KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

みんな、愛してるぜっ!

2007-10-30 12:09:43 | お仕事
今年度の看護学校の授業がすべて終了した。

わたしはふだんの授業で授業の感想やらを取ったりはしないのだが、
最後の授業では、(この学校の場合はそういうきまりになっていることもあり)「授業評価」をしてもらう。

帰りの電車で授業評価を熟読していると、

「みんなーーっ!愛してるぜーっ!」

…と、電車の中で叫びたい気分になってくる。
そんなRock'n Roll なわたしである。


「kimistevaさんと話していると、まるで音楽みたいですね。」
…という、うっとりするような甘く美しいセリフを、
教育社会学のO先生に言われたことがある。


音楽特有のグルーヴ感が、わたしの授業にあるのだとすれば、
「愛してるぜ」と叫びたくなるこの気持ちも説明がつく。

グルーヴ感だけしかないような授業は最低だが、
それでも、この達成感はぬぐいさりようがない。
反省するのは後回しにして、とりあえず、今は幸せな気持ちでいよう。

ああっ!本当に教壇に立つことって幸せだ。

きわまってます、『暗渠マニア』

2007-10-26 14:09:55 | 趣味
気がついたらもう10月も終わりである。
そんなのんびりしたことをわざわざ言うのは、10月末にある予備審査会のことを忘れていたいからである。
それはともかくとして、10月が終わりということは、
水戸のキワマリ荘で現在やっている展覧会『暗渠マニア』も今週末で終わりということだ。
驚きである。
ぼやっとしていると、展覧会はいつの間にか終わってしまう。


このブログがなんの宣伝になるとも思わないけれど、
有馬さんが、
「『うちはうち そとはそと のんじゃった』(有馬作品の展覧会)のときも(見にくるのは)1日に1人か2人くらいですよー」とか言っていたので、
1人か2人にでもアピールする価値はあると思い、記事にして書いてみる。


キワマリ荘に行くたびに、
「よかった!」「キワマリ荘大好きだ!」ということくらいしか書けないくらい、
ボキャブラリーが貧困な国語教育研究者なので、毎回書くのもどうにも気がひける。
でも、これだけはハッキリいえる。

『暗渠マニア』は、キワマリ荘のキワマリ荘であるゆえんをハッキリと示してくれる展覧会だと思う。
有馬さんの言葉を借りれば、「きわまってる」。


わたしは正直、驚いた。


わたしはいろいろな場所に行くのが好きだ。
街を歩くのも好きだし、田舎の農道を歩くのも。
その場所の、その場所らしさを感じながら、その場所だけにしかない「おもしろいもの」を探す。
そんなふうにして、歩いているときが、一番幸せである。


研究にしても、そういう楽しみにしても、
わたしにとってすごく大切な、そういう「現場性」のようなもの。
その具体的な場で一回きりの出会いとして生じる意味。
その一回きりの「現場」でしか生じ得ない「何か」。


そういうものがアートとして、すなわち美的な価値をもつ「何か」として提示されているということに驚いた。
だって、そういう「その場にしかないもの」や「現場性」を価値として提示してしまったら、
純粋なるアートの価値なんて、作家の権威なんて、ガラガラと崩れてしまう。


それは、ある写真を見て、
「それって写真がスゴイんじゃなくて、その風景がスゴイんだよね」
といってしまうことと似ている。
それって、誰もがそうかもしれないと思いつつ、でも誰も口にしないことだ。
だって、そう言ったとたんに、アートとしての写真の意味もアーティスト(写真家)の権威もガラガラと崩れてしまうでしょう?


