旅つづり日々つづり2

旅のような日常と、日常のような旅の記録と記憶。

引っ越しの理由

2018年02月20日 16時39分27秒 | 日々のこと
去年の今頃も引っ越しで大混乱だったことをぼーっと思い出す。
つわりとのダブルパンチでほとんど何も記憶がない。
今思えば「とにかくふくを小学校に入学させねば」それだけだったと思う。
それまで住んでいた家から通う小学校は建て替え工事が始まるところで
5年間は運動場をまともに使えない、と分かったのが引っ越しのきっかけだった。
「小学生男子が運動場を使えないなんて・・・無理やろ」それが私たち夫婦の共通した思いだった。

新しく見つけた家はもちろん気に入って購入したし、リノベーションも結構がんばった。
期待に胸をふくらませて「さあ、ここで始めるぞ!こうなったら四人目もがんばって育てるぞ」と
決めたはずだった。まちを歩き、子どもたちに道を教え、道路のわたり方を教え、図書館へもせっせと
通った。出会った人には必ずあいさつするように教え、私ももちろんそうした。

なのになんでだろ。

なぜかなにもかもがうまくかみ合わなかったのだ。ちいさな「あれ?」と思うことが引き金と
なって次の「あれ?」がやってくる。「いやいや気のせい」とそのたびやり過ごすのだがやっぱり
ちいさなひっかりはとれないまま。違和感だけが募っていく日々。

周りの家はいつも雨戸が閉まったまま。ごみ捨てのネットと箱を時間通りに出すかじっと監視されて
いるのがものすごく苦痛だった。手があいているなら自分が出せばいいのに、と思ったけど
かたくなに当番制を守るシステムだったようだ。どの家にもベタベタ貼られたセコムのシールも
怖かった。

「洗濯を干すな、来客が多い、うるさい」と言われたのはちょうど夏休みを迎える頃。
「ここはあななたちのような人が住む地域ではない」とも。

そういわれた時の衝撃は今も忘れられない。変な汗がぶわーって出たのを覚えている。

臨月のおなかを抱えて、子ども3人との夏休み。ダンナ氏は産後しばらく在宅で仕事をすることに
決めていたので出産前は出張続きだった。
家に居場所がなく、外は35度を超えていて、自分の身体はまったくいうことをきかないまま
検診は週に一度のペース。この時が一番つらかった。本当は臨月で一番幸せな時期だったはずなのに。
最後の3人の子どもたちとの時間を楽しむはずだったはずなのに。

朝ごはんを食べさせて、芸術文化センターの日陰で図書館が開くのを待ち、9時になったら
福星に図書館でDVDブースに入ってもらい、私はつばさを連れてベビーカーを押しながら「寝てくれ、
寝てくれ、頼むから寝てくれ」と念じながら少しは涼しい図書館内をうろうろ。
図書館にいるのに本を手に取れない虚しさと言ったら・・・マイナーな隅っこの専門書の棚で
何度涙をこぼしたことか。日中は暑くて歩けないのでタクシーで帰宅して昼ご飯。無理やり子どもたちには
昼寝をしてもらってそこからなんとか部屋で過ごし、18時をまわって少し涼しくなったらもう一度
公園へ。とにかく、とにかく家にいるのがこわかった。(そりゃ何度も怒鳴り込まれたら怖くもなる)

そこまで気をつかっていたのにダメだった。あおのすけが生まれて産院から連れて帰った日に
「泣きやませろ」と怒鳴られた時に私の何かがぷつんと切れた。初めてダンナ氏に「引っ越ししたい」
「もうここにいるのは無理だ」と言った。ダンナ氏は私がここまで追い込まれていることにはまったく
気づいておらず、私も「買った家には住むのが当たり前」「自分は一円も出してないんだから我慢して
当然」という遠慮があってどうしても言うことができなかったのだ。
ダンナ氏の答えはいたって明快だった。「ここに住み続ける理由はどこにもない。いい家があれば
また引っ越せばいい。だけどそこがここよりもいい家とは限らない。そんなことは誰にもわからない
んだから。でもそれならまた次の家を探せばいい」私が「私のわがままとは思わないの?」と聞くと
「それはない」と言ってくれた。その一言にどれだけ救われたことか。本当にこの人と結婚して
よかったなと思った瞬間だった。この話し合いをした時が結婚した時よりも嬉しかったかも知れない。

