2010年10月13日(水)本日昼食はカレー鍋
野菜価格高騰で、しめじ、長ネギ。エリンギ、レタス、キャベツ
人参が高い。4人分¥2.738円
外食よりは安い。
親しい来客で昼飯代¥千円頂く。
ランチミーティングを始めたが、TVでチリ鉱山落盤事故救出中継を
みんなで見たので打ち合わせにならず。
映画のような救出される側と救出する側、全世界に生中継で
見守る人達。
これって、本当の出来事なの?
痛ましい大事故で99%悲惨な結末であるはずが
一転劇的なスリリングな人間愛ドラマになってしまった。
政治、経済、マスコミはこれらの出来事をどのように
料理して商売に結びつけるか一斉に動き出す。
700メートルも地下に69日間閉じ込められた恐怖
極限の精神状態想像できない。
若き山岳部時代、厳冬期北アルプス剣岳から槍ヶ岳縦走をした。
12月23日入山、下山は翌年1月22日
31日間の冬山だったが、下山予定日は1月15日だった。
薬師岳で6日間の雪洞生活、槍ヶ岳直下でも7日間
雪洞に閉じ込められた。
トランシーバーは繋がらず、高さ2メートルに作った
雪洞だったが、少しずつ沈み込み高さが80センチになり
横になっているだけ、脱出をした時、雪上に出るのに
5メートルも掘った。
恐怖と生きて帰れるかの不安、食料は無く
雪を舐めるだけ、11人の隊員は栄養不足で
目が飛び出していた。
午前2時 槍ヶ岳は月明かりで青白く輝き、尖塔は強風で磨かれクリスタルガラスのごとき氷魂と化し、アイゼンは食い込まなかった。
槍の肩から槍沢を雪崩の恐怖におののきながら
駆け下った。ここさえ突破できれば、生きて下山できるのだと
力の限り走った。時間は経過は分からないが恐怖も感じなくなった。
考えること止めたのか、脳が停止命令をくだしたのか
判然としない。
1月22日 上高地に下山
全員力尽きていた。
深深と上高地の白樺に吹き付ける雪中を夢遊のごとく
進んだ。前方から3人の登山者が見えた。
トップを歩く上級生が泣くように叫んだ。
OB達がやって来たのだ。
私は1年生。
先輩が一言
「おい!お母さんが心配している、安心しろ」
私は涙が溢れ凍りつくのも分からなかった。
新宿駅に着くと
学長先生、体育会会長、山岳部長、OB
TV局等が出迎えていた。
現在のような通信手段は無かった。
今から43年前の出来事。
岳人という山岳雑誌に掲載された。
ランチミーティングは、3連キーホルダーを
鉄道会社でキャラクターを付けて販売する企画でした。