KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「現場」(field)とのかかわりかた:現職教員への初レクチャー

2006-12-30 17:02:02 | 研究
先日、たまたま知り合いになった現職の先生に頼まれて、現職の先生方の集まる研究会でレクチャーを行ってきた。
その先生によると、はじめは、わたしの担当教官に話を持っていったらしいのだが、わたしの担当教官T先生は、その研究発表授業のテーマ「国語教育とメディア」を見て、

「そんなもんわからん!kimistevaにしろ。kimistevaを派遣する!」

…と言ったそうで、わたしが派遣されることになったらしい。
え?…ということは、わたしはT先生の「代理」!?ガーン!!ガクガクブルブル

「そんな恐れ多いことできません!」と震えつつ、それでも、「まぁ、メディアじゃ、T先生はわからんだろうな。」という気持ちもあったので、レクチャーに行ってしまいました。

とはいえ、「国語教育とメディア」というタイトルはあまりにも多義的で、とりあえず、わたしは国語科メディア・リテラシー教育の概括のようなものを持っていったのですが、どうにもちょっと話題がずれてしまったような気がいたします。

要するに、研究発表授業でやりたいのは、「インターネット・テクノロジーを国語科の授業に生かす」という内容だったらしい。
それに対して、私がやろうとしているのは、ヴィジュアル・カルチャーにいかに生きていくか、というその根本のところの教育なので、どうしても、ちょっとズレてしまうんですね。
というわけで、無理やり、用意した内容を「インターネット・テクノロジーに応用するとしたら…」ということで置き換えて話していきました。
これってけっこう大変です。


それにしても…、と最近思います。
わたしは、相手の興味・関心に応じることを、あまりにも自分に強制しているような気がしてなりません。
研究者のスタンスとして、できるだけ自分から先導しない。相手の文化を受け入れたい、ということはあります。

ですが、最近、水戸芸術館の調査との関わりで、企画案などを積極的に提示したりする方を目の当たりにしていると、「本当に自分ってこれでいいのだろうか?」…と思うのです。
もしかしたら、そういう研究者としてのスタンスを採用する、と明言すること自体、そういうスタンスのありかたを、フィールドである水戸芸術館に押しつけていることになるんじゃないか?…と。


でも、わたしは怖いのです。
自分から企画を一生懸命作り上げ、先導していくことは、自分が作り上げた企画の「ねらい」や「目標」に縛られることになるんじゃないか?…と。

たとえば、昨年の「高校生ウィーク」で、わたしは、交流ノートの設置を企画として提案したわけだけど、あのとき、ストリクトに「高校生に向けて」という目標を掲げていなくて良かったナァ、と今でも思う。
あの程度の緩やかな企画だったからこそ、見えてきたことがたくさんある。
「高校生」というカテゴリーにもしばられない、「作品」というカテゴリーにもしばられないからこそ見えてきたこと。
…それが、あの論文なのかなぁ、と。

そう考えてみると、わたしにはそういう「現場」との関わりかたしかできないような気がしてくる。
企画者が持つ「ねらい」「目標」から離れて、実際にどういうことがそこで起こっているかを、その場で拾っていくこと。それしかできない。
…だとしたら、わたしが積極的に企画を立てることに、どういう意味があるのだろう?わたしにできるのは、企画を立てる場にいて、「こういうのはどうですか?」と自分が拾った現象から導き出される場のデザインを提案していくことだけだ。


わたしがレクチャーした現職教員の方々は、本当にとても良いかたたちで、みんな、学習者に対して真摯ではあったけれど、それでも、やっぱり違和感を感じざるを得なかった。

「現場」に生きるってことは、そこでめぐらされる社会的・政治的なゲームに巻き込まれることなんだろうと思う。
「話すこと・聞くこと」「ITC」「情報教育」「総合的な学習の時間」…。
現場でめぐらされる、たくさんの空洞化されたジャーゴン(専門用語)。
そのジャーゴンがまるで目印の旗のように機能して、その旗のもとに人々が集まっていく。…そして不思議なことに、その空洞は埋められることもなく、日常的な実践が営まれる。
サッカーのルールの意味を誰も知らなくても、サッカーというゲームが成り立つように、学校でめぐらされるジャーゴンの意味を知らなくても、学校というゲームは成り立っていく。

