8時半自宅を出る。9時半柳橋事務所着く。書類を持ち、馬喰町駅から総武快速乗車、東京駅で湘南電車乗換え、横浜駅で相鉄線乗車して、三ツ境駅に11時15分着く。銀行で打ち合わせ。込み入ったやりとりがあって終わったのは13時半頃になった。それから、厚木街道を歩く、外気は冷たいが陽射しは強い。
行く手には、青黒い丹沢山塊と雪富士が見える。
中学生の頃、通学途上で眺めた山々は手前に遮る建物無く
田んぼ、畑、森が視界一面に広がり
当時遅刻しそうで桑畑を白い息吐きながら
丹沢、大山に向かって走った。
14時、実家に着く。
お袋が酸素吸入器を付けベッドから起きてきた。
なかなか来ない私が気になっておろおろしていたらしい。
弟夫婦と暮らすお袋は朝6時弟夫婦が出かけてしまうと
帰宅する夜9時頃まで一人で過ごす。
87歳のお袋はそれが不安でたまらない。
「体が痛くて痛くて死にたい」!と泣く。
私が痛い箇所に薬塗り、首筋をもんであげる。
「死にたくても死ねない」!と泣く。
私達男兄弟3人を育てた。
貧しいながらも3人の息子を学校に行かした。
気丈なお袋がこのようになっていくのを見るのは忍びない。
26年前、夫を旅先で亡くしてから
弟と二人暮しを6年間続け、弟が結婚
自営業の弟、看護婦の嫁の掃除洗濯、食事の面倒みてきた。
突然、認知症が発症したのだろうか?
14時 昼飯を食べようとキッチンに入ったが
IHヒーターの使い方や材料が面倒になったので
近所に食べに出る。
寂れてしまった商店街、小さなコンビニ、魚屋、八百屋、パン屋があるだけ
中学生の頃繁盛していた個人商店はあらかた消滅。
昔のままに床屋はあった。隣に中華食堂があったので入った。
店内はテーブル席が2卓、畳席が2卓あり
いずれにも老人が一人づつ居て酒を飲んでいる。
黙ってTVを見るか新聞を読んでいる。
駅遠く、何もすること無い老人はここで食事と酒を飲むのだ。
癌で亡くなったあいつが言った事を思い出す。
居酒屋が午後早くオープンするのは、年金暮しの老人が
夕方まで家にいると家族が困るので仕方なく飲みに来ると言った。
正しく、この場所はそれなのだ。
一人の老人が「ママ、車呼んでくれ」と叫ぶ
酔いが回って住まいは近所だが歩けない。
又、不況のタクシーは客選びしない。
奥から、ラーメン屋のオバサンが顔を出すが
どうみても昔は水商売をしていた女性に見える。
愛想よく応じている。
なるほど、横浜郊外はずれの住宅地
寂しき老人達を癒す場所なのだ。
14時半 戻るとお袋ベッドに横たわっていた。
15時半にマッサージする若いお兄ちゃんがやって来た。
歩行困難になると健康保険でマッサージが受けられる。
マッサージより、人が来て会話するのを楽しみしている。
痛みより心の空洞を埋めてくれる人間関係が大事なのだ。
優しく労わるマッサージの若者。
17時 ホームヘルパーの方がやって来た。
お袋の食事を作る。私は家の裏手から絶品の沢庵を持ってくる。
樽に群馬産の大根を昨年秋50本漬け込んだ。
最後の2本だ、ひとつは自宅に持ち帰る。
ヘルパーさんが作った食事を食べようとしない。
置いておくことにして、帰りたいが、寂しそうなので
弟が帰るまで待つことにして、一軒だけ小さな焼鳥屋があり
そこで飲みながら弟が帰宅するのを待つ。
この焼鳥屋も数年前は八百屋を営んでいたが廃業
して居酒屋になった。
弟から電話が入り「今、世田谷から高速道で向かっている。8時頃着く」
子供になってしまったお袋を寝かしつけて
居酒屋のカウンターで、52年前の感傷に思い馳せる。
自宅そばは野兎が飛び出し、野生黄苺を森で食べ、桑の実を盗んだ。
幼き同級生は殆どいない、お年寄りだけがすむ住宅地。
午後8時過ぎ、弟から帰宅した連絡がはいる。
弟は直ぐに風呂入り、自ら食事を作る。
午後9時嫁さん帰宅、今は大学病院の副院長であるので
実に忙しく休日も休めないらしい。
妻の癌治療をバックアップしてくれた。
午後9時半実家を出る。冷え込んだ林間道を30分歩き駅に着く
船橋の自宅には23時45分着く
娘はまだ戻らない。
疲れたな!