いや、わたしはまったくそれでいいと思っているのだけど、
そうあるほうが健全なことなのではないかと思っているけど、
それは「アート」「芸術」の世界で認められうる価値観なのか、というのはまた別の話だ。


有馬さんは、でも、本当にそう思っている。
有馬さんは「アートなんて、嘘じゃん」と言い切る。
「その風景がスゴイんだよね」という、そういう価値をアッサリ認めてしまっている。
それは、とてもスゴイことだと思う。


わたしは「現場性」をとても大切にしたい人間なので、
アートにしても、どこでどういうふうに出会うか、ということがすごく大切なように思える。
そういう意味でいえば、キワマリ荘で『暗渠マニア』を見ることは、わたしにとって、重い意味のある経験だった。


でも、わたしないったい、「何に」出あったのだろうか。
そのことを自分自身、整理しきれずにいる。

今週末は雨になりそうだ。
展覧会最終日は、ちゃんと人が入るだろうか、と余計な心配をしつつこの記事を終える。

「今回のおもしろいっすね!」

2007-10-25 19:14:44 | 趣味
昨日は高校演劇大会のGP(舞台通し稽古・リハーサル)に参加してきました。
とはいえ、すべてを通したリハーサルはできなかったのですが。


最後にラストシーンを通しているとき、
舞台上がゆっくりと秋色に染まっていく中で、
2年生の男の子が涙を流しているのに気づきました。


わたしはシルエットになっていく舞台をみながら、
「ああ。やってよかったな」と思いました。


最後に舞台をばらして、片付けに入っているとき、
彼が毎回のごとくわたしに「今回のおもしろいっすね!」と言いました。
わたしはちょっと笑って「お前さ、いっつもそういうよね」と言いました。
彼は、エヘヘと笑いました。


ああ。やってよかったな。…と、
わたしは思いました。


本番まで、あと一週間です。

賞よりも何よりも、
彼らにとって、今過ごしている時間がすごくすごく大切なものになってくれればいいな、と
そんなことを思います。

ザ・職人芸:質的研究法講義

2007-10-23 22:50:52 | 研究室
「エスノグラフィーは職人芸だ」とか、「フィールドワークは「わざ」の世界だ」とかよく言いますが、そのことを今日、実感してしまいました。

…いえ、わたし自身はそういう言い方には、基本的に反対しています。
いかにも選ばれたプロフェッショナルの共同体でしか学べないような、そんな響きがするから。
質的な研究法は、社会構成主義が主張しているとおり、もっと民主的な手法であってほしいし、あるべきだと思うのです。
実際、わたしはこの研究法を特に誰に習ったわけでもなく、独学でほとんど開発してきたようなものですし。


しかし、「独学でやっていく」というそういう道筋も含めて、
やはり「職人芸」的な側面があるな、と今日感じたのでした。

…というのも、
質的研究法を、フィールドワークにまったく関わったことのない人々に講義形式でわかってもらうのはほぼ不可能だということがわかったからです。

フィールドに出たことない人に、質的研究と呼ばれる数々の具体的方法を説明することは不毛だという気がします。

調査法における注意点にしても、具体的な研究手法にしても、フィールドワークを経験していない人には、「なんでそんな当たり前のことを言うの?」と疑問に思うことばかりでしょう。

「フィールドの人たちと事前に会って信頼関係を構築すること」
「インタビューのときは、できるだけ自然な話の流れを打ち切らないこと」
「フィールドで出会う人たちとは貸し借りの関係を作らない」
「フィールドノートは、『鳥の目・虫の目』を意識する」…等など。

こうして並べあげてみても、当たり前のことばかり。
いまさら、そんなこと言われても、目新しい情報なんてひとつもないと思うに違いありません。


でも、現在何度もフィールドワークを重ねたわたしから見ると、これらの一つ一つがとても重い意味をつように見えます。
わたしが、エスノグラファーに「質的研究法」の講義でこれと同じことを言われたら、わたしは新鮮な気持ちでその言葉を聴くことができるだろうと思うのです。そしてきっとたくさんの質問をすると思います。