そして、そのジャーゴンに縛られて、生徒たちが評価され、実践が評価される。
空洞化しているくせに、人をしばるジャーゴンは、まるで囚人をいれておく檻のようなものだ、とわたしは思う。

わたしのやるべきことは、ジャーゴンを作り出すことじゃない。
具体的な学習者の姿から、具体的な場のありかたを探っていくことだ。そのためには、美しい「目標」や「ねらい」から離れなければならないと思う。
ただその場にあることを見つめていきたい。

それだけが、わたしのできることなのだから。

「悪インテリ」

2006-12-22 21:20:40 | わたし自身のこと
物語を読むことは好き。
小説やマンガがなければ生きていけないとすら思う。
それに、ステキな絵や写真や映画も好き。
これも、わたしの生の中になくてはならないものだと思う。

…だけど、だけど、
正直に告白してしまうけれど、「文学」も「芸術」も
わたしはすごく苦手である。

だから、カルチュラル・スタディーズに興味はあったけれど、
文学を研究しようとか、文学を専攻しようなんて、まったく思わなかった。
「文学は好き?」といわれても、答えはNOだ。
絵を見ることも描くことも大好きだし、演劇もダンスも大好きだし、
水戸芸術館にかようことは、心の底から「大好き!」なのだが、
「芸術がすきか?」と問われると、「…ちがうと思う」と答えるしかない。

その理由は、おそらく、「悪インテリ(あく-いんてり)」にある。

「悪インテリ」とは、わたしの造語なのだが、
要するに、自分の優越性のためだけに…他者より自分が優位にある、権威があるというアイデンティティを示すために、知識を貪欲に集めて貯蔵する人のことをいう。
いわゆる、(原初的な意味での)「マニア」とか、「薀蓄王」とか、そういうイメージで捉えていただきたい。
自分の知識を披露して、みんなに賞賛されて、それで、自分の優越性に浸るような人たち。
そういう人たちが、わたしは心の底から嫌いなのだ。

わたしの周囲がたまたまそうだった…というだけなのかもしれないけれど、「文学」や「芸術」に関わる人は、そういう感じの人が多いような気がして、どうにも、心が進まないときがある。

これを実感したのは、以前、一度、
水戸芸術館の近くのとある場所で、ギャラリー・トーカーの方に、そのときの企画展について、突然、「どの作品が一番好きでした?」とたずねられたときだ。
その展覧会は、わたしにとって、とても印象深い展覧会で、このブログにも重ねて何度も記事を書いているような展覧会なので、わたしの中に、「話したいこと」がまったくなかったといったら嘘になると思う。

むしろ、「話したいこと」はあふれんばかりにたくさんあった。
だけど、そのとき、自分の中にあまりに大きな抵抗が生じて、話せなくなってしまった。
正直、自分でも驚いた。
どうして、そんな抵抗が生じるのか、そのときは、まったくわからなかった。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、わたしの中の誰かがわたしに「そんなこと言うべきではない」という。
…まったく得たいの知れない圧迫感。抑圧感。

それからしばらくして、今、そのときのことを考えてみると、
わたしを抑圧し、わたしの言葉を奪いとっていたのは、「芸術」に付随するあらゆる「権威的なことば」ではなかったか、と思えてくる。

わたしがかつて、あまりにも長く一緒に過ごしてきた友人は、「文学」や「芸術」に関する知識が、あまりにも豊富だった。
彼の発言する内容は、わたしが出会ってきたアーティストや「芸術」にかかわる人々、「文学」に関わる人たちを魅了してきたし、彼もそれを誇りに思っていたようだった。
わたしは、そんな友人の側にいて、一人なにもできずに取り残されることが、多かった。

