしまう。
Bは近くにいながら、何もすることはできず、
しかし、ただAが拷問にあったというその事実だけを知ることとなる。

そして、戦争が終わる。
戦争が終わって数年した頃、突然、AはBに連絡する。
しかしどうもAは戦争のときのことをすっかり忘れているらしい。
おそらく拷問を受けた記憶は、彼が生きていくためにはあまりにも残酷な記憶で、そのためにAは戦争があったあの時期の記憶をすべて失ってしまったらしい。

さて、このとき、Aを友人として慕うBのとるべき行動とは何か。

わたしの回答はこうだ。

「Bは、どんなにAに不信がられようと、とにかくAの前から姿を消すべき」

だって、そうだろう。
AとBとの友人関係というのは、戦争が起こったその時期、戦争という「出来事」を抜いて成立しない。
AがBとの友人関係をたどればたどるほど、トラウマと化している、拷問という「出来事」を思い出さざるを得なくなる。
記憶を抹消するほどつらい、その過去に出会わざるを得なくなる。
一度閉じたはずの「パンドラの箱」を開かざるを得なくなる。
そのことが容易に予想されるのであれば、BはAの前から姿を消さざるを得ないだろう。
もし、Aにとっての幸せを長い目で見ようとするのであれば。

***************************

たとえ話はこのくらいにして、
そのような次第で、わたしは長年の友人に縁を切られることとなった。
・・・この言い方は正しくないかな。
正しくは、「縁を切らざるを得なかった」。

今となっては、
長い期間を経て、彼女からもらった連絡と、それによって続いた友人関係は、「亡霊」のようなものだったのかもしれないと思う。
あたかも「ある」ように見えるけれども、その実体は「ない」。
いつかは消えてしまう、はかない記憶の「亡霊」。

ただ、わたしの方が少し早く、それが「亡霊」であることに気づいてしまったというそれだけの話なのかもしれない。

「パンドラの箱」が、一旦、開いてしまえば、
それはもう元に戻ることはない。

わたしはそのことを何も後悔していないし、
むしろ、ようやく物事があるように収まっただけだと思っている。
わたしとの縁を切ることによって、
きっと、彼女にとってわたしは「つらいときに何もしてくれなかった卑怯な奴」になるのだろうが、わたしはそれでかまわない。

現実は、常に両義的だ。

わたしが現実でなくなれば、彼女が語る「過去の物語」の一登場人物になってしまえば、彼女の物語は、とてもキレイなかたちで完成するだろう、そうあってほしいと、わたしは願う。
だって、わたしが彼女にしてあげられることは、今や、そのくらいしかないから。


ただひとつ気になるのは、
その「亡霊」のように友人関係が成立してしまった期間に、
彼女を「友人」だと、パートナーの友人に紹介してしまったことである。
その後、彼女たちがどういう関係に展開しているのかはわからないが、
もし、あまりに上手くいきすぎていたらどうしよう、というのが唯一気がかりなことで、
そうすると、きっと、わたしは余計に、パートナーの友人に嫌われてしまうのだろうなぁ・・・ということをグダグダと考えているとキリがない。
・・・いや、だって。わたしきっとこの先、「つらいときに何もしてくれなかった卑怯な奴」になるんですよ。
パートナーはわたしを信じてくれるだろうけど、
そんなわたしと付き合っているパートナーのことをその友人が悪く評価するようになったら・・・と思うと、あまりに、つらくて悲しくて耐えられない。

この先、どんなに頑張って、その方と良好な関係を築こうと思っても、不可能だろうということがハッキリ見えてしまったことも、わたしを暗澹たる気持ちにさせる。
親しくなりたい、と思っていても、これだけうまくいかない要因が連続すると、
もはやこれも運命か、とあきらめたくもなる。
これはもはや、わたしがいくら努力しても、頑張ってもどうしようもないことなのかもしれない。


とはいえ、まあ、そんなことを考えていても、しかたないのも事実で、
とりあえず、今は、「あるべき姿になったこと」に感謝したいと思う。
少なくとも、何かを始めるとしても、「あるべき姿になった」、この地点からしか始まらないのだから。