そういえば、佐藤郁也氏は、「フィールドワークは恋愛と似ている」と言っていたのを思い出しました。
自分自身とフィールドとの関係は特別な関係であって、それを一般化した定式にすることは不可能。
赤の他人がその関係についてアドバイスできることはほとんどなく、自分自身がいかにフィールドと関係を作っていくか、その方法を開発できるのは唯一、自分自身です。
こう考えてみると、本当に、フィールドワークって恋愛に似ているなぁと思います。
だから、恋愛未経験者に対する「恋愛法講義」が確実に不毛であるのと同様に、フィールド未経験者「質的研究法」もきっと不毛な部分が多いのでしょう。


今日、授業終了後に、
「三つの理論的立場があるってお話でしたけど、どの立場もインタビュー使うっていうじゃないですか。だからどれがどう違うのかとか、よくわからないんですよね」
・・・と言われました。
でもこれって、
「結婚を前提にした真面目なオツキアイにしても、高校生みたいなラブ・アフェアにしても、どういう恋愛しようとしても、みんなキスはするっていうじゃないですか。だからこの二つがどう違うのかとか、よくわからないんですよね」
というのと同じような疑問だなぁ、とちょっと思ったりしました。

どちらも具体的な事例というか経験談で語らないと、その違いがよくわからないものなんですよね。
結婚を前提にした二人の「キス」の意味と、ラブ・アフェアにおける「キス」の意味は当然ながら違います。何を目的として、何をしようとしているのかも。
そんなわけで、質的研究法においても理論的立場が違うと、同じインタビューでもその意味は違うのですよ。


…こんな説明で納得していただけるだろうか。
絶対、無理だろうなぁ。

川上弘美『天上大風』

2007-10-19 22:02:33 | Weblog
ごくたまに、ブックオフで100円で買ってしまったことを後悔することがある。
「損をした」「買わなきゃよかった」という意味ではない。(元来、わたしは金銭を使うことに対して過剰に厳格なので、購入したことに対して後悔することはほとんどない。)
そうではなく、その本の持つ価値に対して100円という値段があまりにも低くて、あまりにもアンバランスで、そのことに後悔するのだ。
「こんなことなら、本屋で定価で買っておけばよかった」と。


安い買い物をした、と喜んでおれないあたりが、経済学を志したものの性である。経済学的な視点でいえば、価格はそのものの価値に対する投票のようなものだから。
わたし自身がこの本に100円という価値をつけたみたいで悔しくなるのだ。


前置きが長くなったが、川上弘美『ありがとう』はまさにそんな本だった。
以前買った川上弘美の長編『光ってみえるもの、あれは』は、主人公の男の子がやたらと彼女に欲情するのになんとなく違和感があって最後まで読みきれなかった。


だけど『ありがとう』は良い。
やっぱり川上弘美は、先の見えない淡々とした世界を描いているのがいい。


『ありがとう』は短編集で、わたしの中にストンと入ってくる作品が多かったけれど、なかでも『天上大風』は傑作だった。
『天上大風』は「定見」が持ちにくく、「論理的思考」だけがある「私」の話。
「私」は、「別れてくれ」と言って不倫相手のもとに去っていった元夫のことを「ミヤコさん」に相談したあと、次のように思う。


「定見がないと、かくのごとく行動と気分の間に大きなそごをきたすのである。嘆息どころでは済まぬ。済まぬが、仕方ない。原因があり、結果があり、両者の因果関係がわかれば、気分はおさまらぬが頭は納得する。頭が納得し、気分がおさまらぬ場合、なすべきことは一つ。気分がおさまるまで気分を持ちつづければよいのである
。私は、つつしんで、怒りつづけることを、決定した。」


この文章を見て、笑える人は、きっとわたしと同じようになんとなくいつもフワフワとその場の状況から気持ちが浮いてしまう人なのだと思う。


その場の状況ではなんとなく違和感を感じつつも、よくわからないままに時間が過ぎてしまい、あとからよくよく考えてみて、「アタシ、よく考えるとひどいことされてるね。怒った」と言い出すことが、よくある。