彼は雄弁に、「文学」「芸術」について語る。
豊富なる知識をもって、豊かなる知的な批評感覚をもって。
そして、それは常に評価される。

だけど、その言葉は、ただただ自分の生きている感覚でしか、何かについて語ることができないわたしの言葉を抑圧してきた。
彼の言葉は正しくて、わたしの語ることばは「異端」であり、「無力」であり、勝手な一人よがりなストーリーに過ぎない。

ずっとずっと、そう思ってきた。
そして、ずっとずっと、そういう権威と闘ってきた。
知識は権力を生み出す。
知識を「もてるもの」と「もたざるもの」の格差をうみだす。
でも、それは人間にかかわる「知」の本来の姿ではないはずだ、と研究者kimistevaは思う。

「知」は社会的に構成されるものなのだから。
多くの人が幸せにあれるような「知」のありかたを作っていかなければならないのだから。


一人よがりなストーリーでいいんだ。
断片の寄せ集めによって作り上げられたブリコラージュでいいんだ。
そういうブリコラージュによって作り上げられた、それぞれの「知」を持ち寄って、多くの人々が対話を行っていくこと。そうして、「知」を生み出していくことこそが大切なんだ。

知識をかさにして優越性を保とうとする「悪インテリ」は、
知識による選民意識を保持したがる。
固定的で絶対的な知識が存在し、それを持っていることそのものに自分自身の優位性を見出している。
そして、そういう人たちが、たくさんの「権威的なことば」を生み出して、わたしたちの声を奪っていく。

そんなのいけない。
知識は一部の人たちの特権的な私有物じゃない。
わたしたちが生み出した、わたしたちによる、わたしたち自身のものなんだ。

声を奪うことは、「悪」だと思う。
そして、まず、わたし自身が語りはじめなければ、なにも始まらない。

わたしが自分自身の声を取り戻すのには時間がかかるだろう。
その旅はようやく、始まったばかりなのだ。

日本初(?)鉄道内高校演劇公演

2006-12-14 13:43:20 | 告知

以前も告知しましたが、「走る芝居」企画の具体的内容が決定いたしましたので、再び告知します。

走る芝居!大多喜高校演劇部いすみ鉄道公演!南総を舞台にした幕末冒険活劇!

【第一部】お銭ころがし―夢は時間を裏切らない―

【第二部】笛吹以蔵

(いずれも、作・構成/ いしだきみ(←kimistevaのペンネームです))

○日時(予定):平成19年1月7日(日)        

※いすみ鉄道の定時運行ダイヤの時間帯に沿って公演を行います       

大多喜駅 10:14発 上総中野駅10:34着       

上総中野駅10:42発 大原駅11:33着       

大原駅11:46発  大多駅12:16着

 ○場所:いすみ鉄道車内(※時間帯によっては大原駅、上総中野駅、大多喜駅)

 

 ※観覧申込・お問い合わせは以下のHP掲示板にて受けつけております。

 「大多喜高校演劇部HP ぼぼのす」 http://www.geocities.jp/ootakibobonosu/


発達心理学者の限界:対話型鑑賞における構成主義の波紋

2006-12-13 20:09:20 | 研究
先日、水戸芸術館にいきました。調査のことを学芸員の方にご相談するためです。

今年の三月から四月にかけて行った「高校生ウィーク」の調査を継続してやらせていただくのももちろんですが、さらに、ギャラリー・トーカーについても今後、調査させていただこうと思い、相談にいったわけです。

「現場のニオイだけで研究して論文書いてる」と言われるわたしが、前回の調査で嗅ぎ取ったニオイ。それが、ギャラリートーカーの重要性でした。
重要…なんてものではないとおもいます。根幹。骨格。
ギャラリートーカーがいるからこそ、「高校生ウィーク」の教育的意義が発揮されている部分が大きいと思う。…なんていうか、ギャラリートーカーの方々がつくりだしている文化に支えられて「高校生ウィーク」が機能しているように見えるのです。