それからはうんと気が楽になったけれど、実際の生活には変わりがなく、あおのすけが泣くと
つばさも泣くという時期が続き、夜中につばさの口をふさいでしまったこともあった。(完全に
これ虐待でアウトです。隣にダンナ氏がいてよかった。私、殺していたかも知れなかった)
睡眠が全くとれない中、つばさとあおが交代で泣き続ける夜が延々と続き、夜になるのが本当に
怖かった。一日の切れ間がなくて四人目にしてスコーンと産後うつの状態に。
自分がいつ寝たのか、いつ顔を洗ったのか、自分の服を洗濯したのがいつだったのか、鏡をみることも
なくまともに座って食事をすることもなく、新聞すら読めなかった。時々訪ねてきてくれる友人だけが
私と世界をつないでくれる命綱だった。そんな中あかりが喘息の発作を起こし、あおが生後2週間で
病院にかかり、つばさが熱を出し・・・毎日病院通い。あかりが発作を起こしても「またうるさいって
言われる」としか考えられなかった。最低な母。

いろんな人に相談をして、たくさんのアドバイスをもらったけど、それが解決してくれるわけではなく
産後の体で物件を見に行くこともPCを開くこともできず、もう無理だって泣いても子育ては待ったなし。

久しぶりに、本当に何年かぶりに、強烈にしんどい日々だった、

とどめは家の隣にあった平屋豪邸、周りはほぼ森。の家がある日突然ぶっ壊されて、木が全て
切り倒されて、更地になって、ちっこい家が6件たつと決まったことだった。
工事が始まると我が家はほぼすっぽりと影におおわれて・・・もう笑うしかなかった。
この場所と縁がなかったことを決定づけた出来事だった。木を切り倒す工事業者の人に
「これ全部切るんですか?」とたずねるとそのおじいさんは「もったいないなー、って俺も思う
んやけどなー。しゃあないな」と悲しそうに笑っておられた。それぐらい立派な木々だった。

閑静な住宅街で全てがスマートでさっぱりしていて、何不自由なくそろっていて、整然としていて
なんにもないからっぽのまちだった。無関心を装った監視社会の縮図みたいな場所だった。
そして私はそんな場所が一番苦手だということが嫌というほどわかった。これも人生の肥やしになると
信じてこうして書き残しておこうと思う。学んだこともたくさんあったはず。どんなに嫌なことも
何年もたてばきっと役に立つ日が来ることをもうすぐ40歳になる私は知っている。昔のように
泣いてばかりじゃいられない。そこからの立ち上がり方も学んできたはず。できるはず。
そう自分に言い聞かせて必死の引っ越しだった。

もうあんな日々は終わったのだ。
子どもたちには(特につばさ)謝っても謝り切れないひどいことをした。
これも忘れてはならないこと。母ちゃん逃げ切ったよ。でもちょっと間に合わなかったことも
たくさんあったね。ごめんね。本当にごめんね。つばさの寝顔をみていると毎晩そう思う。

私がこの引っ越しをなぜこんなに喜んでいるのか、これがその理由。

もしも、同じようなことで悩んだり悲しんだりしている人がいたら、そこからの打開策のひとつとして
逃げることをすすめます。経済的なことや現実に移動する大変さを考えるとそりゃ足がすくむのも
わかるけれど、それでもやらなあかん時ってあるのかも知れない。やってみてそう思います。

生活を変えるエネルギーってそれはそれは大変だけど、誰かを憎むエネルギーってその何倍も何十倍も
自分を消耗させる。それなら私は憎むよりも前に進むエネルギーで消耗したいって思った。それで
燃え尽きても構わないって思った。これが今回一番学んだこと。
さ、書いたからもう忘れよう。終わった。全部終わったのだ。終わらせたのだ。ふう。


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