なんとなくその場では気持ちがフワフワ浮いてしまって、その場で怒れるほどのリアリティを持つことができない。そのまま、なんとなくフワフワ時間だけが過ぎてしまう。


だとすれば、わたしも「私は、つつしんで、怒りつづけることを、決定」する必要があるのかもしれない。
いや、むしろすでに日々意識的に実行しているのかも。


そんなことを考えつつ、なんとなくフワフワと、淡々と毎日を生きる。
それもまた、よいのかもしれない。

『妖婆死棺の呪い』

2007-10-17 10:43:38 | 趣味
博士論文予備審査会が迫っているため、忙しくてしかたありません。
ついに昨日から「予備審査会のお知らせ」が、研究棟4・5階のあらゆる掲示板、あらゆるエレベーター前に張り出され、うかうか廊下に出ることもできなくなりました。
そんなストレスフルかつ精神的に不安定な状況の中、
わたしをいつも救ってくれるのは、
院生室の机に置いてある貧乏神・ビンちゃん(『おじゃるまる』のキャラクター)です。
思えば、ビンちゃんとともにこの部屋にきてもう5年。
さすがにビンちゃんもパト隊長やガチャピンのごとく汚れてきました。
ぬいぐるみキャラクターの運命です。

久々にビンちゃんを見ていたら、
『妖婆死棺の呪い』という映画のことを思い出しました。

ホラー映画はほとんど見ないわたしですが、
『妖婆死棺の呪い』は見たことがあります。
水木しげる大絶賛、SFファン大絶賛のサブカルなロシア映画(だったかな?)です。
はっきり言ってこの映画はすごい!!
ロシアの妖怪大集合なのももちろんすごいし、
妖女役の女優がありえないくらい完璧に美しいのもすごいのですが、
何がすごいって一番すごいのは、ローテクなところです。

妖女を乗せた棺が空中をグルグル回るシーンがあるのですが、
これが超ローテク!
CGなし…っていうか、そういう概念そのものなし!
だから、グルグル回る棺に乗っている妖女が本当にバランス悪い状態でフラフラしているのを見ると、言葉を失います。
ものすごく感動します。

そして最終兵器。
地の妖怪・ヴィー。こいつの設定がすごい。
なにしろ、皮がダブダブし過ぎていて、皮で目の部分全体が覆われてしまっていて目が見えない。

映画のクライマックスに来て、
妖女が「出でよ!ヴィー!!」と叫んで、おごそかにヴィーが登場するのですが、出てきたヴィーが初めに言うことばが、「見えないから見えるようにしてくれ」とかそんなようなことですよ。
そんなわけでガイコツやコウモリがそそくさと皮を上げてくれるわけですけれども……

もっとスマートな方法はないのかっ!?
…とツッコミを入れたくなること間違いなし。


そんなことを書いていたら、『妖婆死棺の呪い』が見たくなりました。
でもDVD販売とかしてたり、レンタルで置いてたりしないよなぁ…とか言ってたら、
あったーーーー!!
http://ruscicodvd.fc2web.com/rccf/1003/index.htm

超!ほしいっっっ!!

当たり前だけどかけがえのない時間

2007-10-14 20:28:46 | 趣味
演劇部の高校生から、パンフレット掲載のための原稿を頼まれました。
「「筆者の意図」をください」と…(笑)

そんなわけで「筆者の意図なんざねぇよ!」と一蹴しつつ、
それっぽいものを書いてみた原稿のテクストを以下に掲載しておきます。

ところで高校生向けの文章だと800字が目安なんですね…。
確かに、入試の文章だと1200字が目安だから、ふつうに読むとなるとそんなもんなのかしら。
どうも自分の息の長さに合わなくて困ります。