だとしたら、その文化に迫らなければ何もわからないだろう、と思いました。
わたしが「高校生ウィーク」の中で見出だした、「読者」「受け手」から「作者」「伝え手」への移行を支える根幹となる文化を知りたいと思ったのです。

博士論文の内容まではとりあえず、なんとかなりそうなので、「高校生」っていう枠組みに縛られずに、生涯発達的な視点から研究することもできそうですから、まさに今しかない!…って感じでした。

そんなわけで、ギャラリートーカーのプログラムや研修にかかわるさまざまなお話を聞き、たくさんの文献を貸していただきました。
…で、アメリア・アレナスやビジュアル・シンキング・カリキュラムなんかの文献を大学の図書館で入手できる限り、入手して、これらすべてを、ザザーーッと乱読してみました。

それで心にひっかかったことを、一言で言うと…

「ピアジェ、キターーーーーーーーー!!」

…でした。

ご存じでない方に解説すると、ピアジェとはあまりにも有名すぎる発達認知心理学者です。
教師になろうと思ったら、いやでも暗記しなければならない人です。


このピアジェ。なんで有名かというと、人間の認知における発達段階を明らかにしたからです。
今でもピアジェ信者はなんでも、発達段階にできると思っていろいろな発達段階説をつくります。

初めては保存概念やら、認知的な側面の強いものが多かったけれど、
言語も道徳も芸術も…、なんでもかんでも、同じような発達段階にできると思ってしまったみたいです。
後世の人も。ピアジェ自身も。

MoMAの鑑賞者研究プロジェクトを行った発達心理学者(本によっては、認知心理学者)は、大規模な調査によって、美術館の鑑賞者を5段階のステージに分けました。

(1)物語の段階
(2)構築の段階
(3)分析・分類の段階
(4)解釈の段階
(5)創造の段階
(福のり子「鑑賞者なくしてアートは存在しない!」フィルムアート社・プラクティカネットワーク編『アート・リテラシー入門』より)

前述のわたしの感想は、この記述を見たわたしの反応です。
ピアジェだよ…。こんなところにも、ピアジェだよ…。ピアジェ恐るべし!…です。


なぜ、わたしがこんなに衝撃を受けたかというと、これが、アメリア・アレナスが推進する「対話型ギャラリートーク」の基礎研究とされており、アレナス自身も自身の著作の中で、この研究や、さらにピアジェについても触れているからです。

これは、わたしにはよくわからない事態です。
アレナスの著作を読む限り、彼女は、アートの意味を鑑賞者の対話の中で生成されるものと位置づけているようです。
議論をわかりやすくするために整理すれば、これは社会構成主義的なアートにたいする捉えかただといえます。

しかし、自分自身の物語を勝手につくる段階から、作品に過度にしばられて情報を集めまくる段階を経て、社会的に評価されているような鑑賞スタイルを身につける
…というのは、どう考えても人間の発達に対する本質主義を内在させたピアジェ流の構成主義(社会構成主義ではない!)としか思えない。


なぜ、こういうことが起こって、しかも、すんなり人々に受け入れられているのでしょうか?

アートのような、いわゆる「文化」と呼ばれるものは人々によって構築されるけど、人間の発達は普遍的なものだ…というように、完全に分離して捉えているのかなあ?
人間は社会・文化的な存在だし、認知も発達も、社会・文化的な現象なのだけれど…、
そのことが忘れさられてしまっているのだろうか。


だから、大規模統計調査ばかりが行われたりするのかなあ?
それで学校向けのスタンダード教材まで作られてしまったりするのかなあ?


