6月23日(金)
18時半 弟の車に同乗して、松濤の介護病院へ。
5月22日に見舞いして以来だ。
お袋は車椅子に座り計算ドリルをしていた。
私を見上げ「帰らないで」
私の腕を掴んで、離さない。
車中で弟に「亡くなった事を伝えても分からないだろう」
19日 叔父の葬儀に弟は、家族の代表として那須に向かった。
15日 89歳で旅立った。
お袋は8月20日で93歳になる。
那須の寒村で貧しい農家に生まれたお袋は
女5人男3人の次女として生まれ
亡くなった弟は5番目に生まれたので
五郎と名付けられた。
貧しい農家の3男であった叔父は
ずば抜けて優秀であった。
本来なら高等小学校を出て奉公に出るのだが
援助もあって地元の国立大学に進学した。
卒業後、理科教師となった。
私が幼い頃、叔父は夏休みになると上京して
狭い我が家に宿泊して勉強していた。
幼くて理解できなかったが
お袋が「東京教育大学でスクーリングしていると言った」。
その後 叔父の結婚式に家族5人で那須に行った。
式場は憶えていないが、料理人が
庭で唄を歌いながら、包丁を唄に合わせ
とんとん拍子でまな板を叩くのが面白く見ていて
会場には入らなかった。
披露宴が終わって、バスに乗るとき
花嫁さんが見送りをする時に初めて見た。
叔父と同じく教師だと聞いていた。
私が東京の小学校の担任も女の先生だったが
とても怖かった。
そのようなイメージがあったので
細身で優しそうな品の良い顔立ち。
こんな田舎に化粧をした若い女性がいるのに
子供だったがビックリした。
叔父は38歳で中学校の校長になった。
当時としても、もの凄い若さの昇進だった。
後に教育長になった。
寒村出身の名士だ。
私の従兄妹になる長男は、国立トップ大学を
予備校にも通わず現役合格。
妹もトップの女子大に進学。
叔父は貧しい家系ながら出藍の誉れであった。
近隣の豪家から、お袋の家系が優秀だとのことで
器量の良くない別の従妹が
その血筋が欲しいと嫁に貰われた。
私も教師になりたかった。
周囲からも「お前は先生向きだ」
「商売など向いていない」と言われたが
全く自分自身同感。
しかし、私の実兄が教師になってしまった。
あんちゃんは、卒業後、神奈川県の村の中学教員になったが
後に都立高校の国語教師に転じた。
しかし、学校での虐め問題が新聞等に話題になった頃
逆に生徒に慕われる人気先生として
マスコミに取り上げられた。
それは、公立学校教師として批判と妬みもあり
自らの教師信条を貫くため、予備校講師となった。
72歳 最年長予備校講師であるが
今年3月引退。
現在 無料でネットにより大学受験講座を開設。
そんな訳で教師志望を断念?
叔父の息子は、栃木に開学した最初の年度
全国の自治体が出資して地方の医師不足を補い
医科大学も学費免除で合格したが
実より名を取りトップ大学卒業後
電機メーカーに就職。
関連会社社長になったが、現在
原発による債務超過で
会社存続が危ぶまれている。
叔父は、医師になることを希望したのだが
将来の運命は分からない。
今春 那須岳雪崩遭難した高校生が在籍した
高校長も親族で辛く悲しい責任を負った。
お袋は、昨年直ぐ下の妹亡くなった。
8人いた兄弟姉妹は、今では女3人になった。
介護病院で私がいると
看護婦さんに
「弟」だと紹介する。
「あら、お若い弟さんですね
頭脳はべつとして体形は似ているのだ。
既に認知なので息子と実の弟の区別がつかなくなるのだ。
帰途、渋谷のラブホテル街を通って駅に向かう。
金曜日の夜 8時
ラブホテルは満室のようで
カップルは入口に入るが直に出てくる。
渋谷円山町
若者は元気 情熱通りの隣には
三途の川を渡る船宿で待つ人達が
シーンと順番を待っている。
道玄坂