***********************************************
当たり前の日常に過ぎなかったものが、どうしようもないくらい大切で、かけがえのないものに思えるときがあります。
それまで退屈なくらい当たり前にあった現実が、あるときふっとなくなってしまうそんな瞬間のことです。そんなときわたしたちは、自分の思いと裏腹に淡々と流れていく時間のことを思います。それまで時間のことなど考えたこともなかったわたしたちが、「時間」というものをもっとも強く意識するのは、おそらくそういう瞬間でしょう。時間というものが一方向にしか向かわず、逆方向に流れないという事実に絶望するのもそういう瞬間です。
 自分の前に当たり前にあった大切なものたちが失われてしまう。
 そのことに対して、わたしたちができることはほとんどありません。
 数年前に、「女子高生の三大神器はケータイ・カメラ・リップクリーム」と言われた時期がありました。携帯電話で写真撮影機能がなかったときの話です。女子高生たちは毎日カメラを持ち歩き、自分のいつもの生活や友人たちを撮影していました。そして、それは今でも変わらないと思います。わたしには、毎日カメラを持ちあるく女子高生たちが、そういう無力さに対してせめてもの抵抗をしているように思えてなりませんでした。いずれ時間は過ぎ去ってしまう。当たり前に過ごしていたなんとなく楽しかったこの時間も、いつも一緒にいた友人たちもいずれ失われてしまう。だからせめて記憶だけでもかたちとして残しておきたい…そういう切実な思いが写真を撮るという行為の中にあるのだと思うのです。
 『RUN』を書いているとき、わたしは、そういう、当たり前にあるような、それにも関わらずどうしようもないくらい大切でかけがえのない時間のことを考えていました。「青春」や「怒涛」なんて大文字の言葉で括れないくらいささやかな日常。だけど、その時間を生きている人たちにはかけがえのない日常というものは確かに存在します。他人にはまったく理解不可能だけれど、どんなに貴重なものよりも大切にされているささやかな時間。それは、なんと美しい時間だろう、とわたしは思うのです。

古いコミュニティ・新しいコミュニティ

2007-10-12 13:12:30 | ニュースと政治
例の神戸の脅迫未遂事件(何度も説明していますが「いじめ事件」とは言わない)との関わりで、以下のような記事が神戸新聞に掲載されたそうです。

率直に、みなさんどう思いますか?


「★「ネットが介する違和感」

・「『2ちゃんねる』の呼びかけに応じただけです」
 市内の私立高校で自殺した男子生徒が金品を要求されていた事件。生徒の逮捕後、献花に訪れた集団からこんな答えが返ったきた。
 事件に関連したインターネット上に、生徒の冥福を祈ろうと、学校への「集団献花」の募集が書き込まれた。
 これを見た住人から「ゲーム感覚ではないか」と不安の声が上がった。
 学校側も”指定日”の部活動を中止し、警備員を増やした。

 定刻時間になると、喪服姿の二十人ほどのグループが現れた。年代は大学生から
 大人まで幅広く、献花後は慌ただしく立ち去った。
 「同世代が犠牲になり、心を痛めた」(京都市の大学生)、
 「子どもを持つ親として、行くべきだと思った」(須磨区の男性)といった、ごく普通の理由は少数。参加者の多くは冒頭のような、ネットを介した“軽い”ものだった。

 見ず知らずが一同に集う「違和感」。事件をめぐる匿名の誹謗中傷はネット上で
 今も止む気配がない。いじめと容易に結びつくその薄気味悪さが、ずっと
 ぬぐえずにいる。(飯田 憲)

 (※神戸新聞・神戸東部版」<東灘・灘・中央区対象>、10月11日「ハーバーだより」より )(なお、この記事の引用ソースは「2ちゃんねる」)



わたしはこれを読んだとき、
ある少年から聞いた話を思い出しました。
その少年はNPOとかボランティアとか…そういうことに興味ある方で、
その関係で、いわゆる地域の「タウンファーザー」に話を聞くことがあったそうなのです。
「タウンファーザー」とは地域の青年会議所とか商工会議所とか、
いわゆる市町村の中で政治的に力を持っている方々。
その「タウンファーザー」は言ったそうです。
「新参者が、NPOだとか言ってこの街で動いているのが許せない」と。