理解はできるけど、あまり納得したくない。
大切なのは、どの方向に発達させるかということよりも、いかに、そこに学びという現象を生じさせるか、ってことだと思う。

だって、アートをめぐる状況は、どんどん変化していくわけだから、今あるような鑑賞スタイルだって、どう変わっていくかわからないわけでしょう。

不幸な「強者」

2006-12-12 14:48:49 | わたし自身のこと
犬童一心監督が『ジョゼと虎と魚たち』で、
見事にアッサリと描き出していたように…、
よしながふみが『フラワーオブライフ』で、明確に指摘しているように、
現代社会において、「弱いこと」「不幸であること」は、人間関係において優位性を保つための、ひとつの手段になりうる。

不幸な「強者」は確かに存在するし、
誰よりも「強者」たる弱者も、(その言葉は矛盾に満ちているけれども)、確実に存在する。

わたし自身も、そのことを利用することで、
どうにか、生きてきたわけだし、そういう可能性がなければ、弱者がこの世で生きていくことはもっと難しくなるだろうと思うから、そのこと自体は否定しない。

だけど、ふつーに一般的なマジョリティとして、
いわゆる強者の論理の中で生きてきた人たちは、
そういう可能性にほとんど気づいていないままに、
暴力的なまでの権力をふりかざすことがある。

わたしは、そのことに、すごく傷つけられる。
「もう、いいかげんにしてくれ!」って思う。
それが本音。

お願いだから、これ以上、「不幸であること」を見せつけないでほしい。
人にそれほど心配をかけない方法はいろいろあるだろう!?
なんで、わざわざ見せつけるように「不幸」である必要があるの?

それって、なに?甘えてるんじゃないの?
世界そのものに、甘えてる。
自分が「不幸」でいれば、誰かが、どうにかしてくれるって?

そうやって、「誰かがどうにかしてくれる」って思うこと自体が、
暴力的なまでの力を持って、誰かを動かしてしまうことがある
…なんて、考えたことあるんだろうか。

「俺、今、病気なんだから仕方ないだろ!」と怒りをあらわにして、
友人の女の子の胸やらなんやら、体をぺたぺた触っていた、かつてのわたしの友人がいる。
この事件って、すごく象徴的だよね。
「鬱であること」「病気であること」は「弱いこと」「不幸」を示す道具。
それを持ち出されたとたんに、相手はその「弱者」に従わざるを得なくなる。
だって、反抗したとたんに、「極悪人」のレッテルを貼られてしまうもの。

不幸な「強者」。権力のある「弱者」。
それは確かにいて、わたしはそういう人たちに苦しめられることがある。

誰かが不幸であることを許せないというわたしの性格にも問題があるんだけどさ。

年間パスの効用:鑑賞のスタイル

2006-12-09 20:19:08 | フィールド日誌
昨日は、「Life」展以来、久々に水戸芸術館にいってきた。

現在、公開中の佐藤卓展「日常のデザイン」については、初めの展示スペースに入った途端…、
「あ。これは、パートナーと一緒に見るべき展覧会だな。」
…と確信したため、今回は、気軽な気持ちで、目に映る楽しい色やかたちやいろいろなものをサラーッと眺めることにした。

美術館や博物館の年間パスの良いところは、なんといっても、こういうところだと思う。
年間パスがあると、何度でも自由に展覧会が見られる。
…のみならず、年間パスがあることで、「とにかくたくさん通っちゃえ!」という気になる。いわゆる「元をとれ!」の精神である。
(卑しい精神だとなんと言われようと気にしません。どうせ、下町のブルーカラーの生まれですよ。)

しかし、たくさん通うといっても、そこまで暇なわけではないから、いろいろ理由や目的をつけて、通うことになる。
そして、ここに、さまざまな鑑賞のスタイルが育まれる余地が生まれる。
…このことは、美術館や博物館にとって、なににも増して大切なことなのではないだろうか。


この前、大学院の授業で、科学(理科)教育を専攻する知人が、
「日本人って、科学に対する興味関心が他の国とくらべて、やたら、低くて。博物館とか、ホント、全然行かないんですよねー。」
と言っていた。
どうやら、そういう文化施設に通うようなライフスタイルを身につけていない人が多いらしい。
博物館や美術館は、遠足やらのイベントでいく、非日常的な場所であり、自分の生活の中で行くような場所ではないらしい。


わたしは、知識もアートも、すべてわたしたち人間の社会的な営みの中で作り出され、維持されているものだと考えているから、
そのような、知識やアートへ参加する実践のスタイルが、それぞれの人の中で創りだされていない、というのはかなり致命的なことのように思える。

わたしたちの生活の中に、博物館も美術館もないのであれば、そういう文化施設が提供する知識も価値も文化も、死んでしまう。

だから、いろいろなスタイルで美術館に通うこと、そういう参加のデザインを行うことはとても大切なことだと思うんだ。


美術館でデートしたっていいじゃないか。
友達励ますために、美術館に友達連れてきたっていいじゃないか。
「なんか面白いことないかなー」って美術館にきたっていいじゃないか。
なんとなく、視覚的な変化を楽しみながら早いスピードで抜けていったっていいじゃないか。

わたしたち人間の具体的なライフスタイルの中に、美術館や博物館が埋め込まれること。
それってすごく大切なことだと思う。

そのためにも年間パスは大切だね!

セクシュアル・マイノリティは自主規制の対象なのか?:『西洋骨董洋菓子店』

2006-12-07 14:46:41 | エンターテイメント
最近、ずっと気になっていることがある。
それが「セクシュアル・マイノリティは自主規制の対象なのか?」ということだ。

まずわたしの立場から表明しておきたい。

わたし自身は、生まれてこのかた、そんな疑問が思いつきもしなかったくらい、
暗黙の前提として、「NO」と考えていた。

その理由はごく単純なものだ。
誰かが誰かを愛すること、それそのものが、タブーとされ、自主規制の対象になるなんて、どう考えてもおかしい。
いつの時代だって、「愛」や「恋」は美しい言葉で語りつがれ、人々の憧憬の対象になってるじゃないか。

確かに、暴力的行為の手段として用いられる可能性のある、セックスという行為(あるいはセックスという行為を連想させる数々のセクシュアルな行為や表象)が、暴力的行為への発展可能性を危惧して、タブーとされたり、自主規制の対象となる…というのはわからなくもない。

だけど、人を愛することそのものは、美しいものだと考えられているはずだ。
たとえ、それが、同性を愛するという行為であろうが、子どもを恋愛の対象として愛するという行為であろうが。
「法律」や「規範」とは無関係に、そこには一定の美しさが認められてきたはずだ。

……だけど、そんなわたしの暗黙の前提は、一般的なものではないのかもしれない、と最近気付いた。

はじめのきっかけは、11月に行われた高校演劇大会である。
タイトルは『幕末モテロリスト-ツンデレ負ケ犬革命/謎ノ赤フン太鼓-』。
幕末を舞台に現代的な問題をコメディ的に表現した作品である…と説明するのがもっともわかりやすいと思う。

この作品の中で、何度も繰り返し出てくるセリフがある。
それが、

「カモン!!デモクラシー!!ウェルカム!!バイセクシュアル!!」

「新しい時代」への熱狂的な期待がふくらみ、一種の狂乱状態になる中で、
「新しい時代にふさわしい新しいライフスタイル」として「同性も異性も愛せるバイセクシュアルがもっとも先進的だ!」…という議論が出てくる…っていう可能性も、それほど的はずれなことではないよなぁ、と思いながら書いたセリフである。

そんなわけで、この芝居の中には、やたらと「バイセクシュアル」という言葉が出てくるのだが、…そのことに対して、けっこう批判的なアンケートが複数あったのだ。
批判の趣旨は、「自主規制すべき!」「コンクールに出すのに適当でないセリフは削除するべき!」…ということ。

こういうアンケートを高校生が書いた、ということに対して、「まだ若いからなあ」という許容的な思いと、「高校生がこんなに保守的だと、日本の将来はカチコチになりそうだな」という懸念と…さまざまな思いが複雑に絡み合って、今の今までなんとなく納得のいかない思いをひきずってきた。