わたしも、その昔、子どもと遊ぶ活動をしていたときに、
こんなことをその町の公民館長さんから言われた経験があるので、
「ああ、どこにでもそういうことはあるんだな」と思いました。


この「タウンファーザー」たちが、NPOやらボランティアやらで動こうとする「新参者」たちに感じている「違和感」。
それは、この記事で論じられている「違和感」ととても似ている気がします。
どちらも新しいコミュニティのありかた、
人々の新しい関係のつくりかた、関係の動態のありかたに不安を感じ、
それを「違和感」という言葉で表しているように思うのです。

「ゲーム感覚」という言葉は、そういう「違和感」を正当化すべく、
新しい流れのありかたにネガティブな名付けをしたものでしょう。


「ゲーム感覚」的な人の集まり方にリアリティを感じる人々は、逆に、
そういう旧態依然としたコミュニティの認識こそ、「主体的でない」「自主的でない」と感じます。
たまたまその町で生まれ育ったから…そのことにどれだけの根拠があるのか、そこにリアリティを見いだせないのです。


献花に訪れた理由に対して「2ちゃんねるの呼びかけに応じただけ」と答える青年と、町の議会議員選挙である人物に投票した理由を、「うちのほうの集落ではそういうふうに決まったから」と答える人々と、どこがどのように違うのか、わたしにはわかりません。
旧コミュニティにしろ、新コミュニティにしろ、
そういう「なんとなく」流されている人たちはたくさん現れる。
それだけのような気がします。


わたしは、この記事が神戸という土地の軋轢やねじれのようなものを、
そのまま表しているような気がします。

一方で、震災ボランティアが活躍する新コミュニティ「神戸」があり、
一方でこのような旧態依然としたコミュニティの価値観が存在する町。
神戸というのは、きっとそういう町なのではないかと思うのです。

中ボス攻略

2007-10-10 09:57:02 | 研究
昨日、わたしの博士論文の研究指導委員会がありました。
…とはいっても、博士論文査読の仕組みをわからない方には、
なんのことかわかりませんね。

我が専攻の博士論文は次のようなステップで進むことになっています。

①博士論文草稿完成
 担当教官(主査)に提出・担当教官によるチェック
    ↓
②【中ボス1】担当教官(主査)が「研究指導委員会」開催のOKを出す
    ↓
③【中ボス2】研究指導委員会5名が「予備審査会」開催のOKを出す
    ↓
④【ラスボス】予備審査会でOKが出る
    ↓
  (修正)
    ↓
⑤【形式上のラスボス】本審査でOKが出る


まあ、こんなわけでともかく中ボスとラスボスがいるわけです。
この中ボスとラスボスを倒すのが大変!
ちなみにわたしは「中ボス1」攻略に、軽く10ヶ月かかった計算になります。

昨日は「中ボス2」の日でした。
「中ボス2」にこれから何ヶ月かかることか…2ヶ月か、3ヶ月か…と見込んでいたのですが、驚くべきことに、アッサリOKが出てしまいました。

ドラクエ(『ドラゴンクエスト』)で、ある中ボスを倒すのにやたら苦戦して、
結果的にレベルが上がりまくってしまった結果、
次の中ボスはアッサリと倒せてしまう
…というようなことがたまに起こったりしますが、そういうことなのでしょうか?
(そもそもわたしの担当教官は専攻長だから、ある意味「ラスボス」か。)

そんなわけで、今月末には「ラスボス」=予備審査会です。
突然の展開の速さについていけずに、なんとなくアワアワしております。

とはいえ、ともかくうれしい!
これから1ヶ月ハードな日々になりそうです。

Responsibility(責任・応答可能性)2

2007-10-03 13:24:29 | わたし自身のこと
以前、宙さんから以下のようなコメントをいただいた。

>私も大卒後すぐ小学校に勤めてすぐ辞めましたが、
>「心のノート」で教育される様を間近に見て嫌悪し、怖くなった
>(教育現場に居る自分自身が。そして教員の鈍感さも。)…ということがありました。
>学校内部に居る限り、「何か」に巻き込まれ「何か」に加担して、
>子どもたちを傷つけてしまうのではないか…と、そんな恐怖がありました。
>だから今も、学校教育からは距離をおいています。
>KIMISTEVAさんはこの問題とどんな距離感や姿勢で関わるつもりか少し興味があります。

この問題に対する少しクリアーな答えが得られたので、
ここに記しておきたい。

カフカの『城』という作品を知っているだろうか。

『城』の主人公は測量技師のK。
Kは、ある城の伯爵に測量のために招かれる…のだが、
その城の近くにある霧深い村に訪れたそのときから、
いっこうに城のありかがわからない。
城に招かれながら、城にたどりつけないK。

Kは村の住人に城にたどり着く方法を尋ねる。
その村は城の前にあり、
いわばその村に住む人々はその城に統治された空間の住人、
いわば「城の住人」であるはずだから。

しかし、住人たちは誰も自分と城とは無関係で自分にはよくわからないという。
城との関係性をすべての住人が放棄している。
城と一定の関係にあるはずの…その責任をこの住人たちは誰一人引き受けていない。
Kが城にたどり着けないまま、この話は終わる。


内田樹はこの話をメタファーにしながら、
「日本国民」という責任のありかたについて議論している。

わたしたちが個人として海外に出たときには、
否応なく「日本国民」として話しかけられ、
「日本国民」として戦争責任について非難を向けられたりする。
おそらく海外旅行で東南アジアに出るわたしたち若者の多くは、そういう非難のまなざしに対して「アタシは関係ないのになぁ」と思うことだろう。
だって、
今の日本だってたいして好きじゃないし、
当時の日本のことだってドウシヨウモナイと思うし、
当時の政治家を選挙で選んだのはアタシたちじゃないし、
そうだとすれば、
戦争を起こしたのもアタシたちの責任ではないから。

でもそれって海外の人から見ると、
まさに『城』のKのような気持ちになるのではないか、ということ。

話しかけるのは、みんな日本からやってきた日本国籍を持つ「日本国民」。
だけど、みんな「日本国民」としての責任を放棄する。
みんなが、「日本ってどうしようもない国だよね」と外側から批判していたら、
だとしたら「日本」っていったいどこにあるの?
そういうこと。

だからとりあえずは、国民国家という枠組みそのものがもはや賞味期限ぎれを迎えつつあることを知った上で、
とりあえず、今は「日本国民」である者として
海外の人々への応対可能性をきちんと確保していくべきではないのか。
…というのが、彼の議論。

国民国家の問題はものすごく複雑な問題なので、
ここでシンプルにこの議論に賛成かどうかという結論を出すことは避けたい。


ただ…
わたしは「日本国民」としての責任を負えるということはできないけれど、
わたしが、教育に対して(限定すれば、国語教育に対して)、
子どもたちに対して応答可能な存在、責任を負える存在でありたいと思っていることは確か。

「今の教育、ダメだよね」「ゆとり教育、最悪だよね」
…と外側から非難するばかりで、
教育への責任を放棄するカフカの『城』の住民ではなく、
教育に対して責任を負える存在でいたいというのが、
わたし自身の考えの底にあるのだと思う。


わたしは以前から何度も言っているように、国語科が嫌いだ。
嫌いだからこそ、国語科教育の研究をしようと思った。
その分野に責任を負うことからはじめなければ、その分野を変えていくことはできないからだ。

わたしは責任を負える立場から、子どもたちに接していこうと思う。
子どもたちから、「どうしてこんな勉強しなくちゃいけないの?」と非難のまなざしを向けられたときに、きちんと答えられる存在でいたいんだ。
そして、子どもたちの言葉をきちんと社会に伝えられる存在でいたい。

それが、わたしが教育の場にいつづける理由である。