…で、ここからが最近の話。
わたしは、最近、よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』にはまった。
それで、フジテレビでドラマ化されたバージョンはどういうものだったのだろう、と調べてみると、ショッキングな事実がわかった。

よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』のメイン登場人物であるパティシエ・小野は、ゲイ、すなわち男性同性愛者という設定なのだが、ドラマ版では、ゲイという設定は丸ごと消去されていたのである。

これには、さすがにビックリした。
ドラマ版『西洋骨董洋菓子店』が、月9(月曜9時のフジテレビ=もっとも視聴率が高いとされるコマ)のドラマだったことを考え合わせると、明らかにこれは、自主規制なんじゃないかと思う。
すなわち、「月9ドラマにゲイはふさわしくない」と、誰かが判断したのだろう。

この驚きは、よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』を読んでない人には、まったく伝わらないかもしれない。
確かに、主要な物語の流れとは関係なく、ただ付加的にゲイという設定が付け加えられたような話であれば、その部分を軽い自主規制の気持ちでカットした、というなら、百歩譲って許そう。

だけど、パティシエ・小野がゲイだという設定は、『西洋骨董洋菓子店』の物語において、かなり核心的な部分を占めているとわたしは思う。

そもそも、オーナー・橘とパティシエ・小野が高校時代の同級生であったこと。卒業式のときに小野が橘に告白して、「ゲロしそーに気持ちわりぃよ!死ね!このホモ!」と言ったというシーンは物語の冒頭部分である。そして、物語のクライマックス、橘が児童誘拐犯をつかまえるシーンでも、何度も、繰り返し繰り返し、そのシーンが、まるで橘の中で何度もフラッシュバックされているかのように、リフレインされる。

…それなのに、なぜ、パティシエ・小野がゲイだという設定をカットしなければならないのか。
この設定をカットするということは、小野と橘の関係性をゼロに帰することとほぼ同じことだ。
そこまでカットすることに、いったい、どんな意味があったというのだろう。


セクシュアル・マイノリティとは、そんなに、自主規制の対象にならなければならない人たちなのですか?

わたしは、女性で、しかもヘテロセクシュアル(自分ではアセクシュアルなんじゃないかと思うときもあるけど)だから、わたしがそんなことを言うことにどれだけの意味があるかはわからないけれど、

…それでも、やっぱり、おかしいと思う。

しかもいわゆる「おかま」言葉をしゃべるタレントやレイザーラモンHGなんかは、喜んでテレビに出すのだから、…倫理的に問題があると思うよ。
嘲笑の対象としてはOKだけど、ライフスタイルとしてゲイが表に出るのは「タブー」なの?
どう考えたって、おかしいでしょう。

自動検知ウイルス100件

2006-12-06 10:40:26 | ニュースと政治
昨日から久々に大学に来て、一日ネットをつないだら、
やたらとウイルスが自動検知されて、うるさくてしかたない。

昨日の夕方5時に、自動検知ウイルスが100件に到達したので、
そこでネット接続をきって、帰宅した。

いったいなんなのだろう。
今日もすでに10件自動検知されている。
ウイルスに感染しやすいと評判のわたしのPCではあるが、
こんなことって、初めてだ。

同じ研究室の院生にそのことを話したら、

「kimistevaさんが風邪ひいてるから、伝染ったんじゃないの?」
と言われてしまった。
どういう人生を歩んできたら、20代でそういうウィットのきかせかたができるのか、まったく不思議でしかたない。
もともと理系だった人間なので、余計に不思議だ。
こういう発想って文系にしかない気がする。
…とはいえ、国語教育研究に関係する人って、そういう言い回しが好きだよね。

…これが、文化か。文化ってやつなのか??

話が脱線した。

だけど……そんな、どうでもいい小ネタが、わたしの中で、説得力をもって響くくらい、ウイルス検知の数が多い。
いったいどうしたんだろう?

やっぱり、本当に、わたしが2週間以上も風邪をひいてるから、
伝染したのかなぁ!!??